「宗教」tommyのつぶやき2000以前

 法華経の世界、“自分を見る、人間を見る”NHKの「こころの時代」で、叡山学院院長の堀沢祖門さんのお話しを聴きました。法華経の“空観(くうがん)”、“仮観(けがん)”、“中観(ちゅうがん)”は、物の見方であり、“空観”とはこの世に目に見える物には実体は無く、般若心経にある“色即是空”、“色”とは目に見える物で、これらは仮の姿であって全て“空”、何も無いものと同じであり、“仮観”とは、“空即是色”、“空”何も無いところにも“色”、実体は生じるのである。即ち“色”も“空”も同じで、実は何も無い物である。“中観”と言うのは、“色”にも“空”にも拘らない考え、思いのことだそうです。

 ここで何故“色”が“空”で、“空”も“色”なのかと言うことですが、これは宇宙の成り立ちから考えなければなりません。仏教哲学というのは、私達も宇宙の一物であると言う考え方で、逆に私達が宇宙であると言う考え方に通じるのかもしれません。既にお話ししたことがありますが、宇宙空間は何も無い真空の世界ではなくて、極めて小さい認識できないほどのエネルギー粒子で満たされていると言う考え方なのです。即ち、私達の身体は分子の集合体であることが分かっていますが、分子を更に細かく分解すると原子となって、更に細かく分解すると陽子と電子となり、いくら細かくして行っても際限がありません。最後には宇宙空間を満たしているエネルギー粒子に到達します。そしてそれらは、常に揺れ動き変化していて、同じ状態(静止)は一時として無いのです。

 何も無いはずの宇宙空間から、星が生まれ、地球と言う惑星が生まれ、惑星からあらゆる生物が生じるのですから、“色”即ち目に見える物は全て、“空”即ち目に見えない物から生じているわけで、“色”がバラバラになって、また“空”に戻るわけなのです。だから“仏”と言うのは宇宙そのものを言っているのではないかと思いますし、私達自身が宇宙と言う考えに立てば、自分自身が“仏”その物なわけですね。
 堀沢師によると、それを知る方法が座禅であり、呼吸法であり、修行になるわけで、仏に至る道を菩薩道と言い、仏の心を知るために修行している者を菩薩と言うのだそうです。座禅の呼吸法は、姿勢を正しくして頭頂から尾底骨に向かって静かに息を吐いて行きます。吐ききったら、今度は尾底骨から頭頂に向かって息を吸込んで行きます。実際には、尾底骨よりもっともっと低い宇宙の深遠から吸い込んで、頭頂を過ぎてずっとずっと遥か彼方の宇宙の果てまで意識して吸い上げて行くと言います。これを称して“ロケット呼吸法”と名付けられたそうです。

 こうなると「般若心経」そのものを知らなければなりませんが、「般若心経」についてはいろいろな解説本が出ていますから、詳しくはそれらに譲るとして、般若心経は、三蔵法師玄奘がインドから持ち帰ったサンスクリットの経典を漢字で音訳した物だそうですが、
“そもそも般若心経と申す御経は、文字の数わずか二百六十余文字なれど、釈迦御一代の経、即ち天台経、毘盧舎那経、阿含経、華厳経方等。般若、法華経等、一切七千余巻より選び出だされたる御経なれば…、声高々と読み上げれば…我らの所願を成就せしめ給う”とあります。

 「般若心経」は、私の父が朝に夕に仏壇に奉唱していたもので、何時の間にか私の心の中に入り込んで現在に至り、奇しくもこのコンテンツで取り上げることに成ったのです。残された使い古しの経典が手元にあって、父が健在時の神棚や厨子に毎朝手を合わせますが、何とも不思議な因縁だと感じています。この「般若心経」の冊子は昭和12年8月15日に京都で発行されている物で、訓読で併記されているように、経文は、釈迦がその高弟シャリープトラ(舎利子と訳す)への説教ですが、やはりそれだけでは語句は難解で、参考文献に有るような解説本を参照しなければなりません。
 いずれにしても「般若心経」は宇宙の原理に基づき、人の道を説いたものに違いありません。堀沢祖門師もおっしゃるように、この心(貴方も私も同一のもの、生きとし生けるもの全てが同一)に到達すれば、自分だけを主張することも無く、金や物にも執着が起こらず、飢餓や争いも無く、環境破壊も起こらない究極の安らぎの世界が広がるのではないでしょうか? ( Dec. 20. 2000 )


 “人を殺しては何故いけないのか?”先日のテレビ番組で話題になりましたね。貴方はこれにどんな答えを用意しますか? これはまた“何故学校へ行かなければならないのか?”と言う問いにも共通しています。何故このような質問が発せられるのかを考えなければなりませんが、これについては、日経新聞の文化欄「今を読み解く」で千葉大学の永井教授が考えを述べられています。

 一言で言えば、人間社会の規範に反するからであって、その規範は、社会秩序を保つ上で必要だと考えて決められたものだからです。しかし、今、何故そのような問いが発せられるかについては、それだけではこの疑問には答えられません。それについて、永井教授は「問題はエゴイズムの次元からニヒリズムの次元へと移行する。ニーチェが100年後のニヒリズムの到来を予言し、それが的中した」と言うのです。

 この問いは、明らかに哲学的な問題であり、宗教的な問題も含まれている。即ち「この世の中に起こる事実には善も悪も無い、実存だけであって、善悪は人間の都合によって定めたルールによって判断される。」
これは、ご存知のように「神との対話」で、ニール・ドナルド・ウオルシュの問いに対して“神”が語ることばで「もしも、判断するとしたら、それは“愛”という名において許せるかどうか」であろう。

 現代人の心に“愛”が失われ、哲学や宗教心のない、芯の無い人間が満ち溢れてきたという証拠だろうか? これを教育の問題として解決を求めても難しいことに違いない。
 この問題は、貧しさから脱するために“物”と“金”、“地位と名誉”を得ることが最大の幸せであると、バブル社会を築き上げてきたツケなのではないだろうか? (物質的に)貧しい社会ほど、心が豊かで(精神的に)幸せであることは、たびたびルポルタージュで登場する原住民の、“神”に感謝する日々の生活が物語っているように思います。
 「人は生きているのではなく、生かされている」のであって、あらゆるものに支えられてはじめて生きることができるのですねぇ。( Dec. 10. 2000 )


 日経サイエンスの2001/1月号では、「幕開ける脳科学の世紀」を特集しています。既に20世紀の後半では脳の機能についての研究がかなり進んできた。しかし、「心」や「意識」についての研究は、いまだ明らかにされてはいない。それは、“人とは何か?”という問いに答えることが甚だ容易でないことを意味する。即ち、人と動物との違いが、「心」や「意識」にあるのではないかと思われ、更には「無意識」が人間の活動に重要な役割を果たしているらしいのである。これらを研究するにおいて、動物実験では決して予測し得ないことのようである。

 21世紀は、この難しい命題に取り組み、認知脳科学の研究によって「人とは何か?」、人を動かしているもの、人の行動について「心」と「意識」や「無意識」がどう関わっているのかを明かにしようとしているのである。このことは、「脳」を研究することによって、果たして「心」の存在が証明されるのであろうか? この「心」の問題を「脳」レベルで解く学問分野を特に「認知脳科学」と言うのだそうである。本格的な「脳」の研究が始まったのは、たかだか10年位前からだと言うから、「心」についての研究は始まったばかりだ。

 人型ロボットも出現してきた昨今では、人の認識と行動について「脳」との関わりを解明することがどうしても必要になってくる。“鉄腕アトム”の世界が、満更マンガだと言って済まされない時代が来るのかも知れない。
 東洋では、昔から経験的に、人を動かす「気」の存在を重要視しており、「意識」と「無意識」、「心」と「身体」は一体のものであるとして、それが一体で無いと「気」を「病む」、即ち“病気に成る”としている。東洋のこの思想が果たして科学で証明できる時が来るのであろうか?( Dec. 9. 2000 )


 「身体意識」(高岡英夫主宰 ディレクト・システム社発行)の第30号が届きました。既に以前説明しましたが、高岡英夫氏は、運動の極意を人の意識にあるとして、氏独自の理論を駆使して、若者の指導に当っておられる。私も氏の理論に強く引かれていて、指導を受ける機会を覗っているのです。

 “身体意識”とは、「身体は意識の濃い部分と薄い部分が構造を織りなしている。手は足より、胸は背より手のひらは甲より、体表面は体内より、筋肉は骨より、胃は肝臓より意識が濃い。こうした身体意識の構造は、1.脳神経 2.内臓 3.筋肉 4.血流 5.ホルモン 6.心理 7.気の状態等を支配している。例えば下腹部に濃い意識があると、腹式呼吸となり、気が強化され、精神が深く安定するのである。この身体意識の構造と機能をディレクト・システム(DS)、その構成部分をディレクターという」と説明されています。

 高岡英夫氏の主催する練成講座は色々ありますが、21世紀の初頭に開催される講座に、“高岡英夫を読む”講座が1年間にわたって実施されます。氏の多くの著書について、自ら解説を行い、文字で表せない部分は実技で示されます。氏の言葉にあるように、
「本に書いていることは、自分で考えてることの、ほんの一部ですよ。自分自身の身体運動について言うと、本当に感覚的って言うか、やる気になるとできちゃう人なんですよ。潜在意識下の認識作用が強いんでしょうね。だから、本とかそういう形で自己表現しても、部分になりがちなんです。…というわけで、本を書いた上で、やはり自分の身を晒して実技をやりながら、みんなにもやってもらうことが必要なんですね…。」というわけで、初めて公開される貴重な講座なのです。東京で開催される12回(毎月1回)の受講料が、36000円と割安です。詳しくは、DS社(Tel.03-3816-1591)に問い合わせて下さい。

