tommyさんのつぶやき1999年前半

 シドニー・オリンピックの野球競技に、プロ野球選手から選抜して参加させるというバカなことが真剣に議論されているそうです。無論、日本のオリンピックの関係者の話です。以前、アジア大会で、プロの選手を加えた韓国の野球チームに決勝で破れたときに、こう言う話が始まったことを嘆き「プロリンピック」と変えよと書きましたが、性懲りも無くまたこの話しが浮上してきています。
「オリンピックの精神は勝つことでは無く、参加することである」とは、かのクーベルタン男爵の言葉ではなかったでしょうか? 競技を職業としない選手達が、国境を越えて、人種や文化の違いを超え、国と国との紛争や対立を超えて、世界の仲間と交流を深め、親善をはかることにこそ、オリンピックの意義があるのではないかと思っていますが、オリンピックの関係者は、メダルの数だけを目標に自分達の生きがいを感じているんでしょうか? 結果は後からついてくるんですよ! これは、教育の問題と同根ですよ!( Jun. 29. 1999 )


 空梅雨かなと思っていたら、遅がけに雨と風のお見舞いですね。雨が無かったので、里芋が枯れるのを心配して、毎日川から水を運んで撒きました。人が撒く水の量と言うのは労力の割には少ししか与えられないものです。沢山撒いたつもりでも、畑の表土を剥がして見ると、ほんの僅かしかしみこんでいません。自然の雨の力にはかないません。でも、やっと雨が降って全ての緑が生き生きと蘇った感じですね。今年の「あじさい祭り」では、アジサイの花が水ッ気がなくてかわいそうでしたよ。だから庭のアジサイには水を切らさないようにしました。所詮、人間は自然に逆らえないってことですよね?

 ところで、NHKテレビでのETV特集「アマゾン森の精霊にきく・元シャーマンが描く神秘」を見ましたか? 私も録画するつもりでいて、習い事にまぎれてすっかり忘れていました。気がついたのは終わりの方でした。むろん、シャーマンの考え方や行動は科学で裏付けられる範疇に無く、オカルトの分野です。しかし、最後に語られる「私は(幽体分離して)外から地球を眺めたときに、地球の荒廃の様子がつぶさにわかりました。(私の)近くにいる精霊たちも非常に憂い悲しんでいました。地球は人間だけのものではありません。全ての生物のものであって、人間だけの欲望のためだけに自然を破壊することは許されるものではありません。」

 今私達に求められるものは、人間の自然に対する畏敬と本来備わっている感受性と叡智を目覚めさせることなのではないでしょうか? 科学万能を過信して自然を破壊し、人間としての倫理までも失おうとしている現代への警鐘でしょう! 時を同じくして、日経新聞の第二部に、アジア科学技術会議の基調講演が載りました。「自然との関係見直す時」という見出しで、中国の陰陽説や輪廻転生という概念に触れられています。これらはオカルトの分野を正当に認定しようと言うことではないかもしれませんが、現代科学の行き詰まりを示唆しているのかも知れません。

 はからずも同時にマスコミに取り上げられたこれらに共通することは、偶然、いま私が追及しようとしている宇宙と人間の関係を明らかにしたいことと同じような気がします。友人が問いかけた「魂ってあるの?」から始まったことです。現代医学と「気」に代表される東洋思想、東洋医学の関係にも同じことが言えると思うのです。WHOで健康の定義に「Spiritual(魂)」が付け加えられるのも、決して偶然ではないと思うのです。
 そして、ついに「魂」を持たない人間、いや人間型ロボットを科学技術進行事業団の研究グループが開発して6月24日に公開したそうです。 ひょっとすると高度な知能も持つようになるかもしれません。でも「魂」は人間にしか与えられていないのだそうですよ。
 はたして、現代科学をよりどころにして、体験や現象だけでは信じられず、科学的(?)に立証することを唯一の生きがいとしている「学者」と呼ばれる「科学者」達は、これらについてどう考えているのでしょうか?
 地球が、人類いや全生物が、科学技術の発展の代償による自然環境の破壊が、修復できなくなる前に、どうしてもその結論を必要としているのです! ( Jun. 25. 1999 )


