tommyさんのつぶやき2002年前半



 ここのところ時雨模様の涼しい日が続いてホッとしています。今日は大安で日曜日なので安息日としました。(何だこりゃあ?)引越し疲れの身体を休めています。連日の奮闘ですっかりバテていますので、たまにはゆっくりお茶でも飲んで(ビールじゃあないの?/倹約、倹約! 引越しだって大物家具とピアノ、それに重量物の本を詰めたダンボールの運搬だけを頼んで10万円ポッキリにあげました。しかし、お陰で後の整理やもろもろの運搬作業で“ネ”をあげました!)

 雨と言えば、整理して外に出したもろもろの品物を、雨に当たらないようにまた中へ取りこんだり、燃えるごみを燃やしたりするのに大童になってしまいます。いつもの日経新聞の文化欄で、詩人の高橋順子さんが“雨”についての連載で、雨が好きな詩人“八木重吉”さんの詩

「窓をあけて雨をみてゐると
 なんにも要らないから
 こうしておだやかなきもちでゐたいとおもう」

から、せいせいとした気持ちになれると言うが、私に関して言えば、雨は私の心の中では、何よりも嫌いなもので、地震よりも、カミナリよりも、ヘビやトカゲよりも、もっとも嫌いなサッカーよりも、ずっとずっと大嫌いなのです。それと言うのも、小さい時に母が死んで母の実家を出て古い養蚕小屋を借りて暮らしていたときに、屋根の瓦ははがれて雨漏りも激しく、戸の隙間から吹き込む雨に、床一面の洗面器や盥(たらい)、雨受けの缶カラの狂騒曲をききながら、一番中寝もやらずボロ傘の下ですくんでいた侘しい思い出が、未だに心に染み付いていて“雨”は決して心を安らかにしてはくれないのです。
でも、雨は地面を潤し、作物を育て、立ち退きのために移植した庭木類にも慈雨となって、必死に朝晩水遣りを続けていた私の作業も、やっと休めるようになって、実はホッとしているところでもあるのですが…。

 小さい時の体験や思い出が、大人になっても心の傷となって残っていて、突然精神を狂わせることがあります。最近の新聞紙上やニュースに登場する無差別殺人や傷害事件でも明らかなようですが、それゆえに子どもを育てることは大変重要で、両親や周囲の人達の愛情が金や物に取って代わられると、子どもの心や精神が歪んで“心の傷”となって無意識の深層に入り込んで、何かのはずみで表面化する危険を秘めているような気がします。あまりにも物質文明化した現代の陰の面かもしれませんね。(幸いにも私は、経済的には恵まれませんでしたが、父や姉兄の愛情に包まれていたから良かったのかも知れません)

 世界中の子ども達が、健康で明るく安心して過ごせるような世の中にしたいものですね。( Jun. 23. 2002 )


 やっと引越しも一段落して、あとは旧宅に残っている残材(?)の分別と整理なのですが、この分別・整理が難問で、30年間の思い出の品はそう簡単にハイチャとは捨てられないものです。品物の一つ一つに“青春”の思い出や当時の思い入れが染み込んでいて、使い道が無くて、古くて汚いものほど捨てがたいと言う矛盾に悩まされているのです。比較的新しいものは、また欲しくなれば買えば良いやと、あっさり割り切ってポイ捨て出来るのですが、片足ビッコのお人形とか、ボロボロになった“ラジオの組立て講座読本”等と言うテキストなどは、誕生日の彼女のプレゼントだったり、独身寮でコッペパンをかじりながら夜遅くまでベッド・ラジオの組立てに夢中になっていた頃を思い出すと、“.捨てるべきか? 捨てざるべきか? それは難問だ!”。毎日がこれの繰り返しだから、一ヶ月経ってもなかなか片付いて行かないのです!

 やっと残材が少なくなってきて、新居の座り心地も落ち着いてきたこの頃ですが、捨てずに残していた古いものの価値を見出したものに、レコード・プレーヤーの復活があります。今は、音楽と言えばCDやMP3のディジタル時代ですが、青春時代に買いあさった昔懐かしいアナログのデイスク・レコードが数百枚も眠っています。プレーヤーも当時は最先端であったダイレクト・ドライブと言う直接モーターでターンテーブルを駆動して、DCサーボで回転数をコントロールするというものですが、CD全盛になってプレーヤーのカートリッジも入手できなくなっていて、ほこりにまみれて物置の奥に眠っていました。引越しするに及んで、さて捨てるかどうか悩んだ末、イチかパチか復活してみようと思い立ちました。何しろ、当時と違ってアンプも新しくなっているし、スピーカも定年退職の記念に頂いた“タンノイのスターリング”と言う豪華版ですから、新居の“リスニング・ルーム”ならぬリビング・ルームでは、ほのかな期待が漂います。

 さて、オーディオ・ラック(とは言っても相変わらず手作りの棚ですが)もセットし、音出しも確認しました。レコード・プレーヤが回転することも確認しました。物置から運んできたレコード盤はカビが生えているものもあって、そのままでは針が飛んで音になりません。先ずは、レコード盤の洗濯と磨きに専念します。石鹸とスポンジたわしで洗い上げて、レコード・クリーナ(これも後生大事に残していました)をスプレーして不織布で磨きます。これで良しッと! 静かにカートリッジをレコードに下ろします。出ましたッ! 懐かしい音楽が、素晴らしい音で再現されました! ノイズもほとんどありません! 聴き慣れたCDのディジタル音と違って優しいアナログの音に違いありません! バンザイ! レコード・プレーヤは復活しました!!

 しかし、まだ伏兵がいました。しばらくするとプレーヤの回転が不安定になってきました。速さが一定にならず、音楽が変に聞えます。速度調整のダイヤルを回してもコントロールが不能です。さては、プレーヤも寿命か? 油切れかもしれない。何しろ20年位はお倉だったからなあ。給油するにも油が見つからない。確か物置にはあったはず。しかし、引越しの時に行方がわからない。やっと別の機械油のビンを探し出してプレーヤのターンテーブルを外して給油したが、相変わらず回転は不安定。半ばあきらめかけたが、そのままにしておいたら、夕方になって油がなじんできたのか回転が滑らかになってきました。成功です!

 懐かしい音楽を聴きながら夕食を楽しみました。(団欒という語がなつかしいですね)

 何でもディジタル万能の時代、新しいことだけが良いのでしょうか? 本当に私たち自身が、自分の価値にあったものを選択しなければなりません。テレビもそうです。引越しに取紛れている間中、テレビも新聞もインターネットともオサラバしていました。でも、生活には何の問題も変化も生じませんでした。
サッカーで日本が勝とうが、鈴木宗男が逮捕されそうになろうが、実際には私たちには大きな問題ではないのです。情報をどういうように処理するか、問題をどう意識するかが重要なのであって、情報量に惑わされてはなりません。また、本当のコミュニケーションとは何なのかを考えなければならない時代ですねぇ! 

 古いものにも新しい価値が見出せたと言うお話でした! ではまた引越しの残務整理に精を出しましょう。世の中の情勢への見解や批判は、またそのうちに! 乞う、ご期待!(Jun. 18. 2002 )


 ここのところホームページの更新が滞っていますが、既にご存知の通り、区画整理事業の強制立ち退きに引っかかり、新築中の家の完成引渡しの時期がずれ込んでてんやわんやになっていて、ホームページどころの騒ぎでなく、夜もろくろく眠れずに工事の監督に走り回っているのです。

 若い時の新築は楽しいものですが、年をとってからの建て替えはいらない荷物の整理だけでもうんざりします。知らないうちに不用品とガラクタの山になっていて、捨てるのにも大変です。そうかといってなかなか捨てられず、また元の入れ物に戻している始末で、新築の家は収納部分の塊になってしまいそうですねぇ!

 その上、建築費を節約しようと古い家具やら電気器具、カーテン等を持って行ってみても、結局、雰囲気に違和感が生じて、また買い直すようになるようで、結局は古いものは打っちゃられる運命ですが、捨てるのにも金が掛かるわけですから、節約にはならなくなってしまいます。要は、あまり物を持たないことと、いらなくなったら未練残さずキッパリ捨てることですね。とはいっても、なかなか捨てられないのが年寄りなんですねえ! と言うわけで、年取ってからの新築は引越しが大変なんですよ! 

 お釈迦様もおっしゃいました。物に執着すればするほど悩みが増えるってことですよ! 無一文こそ幸せなんでしょうかねぇ? いやいや、凡人はそんなわけにはいきません。地獄の沙汰も金次第って言いますから、やっぱり鈴木宗男と同じなんですねぇ?(鈴木さん、ゴメンナサイね、でも強制捜査じゃあ、“言い訳無用”でやっぱり仕方が無いですねぇ!)人間、正直に生きなきゃあね! 欲得無く、人のために身を捨ててこそ生きる喜びがあるんですぞ! 本当ですぞ!(しかし、新築は金が掛かりますねぇ、まったく!/しかし、これも不況時の人助けですよ、じゃんじゃん金を使って、消費の拡大を図って下さい!)