 この“身体意識”第30号には、高岡氏との対話形式のフリートークや市井の達人、バイオリン製作者美山勇二さん(78才)のルポ、松井浩の極意探求、往年のレスリングの金メダリスト笹原正三氏(現JOC副会長)とのインタビューなど有益な記事が盛沢山です。それを無料で送付して頂いています。これだけでも“意識”と“気”の勉強になります。内容の全てをご紹介できませんが、興味のある方は、上記のDS社にお尋ね下さい。( Dec. 3. 2000 )


 日経新聞の「交遊抄」欄で、ハンズマン社長の大薗氏が般若心経の“不生不滅”を座右の銘としておられることについて述べられている。28才で父を亡くし、家業を継ぐことについて悩み、従業員やその家族の生活を支える自信が無く、迷っている時に力と勇気を与えてくれた言葉、それが“不生不滅”であり、“人は自ら生きるのではなく、生かされている”と言う仏教の教えであると言われる。
 40才で「写経で心の糧を見つける会」を作って、毎月13日の夕べに集まり、2時間、無心に般若心経を書き写すのだと言う。

 ともすると、自分一人で生きていると言う“利己的”な我欲中心の人間の多い現代で、他人の為に生き、他人のために力を尽くすのが人の道であることが忘れられていて、自分を支えていてくれている周囲の善意を感じ取れない人間が増え、“有難う”と言う感謝の言葉や“ごめんなさい”と言う素直に謝る言葉が死語になってしまっているのではないかと思える今日この頃である。  60を越えても金と物の欲から脱せられず、60の齢(よわい)が単に時間の経過だけに過ぎないで、“色即是空、空即是色”、人生の意義を見つけられないのは、計算の裏付けが無いと信じることが出来ない、科学中心の生活にどっぷり浸った現代人の哀れさであろうか?

 先月、尊敬していた入社当時の社長の春木さんが101才の天寿を全うされ、今日、本社工場で顕花の議が行われました。柔和で今にも話しかけられそうなご遺影に、“坊ちゃん! お嬢ちゃん! ボーナスは無駄使いせず、貯金するのですよ!”と言う声が、今にも聞こえそうに思いました。新入社員だった私達に、自分の子供のように、壇上から身を乗り出して話しかけられた面影は、生涯忘れられません。

 企業の本分は、社会に貢献することだと説かれました。現代には数少ない経営者ではなかったかと、そのような社長の下で働けたことに誇りを感じています。ご冥福を心からお祈り申し上げます。( Nov. 22. 2000 )


 カルチャースクール“気と健康法”の2回目に参加しました。
今回は、意識が身体に如何に大きな影響を与えるかを体験しました。頭では理解していても、実際にどんなに影響するかは体験しないとわからないものです。
まず私が自然体で立ちます。自然体とは、前回説明したように、意識を臍下の一点に置き、全身をリラックスして、やや肩幅位に開いた両足のつま先に、意識を集中して立つのです。この時に立っている身体をどこから押しても、動かすことは出来ません。

 次に、立っている私の横と後ろに、別の人が立ちます。すると私の身体は、軽く押すだけで容易に動いてしまいました。これは私の意識が、横に立った人と、後ろに立った人に左右されて、今まで集中していた臍下の一点と両足のつま先から離れてしまっているのです。一所懸命意識を集中しようとしますが、どうしても意識がそばに立った人に影響されてしまいます。その人達が去れば、むろん意識は集中され、自然体に戻って動かされなくなります。まったく不思議なものですねぇ!
 もちろん、すこし訓練すれば、周囲の状況にとらわれることなく意識を集中できるようになります。これが心身統一なのです。

 前回頼んでおいた、藤平光一氏の「ワンネスリズム気の健康体操」のビデオを入手しました。この体操を毎日行えば、いつも気が出る健康体になれるわけです。さっそく「ワンネスリズム体操」をやりました。貴方も如何ですか? ( Nov. 12. 2000 )


 日経サイエンスの12月号に「宇宙の見えざる次元」と題して、私達の宇宙が四次元(空間の三次元+時間)よりももっと高次元の時空に浮かんでいるのではないかという考え方が、新しい宇宙論として解説されています。従来のニュートン力学における重力について、重力が、何故ほかの全ての力に比べ弱い(全質量がつくる万有引力に抗して、ちっぽけな磁石でさえ容易に釘を持ち上げられる)のかが説明できていないのだそうです。いわゆる粒子間引力の電気的な力と重力が等しくなる場合に、電子の質量は今より10の12乗倍も重くなければならないのだそうですが、実際にはそんな重い粒子は見つけられていません。

 ひょつとすると、私達の宇宙は、私達の住む四次元よりも上の次元の上に貼り付いた膜のような空間の中に閉じ込められているのではないかと考えられているのです。それによって、重力と電磁気力の統一理論が成り立つとのアイディアがかなり以前に提唱されているらしいのです。電磁気力や磁力線はより高次元の世界には広がらず、重力の力線だけがより高次元の空間まで広がることが出来、それによって重力の問題が証明されると言うらしいのですが、素人の私達には、なかなか理解困難な理論ですね。

 しかし同時に、
時間の概念も、今までの理論を超える考え方も出来るのではないかと、また新しい興味が湧いてきました。2010年までに、その答えが明らかになるという予測があるようですから、少なくとも、あと10年は何としてでも元気でがんばらなければなりませんねぇ! ( Oct. 29. 2000 )


 能の世界。これは心と精神の世界ではないでしょうか?
知人に勧められて、渋谷の観世能楽堂へ初めて「能」の鑑賞に行ってきました。なかなか立派な能の舞台です。能の舞台と言えば、テレビで見るか、名所、旧跡の神社仏閣めぐりなどで野外の舞台を見るくらいで、建物の中に有る能舞台は始めて見るものです。
 出し物は、仕舞が3本「田村」、「西行櫻」、「氷室」で、これは地謡で舞うわけですが、動きの少ない舞に、文句のよく聞き取れない謡なので、良いのか悪いのかさっぱり解りません。ひとつ解ることは、足の運びと体の動きが、何とも言えず見る人を圧倒します。

 次に、狂言「佐渡狐」があって、これは言葉も分かり易く、動きも大きいので楽しく見ることが出来ました。
物語は、佐渡と越後のお百姓が年貢を納めに代官の所へ行く道筋で一緒になり、越後のお百姓が「佐渡には狐がいないだろう」と言うのに、「いやいや佐渡には狐も沢山いる」と佐渡のお百姓が言ってしまいます。それでは賭けをして、その判定を代官に頼もうと言うことになりますが、狐を見たことの無い佐渡のお百姓は困って、代官に袖の下(賄賂)を渡し、狐の姿形を教えてもらいます。いよいよ、代官の前で越後のお百姓が、狐がどんなものかを佐渡のお百姓に問いただします。佐渡のお百姓は、代官から教わった通りに答えて、まんまと賭けに勝ちますが、帰り際に、
「そうそう今一つ聞き忘れたことがある。一体狐の鳴き声は何と?」
代官から、鳴き声までは聞いていなかった佐渡のお百姓は、答えに詰まってついに降参してしまいます。

 最後に「乱(みだれ)」と言う能が演じられます。これは、親孝行の男、“高風”が夢のお告げにより、酒売りとなって豊かになりますが、或る日、いくら飲んでも顔色が変わらない客に出会い、名前を聞くと、海中に住む“猩々”だと言います。或る夜、銘酒を携えて揚子江の辺で待つと、猩々が現れて、酒を飲み、舞い戯れ、果ては、酒の湧き出る壷を高風に授ける。と言う物語ですが、これは、猩々が酔って舞う仕草です。金襴のきらびやかな衣装に、細面の女性の面をつけた“猩々”が巧みに舞い踊ります。能の形で酔って舞う姿を表しますが、極めて難しい動きを演じています。

 この動きを見て、正に「気」と言うものを感じました。すり足、肩を上下させないで転回したり、足を上げて片足立ちをしたりしますが、リラックスして臍下丹田に意識を落して、重心を安定させないと形が崩れ、身体が揺れてしまいます。やや膝を曲げ腰を落してすり足で進む様は、呼吸法や気功で習う自然体の姿でしょうか? 少し異なるのは、自然体のように足を開かず、両足を寄せているのが能の基本のようです。足を寄せている分、自然体より更に難しく、修練のいることでしょう。
 そればかりでなく、鼓を打つ人も大変です。長い時間、ピンと張った掛け声と共に、鼓を響かせますが、声が涸れるのではないかと心配しました。これも厳しい修練の賜物でしょうか。それに舞台にはマイクはありませんから、響き通る声はすばらしいと感じました。

 詩吟や謡曲でも同じですが、腹から声を出せるようになるまでには、10年や20年はかかるのでしょうね。それと同じように「能」の良さが解るようになるまでには、同じくらい年数が掛かるのかも知れません。
以前、NHKテレビで「能に秘められた人格・最新科学が解き明かす心の世界」を見たこともありますが、大変勉強になりました。( Oct. 26. 2000 )


 シドニー・パラリンピックで両足と左手麻痺の重度障害(S4クラス)の成田真由美さんが、個人メドレー150mに世界新で金メダルを獲得したそうですね。

 おめでとう!と言うより、世界新で良かったね!!と言う方が良いほど、記録に挑戦している成田さんなのです。前回のアトランタでは、金メダル2個、銀メダル2個、そしてメドレーが銅メダルでした。今回のシドニーでは、更に記録を更新して、50mと100m自由形で世界新を目指しているのだそうです。

 先日、NHKの「にんげんゆうゆう“再起へのクロール”」で、成田真由美さんについて知りました。
 中学生になった時、脊髄炎で両足麻痺となり、その苦しみをはねのけ、23才の時にプールへ入ってみて、動かない重い足がプールで自由になった喜びが水泳に向かうきっかけになったのだそうです。そして、その1ヶ月後の大会で2種目を大会新記録で優勝したのです。ところがその喜びの帰り道に、追突事故に遭って意識不明となって、病院で気がついたら手に麻痺が残り愕然としたのだそうです。それでも水泳を続けアトランタを目指します。

 最近また、子宮筋腫が発見され手術したそうですが、シドニーがあるため、退院して2日後からもうプールで練習していたそうです。子宮筋腫の手術を受けたことによって、生きている喜びを心から感謝したと言います。それによって今までの青春の時間を取り戻したいと言う思いのひたむきな水泳から、泳げることを素直に喜ぶことができるようになり、穏やかな気持ちで人としての原点に戻れたと言います。正に菩薩の心でしょうか?