 またまた『気』の話です。美化デーの奉仕作業で、厚鎌を振るって川沿いの雑木をなで斬りする力仕事の後、ついでに自宅の庭木の剪定をして、鋸で枝を切ったりしたためか、右手の親指と人差し指との股のところに、血豆のような凸部ができて痛くて仕方がありません。針で潰してしまおうとも思いましたが、化膿するといやなので、先日のように「気」を出して治らないかと考えて、風呂に入ってから深呼吸をしながら、痛む凸部に意識を集中しました。
すると、どうでしょう、10分位で凸部の赤みが少し薄くなってきたではありませんか。痛みも和らいできたような気がします。風呂を上がってしばらくすると、凸部はほとんど無くなっていて痛みもなくなりました。少し赤みだけが残っています。

 今日はまた別の出来事がありました。仕事から帰ってきてソファで休んでいると、今日は忙しくて、階段の昇降も激しくて足が疲れたせいか、左足の小指が痙攣を始めました。それほど痛くはありませんが、痙攣が続いているのは気持ちの良いものではありません。柳の下のドジョウではありませんが、またまた「気」を試してみることにしました。
意識を集中して深呼吸を続けます。簡単には収まりません。しかし、深呼吸を10回位やる間に、痙攣は収まりました。しばらくは収まっていましたが、その内にまた痙攣が始まりました。再び「気」を出します。また痙攣は止まりました。不思議ですねぇ。ウソでない証拠に、妻がこの事実を確認して「気味が悪いわねぇ」と言っています。

 私は右目がひどい近視で、疲れてくるとテレビが良く見えません。ついついテレビの近くへ座ることに成ります。しかし、最近「気」で見る事を試しています。
どう言うことかと言うと、深呼吸をして心を静めてリラックスします。遠くから(と言ってもせいぜい3m位ですが)テレビ画面の見たい個所(全体ではなく特定の部分、例えば好きな女優の顔とかを)に意識を集中させ、「見える、見える、見える…」と呪文を唱えるようにして、自分の意識に働きかけます。すると、次第に女優さんの顔の輪郭がはっきりしてきて、その内に顔が明瞭に見えてきます。それにつれてテレビ画面全体もはっきり見えてくるのです。
何故かは、よく分かりませんが、多分、自分の意識が身体全体の調節系に働きかけて目の神経や筋肉を働かせて見えるように調節するのではないでしょうか? 信じられないような不思議な現象です。ウソではありません。事実なのです。しかし、現時点では、意識を集中させている間だけしか見えません。

 「気」は、別に特別なものでもなさそうです。誰でも、こういうことは出来そうです。但し、身体をリラックスさせるための呼吸法(深呼吸や瞑想法など)の訓練と意識を集中させる訓練が必要なようです。「気」を出すと言うと、どうしても手や身体に力が入ってしまいますが、力を抜いて意識を集中させるのです。目は閉じていても(瞑想の形でも)かまいません。そうすることにより自分自身の身体の機能が活性化して自然治癒力が高まるのでしょう。私も、呼吸法の訓練を始めてちょうど1年になります。
 誰でも少し訓練すれば出来ることですので、健康のためにもお奨めします。最近出版された『誰にでもできる「気」のコツのコツ 保田 隆著  講談社刊』を入手しましたが、これは、とてもやさしく面白く「気」を理解し、会得できる本だと感心しました。一度本屋で覗いてみて下さい。きっと人生が変わります!?( Jun. 21. 1999 )


 “100m 9秒79”というすばらしい世界記録が、アテネの国際競技大会でアメリカのモーリス・グリーン選手によって達成されたそうですね。
10秒を切った9秒95の記録(いずれも電気計時)は1968年のハインズですから、0.16秒縮めるのに何と31年もかかっています。それほど短距離のスピード競技は難しくなってきたんですね!
 しかし、日本のエース、伊東浩司選手が、平塚競技場で未公認(手動計時)ですが、9秒9をマークしたそうですから、電気計時なら、ひょっとして9秒79位の記録に成っていたのかもしれませんよ。これからが益々楽しみになってきましたね。