もうあと少しだッ、ガンバローッと!( May. 23. 2002)


 “薬缶の夜間飛行”、日経新聞の文化欄の「うたはめぐる」。おなじみの詩人の高橋順子さんのエッセイですが、これがなかなか軽妙で心にジンとくるのです。

 入沢康夫さんの詩、「未確認飛行物体」で、

「薬缶だって、空を飛ばないとはかぎらない。…/夜ごと、こっそり台所をぬけ出し…、/心もち身をかしげて、/一生けんめいに飛んで行く…。/息せき切って、飛んで、飛んで、/(でももちろん、そんなに早かないんだ)…/砂漠の真中に1輪咲いた淋しい花、/大好きなその白い花に、/水をみんなやって戻ってくる。」

 「息せき切って」急いでいるのは、朝までに台所に戻って、何くわぬ顔でガスレンジの上にいなければならないからだと言う。薬缶の1輪の花に対する全身的な愛と、その滑稽とも思われる愛の美しさである。

 しかし、それだけではない。高橋さんが、薬缶の中に(水道水の)浄化用の炭を入れ、いつも水を満たしていて、夜寝る前にちらっとこの詩が頭をかすめるという。私も同じように、水道水のカルキの臭いをとるために、琺瑯の薬缶に炭を入れて水道水を満たしていて、思わず、フフッと笑い出してしまった。「未確認飛行物体」の薬缶の気持ちも同じように感じるのも不思議ではないような気がします。

 薬缶といえば土瓶と対比して、何が違うのかと言えば、薬缶が薬を煎じるのが目的の物とわかりますが、土瓶も元は同じ目的のもので(土瓶の名は、安永4年「物類称呼」にその名を見られる)、薬缶は金属製で土瓶は陶器製という違いだけではないでしょうか? 現在は、いずれもお茶を入れる物として用いられていますが、元来、お茶との関係は無いようにも思えます。これは、ご飯を盛り付けるのに“茶碗”と言うし、お茶を飲むのに“湯呑”と言うのに疑問を感じないのにも不思議な感じがしますね。(考えすぎると頭が禿げると言いますしね…)
高橋順子さん(ちょっと、なれなれしいんじゃないの?/まあ、まあ目に門立てなさんな)の感性には心ワクワクしてしまいます。( May. 14. 2002 )


 子どもの日(5/5)の次は“大人の日”で、実は、5/6は、私の結婚記念日なのです!(いつも忘れていて、“オメデタイ”私なのですが…/いつまでも覚えている方がおかしいのだ!)

 今年は何と、4/29から5/6の今日まで8日にも亘る大型連休となりましたが、良く考えてみると4/29緑の日(昭和天皇誕生日か?)、5/3(憲法記念日)、5/5(子どもの日)はわかりますが、5/4の“国民の祝日(何を祝うの?)”、5/6の“振替(?)休日”はどう考えてもよくわからない“国民の休日”です。(そんなに怠けていて世界から見放されるんじゃあないかと、いらぬお節介を言いたくなりますが…)

 “勤勉だった”日本人は、休暇も取らないで(取れないで?)働いているとかで、外国なみに休日を増やそうと、無理に理屈をつけて休みを作った結果がこれなのですが、本当に勤勉なのですかねぇ? 猛烈に働いている振りをして、休日出勤で雑談して休養していたり、残業しているかと思いきや、居眠りやタバコをふかして時間を稼ぎ、残業代をせしめていたのが事実ではないかと、下腹の出っ張ったお偉いさん(とは限らないペイペイとか)が多いのを見ると勘ぐりたくなります。

 Sanday Nikkei で新しい「リレー討論」が始まりますが、ニッサンのリストラに成功して、予定より早く黒字転換を果たしたカルロス・ゴーンさんが、“人が企業を変える”と連載のトップを飾っています。今や日本で本当の経営者は? と言えば、おそらく多くの人がゴーンさんを名指しするだろうと思われます。何しろ経営のための考え方が明快で、猛烈社員を地でいく働きっ振りですから、“勤勉”などという生易しい言葉は当てはまらないでしょう。それまでニッサンの経営者(否、日本の経営者でも)は本当に働いていたの? と首を傾げたくなりますねぇ。(何しろ当時は42人もいたんですから、いま私が、市議会議員数を24名から18名に削減しようと条例改正の署名を集めに走り回っていますが、ニンサンでもやれば良かったのにねぇ!/バカ言ってんじゃないよ! そんなことやれるか!)

 ゴーンさんの方針である“シンプルで明快な計画をもつこと(誰にでもわかり易い)”、“優先順位をもって取り組むこと(どうでも良いのは後回し)”、“トップがコミット(実行責任)を果たすこと(部下に責任を押し付けない)”、“コミュニケーションを大切にすること(特に従業員と腹を割ってよく話し合う)”、“人を選び(よく見極めて)、信頼して責任を与える(押し付けるんではないですよ)”ということが重要だそうですが、今までの経営者が部下とよく話し合ったことがあったでしょうか? 人をよく見極めて選んで仕事を任せていたでしょうか? 自分の気に入った者だけを取り巻きにして、トップの顔色を伺い、気に入らない部下には威張り散らしていたのではないですか?

 ゴーンさんのやり方は当たり前で特別なことはありませんねぇ。一刀両断のリストラを見て、“鬼のゴーン”だと思いましたが、本当は、ご本人のおっしゃるように“一日24時間、休む暇も無い猛烈社員”で、その実、家族サービスの徹底している“仏のゴーン(?)”だったのかもしれません。
自分の都合の良いように、何とか、かんとか理由をつけて遊ぶ時間ばかり作っている日本の経営者や政治家は、ゴーンさんを見習って、もっとしっかり働いた方が良いのではないでしょうか? 猛烈に働きたくっても、もう誰も働かしてくれなくなって残念ですねぇ!(誰のこと?)( May. 6. 2002 )


 ご覧になりましたか? NHKテレビの「奇跡の詩人 11歳、脳障害児のメッセージ」

 これは、出産時に腸がお腹から飛び出した状態で生まれたため、三度の手術で奇跡的に命は取り留めたものの、脳に血液が欠乏して脳細胞の一部が破壊されて重度の障害が残り、自分の意思で動くことも出来ず、言葉も発することも出来なくなった日木流奈君と、この障害を乗り越えようと努力した両親の物語です。

 両親は、この脳障害を回復させることが出来ると信じて“ドーマン法”による機能回復訓練を行うためボランティアを募ります。筋肉のリハビリと併行して漢字や数字を記したカードを作って知的訓練も行います。しかし、言葉を発することが出来ませんので意思が伝達できません。

 そこで、文字盤を用いて意思の伝達が出来るのではないかと、その可能性を信じて文字盤を作って試みますが何の反応もありません。ところが、その3ヶ月後、突然流奈君の指が文字盤の上を動いたのです。奇跡が起こったのです! 流奈君は、確かに意思を伝達する術を獲得したのです。

 “会話は言葉以外でも出来ます。私の言葉は、伝わる前から、私は(母に)常に聞いてもらえました。この気持ちを持っているお母さんといると、それだけで幸せな気持ちになるものです”
流奈君は、同じ障害児を持つお母さんに、その子の誕生日を祝って文字盤から話し掛けます。

 流奈君は語ります、

“私は、条件をつけずに(両親から)愛されました。このまんまの私を受け入れてもらえました。

脳障害であることは大変であるけれど、私の存在を否定する材料にはなり得ませんでした。

それ以後、誰とも比較されたこともなく、テストされたこともなく、

きのうの自分より、あしたの自分が優秀になっていれば良いという思想のもとに育てられました。

私を否定しない環境があったのです。とても素晴らしい環境です。

世の中は、こんなものではないと思う方もいますが、そうではなくて

そのように否定しない世の中を作るように向かえば良いだけなのです。

夢を実現したいという思いが、そうさせると信じています。

ひとを否定したり、ひとと比較したりすることを止めれば、誰でも幸せに暮らすことが出来る”のです。

 私たちは、11歳の流奈君と言う、脳障害を克服して成長を続けている一人の子どもから多くのことを教えられ、健常者である私たちが如何に無能であるかを思い知らされました。
確かに流奈君のご両親のような、深い愛情や努力を持ち合わせていないのかも知れません。しかし、世間体を考えることにだけ汲々としてはいないでしょうか? 子ども達のために、わたしたち大人が無心に努力することを怠ってはいないでしょうか?

 全ての子どもの能力は無限です。能力を引き出すのは、両親の愛情とその環境です。他人と比較することは無意味です。自分が幸せになることが、他人をも幸せにするということです。幸せは、お金でも、物でも、地位でも名誉でもありません。愛なのです。

 これは、お釈迦様の悟りであり、教育の問題であり、医療や福祉の問題でもあります。全てに通じる提起でもあるのかも知れません。
感動の余韻が未だ醒めずにおります。貴方はどのように感じられますか? ( Apr. 29. 2002 )


「デジカメの エサはなんだと 孫に聞く」。思わず“何だ?”と目を見張りました。

日経新聞に載った第一生命保険会社での「サラリーマン川柳」の人気投票の一位だそうですか、なるほど私も最近はフィルム・かメラはさっぱりお蔵入りで、もっぱらデジタル・カメラを愛用しており、“デジカメ”なる語は日常語となってしまっていて、時々“デジカメって?”と年配の女性の方に説明を求められることも多い。それを“亀の一種”と考えたところが憎いねぇ!