 それに比べ、手も足も異常の無い私は泳ぎも好きですが、成田さんの様には泳げませんし、水泳の選手でないから当然などと、勝手な理屈をつけて自分を慰めていますが、成田さんを見ていると、人の能力には不可能は無いと思えてきます。不可能なのは、自分自身の意識が不可能と言う原因を作っているのではないかと思えてきました。
 よしッ、決めたぞ! 5kmのジョギングの自己新記録の挑戦は続けるぞ!(バカか!たかだか駆け足じゃないか! それに目標タイムも、たかだか26分じゃないか?/いやいや、当人にとっては世界新に匹敵するのだゾ!/勝手にしろッ!!)

 いずれにしろ、人間の素晴らしさを教えてくれた成田真由美さんに、心から有難うと言いたい。そして、素晴らしい記録おめでとう! 最後の50mの追い込みと引き離しは素晴らしかったね!( Oct. 21. 2000 )


 「自閉症の世界」、私には、自閉症と言うのは、登校拒否や不登校児童の原因になる性格だと思っていました。NHKテレビの「にんげんゆうゆう ようこそ自閉の世界へ」を見た私の驚きは、言葉では言い表せません。
 私と自閉症である彼らと、どちらが人間らしいのか? 考えるとは何なのか? 常識とは何なのか? と言う疑問が次々と湧いてきました。人間とは? 私とは? 生命とは一体何なのか? これは正に人の生というものを原点から問いただす問題のように思えました。

 自閉症の原因(?)である説明では、脳の中の感覚を司る一部に、私達普通(?)の人達と異なっている(欠落している?)部分があるようです。そのため、私達は論理的に考える事が出来たり、物事を関連付けて連続的に意識したり、想像したり(期待したり)することが出来たりしますが、自閉症と呼ばれる人達には、三次元的な思考は出来なくて、連続的な変化に対して対応できないのだそうです。
 一般に、私達は相手が何を言いたいか、何を期待しているかは、前後の状況や、相手の表情の変化などで容易に推測できますが、彼らはそれを過去の経験のパターンでしか判断できないと言います。だから通常、自分の考えや行動が全て優先します。私達から見れば、自分勝手な我侭な行動に見えますし、その行動を我々の常識(?)からは理解不能なのです。

 しかし、よく考えて見てみると、果たして私達が正常で、彼らが異常であるとはとても言えないのです。彼らには、大学教授や作家など、私達が想像しているよりも遥かに能力の高い人達が多くいますし、世界中では自閉症の人達のサークルも組織されています。
冷静に考えて見ると、地球上では彼らは単なる少数派であって、私達が多数派のため標準となっているに過ぎないのではないのでしょうか? 一体正常な脳の働きとは何なんでしょうか? 脳が思考しているのでしょうか? 意識と身体との関係は何なのでしょうか? 私の身体と言っていますが、私と言うのは誰なのでしょうか? 

 自閉症の世界を知って、初めて自分と言うものに大きな疑問を突きつけられました。今まで、私達は地球上の全ての人達を考えないで、多数派として自分達中心の利己的な社会を作ってきたのではないかと危惧しています。( Oct. 10. 2000 )


 NHKテレビの2回にわたるETV2000「破滅の20世紀」を見ました。これは、ベラルーシのドキュメンタリー作家、スベトラーナ・アレクシェーヴィッチさんと在日韓国人を標榜する徐 京植(ソ・キョンシク)さんの対談を通して、人間の内面にある非人間的な恐ろしさを語っています。

 アレクシェーヴィッチさんは、旧ソ連の内情について、これまでに起こったこと、今起こっていること、これまで語られなかった事実について証言することが、自分の使命だと考えられています。これを“未来へのフライトレコーダ”だと表現されています。
 例えば、チェルノブイリ原発事故で亡くなった消防士の妻の出産した子供が、放射能に侵されて障害を持って生まれてきます。事故を知らない子供が、事故の後遺症を引きずりながら“怖いです、でも僕には分かっています。たくましく生きていかなければならないのです。どこにも隠れることはできません”と健気に語ります。戦争や原子力事故の恐ろしさは、語ることは出来ても、私達生きている者には、本当の証言は出来ないもどかしさがあります。

 真実を正しく認識する難しさについて

   @ 国家主義や官僚主義に、人間の感情が横領(体制に組込み)される危険性。
   A 商業主義(プロパガンダ)に利用される危険性
     自分を安全地帯に置いての、犠牲者への共感、ものめずらしさ、同情。
     戦争報道をゲーム感覚で見て、平気で食事をする感覚。
   B 全体主義での責任回避。
     直接手を下して殺人を犯しながら、責任は上層部に転嫁する。

 人としての倫理の限界とはどこなのか? なぜ原爆は悪くて、原発は良いのか? チェルノブイリの事故では、放射能汚染の為に500以上の村が強制退去させられた。戦争と異なり、臭いも無く、姿も見えず、音も無い殺人鬼であり、チェルノブイリの雲は、四日もあればアフリカや中国にも届き、遠くとか近くとか言う概念はなくなってしまう恐ろしさ。

 人間は過去の過ちを反省することなく忘却して、また過ちを繰り返し、少しも進歩していない。人間の忘却を阻止する為に、真実を証言し、事実を刻んで残していかなければならないのだろうか?( Sept. 28. 2000 )


 再度、ジョギングの記録に挑戦してみました。9月9日以来練習無しでいきなり走ってみることにしました。まだ日の出前なので、9月とは言っても肌寒く、やっぱり長袖シャツに着替えて走ることにしました。昨晩は、沢山ご飯を食べたので体重が増えていて、少し厳しいかな?とも思いましたが、意識と「気」でカバーしましょう。
 田圃道のタイムが“8分11秒”ときました。これなら絶対に記録が出ると確信しました。山坂道でダウンしなければ大丈夫なはずです。しかし、さすがに範茂公園への急坂はペースが落ちてしまいました。しかし、公園入り口ではまだ可能性が十分なタイムで入りました。意識は26分近くを目指します。ミカン畑の往復は苦しいながらも、まずまずです。やっとゴールが見えてきました。最後の100mが勝負です。

 ゴールです。タイムは? やりました!! “26分18秒12”です! 約5秒短縮しました。
これで26分を切ることも、まんざら夢でもないような気がしてきました。よかった、良かった!( Sept. 21. 2000 )


 “「気」と健康法”のカルチャースクールで、自然体を体得(?)したつもりなので、さっそくジョギングで試してみました。先ずは、臍下の一点を常に意識をして脚の指に体重をかける、やや前傾姿勢で踵には体重をかけない、と言う事でしたね。これで、いきなり自分のベスト記録“26分25秒”の更新を狙います。6月以来走っていませんから、ちょっと無茶なようにも思えますが、「気」で走るのは、意識が自分を前に引っ張っていく事なので、どうと言う事もありません。

 第1日は、調子を見るため、前半1.8Kmの田圃道だけでタイムを計測してみました。8分24秒位です。通常は8分30秒を超えてしまいますから、まあ、これ位なら、後半3.2Kmの山坂道を調子良く走れれば、まんざら記録更新も不可能ではないでしょう。次の日も、同じように1.8Kmだけ走ってみましたが、期待外れの8分38秒の平凡なタイムになってしまいました。日の出を拝みながら走るため、前日の睡眠時間がもろに影響します。
 この後2,3日雨が降ってお休みしましたので、今日こそフルコースでタイムに挑戦します。今日はまた暑さがひどくて、一度着た長袖シャツを半袖に着替えました。スタートです。あまり調子良くありません。前半1.8Kmのタイムは、と見ると8分27秒です。何とか30秒を切っていますから“よし! 自己最高記録を出すぞ!”と意識に語りかけます。急坂を登って、範茂公園入り口ではまずまずのタイムです。これからミカン畑のゆるやかな上りです。折り返し点でも、ぎりぎりの線ですが、下りに賭けます。最後100m位が勝負でしょうか? しかし、歳を考えて無理はしません。「気」の力を信じて走ります。

 ゴールの範茂公園に戻ってきました。タイムは? やりました! 26分23秒83です!! 6月に更新した自己最高記録“26分24秒75”をわずかに1秒弱上回って自己最高記録が更新できました!
「気」の力は不思議ですねぇ。これが、現代スポーツ科学でいう“イメージ・トレーニング”に相当するものかも知れませんね。では、次の記録更新の日まで、お楽しみに! ( Sept. 9. 2000 )


 カルチャー教室“「気」と健康法”に夫婦で参加しました。これは、熱海の保養所である「小嵐荘」で行われました。講師は、浜岡 勤さんです。もう20年も前から、東洋医学の勉強をされていて、最近定年退職をされたとかで、健康保険組合のカルチャースクールの講師も引受けられたそうです。今までも多くの病気の方々の施療も、ボランティアでなさってこられたそうで、人が生きるとは、自分の全てを他に与えて、見返りを求めないことだと言う「神(仏)の教え」を地で実践してこられた「神」そのもののような方です。

 先ず、自然体と言うことを学びます。既にご存知のように、私も長く「気」とか自然体を追い求めてきましたので、この講座は神のお引き合わせでしょう。浜岡さんも、私と同じように、合気道の藤平光一師範の「気の威力」という著書に出会ったことから始まっています。ただ、私のように見よう見真似と違い、自ら東洋医学を実践してこられた経験の上に立って理解を深められた専門家なのです。
 自然体とは、宇宙の中で地球が自転しながら公転しているように、一時も休み無く動き、変化しているように、自分自身(60兆の細胞)も絶えず変化し、動いていて、その動きを最小にして、あたかも静止しているようにして、足の指先に体重をかけて、やや前方に傾斜しているように立ちます。踵は、床と紙一枚くらいの隙間を持つか持たない位にします。腕は下げたまま、脇のやや前寄りに置きます。そして、臍下丹田(へその下約13cm)に意識を集中させます。こうすれば、どこから力を加えても動かされなくなります。(これを宇宙と合一になるとも言われます)

 言葉では簡単ですが、実際に自然体で立つと言うことはなかなか難しいことでした。NHKテレビで、最近の子供達の立った姿勢での、足の裏の床との接触状況は、何と!足の5本の指がほとんど床と接触していなくて、踵で体重を支えて立っていると言う異常な状態であるのを知りました。浜岡さんの話しによると、踵で体重を支える姿勢は、腰に体重の負担がかかるため大変健康に悪いと言うことでした。即ち、現代は、不健康な子供たちを量産していると言う事でしょうか?