 話に水を差すようですが、私も昔は短距離が好きで、中学1年生になった時に100mを13秒5で走りました。(クラスで2,3番目位でしたよ)その頃の中学生男子の記録は11秒8位だったと思います。女子の日本記録は12秒そこそこだったので、私は少なくとも女子の記録以上で走れるようになりたいと思いました。(練習もせずに、ずいぶん生意気でしたね!)
 就職してからも柔道を練習するかたわら、足腰を鍛えるためにランニングを欠かしませんでしたが、29才になった時に100mの記録を取ってみました。むろん遊びのつもりですが、その時に12秒8位の手動計時が出て何となく12秒に近づいてとてもうれしかった記憶があります。もちろんその頃には、女子の日本記録は11秒台になっていましたが…。でも、速さは別として、社内駅伝では連続10回(10年間)出場で表彰を受けました。

 ところで、100mの記録はいったいどれ位まで縮まるんでしょうか? 果たして8秒台に到達できるのでしょうか? 問題はスタートダッシュにかかっています。如何に早くスピードに乗るかによりますね。それと如何に空気抵抗を少なくして走るか、それに推進力となる接地力と蹴る力の強さ(スポーツカーでいうダウンホースとトラクションの関係)でしょうか? いやいやそうではありません。全てを決めるのは「意識」と「リラックス」です。全身の不必要な筋肉に力を入れずに、如何にすばやく足(身体)を前に進めるかにほかなりません。全ては意識が身体を動かすのです(当たり前のようで我々は出来ないのですよ)。そのための訓練が今後ますます必要になってくるでしょう。むろんこれらの訓練については、すでに『気』の研究者でもある運動科学研究所長の高岡英夫氏の指導が行われているに違いありません。(「高岡英夫は語る すべてはゆるむこと」 松井 浩著  総合法令出版刊 を参照して下さい)
 ではまた「気」のつづきをお楽しみに! ( Jun. 18. 1999 )


 男のロマン! 男の夢!(男女差別か? テニスの伊達公子さんも現地で応援していたぞ!) ル・マン耐久レース!
 カーキチでなくても胸躍らすバトル24時間の様子を、眠い目をこすりながらTV実況放送に一喜一憂しました。わが日本勢の俊足トヨタの3台のTS020と今回はシンプル・イズ・ベストとオーソドックスにまとめたニッサンのR391(残念ながら予選で2台のうち1台がクラッシュ!)の22号車に期待していました。それに対するAMGメルセデスCLRやBMW V12 LMRなどの外国勢との激しいバトルは、一瞬も目を離せません。時速300Kmを超えるスピードは、わずかの判断ミスや操縦ミスがスピンや接触につながり、大きな事故を引き起こします。車の性能以上に運も大いにあるとも言います。最善を尽くして、あとは神に祈るのみでしょう。

 大方の前評判は、スピードと安定性を誇るトヨタの独走に対して、メルセデスや初出場のBMW勢が如何に追撃するかに話題が沸騰していました。スピードの遅いニッサンR391は問題にされませんでした。スタート時点では14位についてはいましたが、トヨタT0020やベンツ、BMW等とのスピード差は歴然でした。それに1台しか無いので、完走させるためには慎重にならざるを得ないでしょう。しかし、昼夜ぶっ通しのレースでは、燃費の良さや夜間走行での視界の確保、ドライバーのピットコック内での温度上昇の抑制なども、マシンの走行性能以上に重要なポイントになってきます。

 大変なレースになってきました。快走していたAMGメルセデスが宙に舞い上がりコース外の道路下に叩きつけられてクラッシュするというアクシデントが発生し、ドライバーは奇跡的に助かったというものの、別の一台も含めてリタイヤすることになってしまった。トヨタTS020の3台も2台がクラッシュしてリタイヤし、4位まで追い上げてきたニッサンR391も電気系の故障で立ち往生してリタイヤという結果となり、予想もしなかった初参加のアウディR80ロードスターと、1台きりとなった片山右京、土屋圭市、鈴木利男チームのトヨタTS020の3号車との熾烈なバトルとなりました。
 ところが、そう簡単にはル・マンは終わりません。先頭のアウディ R80が、残り少しのところでスピンしてリタイヤし、ゴールまであと30分のところで、続いて片山右京のトヨタTS020のタイヤが突然バーストするというアクシデントが発生し、レースの行方は全くわからなくなりました。