 また七位の「iモード 妻にもほしい 愛モード」も、ヌレオチバ族としては最近しみじみ実感する秀作ではないか? 上位10作品は、いずれ劣らぬ傑作ぞろいで、思わず笑ってしまった。入選作100句が選ばれたとかで、興味のある方は 第一生命のホームページ でどうぞ! ( Apr .27. 2002 )


 IWC(国際捕鯨委員会)の年次会合が、今日、下関で43ケ国が参加して始まるそうです。

 捕鯨国日本としては、鯨の調査捕鯨を通して科学的な鯨の繁殖状況から、近年の鯨の増加が、他の魚の生態系や漁業に悪影響を与えているとして、商業捕鯨の再開を提案するつもりだろう。しかし、反捕鯨国からは反対も多く日本の提案の採択は容易ではない。

 長い間、安価な鯨肉で栄養を確保してきた日本人は、なぜ外国人が捕鯨を反対するのか理解しがたい。単に鯨が海洋生物でありながら胎生の哺乳類であることにこだわりがあるのか、鯨が人類と同等の知能を持つ生物だと考えているのか、それとも宗教上、鯨を食することを禁止されているのか、反捕鯨の納得のいく理由が明らかにされていない。単に捕獲量の制限だけであったなら、鯨の生息数が十分多ければ問題無いはずなのだが?

 牛肉を食べるために牛は殺しても良い。豚は神聖な動物ではあるが、戒律の無い国では食しても良い。馬や羊も食しても良い。オットセイやセイウチや白熊も食糧にしてもかまわない、しかし、鯨は食糧にしてはならない? 何故そうなのか? 明確な理由の説明はあるのだろうか? 貴方はその理由がお分かりですか? もっとも、今時、鯨を食する物好きも多くないのではないかとも思うのだが…。( Apr. 25. 2002 )


 太陽系の5つの惑星、水・金・火・木・土が日没後の一箇所に固まって見えるという珍しい現象が、今日(4/20)から5月12日まで肉眼で西の空に見えるそうですが、あいにく今日、明日は天気が悪くて残念ですが、確かめられません。

 これによく似た現象で、1999年7の月に惑星直列(惑星が一直線上に並ぶ)という現象が起こり、その引力で地球の運行に悪い影響を及ぼし、地球が破局を迎えるという“グランドクロス”がノストラダムスの大予言で評判になり、世も末かと大変心配しましたが(気の早い人は、有り金はたいて遊興三昧に明け暮れたとか? 幸い私は、小遣い銭にも事欠いていましたので、事無きを得ましたが…)、幸い何にも起こらずホッとしたことを思い出される方もあるでしょう。

 今回の5惑星ランデブーは、地球上の同時テロによるアフガン空爆やら、イスラエルとパレスチナの紛争、それに加えて世界の大不況等(日本では、国会の疑惑問題や児童虐待死、無差別殺人、金融不祥事など、など)の異常事態に、惑星諸君も心配して、寄り集まって対策を協議しているのではないでしょうか?
 それとも、世紀末の度し難い地球人類への再度の警告、破滅への予兆というのではないでしょうね? いったいノストラダムスの今度の予告は、何んと占いましょうか? ( Apr. 20. 2002 )


 今日は荒れ模様の天気になりました。雨交じりの風が嵐のようですね。今年は気温があがりすぎて桜の花は既にありませんが、次の詩を思い出したのも、詩人の高橋順子さんが日経新聞の文化欄の連載「うたはめぐる」に書かれていたことで、その上、知らなかった作者もわかりました。

  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトエモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ

この詩が、井伏鱒二の『厄除け詩集』にあって、原文は中国の唐代の詩人による「勧酒」と言う五言絶句で、その翻訳だとのことです。この訳詩は、口当たりが良く、また適当に力強さがあり、人生の惜別をさらりと表現していて、さすが井伏鱒二ですねぇ!

 話は変わりますが、同じ文化欄に、京大の日高教授が「早い桜に思うこと」と題して、虫や草木はどうして春を数えて待っているのだろう? と今年のような予想もしない早い桜の開花などの自然の不思議さについて述べられている。

 それによると、単純にその日その日の気温に反応しているわけではなく、“積算温度”と言って自分たちの発育に有効な温度を積算して行って、ある定まった温度に達すると虫たちは卵から孵ったり、蝶になったりし、花の蕾も開くのだそうです。しかし、発育限界温度以下の低い温度も意味がないわけではなく、ある一定期間は温度の低い寒い冬の日を経ないと、いくら有効積算温度が達しても虫たちや草木には春が来ないといいますから、自然の不思議は神秘なものですねぇ! ( Apr. 17. 2002 )


 太陽は黄色い色で描く! 「色模様・世界の旅」、NHKハイビジョンで、インドでは、例外なく太陽は黄色に塗られるのだそうです。黄色は聖なる色であり、幸せの色であり、重要な色であるのだそうです。民族の色とでも言うのでしょうか? 生活の全てに黄色が用いられています。

 私たち日本人は、太陽の色としては、ほぼ例外なく赤い色で描くのではないでしょうか? 歌でも“真っ赤な太陽”とか“赤い夕日の港町”が主役です。むろん、日の丸の国旗は白地に真っ赤な“太陽の”マルですね。また、日出(いづ)る国と言われた日本も、黄色で表される黄金の国“ジパング”でもありました。

 しかし、太陽は、やっぱり赤いのです! 赤い太陽は、日の出と夕日にしか見られません。科学的に言えば、日光が地球の大気圏に入射する角度で長波長側の“赤”が目に届くことになるのですねぇ!(情緒的じゃぁないねぇ)
いえいえ、日の出に今日1日の無事を祈り、野良仕事が終わるとき、山の端に沈む太陽に1日の無事を感謝して、夕日を背にして我が家へ戻る、(“朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干いただいて”とも言いましたが…)勤勉実直を旨とする、わが大和民族ではなかったでしょうか? 今は、インターネットなどで夜更かしし、朝は太陽が高く上がってから寝ぼけ眼を覚まし、夜は夜で、ネオン瞬く賑やかな歓楽街(この不景気では、せいぜい赤提灯か、セブンイレブンで夜食の調達くらいか?)をうろついて、夕日の時間をとっくに過ぎた夜中に我が家へ辿り着く、まったく現代生活は健康的とは言えませんねぇ! 太陽が赤いのではなくて、睡眠不足で“目が真っ赤”なのではないでしょうか?

 そうだとすると、インドでは明るい昼間の太陽しか見ないのでしょうか?
 いずれにしても、民族で使う、あるいは大切に思う色がこうも違うと言うのは不思議と言うか、面白いですねぇ! その他の国ではどんな色が使われるのでしょうか、これからの番組が楽しみです。( Apr. 16. 2002 )


 どうなってんの? ついに2桁、10勝目を挙げてトップを独走する星野阪神タイガース! もうこうなっては(猛虎唸っては)この勢いは止められない!

 選手の勢いが強いのか、星野監督の采配が良いのか(監督も首を傾げていますよ)、はたまた他のチームがだらしないのか、いやいや今年は運が付いているんだよな? 運も実力のうちって言いますからね。勢いづいている今の内にしっかり稼いでおいてよね! 後で力尽きた、何てことにならないように頼みますよ! 弁当屋さんも、風船屋さんも、メガホン屋さんも当てにして応援してますからね! それに外野の私めも、ホームページのネタとして当てにしてますからね。(負けてもネタにするんだけどさ…)応援団の皆さんの目も久しぶりに輝いていますよッ!( Apr. 12. 2002 )


 日経新聞の「春秋」欄に、みずほフィナンシャル・グループのコンピュータ・システムの大混乱について、“2001年宇宙の旅”の知能をもったコンピュータ“HAL”の人間に対する反乱になぞらえているが、確かに人間がやるべき仕事を全てコンピュータに任せ過ぎた結果、人間の思考を超えたトラブル(本当は、コンピュータを使い切れなかった人間の浅はかさか?)で、右往左往しているわけであろう。

 “HAL”に限らず、インターネットでのコンピュータ・ウイルスによる障害と混乱は、私たちがコンピュータに対する盲目的な信頼が引き起こしている問題であろうと思われる。元々、電算機と呼ばれた初期のコンピュータは、人間の処理能力を超えた計算処理を、速さと正確さでコンピュータが利用されてきたに違いない。ところが、何でもかんでも、コンピュータが万能であることを信じて頼りにしてきた結果、それを悪用する人間にコンピュータ・システムを利用されて混乱を招いているのではなかろうか?(決して、コンピュータのせいではない)

 私自身もついにコンピュータ・ウィルスの心配のために、無理をしてコンピュータを新しいものに更新した。更には、コンピュータ・ウィルスをこまめにチェックし、ウイルス定義を常に更新することにより、万が一の被害を最小限に食い止めようと努力しているわけであるが、果たして、それだけで安心しておられるものだろうか? 敵もさるものヒッカクものである。完全なウイルス対策は無い! 人間の知恵は、人間を超えられない!