 私が理解したことは、自然体とは、人間が動物に戻ると言うことではないかと思います。動物は、常に自然の敵に対して警戒していて、どこから攻撃されても直ちに回避したり、反撃したり出来るように静止(停止)状態を取ってはいないのではないかと思います。また、瞬時に動作を起こす為には、全身が緊張状態ではなく、リラックス状態でなければならないのではないかとも考えます。そのような状態を「気」が出ている状態というのではないでしょうか? 何はともあれ、どうにか自然体なるものを曲がりなりにも理解できました。

 では、自然体になれると何が良いかって? それは健康になれるからなのです。考えても見てください。動物は(ペットは別ですよ)病気に成りませんし、病気やケガも自分で治すではありませんか? 
 短い時間では、とても自然体を完全に会得できませんが、何となく解ったような気がしました。後はリラックスするために、ビデオを見ながらワンネスリズム体操をやって終了です。まだまだ、この講座は続きます。これからが楽しみです。何しろ、浜岡さんの自然体に触れるだけでも大変有意義です。自分自身の至らなさを痛感しました。

 全てを文章ではお伝えできなくて、残念です。どうか文献も参照して、ご自分で確かめて下さい。このような講座に参加できる機会があれば、ぜひ体験されることをお薦めします。( Aug. 31. 2000 )


 日本人と宗教心について、倫理研究所の発行する月刊「倫理」7月号に高橋 進氏(筑波大名誉教授)が連載されている。その第1回で、日本人には明白な思想構造や意志の体系はなくて、漠然として感情的な現象の側面も有ると言う。仏教かと思えば、クリスチャンでもないのに結婚式を教会でやって見たり、神社で神式の結婚式を挙げたり、神前結婚式かと思えば、神も仏も関係無いホテルや“ウイング(平安閣)”などの貸し会議場のような商業的な式場を利用したりするのは、よく知られた事実である。

 それでは、いったい日本人のあいまいと言うか、折衷的というか、宗教心とか信仰心の根源に有るものは何かと言うことであるが、高橋氏は、それを「古事記」や「日本書紀」に求めておられる。それについて、本居宣長の「古事記伝」から考察されていて、先ず特徴的なのは、日本の神々には善神だけでなく色々な悪神が登場する。だから、現実に起こる世の中の現象は全て神の御心であり、自然現象を含めてあらゆる吉凶、善悪も全て神の仕業であるわけである。悪いことは悪神が起こすわけであるから、善人・善神でさえもどうにもならないわけで、悪は善の欠如態であって、根本的な悪は無いのだと言う。

 「神との対話」(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)で「神」の言う“この世には善も悪も無いのだ。ただ現実に有ること、実存しかない。全てそれを引き起こさせるのは自分自身の選択の結果であり、善か悪かを判断しているのは、人間が自分たちに都合の良いように作ったルールでしかない”と同じではなかろうか? だから、必ずしも善人が栄えず、悪人がのさばると言う現実があるわけで、日本人の宗教心の中には、これらの現実を肯定した上で成り立っているのかも知れない。高橋氏の今後の展開が興味深い。( July. 8. 2000 )


 いつも日曜日などに「ものみの塔」(キリスト教徒)の信者の方達が、各戸を訪問して教えの冊子を手渡してくれます。無論キリスト教の布教のためでしょう。先日も少し雨気味の日でしたが、私が車で出かけようとしているのを呼びとめて冊子をくれました。私もキリスト教には関係ありませんが、宗教には関心があるので、断らずに有り難く冊子を頂戴しています。何しろ、良いことばかりが書いてありますから…。別にキリスト教徒への偏見はありませんが、敬虔なキリスト教徒のクリスチャンとプロテスタントが争って戦争を起こしたり、聖都イスラエルでパレスチナとの民族同志の迫害には理解が出来ないのです。

 頂いた冊子の中に「人生をいっそう意味あるものにできますか」という文があって、人は、単なる印刷物である紙幣(お金)を、可能な限り多く得るために、自分の健康や自分の家族、友人までも平気で犠牲にして、幸せになろうと物質を求めている。物質的な価値観は霊的な価値観に勝ることは無いはずなのに、どうして物質によって幸せになろうとするのでしょうか? これは仏教でも同じです。お金を儲ければもうけるほど、物を沢山所有すればするほど、人は一層それらのために心を奪われて、心配や悩みが増して行きます。“解っちゃいるけどやめられない!”と言うのが凡人です。霊的なと言うと不可解に成りますが、他人を愛する心という言葉に置き換えれば良いのではないでしょうか?

 昨晩、環境講演会に出席して、その後“グリーンコンシューマ”に登録するかどうかで、女房と言い争いました。登録するためには6000円の会費がすぐに必要なのです。私も講演会に財布は必要無かろうと持参しませんでした。女房の財布には、ちょうど1万円入っていました。家計を預かる彼女としては6000円の出費は大変です。
私は言いました「愛と言う名において、地球の環境のために、いや自分達や自分たちの子や孫の未来のために出費するのはムダなことではないし、お金がそこに無ければ出せないが、1万円あるのだから考える必要は無い。無くなった分はまた働けば得られるではないか」と言うことで決心しました。私達はどうしてもお金や物に執着してしまいます。それが普通なのでしょうね。でも行動を起こすときに、何で判断するかが大変重要ですね。( July. 1. 2000 )


 「いのちの法話」瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーをNHKのTVで見ました。
これは、作家である瀬戸内寂聴さんが、いろいろな心の葛藤や悩みを持つ人達の相談や、それらの人達に対して行う法話を通して、人間の愛や生と死に対する考え方を明らかにして行きます。
 寂聴さん自身、俗世にいる間に男と女の愛の葛藤に苦しみ、最後に仏門に帰依したわけですが、現在に至るまでには姉の艶さんの大きな愛情があったそうです。人は一人では生きられません。そのために伴侶を求めるわけですが、それとても自分の欲望を全て叶えるものではありません。そのために子供を持ちながらも他の男性の元に走るわけですが、そこでも愛は幻想であることを思い知らされます。最後に味わうのは、子供に対する愛惜と後悔の念ですが、不思議と子供の父親である夫に対する自責の念は無く、責任は半々であると割り切っています。

 自分の我侭が父親の命を縮め、姉に厳しく批判を受けますが、寂聴さんの剃髪に立ち会い、涙を流してくれた姉が寂聴さんに、これからの人生を苦しんでいる人達の救いのために使いなさいと諭され、「いのちの法話」を続けることになるのです。しかし、他人の苦しみを救うことは不可能ですし、出来るとしたら「その人の苦しみや悲しみを聴いてあげることで、自分自身の経験を通して、その人の苦しみや悲しみを共有してあげることでしかありません。」と述べています。過去に執着すればするほど、悲しみや苦しみは長引きます。それを救えるのは、自分自身の心の持ち方であり、忘却と言う人間の特性を通して時間が解決してくれると言います。また神や仏は、人に耐えられない苦しみや悲しみは課すはずが無いとも言います。別の意味で、例え、愛していた人を失っても、その人の魂はきっと愛してくれていた人のそばを離れず見守ってくれているはずです。(守護神という言い方は好まないがと前置きして)

 人は誰でも一人っきりで生まれ、また一人っきりで死ぬのです。また生まれた以上、誰でも必ず死ななければなりません。どういう形で死に至ろうとも同じことに違いありません。しかし、そこを割り切れないのが人情でしょうか? 寂聴さんは、また言います。過去は帰ってこないし、未来はわからないのですから、現在を一生懸命に生きることしかないのです。いくら仏にすがっても仏が救ってくれることはありません。自分自身は、自分自身が救うほかに方法は無いのでしょう。物や金、過去や未来の幻想に執着することこそが、仏教で言う煩悩(無明)なのでしょうか? 煩悩を捨て去れないからこそ凡人なのですから。寂聴さんも悟りはありませんと言われました。
自分が無力であることを知り、それでも尚、他人のために何か役立とうと全てを捨てて(これが出来れば神か仏か?)己さえも捨てた時が悟りなのでしょうか? ( Jun. 11. 2000 )


 今日はまたまた不思議なことがありました。「医療と福祉にあり方」のコンテンツでつぶやいた通り、市で主催する気功の講座を受けていますが、なかなか動作が難しくて先生の演技を見ているだけでは覚えられそうにありません。何とか図解した手本が欲しいと考えていました。
 今日、妻が故郷での同窓会に行って留守なので、気功の件でホームページの更新をやり始めました。ところが、どうしても図解した本が欲しくなってムズムズしてきました。本屋へ行くのも億劫だし、行った所である筈もなし、日が暮れてきて尚更出にくくなってきました。しかし、心のどこかで“きっと有るよ! 文教堂へ行って見たら!”とささやく声がするのです。まさか、あんなところに有るわけないょ。何時も行く本屋は、大きなミクニ書店だから。でも、心は“文教堂だ!”と言い張るのです。距離は文教堂の方が近いのです。よし!だまされたと思って行って見ようと腰を上げました。