 いよいよゴールです! トップでチェッカーフラグを受けたのは、何とBMW V12の15号車! 2位は、よくぞガンバった日本人ドライバーチームのトヨタTS020の3号車で、勝利の女神、伊達公子さんの迎える笑顔がすてきです。3位と4位には初出場のアウデイR8、5位はBMWの18号車、6位にクラージュC52ニッサンの順となりました。45台中、完走は23台でした。今年もアクシデントに始まり、アクシデントに終わる壮絶バトルでした。それでは皆さん、おやすみなさい! ( Jun. 14. 1999 )


 今日6月10日は、時の記念日でしたよね。毎日不規則な生活をしていて、今日が何日やら何曜日やら、てんで混沌としていますし、時間だって、遅寝おそ起き、目覚し時計も何のその、ですからねぇ。時は二度と帰らないんですから、 そら言うでしょッ「少年老いやすく、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず......」と。
早寝早起き健康のもと! インターネットでの夜更かしも、いい加減にしましょうねッ

 やりました〜ッ! 阪神タイガース! 単独首位! 阪神フアンと致しましては、ノムさん大明神で足を向けては寝られません! それに、阪神首位の陰には、何と最下位、宿敵巨人ジャイアンツの中日ドラゴンズいじめの3連勝が大いに寄与しているのです。これから甲子園での阪神−巨人3連戦が待ち構えています。調子を上げている長島巨人に3タテを食わないようにガンバッてねッ! 今年こそ念願の優勝を期待してますょッ! ( Jun. 10. 1999 )


 「AIBO ERS=110」何だか分かりますか? そうです! ソニーの発売するロボット犬です。25万円もするそうですが、予約の3000台(匹?)はすぐに売り切れたと言いますから、ビックリ仰天です。同じように玩具のトミーが発売した、しゃべる人形「ファービー」(3980円)も発売当日に何と20万体完売だと言いますから、不況なんて何のそのですね! いくらペットの飼えない住宅事情があるにせよ電子ロボペットがもてはやされるとは異常事態ではないですか? 確かにロボペットは手間が掛かりません。こちらの言う通りになりますよ。故障すれば簡単に修理が出来ますよ。いらなくなればゴミ箱へポイッと出来ますよ。しかしペットという生物は、飼い主の愛情が必要だし、相手のペットの感情も大事にする必要があります。人と動物との信頼関係で結ばれているものですよね? 餌も必要だし、身体も洗ってやったり、糞の始末や病気の看病も必要です。旅行に行きたくても連れても行けません。やがては死が訪れるのです。部品交換で生まれ変わることも無いのです。子供が命の大切さを学ぶのは、生きているペットからなのではないかとも思えます。私も小さい頃、ヒヨコを飼ったり、小鳥の世話をしたり、ネコと戯れたりして、動物を通して愛情と信頼関係や死の悲しさを学んだように思います。
 ロボペットがもてはやされるのは、人間関係から逃れようとする現代人の悲しい願望なのかもしれません。インターネットやコンピュータ・ゲームにのめりこむのと似ているような気がします。確か「たまごっち」がそうだったような気がします。世話が掛かるのと、本当に愛情によって動物を世話するのとは根本的に違いますよね。

 都会のマンションの一人暮らしの若者や女性が、コンピュータの傍らでロボペットとの会話を楽しんでいる夜の景色を、想像するだけでも気味が悪いですね。最後には人間だって「ロボット」の方が面倒無くていいよねってことになったら、笑い事では済まされませんよ! ( Jun. 7. 1999 )