 これは、正に人間の知恵の浅はかさではなかろうか? “便利さ”の裏側には、それに対する落とし穴が存在すると言うことに他ならない。コンピュータは、あくまで手段であってコンピュータを使うことが目的ではないのである。コンピュータだけではない。クローンの問題やゲノムの情報の利用の問題もそうであろう。目的と手段を誤ってはならない。科学技術を盲信してはならない。あくまで使う側の人間が正しい認識と判断をしなければ、チャップリンの“機械狂時代”の風刺の通りになってしまうだろう。( Apr. 8. 2002 )


 みずほフィナンシャル・グループのシステム障害による混乱はいっこうに沈静化しませんが、第一勧銀、富士、日本興銀の合併については、いきなりの合併発表によって、入出金システムの異なる銀行同志でのジョイントは当初から心配されていました。

 夫々の銀行に口座を持つ顧客に対しては、当面夫々別々に扱うのかと思っていましたら、いきなり(でもないでしょうが…)システム統一する作業を進めていたようで、そのプログラムが上手く働かなかったようですね。一企業内でのコンピュータのシステム変更でも大変な作業ですが、異なるコンピュータシステムで、更に金銭関係のからまる問題では、一旦混乱すると目も当てられません。社会的な混乱を引き起こすのは必至ですから、よほど綿密な計画と試行を経て万全を期さないと、今回のような事態が発生します。

 今回の問題は、システムの混乱よりも、むしろ、安易に統合、合併が繰り返されている社会現象こそ大きな問題ではないかと考えます。現在政治問題でも、国会の混乱はそれを物語っているのではないかと思います。
従業員や顧客を無視したリストラの弊害として如実に現れたのが、今回の、みずほフィナンシャルの問題ではないでしょうか? これは、企業の経営のあり方に対する警鐘ではないかと思います。( Apr. 6. 2002 )


 やりました!! 阪神タイガース! 開幕戦、新監督同士の原巨人ジャイアンツに対して、星野阪神タイガースの初戦、エース井川投手の好投に封じられてジャイアンツの奮闘空しく、ショートオーバーと思われた打球もカツトされて併殺で幕切れ! 3:1で星野阪神タイガースが7年ぶりに初戦を飾った。

 野村阪神タイガースがあまりにも悪かったので、星野さんの喜びはひとしおかと思いきや、嬉しさをグッとこらえて「井川が好調だった。彼が更に大きく見えたよ!」と謙虚な発言。「明日のことは考えていないよ、ゆっくり寝てからまた明日考えるよ!」とは、今日は、内心ハラハラして疲れ果てたってことか? いずれにしても初戦の心配がふっきれて、良かった、ヨカッタ!! ゴメンね、原君! 初戦は敗れても、巨人ジャイアンツは永久に不滅です!

 前監督の長嶋さんも、“まあ、まあ、まあ、今日の井川にゃあ、しゃあないわなあ! 心配するな、♪♪明日がある、明日がある,明日があるんだよ!♪♪”ガンバって下さい。ハッハッハ、バンザイ! 阪神タイガース!!( Mar. 30. 2002 )


 協奏曲? 競争曲? 狂騒曲? 私の大好きなピアノの中村紘子さん(美人の演奏家なら誰でもいいって言うわけではないですよ。念のため! しかし、美人のフルート奏者、山形由美さんも大好き! むろんCDも持ってますっ!/何だッ? 一体、美人が好きなのか? それとも音楽が好きなのか?/そりゃあ、ドッチらけ?)と、指揮者の外山雄三が主催するピアノ協奏曲公開講座が、浜松市で開かれたとSanday Nikkei のアート欄にありました。

 私もピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲は大好きですが、ピアノやバイオリンの独奏者は決してオーケストラや指揮者におとなしく合わせるつもりもなく、「独奏者と指揮者、オーケストラが合うか否か、ハラハラして聴くのも協奏曲の面白さの一つ」と外山さんは語り、「(独奏者が)アクセントを付けて差し上げないと、困る指揮者もいる」と中村さんは切り返す。

 確かに、演奏中の髪振り乱した指揮者や身振り手振りの激しい独奏者の演奏を見ていると、どちらもオーケストラの存在はそっちのけで、お互いが自分の技量の限りを尽くして試合に臨んでいる様子で、協奏曲どころか競争の世界にどっぶり浸かり、はては狂騒曲に思えてくることもある。
ちなみに、「協奏曲の語源のラテン語 concerto は「論争する」「闘争する」を意味したが、音楽用語の起源に当たるイタリア語は、同じスペルながら「調和させる」「一致させる」と正反対の意味を持つ。これが「競争」か「協奏」か、現代の作曲家すら頭を悩ませる原因となっている」とも言う。

 どちらにせよ、お互い、しのぎを削りながら、極限の素晴らしい音楽の世界をかもし出してもらえれば、より一層、私たち聴衆が至福(?)の時間を過ごせると言えよう。
これからも益々腕に磨きをかけて息の合った公開講座を続けて、音楽を心から楽しませてもらいたいですね。( Mar. 24. 2002 )


 “toilet seat 便座をめぐる男女の攻防”。ちょっとご飯時の話題には相応しくありませんが、日経新聞のNIKKEI プラス1の「暮らし英語帳」の記事で、米国では、トイレの便座を上げっぱなしにしておくこと(leave the toilet seat up)は夫婦喧嘩の元になるのだそうです。映画「ジャングル2ジャングル」で、アマゾン育ちの息子に向かって父親が「使い終わったら必ず便座を戻す。忘れると女どもに殺されかねない」と注意するシーンがある、と言います。

 これほどではありませんが、アメリカだけでなく、我が家でもゆゆしき問題となっておりました。和式から洋式に変更して以来、使用後の便座を閉じるのかどうかについては意見が異なり、閉じないのが常識と言う派が多く、閉じておくと言う我輩は常識はずれと烙印を押されてきた。しかし「暮らし英語帳」では、翻訳家の高山美香さんの解説にあるように、本家アメリカで“女どもに殺されないため”には、前述のごとく閉じておくのが当然ですから、それ故、我輩の常識がやっと認められたって言うこと! ありがたや、有難や、長年の懸案に終止符が打たれて、メデタシ、メデタシ!! ところで、貴方のご家庭での常識はどちらかな? まあ、目くじら立てる程のことではありませんがね。( Mar. 23. 2002 )


 ブロードバンド(高速大容量)通信を用いて、滑らかな画像のテレビ電話が実用化する。

 新聞によれば、インターネット通信の通信速度が高速にできるADSL(非対称デジタル通信)を用いることにより、従来のテレビ電話よりはるかに滑らかな画像の伝送が可能になり、音声の遅延も0.5秒程度で、高品質なテレビ電話が実用化されそうだ。

従来のテレビ電話は、紙芝居的な低速の動画で、音声も画面と一致させることは難しかったが、通信速度の高速化と画像圧縮技術の発達とインターネットを利用することによって、急速に実用化の可能性がでてきた。

 確か、“静止画テレビ電話”の可能性が登場したのが1987年頃だったから、技術の進歩は25年間で、テレ・コミュニケーションも携帯電話から一挙に表情豊かな会話を楽しめ、不完全なバーチャル・コミュニケーションから実用的なリアル・コミュニケーションになって、感情の伝達もほぼ可能になってきた。後は、臨場感、立体画像を待つだけか? 長生きはしたいものだねぇ!( Mar. 18. 2002 )


 春闘も山場ですが、新聞によれば、不景気を反映して大半はベースアップ・ゼロ回答ですが、一人勝ちのトヨタ自動車でさえゼロ回答と言う自動車産業の中で、ゴーン社長預かりとなっていたニッサン自動車が、労組の要求どおり満額回答と言うことで話題をさらいました。経営危機を全社員の協力により切り抜け、業績を黒字に転換できたことと、今まで厳しい環境のために生じた他社との格差を戻すためとかで、さすがゴーンさんのやることは憎いですねぇ! 厳しいばかりが能じゃないものね。これで益々ニッサンの業績回復が本物だと確信しました。

 それだけではありません。青山学院大厚木キャンパスが相模原市に全面移転する跡地を、ニッサン自動車が買い取って、厚木テクニカルセンター(研究開発拠点)の拡充に当てる計画だそうで、技術のニッサンとしてスポーツカーのニューモデルの登場が期待できそうですね。ガンバれ、ニッサン!! ( Mar. 14. 2002 )


 “実るほど頭を垂れる稲穂かな”。こんな格言は現代の政治家や官僚には通用しなくなっているんでしょうか? 人は地位や名誉を得ると、何時の間にか自分というものを忘れ、昨日の自分と今日の自分が何も変わっていないのに、自分が急に偉くなったように錯覚して、他人を見下し、無理を押し通して命令し、更には自分の利益のために狂奔する。

 鈴木宗男議員の証人喚問問題で、次々と暴露される疑惑に唖然とせざるを得ない。地元では立志伝中の人と言われるように、貧しさの中から、民のため国のためを思い志を立て、高潔の政治家を目指して日夜努力し、ついには政界での確固たる地位を獲得したのではあるまいか? しかし、人を操れる地位を得たことによって初心を忘れ、何時の間にか、他人を利用し、自分の利益に執着する利己的な人間に変わり、自分の名誉や利益を守るためにはウソも方便、正当化のために言い訳のバリヤに全精力を費やして、益々心貧しく己が墓穴を掘る。

 これは、誰もが持っている自我の本性であろうとは思いますが、特に現代の政治家や官僚にそれが目立っていて、毎日の新聞紙上を賑わしていることはご存知の通りですが、大同小異、大人がこれでは、現代の若者や子供たちの暴力や非行を非難することもできまい。狂牛病事件での農水省の責任問題や肉の生産地の不正表示でクローズアップされた企業の経営者の倫理感覚なども同根ではなかろうか?