 行って健康や医学のところではなく、まっすぐスポーツの棚へ進みました。ひょいと見ると「太極拳二十四式図解」が有るではありませんか! 今これが欲しいのです。しかし開いて見ると、これは二十四式だけで八段錦は解説してありません。まあ仕方がないか、と思いながらその横を見ると、驚いたことに「楊名時 八段錦・太極拳」があります。講座の先生も「楊名時 八段錦・太極拳」なのです。開いてみると習っている全てが絵と写真で解説されているではありませんか! 値段もこの方が安いのです。むろん、その一冊だけしか置いてありません。考える必要もありません。
探し当てるのに1分も要しませんでした。この偶然に大変驚いています。

 “楊名時”と言うのは、日本で八段錦・太極拳を普及された中国生まれの先生の名前で、現在は大東文化大学の名誉教授であることが判りました。
昨年の10月17日第1刷発行ですから、割合新しい本です。良い本が手に入りました。神の思し召しでしょうか?(何でも「神」のせいにするなって? まあ気楽に考えましょうね!)( Mar. 19. 2000 )


 NHKで「こころの時代 涅槃の世界」の再放送を見ました。「こころの時代」は良い番組なので時々は見ていますが、少し抹香臭い話しが多いので敬遠する人が多いかも知れません。
 今回のは、日本テーラワーダ仏教協会のA・スマナサーラさんのお話しでした。日本にも留学された方で、日本語はお上手です。“涅槃”と言うのは“安らぎの心を持つ”と言う意味らしいのです。
現代では、幸せの基準が、物造り、道具作りによって、物(お金も含めて)を所有することで幸せを求めていて、言わば、物や道具の奴隷となっているのです。本当の幸せと言うのは物を捨てることであると言うのです。でも物や道具やお金が無ければ幸せになれないのではないかと思いますが、本来自分のものは何も無いので、全ては分け与えるべきものであって、欲望が自分のものとして執着しているに過ぎないし、それも、物を所有していることによって悩みが生じてくると言うのです。だから、世の中に欠けているものは、心が満たされないと言うことです。

 私達は生まれた時から悪いことを教えられていて、貪り、怒り、過去への拘り(あの時は良かったと言う)を捨てられないでいる。生きているのは現在であって、過去でも未来でもない。現在だけに一所懸命生きていることが大切です。私達は、いつも将来のこと(どうなるか分からないこと)や過去のこと(考えてもどうにもならないこと)に心を煩わせているために幸せな気持ちになれないのでしょう。
 お釈迦様は、ものに拘らないことによって心の安らぎを得ると言われています。心の安らぎとは、自分の心を客観的に見ること。即ち、自分の間違いを認めることと、自分の身体を見る→感覚を知る。と言うことです。全て、心(意識)が身体を動かしているのです。
 仏教で、立派な人間になるための7ケ条の七覚支がありますが、
  1.念    自分の感情の気付き(自分のやっていることを全て確認する)   2.択法   分類する → 苦しみ、怒りがわかる   3.精進   心の怒りに左右されないように精進する   4.喜    (1)〜(3)から結果が生じる   5.軽安   心も動く、身体も動く → 軽くなる   6.定    悩みが消えることによって落ち着く   7.捨    心の平安(平等にものを見られるようになる)
 “念”と言うのは、自分が歩くとすると、「右足が前に出る」、「左足が前に出る」と言う動作を客観的に見ることで、これを一週間ぐらい続ければ、おのずと“択法”以下のことが自然に分かってくると言います。客観的と言うのは、バラの花を見たとき「きれいだ!」と言うのは主観(固定概念にとらわれている)であって事実ではない。誰が見ても、犬や猫が見ても同じに感じること。即ち、見たという事実だけが真実である。“涅槃の世界”とは、それに気付くことであると言えます。

 このお話しを聴いて、「神との対話」で“神”の言う「現在しか存在しない。過去も未来も同じ時間に有る。未来は現在の選択の結果で引き寄せられる。過去に執着してはそれ以上のものは得られない。この世には、愛と実存しかない。善も悪も(美も醜も)無い。」と全く同じことが話されていると感じました。

 話しは変わりますが、ここのところ紛失物の突然の現出で、自分自身が信じられない気持ちになっていますが、現実に起こった事実は認めざるを得ません。偶然とも言えるし、探し方が足りなかったとも言えるかもしれません。しかし、今度も全く不思議な事実なのです。
 と言うのは、今、小学校時代の同窓会を、地元(三重県松阪市)にいる当時の同級生が計画していて、私は得意のパソコンを駆使(?)して名簿づくりに協力しています。もう50年程も前のこととて同級生に誰がいたのかほとんど覚えていません。確か卒業したときの写真が有ったように思って、何度も写真を入れている引出しや物置を引っ掻き回して探しましたが見つかりませんでした。幹事の同級生も既に卒業写真を紛失していて持っていないと言うのです。もう諦めて記憶に頼らざるをえません。
 ところが、名簿がほぼ完成したところで、招待する恩師が2人か3人かということで困ってしまいました。そんな先生がおられたことや顔さえも判らないのです。夜中に電話をしてきた幹事の同級生は大変困っています。しかし、写真が無ければ確かめようがありません。誰か写真を保存している同級生がいないか探してくれるよう頼みました。

 電話を終えてから、ムダだとは思いながら、もう一度、写真を入れている引出しを開けてみました。そして一番上の写真の入っているビニール袋を取り上げて見ました。驚いたことに、その一番上に探している写真があるではありませんか。それに丁寧にも写真に写っている先生も含めた全員の名前を書いた紙も添えられているのです。唖然としてしまいました。信じられないことです。直ちに古い写真をスキャナーで読みこんでコピーを作って、次の日の朝、郵送したことは言うまでもありません。( Mar. 11. 2000 )


 またまたオカルト的な話になってしまいますが、大変不可思議な経験をして妻と2人で首をひねっています。
 昨年のお盆に帰省した帰りに、東名で追突され、奇蹟的に命が助かったことをお話しましたが、その時の衝撃で小銭入れを紛失してしまいました。現地で何度も探しましたし、事故車をこちらに運んでもらってからも、隅から隅まで探しましたが見つけることが出来ませんでした。この小銭入れは、末っ子が結婚してから、嫁と一緒に私へのプレゼントとして買ってくれた物で、黒い馬蹄形の、ぴかぴかした皮で出来た優れもので、大切にしていました。

 以前にも、鳥羽の小涌園に行ったときに亡くして、ガッカリしていましたが、その時は、何ヶ月かしてから、何時も車のキーを入れている引出しを開けると、そこに、その小銭入れが居るではありませんか? むろん、その引出しも念の為探しましたし、毎日そこを開けているわけですから、有れば目に付くはずです。私には、何処か落としたところから、飛んで帰ってきたとしか思えませんでした。

 ところが、またもや不思議が起こりました。昨日、私が尺八を入れるビニール袋(尺八は冬の乾燥期には密封しておかないと竹が割れるのだそうです)を何処にしまったのか忘れて、一生懸命探していました。考えられる引出しやカバンの中をひっくり返していて、最後に、いつも詩吟で使っているカバンの、普段使わない隠しポケットの中に手を入れると、そこに入れてあったポケットティッシュと一緒に、思いもしない小銭入れが飛び出してきました。まさに自ら飛び出してきたように畳の上に転がりました。
 まるで、私の手がそのポケットのチャックを開けるのを待ちかねていたように、狭いポケットの息苦しさを跳ね除けるように飛び出したのです。ビックリしました! 正に奇蹟です! あれから半年経っているのです。まさか東名の事故現場から飛んで帰ってきたのではないでしょうね? 小銭入れの無事を喜ぶと共に、神に感謝しました。(入っていたのは460円でしたが)考えられないようなことが起こるんですね。( Feb. 3. 2000 )


 “地球外生命を探す”ナショナルジオグラフィック誌(日本版)の新年号の特集です。「大宇宙の中のささやかな太陽系にある小さな惑星、‥‥‥私たちの地球はたくさんの生き物たちの暮らす素晴らしい世界だ。」スチュアート・フランクリンの巻頭言で始まります。

 宇宙と言う不可思議な世界の中に、人間と言う不思議な生物を宿す地球。私達は何処からきて何処へ行こうとしているのだろうか? この広い宇宙の中で私達と同じような生物の存在する星は有るのだろうか? いや地球が属する太陽系の中に生命が存在するのだろうか? いままで他の惑星については、地球と異なる厳しい環境の中で、生命の存在する可能性は非常に低いとされてきた。しかし研究が進むにつれて、地球上でも人が想像もし得ない極寒の土地や、深海底の光も酸素も無いところでさえ生命が存在する証拠が発見されている。

 生命が何かと言う定義は難しいが、ともかく他の惑星にも生命が存在する可能性が容易に考えられるようになったことは確かだ。NASAをはじめとする宇宙開発や惑星探査技術の発達によって、いよいよ地球外生命の探査にのりだす。はたして宇宙人は存在するのか? 宇宙とは? 生命とは? 現在の宗教感を覆すような、人間の本質に迫る発見があるかも知れない。( Jan. 9. 2000 )


 NHKのETVカルチャースペシャル「進化の記憶が脳を創る」を見ました。人間の脳には35億年の歴史が刻まれており、それは爬虫類の脳、哺乳類の脳、人類の脳に至る進化の段階となって記憶されていると言います。生命科学者の柳澤桂子さんが同様のことを述べておられるのを思い出しました。人間が他の動物と最も異なるところは、大脳新皮質の発達によって知性(言語、思考)を獲得したことにあるのでしょうか?
 私達は、自分の行動が脳の思考の結果、身体の各部の器官に脳からの指示によって全ての行動が起こされていると思っています。しかし、本当は脳と思考あるいは意識との関わりについては、よく分かっていないのだそうです。私も脳外科の先生にお話を聴いたときに、“実は、医者でさえも脳に関する症状については、全く分かっていないと言っていいほどで、検査で分かることは全体の25%位で、あとの75%はほとんど分からないんだョ”と言われてびっくりしたことがあります。それほど人の脳や心については分かっていないことが多いのだと思います。