 いま「エドガー・ケーシーのすべて」(高橋朋宏・鈴木七沖編  サンマーク出版刊)を読んでいます。ご存知かもしれませんが、エドガー・ケーシーは催眠による患者の深層意識からの情報を読み取ること(リーディングと言っています)によって、患者の病気の原因と治療法を指示して病気を治療した20世紀初めの高名な超能力者といえましょう。当初ケーシー自身が声のでない病気に侵されて、それを催眠療法士のアル・レインによって催眠に入った時に、ケーシー自身が自分の喉の病気の原因と治療法を伝えた。覚醒してからケーシー自身は、自分のしゃべった内容は何も覚えていなかった。この能力を確信したレインによって共同で治療院を開き、患者の傍で催眠に落ちいったケーシーのリーデイングによって治療を行い大きな成功を収めたそうである。そして、これが単に超能力と言うだけでなく、リーディングの結果が記録として残されていること(約14,000件)であり、改めて超能力の実在を証明したことである。
 ケーシー自身は特別な人物でなく、保険の外交員だったそうであるが、このリーデングの能力は前世において霊的訓練がされていたことが、後にケーシー自身のアカシック・レコード(宇宙には、宇宙創世以来のすべての記録が...むろん個人個人についての記録も書き込まれていて、不確定ではあるが未来についての予言もある)を読み取ることにより判明したそうである。(アカシック・レコードを読み取った記録については「アガスティアの葉」 青山圭秀著 などを参照されたい )
 エドガー・ケーシーは、リーディングによる治療に一生をささげたが、恵まれた境遇になかった。しかし、その意志は受け継がれて、バージニアビーチにケーシーが設立したARE(研究と啓蒙のための協会)の本部があり、そこでは、膨大なケーシーのリーディング記録(CD−ROM版も1993年に発売された)や文献などが見ることが出来、多彩な活動内容を知ることが出来る。
何故、エドガー・ケーシーをと思われるでしょうが、最初「気」の話から出発して、友人からの疑問により超能力について調べるはめになり、「サイババ」等について調べるうちに、人は元来、超能力を有しており、近代科学の発達によってそれが失われてきていると言うことがわかり、その超能力と呼ばれるものの代表的なものが「エドガー・ケーシー」のリーディングとヒーリング(癒し...治療と呼ばないのは、自分自身が治癒する能力を持っていると解釈されている)に帰着したと言うことであり、因果はめぐる不思議である。
 またまだ我々は、人間自身についても、宇宙の仕組みについても知らない事が多く、科学万能と信じ込んで科学で証明できないものは「オカルト」として、疎外してきた。科学が行き詰まった現在(まだまだ行き詰まっていないと信じているあなた?)、世界では、現代科学以外に現状打開を求め始めている。むろん、日本にもその潮流はある。火力発電による大気汚染よりも、原子力発電が環境にやさしいとか、自動車はハイブリッドか燃料電池でなきゃ、などと言っている時期はもうすぐ終わりになるかも知れないですよ!( Jun. 3. 1999 )


 またまた「気」になる話で恐縮です。先日、私が指先から『気』が出るようになったと言いましたが、本当は「気」が出ているのかどうかはわかりません。しかし、指先の感覚は確かに変わったのです。それが証明できたのは、お風呂の中で呼吸法の練習をしてみた時でした。何故お風呂の中でかと言うと、人は皮膚呼吸をしているため、身体を湯の中に浸していると十分に呼吸が出来ないのです。そのため呼吸力の訓練はお風呂の中が最適だと思ったからです。ところが、上半身浸したままで、まっすぐ手を伸ばして深呼吸を行ってみると、吸気のときは何とも感じなかった指先が、息を吐き出すにつれてしびれてくるような感じ(熱いお湯に入ったときもそうですが)になってくるのです。良く観察すると、手の血管が膨張して指先の毛細血管まで血流が良くなることが分かりました。ちょうどシモヤケの手をお湯に浸したときと同じ感じになるのです。その感じが、ちょうど指先から「気」が出るように感じるのだと分かりました。普段気がつきませんが、深呼吸をしていない時の私達の指先の毛細血管までは、十分血液が流れず鬱血状態になっていて、指先の感覚も鈍くなっているに違いありません。

 『気』が出ると言うのは、五体の末端の毛細血管まで血流が盛んになり、感覚が鋭くなると言うことではないかと思いました。当然、血流が良くなることにより健康にも大変良く、心身の活動も盛んになり、病気に対する自然治癒力も強化されてくるのではないでしょうか?
 ぜひ、皆さん方も朝起きた時と夜寝る前に、腕を水平にまっすぐ伸ばして、腹式呼吸でゆっくり鼻から息を吸い込み、もうこれ以上吸い込めなくなったら、今度は口からゆっくりと息を吐き出して、最後はお腹をへこませるようにしてすっかり吐き出すという深呼吸を8回位実行されることをお奨めします。きっと健康な身体になると確信しています。吸い込みと吐き出しにそれぞれ15秒以上(1呼吸に30秒)、出来れば30秒位かけてゆっくり深呼吸できるように訓練すると良いようです。武道についての呼吸法については、また、機会を見てお話しましょう。( May. 30. 1999 )