 “人は生かされている存在”、それゆえ他人のために働く。“利己”ではなく“利他”の精神でなくてはならない。この世の苦を生み出すものは“利己”であり、“金や物、地位や名誉に執着する心”である。釈迦の教え“宗教哲学”を忘れ、“物質的な豊かさ”に惑わされて、“精神的な豊かさ”を失った現代の悲哀であろうか? ( Mar. 6. 2002 )


   やりましたッ!! F1のオーストラリア・グランプリで、トヨタがいきなり6位でデビュー! ホンダに続いて、F1に全力を投入して初参戦したトヨタは、何と! 初戦で入賞を果たし、若者市場に夢のスポーツカーのトヨタを強くアピールしました。

 カーレースと言えば、ル・マンの24時間耐久レースが熱狂的なものですが、若者の心を揺さぶるF1レースの人気は、昔も今も変わりません。従来、国内自動車企業ではマシンの技術が外国のそれに対抗できるまでに育っていませんでしたので、残念ながらいまいちでしたが、果敢にもホンダがそれに挑戦し、続いてトヨタが参入を決めたので期待するものが大きかったのです。しかも多数のクラッシュが発生し、完走したマシンはわずか8台という大波瀾のレースで運良く6位で入賞したのですから、トップで優勝したミヒャエル・シューマッハのフェラーリとは比較になりませんが、運も実力のうちで、しかも初戦で入賞ですから、文句なしのデビューでしょう。

 何しろ、F1に参加するための車両の開発費が300億円以上で、かつ運営費が年間100億円以上かかるそうですから半端ではありません。奥田トヨタ会長の世界戦略への意気込みがヒシヒシと伝わってきますねぇ!

 こうなったら、着実に業績回復に向かっているニッサンのゴーンさんにも、ル・マンへの復帰と共に、F1への挑戦も約束してほしい気がします。再び、元気印のニッサンを見たいですねえ! GTRも新しくなって復活を果たすそうですから、今からワクワクしてきます。新しいスカイラインも素晴らしい性能でデビューしましたが、バックの4つの丸目ランプが消えて、淋しい思いをしているのは私だけではないでしょう。しばらくはR34でガマンするしかないか?( Mar. 5. 2002 )


 またまた花粉症の季節がやってきました。私も例外ではなく杉花粉の被害者(本当に? 鬼の○○の君が?/そりゃあ、強心臓や鉄面皮と言われていても人間ですもの、心やさしくて“花”には弱いんですょ!)ですが、花粉症の元凶について解明したいと懸命になっています。しかし、相手もさるもの、その正体は霧の中です。

 世間では、その原因だと考えられている“杉の木をすべて伐採すべし”と言う強硬な意見も出ています。確かに、終戦後、本土復興のために(?)土壌をえらばず、成長が早く、建築材料としても最適であるということで、全国でこぞって植林されたために、現在、成長した杉林が広く繁茂し、その花粉が撒き散らされるようになったことは確かなようです。当地でも、春先の風の強い日の山林での杉花粉が舞う様子は、黄色い霧が山一面を覆ってしまうのです。

 しかし、不思議なことに、我が家の庭にも10m以上にも成長して、花を一杯つけた杉の木が玄関先にあって、風が吹くとその花粉を撒き散らしますが、それによって私の花粉症がひどくなることはありません。我が家の杉に同情するわけではありませんが、果たして、杉花粉だけが花粉症の原因であるという嫌疑をかけるのは気の毒な気がしています。事実、私自身の花粉症対策によって、かなり症状が軽減していることは確かなのです。

 原因の一つは、生活様式や生活習慣が昔より大きく変わってきたことと、それにしたがって大気汚染がひどくなってきていることに関係があるような気がします。それと、過保護に育てられた私たちの体の抵抗力や自然治癒力の低下も考えられます。だから、すべての人が花粉症で悩んでいるわけではありませんし、同じ生活環境でも、全く花粉症に無関係と言う人も大勢います。その差を解明すれば、花粉症の実体に迫れるわけです。

 とは言っても、現在のところ明確に立証できていませんので、残念ながら、自然治癒力をつけるように戸外での運動と「気」を出す訓練をするとともに、マスクの着用や目薬、鼻炎薬などのご厄介になるしかありません。全国の山の杉林を伐採して、杉花粉を根絶やしにしたところで、花粉症の解決にはならないような気がします。

とりあえず、花粉症でお困りの貴方、花粉症のwebページを検索して見ましょう!( Feb. 26. 2002 )


 「失われゆく自然の中で 大自然からのメッセージを全身で受け止めよう」 冒険家の大場満郎さんとの対談が「新世」の3月号(倫理研究所発行)にあって、とても興味深い内容です。

 私たちの子供時代には、悪ガキ仲間で色々な冒険をやりました。山や川岸の竹薮、人里離れた墓地や洞穴(防空壕あと)などの探検や度胸だめしなどです。多分今の子供たちは、外で徒党を組んで探検するなどはしないでしょう。テレビゲームなどでバーチャル探検やゲーム遊びする位でしょうね。親子の自然体験についての調査では、親と子どもと大きく異なるところは、

  @ 夜空いっぱいに輝く星をゆっくりとみたこと   A 太陽が昇るところや沈むところを見たこと

なのです。確かに、私たちの子どもの頃は、夏になれば外の縁台で夕涼みをしながら星を見上げてあれこれ親子で話をしたものです。しかし、今は部屋にはエアコンがあって年中快適ですから、夏の暑さにも外で涼むことなんてありゃしないんですねぇ。また、宵っ張りの朝寝坊で、朝日を拝む習慣なんてありませんし、朝飯の準備の水汲み、かまどでの飯炊きの手伝いなどはありません。全て電気炊飯器が、自動的に起きる時間に合わせてご飯を炊いてくれます。“朝起き三文の得”なんて、今時通用しなくなっているんですねぇ。むろん、私も同じですが、最近は心を入れ替えて、親父がやっていたように、朝日を拝んで(二拍手、一礼、二拍手)、一日の無事と家族の健康と安全、それに世界の平和を祈念することにしています。(三日坊主にならなきゃ良いが…。/ごもっとも!)

 大場さんは“冒険を通して命の尊さやはかなさ、物事を成し遂げた時の達成感、満足感、自分を信じる心を育む”と言われます。また“自然への「畏敬の念」と「謙虚な気持ち」と「感謝の気持ち」を持つことが、冷静な心を失わないためにとても大切なことである”ということを学んだそうです。
 今は、親も子も勉強一途で、人や自然に感謝する気持ちがとても希薄になっているような気がします。だから、レイチェル・カーソンの言う“センス・オブ・ワンダー”。自然に触れ、冒険をして、自然の神秘の中から、感謝の気持ちと、他人を思いやる心を育むことが大切ですねぇ。( Feb. 20. 2002 )


 まさにコロンブスの卵! 何のことはない、片手で使えるトイレの紙巻き器。日経新聞の「便利メモ」で紹介されました。

 これについては、私も以前から従来の紙巻き器(正確にはトイレットペーパー・ホルダー)の不便さについて改良を試みていましたが、なかなか良い案が見つかりませんでした。

第一に、ペーパーを抑えフタで切るために、次にペーパーを引出すためには、いちいち抑えフタを持ち上げてペーパーを引出すわけですから、巻き付いているペーパーがなかなか引き出せなくてイライラすることがありました。また、ペーパーを切るためには、抑えフタを片方の手で抑えていないと、フタが持ちあがって切ることが出来ない。これでは機能不全としか言いようがない。しかし、長い間考え続け、試行錯誤を繰返していても、この機能を満足させるような良い案に到達できなかった。

 ところが、紹介されている“片手で扱える紙巻き器”は、この機能を全て満足している上、構造上も単純化されているのである。
(問い合わせは INAX TEL.0120-179-400/銀ちゃん便利堂 TEL.075-464-6015)

まず、紙を切るためのギザギザをつけた部分を下につけて、かつ、ペーパーを受ける構造部材になっているのである。そして、従来紙を切る構造部材となっていた抑えフタには、単なるペーパー・ロールの抑えだけの機能だけにして、巻芯を省いてペーパーの自重でぺーぱーの弛みを防止し、かつ、ペーパー・ロールをひっくり返しに置くことによってペーパーを下側から引出し、摩擦によって切る際に必要な抵抗を利用している。これは正に、コロンブスの卵の発想だと感じ入った。“昭和のエジソン”を自認している我輩も(ウソつけッ! 単なる妄想だ!)まいった、参った! ( Feb. 17. 2002 )


 まさか? オリンピックのフィギュア・ペア演技の採点で、審判が談合の上で金メダル の判定を操作したことが発覚した。

 この演技を妻と見ていたが、完璧な演技と思われたカナダのペアが確実に金メダルだと確信したのに、その前に演技したロシアのペアの演技でミスが散見されたのに1位の金メダルとなって、“どうして? 順位間違いではないの?”と顔を見合わせた。

 ところが今日のニュースで、審判が圧力を受け、談合して判定を操作したということを知った。公正であるべき審判が、圧力によって判定を変える等と言うことは言語道断で、オリンピック精神にも反する行為ではないか? その後、判定は変更され、2チーム共に同点1位で金メダルとなったが、どうも腑に落ちない結果だ! 行司差し違えで、1位、2位逆転判定ではないのだろうか? どちらにも良い顔をするのではなくて、ハッキリさせるべきだと思うのだが…?。

 各国ともメダルに固執するあまり、スポーツ精神までも捻じ曲げてしまっているのは問題であろう。いっそのこと、機械的に判定できなくて、人が感覚的に判定する種目は、メダルは止めて、“とても良かった”、“かなり良かった”、“もう少しガンバッて”位の結果判定として、該当チーム数を複数でも良し、としたらどうだろうか? 