 アメリカのフィラデルフィアの人間能力開発研究所(日本にもJapan office があるそうです)では、脳に障害を持つ人の治療を行っていますが、この方法は「パターンニング」と呼ばれる身体を動かすことによって脳が反応して障害となっていた機能が回復すると言うもので、創立者のグレンドーマン博士によれば、この方法は医学的に認知されているものではないそうです。
 しかし、ここで治療を受けているダウン症(21番目の染色体が3本に増える)と診断され1才半になってもあるくことが出来なかった日本のコウジ君は、「パターンニング」によって爬虫類の腹這い、哺乳類の立這い、人間の2足歩行を経て、今では毎日4.8kmをノンストップで走るのを日課としています。お母さんでさえも今では伴走さえもできない速さで走っています。そして運動機能が回復すると共に、視覚、聴覚、言語なども発達してきて、6才の今では、漢字かな混じり文の本もすらすら読めるようになっています。

 日本でも同様な研究が小暮元東北大教授によって進められているようですが、脳炎によって障害児となったアヤちゃんは、小脳が極度に少なくて普通なら這い這いさえ出来ないはずですが、アヤちゃんの通っている幼稚園ではワニの腹這いや歌に合わせて手足を動かす遊びを通して、ほとんど普通児のように機能が働いています。そのアヤちゃんの脳の活動状況を調べると、考えられないことですが大脳が小脳の機能を代替して活動しているようです。

 昔から這い這いをしない子は異常児だと言われ、親が必ず、立っちするまでに寝返りから這い這いまで出来るように介添えしてやるのが当然でした。ここでは、それを「系統発生」として“生物は次第に進化して現在の種になったという考え方”に立って「パターンニング」などの機能回復訓練となっていると考えられます。
 最近は、這い這いをしない内に立ち歩きをする(させる?)ようになって、「うちの子は発達が早いのよ!」と自慢する親がいるようですが、発育の過程を正しく経ないと正常な発達が損なわれると強調されています。

 何にしても、「神」に似せて創られたといわれる生命体である人間の不思議、科学で割り切れない未知なる可能性を秘めた、人の生命力に感謝したいではありませんか?障害児の出生を排除しようというような遺伝子操作は間違ってはいないでしょうか? ( Dec. 14. 1999 )


 宗教法人「法の華三法行」の詐欺事件。またかと眉をしかめたくなるインチキ宗教団体。見せかけの施設の豪華さに騙され信じ込んでしまう人間の愚かさというか心の弱さ。それにもまして人の心を踏みにじって良心に恥じない宗教団体の教祖や幹部。それよりも何よりも“宗教法人”とはどういう審査で認可されるのか? 何とも不思議な我国の許認可制度というほかあるまい。オーム真理教などのテロ集団ともなれば世間も騒ぐが、詐欺事件などでは人の噂も75日ですぐに忘れ去られてしまい、また新手の新興宗教のサギ事件が起きるに違いない。政治が乱れる時、世は乱れる。人の弱さにつけ込むエセ宗教に惑わされないように! 「神」も「仏」も自分自身の心の中にあり、自分の将来は自分が選択している事を忘れず、世のため人のために愛の心を持ち続ければ、幸せが必ずある事を信じ、自分の行為に見返りを期待しないことこそ宗教の本質ではあるまいか? 宿命として過去に執着せず、いま現在に全力を尽くす事こそ大切であろう。( Dec. 2. 1999 )


 NHKテレビのETVカルチャースペシャル「能に秘められた人格・最新科学が解き明かす心の世界」を見ました。明治大学の斎藤教授は、教育学の立場から日本人の肚(腹)の文化を、能楽師・梅若猶彦を通じて追求しています。表情を変えない能面の裏でどのようにして悲しみを表現するのか? また、俳優の樹木希林さんが演ずる悲しみは何か? それらは自分の感覚を研ぎ澄ませて悲しみを意識的に作り出すことにあると言います。東邦大学の有田教授によれば、禅による呼吸法が脳の神経系のセロトニン神経系(神経が情報を伝えることを調節する)の活性化によって意識の集中力を高めるのだと言うことが分かってきたそうです。実際に高校生に禅で言う“丹田呼吸法(腹式呼吸法)”により5秒で吸って15秒で吐く深呼吸を6回行った後、クレペリン検査を行ったところ、全員足し算の回数が向上し、集中力が高まることが実証されました。(私も昔、会社の教習所で講師をしていたとき、テストのまえに必ず1分間の瞑想と深呼吸による精神の安定を図るようさせていましたが、はからずもここでその効果の程が実証されました)

 古来、日本人は特定の宗教や思想をよりどころにすると言うよりも、自己の身体のあり方、即ち身体性を研ぎ澄ますことを通して精神をみがいてきました。いま私達が遭遇している様々な問題は、その身体性と心を改めて問いかけているのです。
 話しは変わりますが、いま私は鈴木俊隆師の「禅へのいざない」(PHP研究所刊)を読んでいますが、禅で言う座禅の姿勢は、物事をあるがままに見るための修行だと言います。何物にもとらわれず自分自身の内面を見る、即ち自分自身の仏性を見出すこと(神との対話では“内なる神”)にほかなりません。そのためには背筋をピンと伸ばし、重心を臍下丹田(へその下3cm)に置いて、背筋を通る中心が地球の中心に向かう姿勢でなければならないと言います。何物にも拘泥しないとき、その心は澄み渡り精神が集中されるのです。

 現代の若者には腹式呼吸が見られず、更にもっと浅い肺呼吸で、ゲームなどに熱中しているときなどは肺呼吸さえもほとんど顕著には行われないことが分かりました。人間の身体には血液が循環していますが、身体活動のために血液には十分な酸素の供給が必要で、精神の安定と共に心身の健康にも大切なことなのです。私達親の世代が、子供達に大切なこれらのことを伝えてこなかったことが今の若者達の様々な問題を生み出してきているのでしょう。改めて考え直す必要がありそうですね。( Nov. 25. 1999 )


 やっと「神との対話」の第1巻を読み終えました。著者のニール・ドナルド・ウォルシュが神との対話をはじめた時のものです。最初は何が何だか信じられなかった様子がよく分かります。ここでは自分の身の回りに起きていることに関して、「神」が本当にいるなら、自分がこんなに苦しむことも無いし、苦しみを救ってくれるに違いないと、「神」に食って掛かります。私達も「神」は私達の味方であり、正義の象徴だと思い込んでいます。

 ここで「神」は、人間の経験を通して知る存在であり、事実に対して正しいか正しくないかの判断もしないし、事実には善も悪も無いと言います。人間社会が定めたルールに対して善か悪か、あるいは正か不正かを我々が勝手に判断しているに過ぎないのだと言います。あえて「神」が判断するとしたら、愛を基準にして、その行為が望ましい(霊性を高めるために)ことか、望ましくないことかと言う判断をするのみであると言います。愛とは、行為の対象に対して見返りや期待を望まないことであります。
 だから悪いことをしたから地獄へ落ち、良い事をしたから天国へ行くと言うことも無いのです。天国とか地獄は、人間が勝手に作り出したもので、対比するために必要だと考えられたものだと言います。悪が無ければ、その対比としての善も存在しないわけですから。

 ここでは、ニール・ドナルド・ウォルシュが「神」に質問した事柄について、「神」が一つづつ答えていますが、彼は全てに肯定してはいないし、何度も執拗に質しています。その中で「神」の返答の代表的なものを挙げてみますと、
 私達人間は三層から成り立ったいる存在で、「身体」(物質)、「精神」、「霊魂」に分けることが出来る。この三つの要素は、エネルギーであり、「思考」、「言葉」、「行為」とも言えるし、それらが合わさって結果が生じる。「思考」が全ての結果を支配することになる。即ち、意識が自分の結果(未来)を形作ることになり、意識しないことは、結果として生じない。例えば、「社長になりたい」と言うのと、「社長になるぞ!」と言うのは異なる結果を生じるわけで、「社長に成りたい」と言うのは、結果として社長にはなれないで終わる。だから、常に意識のまえに行動しなさいという。行動が結果を生むのである。例えば、誰かに金を恵むと言う行為のとき、財布の中に1万円札と5千円札と千円札と小銭がある場合、最初に1万円札に触ったとしても、もっと少ないお金で良いだろうと探りながら、結局千円札でももったいないと小銭を取り出して与えるだろう。意識より行動が先なら、最初に触った1万円札を与えれば最良の行為となる。どうせそこに1万円札があるのだから与えれば良いではないか。無いものは与えられないが、有るものは与えられるし、あなたには、またお金を得ることができるではないか?