 今日は武道館で全日本合気道演武大会が催されました。今回は、植芝吉祥丸前道主が1月4日に入神されて追悼記念大会となりました。私もOBとして久しぶりに出場させてもらいました。ケガでもすると大変なので、今朝は6時前に起きて、5Km程のランニングと呼吸法の体操をして出かけました。全国から、否、今回は世界の各国からの参加があり意義深い一日となりました。後を継がれる植芝守央道主の演武も見事なもので、ほっとしました。先代と比較されるので、若い道主としては大変なことでしょう。
 それにしても、本部道場の師範の先生方よりも、各地方に道場を持たれている師範の方がすばらしい演武をされていたと思ったのは僻目でしょうか? 確かに合気道が一般的になり、全世界に広められたのは良いことでしょうが、やはり武道としての合気道の本流も継承していかねばならないと思います。勝敗だけにこだわる国際柔道の二の舞を踏んでもらいたくないと思うのは私だけでしょうか? 見世物の演武や美容体操のための合気道だけでもないはずです。武道の神髄を追求してこそ意義があるのではないでしょうか。

 絶滅を心配されていたトキの孵化が確実なようです。中国から贈られたヤンヤンの産んだ卵が無事に孵化して、初めての人工増殖に成功したそうです。トキの学術名はニッポニア・ニッポン、正に日本の鳥です。元気に育ってくれればうれしいですね。
 しかし、人工増殖の手を借りなければ絶滅する身近な生物が増えていることは、大変悲しいですね。全て人間中心での開発がそれらの種を絶滅に追い込んでいるのですよ。メダカしかり、ドジョウしかり、タニシしかり、今に人間も、人工増殖しなければ少子化が食い止められなくなるのではないかと心配しています。 ( May. 22. 1999 )


 「サイババを信じるか?」友人が私に問い掛けました。恒例の入社同期生の6人が保養荘に集い旧交を温めています。その席で私が「気を出す」と言うことについて話し、人間の超能力はもともと備わっているものらしいと言う話しをして議論している時でした。「サイババ」とは、以前スプーン曲げなどでユリゲラーという超能力者のことがテレビなどで話題になったとき、インドの超能力者として空中から品物、例えば指輪とかネックレスとかを自由に取り出す(物質化と言っています)ということで騒がれた聖者のことです。
「さあ、わからないなあ」と私。「じゃあ、幽霊は? お化けは?」矢継ぎ早に問い掛けられて私は困ってしまいました。「多分、見たという人は確かに見たのだと思うよ。しかし、それが一般的にこの世の中に存在するのかどうかはわからない。それは、人間の深層心理の中にあるのかもしれない。人間や宇宙そのものについても良く分かっていないし...」歯切れの悪い私に、「やはり科学で証明できないものは信じられないよ」とは、別の友人の言葉です。
 自分で言い出した超能力とか魂の存在に関連することですから、調べるほかありません。あちこちの本屋をまわって、関連するような本が無いか探しました。ありました! サイババに関するものを数点見つけました。その中から一冊「真実のサイババ 青山圭秀著 三五館刊 」を購入しました。青山圭秀さんは、真実かどうかを調べるためにわざわざインドのプッタパルティ村まで出かけられたそうですので、ウソとは思えません。
 それによると、魂は明らかに存在し、輪廻転生が行われるそうです。サイババは神の化身として2度生まれ変わって来たと言います。肉体は単に物質で、死んでしまえば土に帰るだけのようです。魂は何度も生まれ変わり、正しい生き方をすれば次第に高い霊(霊性の)となり、地球の人間に転生せず別の世界へ転生するのだといいます。宇宙には別の世界がたくさんあって、地球の人間はその中でも最も程度の低い霊の人間らしいのです。サイババが物質化を行うのは、地球の人間にサイババが神の化身だと納得させるために近道だと思うからなのだそうです。この本に記述されているサイババについて全てを語ることは出来ませんが、信じるか信じないかは、自分で確かめるほかありません。しかし、サイババの語る言葉は、全て人の道の正しさを述べています。特に超能力について強調しているわけでもありません。信じるかどうかと言われれば、やはり信じるしかありません。物質化については、実際にみてはいませんので何とも言えませんが、神の化身であれば出来るのかも知れません。