 結果には意味が無くて、その過程での努力に意味があることを知るべきではないか? ( Feb. 16. 2002 )


 いよいよ、ソルトレイク・シティで冬季オリンピックが始まります。やはり注目はジャンプでしょうね。ポーカーフェースの原田、伊達男船木がどれだけやれるか楽しみです。ノルディックスキーのベテラン荻原の活躍もありますし、モーグルの女王上村愛子さんは、皇太子の内親王愛子さまの名にかけても笑顔の成果を期待したいものです。また、清水選手などのスケート陣にも期待がかかりますね。

冬季オリンピックは、比較的楽しみながら見られるので、メダルにこだわらず応援しようと思います。私は冬のスポーツはまるでダメで、スケートがわずかにヨチヨチ歩きぐらいなので、何の評価もできません。選手の皆さん、どうかガンバッて下さい。( Feb. 9. 2002 )


 マラソンの高橋尚子さん。こんな素晴らしい人が今時いらっしゃるのですねえ! NHKのトップランナーと言う番組でその実像に触れることが出来ました。

 マラソンでの走り方については、その「気」の出ている様子に注目はしていましたが、話をうかがう内に益々感心してしまいました。

 彼女にとっては、世界一の記録を作ったレースも、マラソン人生の一過程に過ぎないのです。メダルに人生の価値を見出すものではないようです。自分のそれまでの練習の結果と、監督の指導やランニング・シューズを作ってくださった人、応援して下さった人々の後押しによって、達成できた結果に過ぎないと言うのです。ですから、ゴールしても感激の涙はありません。それよりも、沿道の観衆の中に、知り合いの方や監督の姿を見付けた時に、感謝で“目がウルウル”になるのだそうです。

 走ることは、誰に強制されることでもなく、レースにおいても、自分のその時の調子によって走るのだそうです。どこでスパートするか、レースの駆け引きによって、どこまで力を温存するかと言う一般的なマラソン選手とは異なっています。常にその時点での最大の力を発揮して走っていると言う事なのでしょうか? 走ることが楽しいと言うことの証明でしょうか? 勝敗(順位)は結果に過ぎないと言うのです。

 インタビューにおいても、相手や周囲の方々に細かな気遣いをされています。非常に謙虚な方ですね。自分というものはなく(無我)、生かされている存在であり、過去も無ければ未来も無く(無常)、現在が全てであり(実存)、現在に自分の全ての力を集中すると言う、釈迦の教えを実践しているように思えます。また、周囲の全てに感謝する心は、“利己”から“利他”への心ではないでしょうか?

 この事こそが、メダルの獲得にあくせくし、自分の名声を求める多くのスポーツ選手や、苦しの果てに銅メダルを手にして“よくガンバッたと自分を誉めたい”と言う有森選手と根本的に違うところなのです。(どちらが良いというわけではありませんよ)

 “僕は長距離が苦手で、どうしたら高橋さんのように長距離を走れるようになりますか?”という質問に対しても、“なによりも走ることが楽しくならなければなりません。そして毎日そのために走りつづけることです”と、こともなげにおっしゃいます。現在の一点に、全ての努力を傾けること。それが人生ではないでしょうか? そしてその結果が何らかの形として顕れる(因縁生起=縁起)のでしょう。

高橋尚子さんは、正に“菩薩”(悟りを求めて修行する者)なのでしょう。益々のご研鑚と、実り多き人生を! ( Feb. 1. 2002 )


 雪印食品の牛肉欺瞞問題は、更に新しい事実が発覚し企業体質が明らかになるに従って、同業企業にも波及する可能性がでてきた。

 通常、企業には明確な組織があって、品質の改ざんは出来ないようになっているのが当たり前なのである。即ち、品質を保証する部門があり(実は、私もその担当者であったし、品質保証の標準も立案した)出荷品質に関する最高責任と権限は品質保証部門長にあって、社長と言えどもこれを無視できない。もしも社長(あるいは販売や製造の部門長など)が、品質保証部門の判定を覆して社内で定める規格外品(製品にはバラツキがあるため製品規格よりは厳しい規格になっている)を出荷するためには、“特別採用制度(特採)”を適用して社内稟議の上、品質保証部門長の承認を得なければ実施できないのが一般的であろう。それゆえ、当該企業の組織と品質システム、出荷判定記録と販売等の稟議記録を調査することでほとんどの問題は判明するはずである。

 雪印食品では、国内産の牛肉でさえも販売の都合だけで、生産地の表示までも改ざんしていたと言う事実が判明したという。信じ難いことであるが、極めて悪質であり食品という性格上、速やかに厳格な調査を行い、結果を公表する必要があるだろう。
 “雪印”という最大手ブランドが信用を失ったことは、同業界全ての信用に関わる問題で、農水省はじめ厚生労働省の行政までも信用を疑われかねない大問題となろうし、農水省・厚生労働省の縦割り行政をも見直す必要があろう。

 また、品質をなおざりにした経営者の責任は、辞任などでは決して償えるものでもないし、他社も早急に自社の品質システムの見直しを迫られるに違いない。( Jan. 29. 2002 )


 NIKKEI プラス1の「オトナの心得」欄に、“「触れる」効用”と題して、肌に触れることで言外のコミュニケーションが図れるということが述べられています。

 末期ガンなどで入院している人には、黙って足の裏をマッサージすると言う。また、作家の遠藤周作さんも、看護婦さんに手を握られることで痛みが和らいだと言われます。
それらについては、国立看護大の駒松教授が「触れる効用」について、現代では人の手や肌の触れ合いが減少しており、本来、人は言葉だけよりも、手や肌の触れ合いの方が、ずっと気持ちが通じたり、安心したりすると言う。

 確かに、私も入院生活を幾度も経験しましたが、看護婦さんに脈を取ってもらったり、血圧を測ってもらったり、更には、痛いはずの注射をしてもらったりする時にも、心が安らぎ、安堵感が生じて(特に、美人の看護婦さんの方が良いと言うのだろう!/バレたか?)触れ合いの効用を確信しています。

 特に子育ての時、赤ちゃんを抱いてあやしながら、頬に触れたり、手を握ってやったりしてやると、安心してスヤスヤと眠ることで良くわかりますが、現代の若いお母さんの中には、抱き癖がつくとか、甘やかしだとて嫌う人も多いようですが、ボディランゲージは、人と人とのコミュニケーションの手段では最も大切なことではないでしょうか? 人の優しさは、心と心だけでなく、肌と肌との触れ合いにあると思いますが、田中真紀子外相イジメの外務官僚やどこかの議員連中などは、トゲのある言葉の応酬ばかりで、人の心を持たない陰湿な気がしますね。

 それにしても、小泉首相までが、
“涙は女性の最大の武器だから、泣かれると男は太刀打ちできないでしょう”などと軽々しく発言するというのも、一国の首相であり、閣僚の最高責任者として“心無い言葉”の仕打ちではないでしょうか? 私などは、田中外相を女性などと差別していませんでしたがねぇ。小泉人気もこれまででしょう。
貴方はどう思われますか? ( Jan. 26. 2002 )


“親悪ければ、子も又悪し”。在庫の輸入牛肉を、データを改ざんして国内仕入れの牛肉と偽って、狂牛病の疑いのある国産牛肉を、農水省が買取って処分すると言う制度を悪用して、不当に在庫処分しようとした雪印食品の不祥事が発覚した。

 何をか言わんや、である。狂牛病事件で、牛肉の消費が冷え込み、在庫が経営を圧迫するからといって、常識を逸脱したこのやり方は、企業倫理にももとり、更に業界全般の信用をも失墜させる犯罪行為ではあるまいか?
先には、親会社の雪印乳業の、汚染牛乳による中毒と製造管理不在の信用失墜もあり、今回の事件は、更に恥の上塗りではなかろうか?

 元はと言えば、農水省が、狂牛病発生時の処置対策の誤りが、狂牛病汚染をひろげ、国民の信用を失わせた為に、牛肉の需要が冷え込んで、今回の事件に繋がったと言えなくも無いが、それが企業経営者の倫理をおとしめた原因とは到底思えない。元々当該企業の倫理感覚がそのレベルでしかなかったと考えられるのではないか?