 また、悟るとは行為を否定しようと決意することで無く、行為の結果には意味が無いと理解することであり、したがって結果を放棄する(結果に執着しない)ことである。魂は行為を通じて最高の考えを実現しようとしている。結果に執着すれば、それ以上のものを実現できない。

 魂の働きとは、その欲求を示唆すること。精神の働きとは、選択肢のなかから選択することであり、身体の働きとは、選択を行動に移すことであると言う。

 ニール・ドナルド・ウォルシュは、仕事のことや人間関係、健康の問題とか生命(輪廻転生)、セックスなどについても「神」と話しをしています。彼の人生に起こっている色々な悩み、苦しみについて泥臭い言葉で問い掛けています。その全てを要約することはできませんが、第1巻では、人と「神」との係わり合い、「人間とはどういう存在か?」を知ることが出来ると思います。
 第2巻、第3巻についても、十分理解するまで、納得のいくまで繰り返して熟読しなければなりません。皆さんが納得されるように説明することは不可能かも知れませんが、そのうちの幾分でもお伝えできれば幸いと考えています。( Oct. 24. 1999 )


 「神」の話をすると、女房も子供たちも嫌な顔をして、長男などは「神など実在しないものに対して、あたかも存在するごとく信じ、のめり込むのは、お父さんの一番悪い癖だ。おまけに他人に信じろと強制するのはよくない。だいたいお父さんは視野が狭いんだ!」と説教されてしまった。なるほど、そうかも知れない。自分の姿は自分で見えないし、自分が一番正しいと思っているのも確かだ。だから、そのために他人の意見を聞き(他人の意見など聞き入れないとも言っているが)、いろんな人の著作を通して自分の考えを正しているつもりである。子供が小さいうちは、私の意見は子供に対して絶対であったのが、今や、子供が私に対して意見を正すという年代になってしまった。うれしいような、情けないような感じである。

 しかし、まだまだ負けるものではないと空威張りをしている。なにはともあれ、「神」について述べるには、自分が「神」を信じて神の言葉として述べる以外にない。それを信じるかどうかは貴方次第だ。
“現在、過去、未来という時は同時に存在している。ちょうどコンピューター・ゲームのように、一枚のCD−ROMの上に同時に存在している。自分が意識し、行動する時に、どの選択肢を選ぶかによって、現実の事実が生じる。常に貴方の起こす事件は定められていて、選択する事だけが許されているのだ。だから、貴方がどの道を選択するかによって未来も決定される。即ち、自分自身の意識と行動が、自分に起こる事件(現実)を引き寄せているのである。だから、偶然という事は有り得ない”と「神」は話しておられる。(「神との対話」より)

 また、人間を形作っているものは、身体(物質)と精神(意識)と魂とであって、魂は空間に満ちていて、物質である身体を包んでいる。しかし、魂は一人に一つという形態のものではないので、色々な経験をした魂の集合が一人の身体に属する事になる。だから過去に色々な経験をした事実を魂を通じて知ることが出来るのである。しかし、通常の人間は魂の過去の事実を知ることは容易ではなく、聖者と呼ばれる人や超能力者と呼ばれる人たちは、自分の過去について知ることも可能であるし、知ろうと努力(修行とか訓練によって)すれば可能となるだろう。例えば、どこかで会ったようなとか、何となく自分に関係があったのではないかと思われる人に出会う時があるが、それは、魂から過去の事実の断片を思い出しているのである。(深層意識ともいわれる)

 「神」が、何故、自分に似せて人間を創ったのかは、「神」自身では、自分の事を知ることが出来ないため(人間でも自分自身の事は知りようが無いので、鏡の様なものとして自分に対する他人の言動を通して自分を知るしかない)、物質としての宇宙を造り、神の知覚としての人間を造り、そこに魂(神そのもの)を持った人間の行動を通して自分を知る事が出来るようにしたのである。相対するものが必要で、善に対して悪が必要なのと同じ事であると言う。

 まだ「神との対話」の最後になった第1巻目を読みつつあるが、私の長男が私の言う事を聴いて、なるほどとは思えないだろうなぁとは思うが、これ以上うまく説明できないのが実情である。しかし、40年以上にわたって、「気」とか人間について疑問を持ち続け、今やっと少し分かりかけた気がしている。「神」についても、おぼろげながら理解しつつある。どうか気違いの戯言と思いながら今しばらくお付き合い下さい。( Oct. 5. 1999 )


 昨夜奇妙な体験をした。寝ようと床に就いている時、暗い中で、目の前に何かかすかに明るい光の帯が広がって、その中に見たこともない人の顔が浮かびあがった。それも一つではない。一人はおおきな身体で、そのひざの当たりに小さな顔が二つあった。これが三人なのかどうかは良く見えない。最初、夢か幻かと思ったが、私は正気であるし、周りの部屋の様子も変わらず、隣の部屋で寝ている女房の姿も見える。目をパチパチ開けたり閉じたりしてみても、空間に浮かんでいる人の顔は消えない。その顔は何も言わずにただニコニコしているだけである。とても穏やかな心が休まるような笑顔である。日本人でもないし、西洋人でもない、しいていえば大黒さまの様で、その顔の形を丸くしたような感じだ。最初、「神」が出現したのかと思ったが、「神」は実体は無いのだろうと考えると「神」ではないのかとも思える。しばらくすると、すっと暗くなって何も見えなくなってしまった。女房を起こそうとも思ったが、「何を馬鹿な事を、寝ぼけてんじゃないの!」と言われるのがおちなので、止めにした。

 何だか分からないが、自分の周りで、不可解な事が連続して発生していることは確かだ。意識が現実を呼び起こすと「神」は語っているので、自分自身がきっと何かを期待しているか、しようとしているのかも知れない。きっと本の読み過ぎだろうと笑われるかも知れないが、現実に起こった事に変わりはない。( Sept. 26. 1999 )


 「神との対話」の3巻目をやっと読み終えました。何という事でしょう! この中では、人類にとって最も重要なことが語られていました。人類の終焉です。人類は一度その終焉を経験していると言うのです。科学技術の進歩が、人間のコントロールできない状態にまで高度に発達すると、ついにはそれが終焉する道しか選択肢が無くなってしまうのです。「神」は、それを知らせるために、地球上に幾度となく、そのための使者を送ったというのです。サイババもその内の一人だそうです。しかし、私たち地球上の人間は、それらの使者の言葉に耳を傾けなかったばかりか、人類を破滅に導く核戦争までも可能にしてしまったのです。科学技術を「神」以上に崇拝した結果、自分の「内なる神」の言葉を感じる事が出来なくなってしまっていたのです。もう手後れなのかも知れません。しかし、地球上の人類の2度目の終焉がきたとて、また新しい新世代の人類の歴史が始まるだけでしょう。宇宙の出来事には、初めも終わりも無いのです。ある事実が起こり進行してゆくだけなのです。

 だからと言って、私たちは現在の人類の終焉を黙って待ち受ける事はできません! もう今からでは間に合わないかもしれません。しかし、時間は関係が無いというのです。人それぞれの意識が変われば、瞬時に歴史は変わるのです。時は、過去も現在も、そして未来も今の時間の中にあるというのですから。
 そのためには、地球上の全ての人達、それも政治家や科学者(特に生命操作に関わる医学も含めて)が、「内なる神」の声に目覚めなければなりません。そして、私たち一般人の全ての人が「神」の言葉を聴かなければなりません。愛の名において、自分自身が良いと思う事を行うことなのです。自分自身が良いと思う事は、あなたにも良い事なのです。全ての人は同じなのです。「神」も「私」も同じなのです。だから、争いは起こらないはずです。資源の奪い合いは行われないはずです。飢餓も飽食も無いはずです。みんな私たちの魂の同一性に気づかない結果で起こっている事なのです。

 ここで3巻目の内容の全てを説明する事は不可能ですが、人とは何か? 宇宙とは何か? 宇宙人(他の世界の人間)がどう存在しているのか? 全て明らかにされます。否それよりも、一人でも多く「内なる神」の声に従い、今からすぐにでも意識の変革を実行しなければ、明日の人類(人類の未来)は無いのです。ぜひ、この「神との対話」をひもといて下さい。そして「内なる神」の声に耳を傾けて下さい。

 宇宙システムは完璧なのです。このシステムを乱すような行為が行われた時、宇宙システムはその行為を阻止するように働くでしょう。人間の知恵では計り知れない精密さで修正されるでしょう。地球の自然破壊により生態系に異常が生じた時、人間の生命システムに勝手な操作が加えられた時、核による破壊が宇宙に影響を及ぼす時などなど、人間が技術を盲信し過ぎれば、ついにはコントロールを失って、宇宙システムを乱す事になるでしょう。これは地球への緊急事態に対する「神」の警告です。( Sept. 12. 1999 )


 「神との対話」(ニール・ドナルド・ウオルシュ著 吉田利子訳)の2巻目をやっと読み終えました。この本は3巻まであり、1巻目は、まだ入手していません。この本は、私がこのコンテンツ(天地創成と宗教について)を作成して、本屋を見て歩いていた時に1巻目が並んでいました。何となく気になっていましたが、特に買う気もありませんでしたが、次に行った時には2巻目が並べてありました。ちょっと気にはなりましたが、ペラペラっとめくっただけで中身はよく読みませんでした。その次に行った時には3巻目が並べてありました。中身はとにかく、何となく気になって仕方がありません。まして「気」については「内なる神(深層心理)」に従来から関心があるわけですから、「神との対話」には、何かがあると感じました。この本は、著者が自分の苦しみ、葛藤の中で、「この世に神は無いのか、あれば私の質問に答えてくれ!」と、あるはずの無い神に向かって手紙を書いたことから始まります。ところが不思議なことに、しばらくして、突然自分の持つペンが自然に動き出し、驚いたことに、自分の質問に対する返答がそこに記述されてゆくのです。

 しかし、この本は高価です。3巻まで揃えると6000円もします。でも、どうしても“手に入れなさい”と心の奥底から誰かがささやくのです。何度も何度も考えました。しかし結論はやはり購入するしかありません。お金の持ち合わせも無いし、高価なので生協に頼んで取り寄せてもらうことにしました。そして、やっと入手したのが2巻と3巻です。最初の1巻目は、かなり以前(1995年、邦訳は1997年)に出版されていて、今はまだ入手できていません。

 2巻目を読み始めていって驚きました。神は自分自身に在ると言うです。いわゆる「内なる神」なのです。自分の問いかけは、自分の深層意識の中に入って、深層意識(無意識の意識化)から神の答えとなって返ってくるのです。神は、“神の考えは自分自身の考えなのだよ”と言うのです。人生には現在しかなく、そこに過去や未来もあると言うのです。ですから、人(魂)は、自由に過去や未来に行くことができ、それによって自分が正しい生き方が出来るように修正すれば良いと言うのです。現在を変えることで未来も変わると言うのです。既に述べましたが、神には、人間の行為に善も悪もありません。愛と実存しかないのです。善と悪を生み出しているのは、人間が決めた人間社会のルールだと言うのです。愛と言う判断基準で自分が正しいと思ったら、そのとおり実行すれば良いと言うのです。結果が人間社会のルールで判定されるだけなのだそうです。しかし愛は全てに優先するといいます。