 それとは別に、いま宇宙の成り立ちについて、現代科学の理論にいささか疑問もあるので、それらに関する本を数点読んでいます。(「宇宙論の危機」 マイケル・D・ルモニック著 小林健一郎訳 講談社刊 )疑問の一つは、重力が何故発生するのか。もう一つは真空で何も無いところを、どうして光が進めるのか、ということです。調べる内に、現在正しいと考えられているビッグバン理論はどうも間違っているらしいし、宇宙は真空で何も無いのではなく、その昔、光の媒体としてエーテルの存在が示唆されていましたが、現代科学で検出できない素粒子(ダークマター)により満たされているのではないかと言われています。それゆえアインシュタインの特殊相対性原理は正しくなかったといわれ始めていることが分かりました。
 このように現在正しいと思われている理論も、必ずしも永遠に正しいかどうかは分からないし、我々の知らない世界がまだまだあるのです。我々は三次元世界に住み、それより高次元の世界のことは分かっていません。だから、現代科学で証明できないものを全て否定するのは間違いだと思いますし、いまここに実存する現象を、まず肯定することが必要でしょう。単に偶然じゃないかというだけではなく、偶然も確率だけの問題です。確率が低いからといって無視するべきではないでしょう。
 だから言うのではありませんが、すでにご存知のごとく、私は『気を出す』訓練を続けていますが、西野流呼吸法の運動の際、今まで腕を大きく回しながら息を吐く時に両手の指先から「気が出る」と言われていますが、今までそんな様子も無く、ウソだと思っていましたところ、最近、指の先端から「気が出る」ような感じがするようになりました。自分の身体の中から何かが外へ向かって放射されるようで、とても気持ちが良くなります。息を吸う場合には、そのような感じはありません。
 そして、これも不思議なのですが、ある日、歯が痛くなり我慢できず困っていました。ちょうど尺八の練習日なのです。時間も迫ってきて「ままよ、自分の手で歯痛の部分に「気」を当てれば良くなるかもしれない」と思い、10分程「気」を当てるしぐさを続けました。なんとなく変な感じがしていましたが、歯の痛みはいっこうに収まりません。時間が来たので仕方なく練習に出かけました。ところが不思議なことに先生のお宅に到着し、練習を始めようとしたら歯痛はうそのように無くなっていました! これも偶然かも知れません。妻が心配して準備してくれた秘伝の(?)うがい水や鎮痛剤も無駄になりました。

 あなたは信じることが出来ないかもしれません。しかし、事実なのです! 信じるか信じないかは、貴方が決めることなのです。( May. 15. 1999 )


 旅をこよなく愛し、自然と風景を追い求めた日本画家、東山魁夷さんが亡くなりました。また一人惜しい人をなくしました。1947年に「残照」で画壇にデビューされたそうですが、その後一貫して自然の風景を奥深いタッチで、見る人を感動させてこられました。
 「人は自分の意志で生まれてきたわけでもなく、また、死ぬと言うことも、大多数は自分の意志ではないと思います。自分の存在は、自然に生かされていると言うことではないかと思います。人以外の生物も、木や草とかも、同じように、この世に生かされているんではないかという気がします。ですから、自然を相手に絵を描き続けてきました。」と自分の人生を振り返って語られています。

 人が人らしく生きるとは、自然のあるがままに、また自然を愛し、自然に感謝して生きなければいけないのではないでしょうか? 絵の中に常に人の道を追求されてきた東山魁夷さんではなかったかと思います。哀悼の念とともに、ご冥福をお祈り致します。

 長野県信州美術館 東山魁夷館で、その作品や著書を見ることができます。( May. 12. 1999 )


 NATO軍の中国大使館への誤爆によって益々問題がこじれてきた。
 ノストラダムスの予言に、「世紀末に第3次世界大戦が、中国とロシアの参戦で始まり、日本が解決のために立ち上がる」との解釈もあるらしいが、あながち空想の世界でもないような気がしてきた。
 コソボ問題は、もともと民族間抗争であり、ユーゴの内戦に対して米英などが加わって空爆と言う戦闘手段によって解決を図る方法は最善策とは思えない。こうなった以上、あとは国連の場で、唯一戦争放棄を掲げている日本が解決に向けて、主導権を発揮するしか道はないと思う。はたして日本政府の外交の実力は如何に?