 “政治の乱れる時、世は乱れる”と言われるように、狂牛病に対する農水省の対応の無責任さだけでなく、政治家の元秘書による斡旋収賄や、住民の意思を無視して強引に進める諫早湾の干拓事業、高速道路工事の継続などの公共工事に群がる族議員の圧力など、為政者の共通した倫理感、責任感の欠如こそが諸悪の根源ではなかろうかと思えてくる。

 全てを、取り締まる為の法律で規制することにこだわっているようであるが、その裏をかくのが、才知に長けた官僚や政治家(あるいは権力者)であるから、イタチゴッコでしかない。
一番肝心なのは、まず政治家が襟を正すことであり、その上で倫理感を高め、社会的使命感を再認識することなのではなかろうか? ( Jan. 24. 2002 )


“一心不乱の危うさ”健全な常識で目から鱗」。Sanday Nikkei の読書欄で、作家の田辺聖子さんが一つのことについて思いつめることの危うさと愚かさについて述べておられます。
 ともすると、私達も一つの事に夢中になって他を省みず、あたかも自分の常識が世間の常識だと勘違いして、視野狭窄に陥る危険性にハッと気付かされます。

 田辺さんは、“新聞大好き少女”で、5紙も精読し、“新聞読みすれっからし少女”を自認されているくらいですから、何が正しくて、何が歪曲されているかは、よくお分かりなのだろうと思いますが、その“新聞読みすれっからし少女”の、ある政治行為に対する何気ない投稿記事に向かって、読者から猛烈な反駁、弾劾する投書や手紙、FAXなどが殺到して、特定な新聞の心酔者に、或る種の恐ろしさを感じられたらしい。
 以前、私にも覚えがありますが、何気なくホームページに載せた“児童買春防止法案の早期成立を!”という「つぶやき」に対して、見も知らぬ人から脅迫まがいのメールを送りつけられて唖然としたことがありますが、自分の常識と他人の常識との落差なのでしょうか?

 確かに、戦時中(ちょっと古い言葉ですが)の護国報恩、“欲しがりません勝つまでは”挙国一致の精神や、戦後の民主主義における過半数の正義などは、よく考えてみると、まかり間違えば、とんでもない危うさがある様に思います。それと同じで、バーミヤン石窟の大仏を、偶像崇拝だと排斥して破壊したタリバンのイスラム信仰や、未だに聖地争いで紛争するイスラエルとパレスチナなども、やはりユダヤ/キリスト教の“一心不乱の危うさ”ではないかと思います。

 何が正しいかではなく、その時々で、自分自身が何を選択するかであって、広い視野と柔軟な心で、常に相手を思いやる心があって初めて、正しいものが見えてくるのではないかと思います。
田辺さんの「人生というものは“一心不乱”に思い込んだことを、壊し、壊し、してゆく旅ではないか…」とも言えそうですね。( Jan. 23. 2002 )


 また彼か! 外務省の何らかのトラブルに必ず登場する“外相イジメ”議員。東京で開かれた「アフガニスタン復興支援会議」に先だって行われたNGO(非政府組織)会議で、日本の代表格たるジャパン・プラットフォームと、アフガニスタン支援活動を行っているグループのピースウインズ・ジャパンの2団体について、“お上にたてをつく”ような発言をしたとして、“お上が取りしきっているNGO会議には参加させない”とかで、外務省から出席を辞退して欲しい旨の電話があったらしい。“お上”、“お上”と、まるで役人や国会議員が国民を見下すような、時代錯誤な発言には辟易してしまうではありませんか。その上、いつもの通り“誰が私だといいましたか? 言った人の名前をハッキリ言ってくださいよ!”と、言えないことを逆手にとっての言いたい放題。正に、役人の風上にも置けない悪態ぶり。しかし、大挙押しかけた報道陣に驚いてか、急遽、外務省から参加許可が出されるというていたらく。

 ご存知のように、アフガニスタンの内情は複雑で、今回の同時テロの報復攻撃以前でも、国内紛争で混乱が続き、多くの難民が窮乏をきわめており、対人地雷の除去作業などもなかなか思うに任せない状況で、例え、物資支援を計画しても、困窮している難民に届ける手段が乏しい。国際組織であるユニセフやフォスター・プラン協会でさえも、アフガニスタンには効果的な支援拠点は確立されておらず、救済活動も出来ないのが実情だそうだ。

 私たちの属するNGOの“ネットワーク『地球村』”でも、アフガニスタンの難民救済支援のため、先日14日にスタッフ2名が現地調査のため、現地のNGOと連携を取りながらイスラマバードに出発しました。現在、既に支援募金が700万円余り寄せられていますが、アフガニスタン各地の難民に食糧などの支援をするためには、周到な現地調査と供給ルートを確立しなければなりません。お金だけ出せば“事足れり”ではないのです。これからが重要で、現地を良く知り、小回りがきく草の根のNGOの活動が必要なのです。政府が何億円提供したからと言って、難民救済支援が効果的に行われる保証は無いのです。

 以前、大変問題になった途上国支援のODA(開発援助資金)が、何の効果も無く、贈られた建設資材が野ざらしで使い物にならなくなっていた等と言う話は、現地の実情を十分把握せずに、支援の方法についても現地と十分に検討されていなかったり、“金”や“物”だけ出して、実際に援助活動をする技術者などの“人”を出さずに“事足れり”としていた“金満日本”の奢りだったのではないしょうか?

 “実際の活動無くして援助無し”です。これからは、現地の実情に応じ、地道に活動するNGOに頼らなければ、効果的な援助はできません。誰かさんみたいに“お上にたてつく云々”と言っているようでは、日本の恥を曝しているようなもので、世界から孤立してしまいますよ! そう思いませんか? ( Jan. 22. 2002 )


 日経新聞の文化欄で、作家の大庭みな子さんが“一番争いはもうやめて”と言う一文を載せておられます。

 カルタの名人位を争う大会の様子が、羽織袴や和服姿の選手たちに似合わず、まさに真剣勝負、スポーツ大会(かのクーベルタン男爵は“勝つことよりも、参加することに意義がある”と言われましたが…)の激しさであると言うのです。私たちが毎年恒例の「坊主めくり」で楽しむ「かるたとり」の雰囲気とは異質で、百人一首の和歌の持つ雅の世界とは乖離してしまっていて、オリンピック競技の歪曲したメダル争いではないかと言われます。

 これを“競争相手を蹴落としてトップになる…アメリカンドリーム”の世界であると嘆いておられます。スポーツだけではありません、現代は全て競争の時代ですねぇ! 人の優しさ、ワビとサビ、ゆとりの心(授業内容を削減して“ゆとり教育”と言う時代ですから…)などはどこかへ置き忘れてしまっているのでしょうね。自分を磨く“学問”でさえも、他人との競争が目的になっているような気さえしてくるのです。「かるた」だけでなく、スポーツ等も、他人を思いやり、和やかにプレイを楽しみたいものだ。

 “勝者の喜びの裏には敗者の悲しみがあり…、(アメリカが)テロ行為を生じさせた自分の行為に一顧の反省もなく、己の「正義」だけを声高に叫んでも、憎悪と憎悪の対決を強めるだけだろう…。他者を蹴落として生きることを考えるよりも、他者と並んで生きることを! それが雅の世界というものだろう。”と結んである。( Jan. 16. 2002 )


 ワークシェアリング制度を富士通が導入すると新聞にありました。業績が不振で変動が大きい半導体事業で、従業員の労働時間を大幅に短縮して、固定費を削減するのが狙いのようですね。

 ワークシェアリングと言うのは“仕事の分かち合い”と言う意味で、従業員一人当りの労働時間を減らして、その分、雇用を増やしたり、維持したりする仕組みで、ヨーロッパにおいて、二度の石油危機で失業率が上昇した際に発達した制度のようですね。(「ワークシェアリング」 根本 孝著 ビジネス社 近日刊参照)不況で困っている現在の日本では、リストラの名目で人件費削減を目的として、従業員の大量解雇を行っていますが、これでは、不況の中で益々失業者が増加し、更なる不況に陥る危険性があります。

 度々言うようですが、コスト引き下げのための人件費の削減策として従業員減らしを行えば、失業者が増加し、それに伴って購買力も低下し、更なるコスト引き下げや安売りに至り、デフレと不況が止まらなくなってしまいます。まして、社員を減らし、賃金の低いパートや臨時従業員、更には、人件費の安い発展途上国への生産移行が増加して、産業の空洞化が起こり、産業構造による不況が一層深刻になるでしょう。

 ワークシェアリングの狙いはそこにあると思います。人件費の削減を、人減らしではなく、仕事を分け合うことによって一人一人の労働時間を短くして、労働単価を引き下げ(もちろん一人当りの給与を引き下げることになりますが)雇用を確保し、雇用不安を無くして不況を脱出しようとする一つの手段でもあると考えます。
全ての企業に適用できるかどうかわかりませんが、労働者の生活を安定させて、購買力を維持し、不況に対応して行こうと言う点では効果的なシステムではないでしょうか?

 いずれにしても、目先だけの利益に拘って、長期戦略を疎かにして不況を招いた、無能経営者の犠牲にされるサラリーマン戦士諸氏が、少なくとも毎日の生活不安が解消されるならば、多少の給料の低下はガマンして、時間短縮された部分を、自己の研修なり、子育てや家庭サービス、あるいはボランティア活動などで、別な意味での生活の向上ともなれば幸いではありませんか。この際、経営者は経営者たるべく、自己の研鑚に励んで技術立国日本を建て直してほしいものですね。( Jan. 14. 2002 )


 狂牛病の問題は後を引いていますねぇ。農水省の責任問題はどうなっているのか、未だにハッキリしていません。“農水省には責任は無いッ!”と言うことなのでしょうか?