 そういう点で、現在の地球人は未成熟で、神が人間を創製(人類発生以来)してから3千年も経つのに、精神的に(霊性が)少しも進歩していないと言うのです。自然を破壊する科学(工業化)だけが発達したにすぎないのだそうです。人間同志で争うことは神の意志にはありません。人間は全て平等で、人種の別も無ければ、資源の独占も無いのです。飢餓や貧困は政治のあり方なのだと言うのです。政治の在り方は、人間一人一人の考え方のあり方によると言うのです。地球には、全ての人間が十分幸せに暮らして行けるだけの資源を与えてあると、神は言うのです。

 驚いたことには、この「神の対話」には、私のコンテンツ全てに対する答えが準備されているのです。私の考えの不足な面は全て述べられています。政治にしろ、環境にしろ、医療や福祉にしろ、教育にしろ、全てについて神は語っています。私は改めて自分自身の至らなさを悟りました。この「神との対話」を手に取ったのは、とても偶然とは思えないのです。
 どうか皆さんも、だまされたと思って、是非この本を手にとって見てください。また、3巻および1巻目を読み終えたら、感想をお話しましょう。( Aug. 29. 1999 )


 とても不思議な事故を体験しました。東名高速道路の豊川インターの近くで、追突され(相手は私の車の左側を追い越そうとして、私が左へ寄ってきたためぶつかったと主張しているが)て、私の車はスピンし、中央分離帯に激突した後、右に一回転して後部を更に中央分離帯のガードレールにぶっつけて、その反動で走行車線の路肩まで押し戻されて、進行方向へ斜め左向きに停止したのです。(以上は全損した車の破損状況からの推定)

 その日は義母の初盆で帰省した帰り道でした。名古屋のインターから入った時はひどい渋滞でなかなか前に進むことが出来なくてイライラしていました。それが岡崎辺りに来た時には、何故か、前後に車の影を見ないほどすいてきました。いつもなら120Km/h位ですっ飛ばすところですが、何となくスピードを出す気にならず、助手席の女房と「今日は明るいうちに帰宅できそうだから安全運転で行こうね」と、めずらしく100Km/h位の一定速度で(空いているのにですよ)走っていました。

 豊川インター手前の赤塚パーキングエリアに差し掛かったので、いつものとおり、後方を見て後続車が近くにいないのを確認して走行車線から追い越し車線に変更しました。これは、パーキングエリアへの出入を邪魔しないためです。ちょうどその辺りは、左カーブになっていました。
 PAを過ぎようとした時、突然、後部にドカンとすごい衝撃を受け車がゆれました。瞬間、追突されたと感じ、高速での事故の場合は、ブレーキやハンドル操作はスピンの原因となって命取りだと何故だか考え、ハンドルをしっかり固定しどうやらまっすぐ(らしく思った)進んだ。しかし、突然車の方向が90度右に転回し(タイヤが右後輪を除いて3本とも外れていました)、あっと言う間に中央分離帯のガードレールが目前に迫ってきた。(不思議なことにこの間、時間はゆっくり流れているように思えたのです)もうだめだ! 「死ぬな」と感じ、効く間はないと思いながらも夢中でブレーキを踏みました。私の車にはABSが付いているので急ブレーキは効きません。当然、ドカンと分離帯のガードレールに激突しました。

その後は何も覚えていません。気が付いたら、車は大破して左の山側の走行車線に進行方向に向かって左斜めに停止していました。運転席のドアも助手席のドアもほとんど無傷で容易に開きました。フロントガラスも助手席側にヒビが走った程度です。後部のハッチガラスは粉々に砕けてありません。車体の前面の右半分は潰れ、バンパーは中央分離帯にあって、スポイラーは外れて飛んでしまってありません。無論後部はひしゃげてハッチのドアは開きません。ボンネットはガードレールの下に潜り込んだのかペシャンコに潰れています。2人共よくもまあ死ななかったものです。

 不思議なことは、中央分離帯のガードレールに激突したにもかかわらず、私も助手席の妻も何の衝撃も感じることなく、安全な山側にドアを開いて降りても危険でない位置に停止し、後続車も無く巻き込み事故とならなかったことです。妻は頭に2針縫うケガをしましたが、これは出血しただけで済みました。運転していた私もハンドルをしっかり固定していたためかケガも打撲もありませんでした。空いている東名を100Km/hで安全に走行しようと思ったことや、車が全損するような事故にあいながら、打撲すらなく、妻のケガは切り傷だけで済んだのですから、これはもう神の助け以外に何物でも無いように思います。偶然かもしれませんが、神は「偶然と言うことは何時の時でも無い。全て計画されたように(人は宿命と言いますが)実行されるのだよ」と言っておられます。しかし、良い方向に行くか、悪い方向に行くかは、その人が愛の名において(人類愛であり、同胞の愛であり、隣人愛であり、親子・兄弟姉妹の愛であり、博愛とも言えるでしょうか)正しい事を行うかどうかによると言われます。(「神との対話」文献参照)

 しかし、無念なことは、全損した私の車は、英国ニッサンから輸入した国内で生産していない5ドアのスポーティーカーで、2人とも大変気に入って大切に使っていましたが、現在は輸入を中止しており入手できないことです。こればかりは神に頼んでも無理でしょう。命と引き換えだから仕方ないでしょうね。( Aug. 24. 1999 )


 中国で、「法輪功」と言う気功集団が、中国政府から弾圧を受けて大騒ぎになっています。「法輪功」は、もともと健康のための気功を実践する人々ですが、創始者の李洪志氏が気功に禅の修業を取り入れたことで、飛躍的に人気が高まり、非常に多くの会員を獲得して、政治的な動きは現在無いとしても、その実行力が中国共産党をも脅かしているらしい。

 私が「気」について述べ始めているが、これも考えは「法輪功」と形こそ違え、考え方は同じと思うので、中国共産党の政府から見れば、危険思想か? やれやれ、とかくこの世は住みにくいわい! 正しい目で政策を批判すれば、目の敵にされるのはどこの国も同じか? ( Aug. 1. 1999 )


 やっと新しいコンテンツを完成させました。しかし、内容の充実には、まだまだ勉強しなければなりません。皆さんのご意見も伺わなければなりません。宇宙と人間との関係は、宇宙が出来たと思われる150億年ほどもさかのぼって考察しなければなりません。不可能に近い話なのかも知れませんが、大変意義のあることだと考えています。今後とも、何卒よろしくご指導、ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。( July. 22. 1999 )


 新聞を賑わしているオーム真理教信者の自治体での転入受入拒否事件。更には、もと教祖、麻原彰晃(松本智津夫)の子供2人の入学についても認めないと言う事態が発生し、長野、茨城、栃木など広範囲な地域で住民との間で問題がエスカレートしている。確かに無差別テロ事件を引き起こしたオーム真理教の行動は非難に値するが、就学の権利や宗教の自由、生活権などからいって、人権問題として、今回の各自治体の対応には行き過ぎの感があるように思う。
 確かに被害者やその遺族の方々の感情から言えば当然の事とも考えられるが、「罪を憎んで人を憎まず」でもあり、当面は十分な監視を行う事で今後の事件の再発を防止すると言う方法が望ましいのではなかろうか? また、松本智津夫被告の裁判を一日も早く進めて結審させ、世間の不安を取り除く事が、まず必要なのではあるまいか? 更には、現在の長期にわたる裁判のシステムの見直しも必要なのではないだろうか? ( July. 15. 1999 )


 みなさん、こんばんは! やっとスタートしました。何しろ、素人が哲学の世界やら心理学の世界の話に首を突っ込むわけですから、核心に触れる事が出来るかどうか知れませんが、自分の能力の限りを尽くして(ちょっとオーバーじゃないの?)展開したいと思っていますので、あまり期待せずに気楽に付き合って下さい。難しい理論については、参考文献等を参照していただければ幸いです。( July. 13. 1999 )


 私の退屈なホームページにお付き合い下さっている皆さんに大変感謝しております。政治と行政についての私見を披瀝出来ず申し訳ありませんが、なにしろ政治の問題は根が深く、なかなか考えがまとまりません。しかし、そうは言っても政治が全てを左右していることは明白なので、黙っているわけにもいきません。慎重に検討して発言したいと思っています。何しろ素人の考えですから(なかには政治学を知らないで発言するな!と言う輩もいないでもありませんから)、かるく読み流して下さいね!

 ところで、この不完全なコンテンツに、またまた新しいコンテンツを加える必要が生じてきてしまいました。
既にご存知の如く、「気」の話やら、宇宙観やら、サイババとかエドガー・ケーシーのような、現代科学では究明できていない分野の話に及んだ結果、どうしても哲学とか宗教というものに触れないわけにはいかなくなってきてしまいました。

 これは、決して偶然の結果ではありません。私が初めてこのホームページを開いた時に、私の親しい友人がメールを寄せて「宗教についてどう思うか? 君の考えを聞きたい」と言ってきました。私には、この唐突な質問には大変困りました。日本は仏教と神道などが入り交じっていて、しかもやたらと新興宗教が林立していて、何を信仰しているかどうかもわからない曖昧模糊の社会ですし、私とても宗教はほとんど無縁でしたから(父は大変信仰心が深かった)。しかし、何とか「日本宗教のすべて」なる本を見つけてそれらしい返答をしましたが、彼の考えるところとは全く異なっていたようでした。

 ところが、あれから3年の歳月が流れ、いろんな事件について私見を述べたり、友人たちと討論しているうちに、どうしても宗教とか信仰というものに触れないではいられなくなってきました。これは人が生きるということの根元ではないかと思われます。教育も、自然環境も、政治や医療、マスコミに至るまで、全て人の宗教観に関わる問題だと悟った次第です。
 いったい、どんなことになるやら見当もつきませんが、ご批判やご教示を頂きながら展開したいと思っていますので、相変わらず気軽にお付き合いをお願い致します。( July. 6. 1999 )


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