 日経新聞の「春秋」欄によれば、農水省の事実上の責任者であると思われる畜産部長と事務次官の退任について、武部農水大臣は“引責辞任ではない。それゆえ事務次官の退職金8,874万円(何と言う高額ッ!、私なんか42年間勤めて、退職金が、たったの1千数百万円なんだぞ!/当たり前だ。学歴も能力も違うんだよッ!/しかし〜、模範社員だったんだけどなぁ)に付いては減額の考えは無い”と言うことで、大臣自身も辞すべき責任は無い(全ては牛が悪いんだってか?)との見解らしい。

 書経によれば「過ちを宥(ゆる)すに大とすることなく、故を刑するに小とするなし」とある。即ち“過失は大きくとも寛大に、故意の罪は小さくとも厳しく”と言う。政治家や官僚には通用しないことなんですねぇ!

 話は違いますが、区画整理で我が家は強制立退きになりました。代替地へ新しく立て替えすることになり、建物補償費用が新築見積り額をはるかに下回る為、補償費用の増額を要求したところ、
“現在住んでいる家屋の査定額は、築30年のため妥当な補償額であり、それ以上は出せない(中古の住宅を建てろと言うことか?)”そして“立ち退いた後の建物の取り壊し及び更地にする費用は、その補償費用で賄うこと”と言うのです。

更に、代替地は埋立地の為、ハウスメーカーに地盤調査を依頼したところ、地盤がゆるくて地盤改良しなければ、地盤沈下等の可能性があり、建築できないと言う。そこで、東海地震でうるさくなった“大規模地震対策特別措置法”の発令もあり、地盤改良費(80万円)を要求したところ、
“現在の住宅では地盤改良が必要無かったのだから、新築でも補償の対象にはならない”(何故?)とのご託宣です。

 それだけではありません。
“補償費用は、補償締結後30日以内に補償費用の30%を支払い、後の70%は新築移転後、旧住宅を取り壊し、敷地を更地にしたことを確認した後30日以内に支払う”とのことなんです。それじゃあ、新築の費用はどうすりゃいいんですか? 最初に支払われる補償費用の一部の30%で建てろと言うんでしょうか? 私のような年金生活者は、最高770万円しか貸してはくれませんでした。物置小屋を建てるのではないのです。

 いくら交渉しても埒があきません! でも、言うことがいいではないか、“貴方の納得のいく補償条件で締結しましょう”
納得のいく条件を提示しているのに、それを拒否して、何が納得のいく条件でしょうか? バカバカしくて話になりません。既に契約金を払ってあるハウスメーカーとの契約不履行になると大変なので、仕方無く、何とか1,000万円程の繋ぎ資金を工面することにして、補償交渉を締結しました。

 ところが、話はおしまいではありません。地鎮祭を終えて、いざ建物の建設を始めようとしたら、県の建築許可が下りません。区画整理中(当たり前ッ!)なので“道路が完成しておらず、建築許可は出せない”のだと言うのです。道路は完成(舗装?)してはおりませんが、無論、道路はできています。(道路が無ければ建築できませんよ!)県の担当者が見にくれば、一目瞭然です。
一体、区画整理事業とは何なんでしょうか? 立ち退けと言っておきながら、代替地に建築許可が出ないんでは、どうすりゃいいの? これで、ハウスメーカーから契約不履行とでも言われて、違約金を請求されたら、どうすりゃいいの?

 これがお役所仕事の実態です。立ち退きに反対している人達の気持ちが痛いほど良く解りました。立ち退きたくても、立ち退けないのですよ。お役人はね、真面目に仕事をしていないんですよ! 心がこもっていないんですよ! 相手の都合など、どうだって良いのですよ! 仕事をやっているような格好をしていれば良いのですよ! 計画が遅れようが、住民が迷惑しようが、お構いなし、それがお役所仕事なのです! 責任感などありゃしないんですよ! 農水省のお役人や大臣が無責任なのが良く解るでしょう? 正に、“行政改革”が緊急性を要するのです! ( Jan. 12. 2002 )


 やっとお正月気分からぬけて、落ち着いた気分で穏やかな日曜日のテレビ番組を見ています。テレビ番組にも、やっと赤いマーカーが多くなりました。(朝一番に、今日の価値ある?視聴番組や新聞の記事にマーカーをつけるのを日課にしています)そして、日経新聞の記事も、今日は読み応えある記事が満載で、赤のマーカーで囲むのに忙しくなりました。

 NHKの新日曜美術館で「シャガールとベラ・愛の軌跡」を見ました。

 シャガールと言えば、宙に浮かんでふわふわと飛ぶ、ヒヨロヒョロした感じの恋人同志の姿ではないでしょうか? ただ、とても特徴のある印象の強いタッチに惹かれていただけでしたが、今日の解説で、最愛の妻・ベラとシャガールの愛の強さが、それらの絵の魅力であることが良く分かりました。二人の愛の全てがシャガールのキャンバスに描かれたものであり、シャガールの絵は、絵というよりは物語りで、見る人に語りかけているのです。だから、彼の絵の独特の魅力は、ベラとの愛の物語であったのです。

 続いては、何時も見ている田原総一郎が魅力のテレビ朝日「サンデープロジェクト」。

 長く低迷している不景気に対する今年の予測と対策を討論する。今年もいまだ明るい材料は無いと言う。しかし、その中でガンバる超技術を売り物にして業績をあげている中小企業の取材が紹介される。

 継ぎ目の無いセーターなどのニット編み機で世界を席巻する島野。実物に限りなく近い模型を送り出す模型のタミヤ。6人で年商六億の岡野工業は、深絞りのプレス技術で大企業から開発を引き受けて、製造するための機械や治工具だけでなく使用する油までも付けて、システムで販売する。開発依頼は後を絶たない。

 それらの企業に共通することは、安い部品を作る下請けではない。技術開発と世界一の品質にこだわるオーナー経営者でもある。また、出来ないことに挑戦して開発費を惜しまない。
「サラリーマンでは出来ないでしょうね。出来ないことに金はつぎ込まないからね」と言う言葉が印象的でした。そして「経営不振を不景気のせいにしたくない」とも言う。困難な技術に挑戦する姿勢と、どこにも負けないこだわりの品質を作り出すことで、安く売ることではなく、高くても売れる物をつくることであると言う。

 なるほど、至極当たり前のことであるが、今時の日本企業のように、社員を減らし、物作りをやめて人件費の安い海外生産へと、産業構造の空洞化に拍車を掛ける大企業の無能サラリーマン経営者への忠告ではあるまいか? 産業の不況は、努力を惜しんだ企業自身が作り出しているのだ!( Jan. 6. 2002 )


 昨日は予想外の大雪が東海地方や中部、近畿地方までも覆って、ユーターン・ラッシュの混乱に拍車を掛けたようですね。

 多少の雪は、お正月らしく景色を彩って風情がありますが、近代的な交通機関も雪には弱いですねぇ。鉄道も道路も全て地下に潜ったほうが良いのではないかと言いたくなってしまいます。航空機はロケット型にして垂直離着陸にすれば、地下のターミナルへ入いることで解決されますしね。ついでに、都市も全て地下空間に作れば、雪や雨風による災害も避けられるのではないかと、無責任な空想をめぐらせています。

 そうすれば、地下では温度が一定なので冷暖房もいりませんし、地上は全て農地や牧場や公園にして利用すれば、どこかの干拓事業での環境破壊問題も無くなり、バンバンザイ! とはなりませんか?(じゃあ、洗濯物やフトンはどこで干すの?/いやあ、そんなことまでは考えてなかった!)( Jan. 4. 2002 )


 明けましておめでとう御座います!

 おだやかなお正月になりました。今、恒例の箱根駅伝をテレビ観戦していますが、花の2区で、何と! トップ集団を引っ張っていた期待の法政大学の徳本がまさかのダウン! ついに監督が涙のブレーク!! 残念ながらタスキをつなぐことは出来ませんでした。

 徳本は、練習中にアキレス腱に異常を感じていて多少の心配はあったそうですが、実力のある選手だったために心配をおして2区の重責を全うしようとしましたが、将来のある選手ですので続走を断念したようです。本人は足を引きずってでも繋ぎたかったようですが…。レースには思いがけないドラマがつきものですねぇ! どうぞお大事に!

 毎年応援している早稲田大学ですが、今年は予選会から上がってきても予想外に調子良く、3区でトップに立っています。久しぶりに上位を維持できるでしょうか? あとは箱根の登り下りがカギとなるでしょう。頑張って下さい!!

 昨年は、連続テロに始まる混乱とアフガン問題や、不審船問題などで不穏な年でしたから、今年こそは、平和で良い年になってもらいたいですね。
貴方にもきっと良いことが訪れますように! 加えて、貴方とご家族のご健康とお幸せをお祈りしています。今年も tommyのホームページをよろしくお願い申し上げます。( Jan. 2. 2002 )


私がホームページを作った目的

 私の言っていることが正しいかどうかはともかく、自分のご都合主義ではなく、日本の将来のために、自分たちの子孫のために(ちょっとオーバーかな?)自分の意見を主張し、行動することが大切だと思ったんですよ。(頭の老化を防ぐためにもね)
 今まで自分を育ててくれた諸先輩および社会に対して、残された自分の人生の時間をこのために使おうと考えたんですよ。
 インターネット・ディベート、これが実現できれば最高です。どうか貴方自身が私の考え方を批判したり、周りの人たちと討論して下さることを願っています。


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