 日米の安全保障に関するガイドラインが討議されている現在、いつまでもアメリカに対して追従することではなく、日本が世界の中でどうあるべきなのか、世界平和に対してど う貢献できるのかをよく考えて、石原慎太郎氏の言う「NOと言える日本」にならなければならないのではないだろうか? 無論、外交問題はそう簡単ではないことは承知の上で、身を挺してでも、必要なことをはっきり提言すべきだと思う。( May. 10. 1999 )


 「日本人の忘れもの‥‥‥相手に生かされる道をさぐる」 雑誌 WEDGREの5月号に文芸評論家であり大阪女子大学学長の中西 進さんが書かれている。現代の経営者への批判であろうか。「まけるが勝ち」という商人の知恵は、あなたの言い分を受け入れて、「また、どうぞご贔屓に」と言うことで、「まける」は、敗北を意味することでは毛頭ないことは明白である。元来、日本人は謙虚さを好み、他人のために働いて自分を生かす道を求めている。と言うことではなかろうか。
 また別のページに「人材ではなく人財である」という佐々木征夫さんの文がある。それによると、最近の経営者は責任をとらない。経営の不振をリストラで多数の人員削減をしながら、トップはリストラ(人員削減。ていの良い首切りか?)が自分の仕事のような顔をしてすましている。トップ自身がそのことで責任を取って辞任することこそリストラに対する率先垂範だと思うし、先ごろ経営同友会が企業白書で「赤字経営が続く場合は、出処進退をはっきりさせよ」と指摘しているというのも、これらの事態を見るに見かねてのことか?

 仏教で言う「本願他力(他力本願)」は、自分が最善を尽くした上で弥陀の力をお願いすることで、自分の責任を他人に転嫁して、弥陀にすがろうなどとはもっての外ではなかろうか。
 自ずからの精神を高めて、人が本来有るべき姿に戻らない限り、明るい21世紀は来ない。従業員を、機械か材料のように考えている経営者は、来世は闇の世界しかない。新世紀のノアの箱船にも乗せてもらえず、世紀末の大洪水にのまれる運命となろうか。( May. 8. 1999 )


 WHO(世界保健機構)で、健康の定義に従来のPhysical(肉体的)、Mental(精神的)に対して新たにSpiritual(霊あるいは魂の)を加えるようになりそうだ。Spiritualという語は、日本語に訳すと『霊』とか『魂』ということになって、極めてオカルト的な意味合いで科学的な根拠が薄いように思われるが、宗教上や哲学的には何ら不思議ではないし、古来より悟りにより人を救う道があったし、病気を癒す術として用いられてきた。現代の科学文明の発達にしたがって、これら「霊」とか「魂」の概念は、科学的に証明できないものとして排除されてきたように思われるが、現代科学の行き詰まりによって、改めて現代科学で証明できない領域に何かがあるものとして見直されて来たものと考えられる。実際、東洋医学においても経験的に「人体のつぼ」即ち経絡の刺激によって治療したり、「気」とか「気功」とか言うものによって、人の健康に寄与することがわかっている。これらは共に肉体的でも無いし、精神的でも無いと思われ、人間の無意識あるいは意識外に人間をコントロールしている何かが存在しているものと考えられる。急激な科学の発達によって、置き去りにされてきた、もともと人間が持っていた意識外の能力(しばしば超能力と言う言葉で表現されてきた)を認めようとしている動きかもしれない。

 地球が現代科学文明によって環境汚染やエネルギー問題を引き起こし、民族間抗争などの戦争やテロ事件に先行きが不安になり、これ以上現代科学による打開の道は無い現状から、21世紀は全く新しい文明に転換する世紀であり、新しい文明とは、現代科学の及ばなかった人間の超能力や宇宙エネルギーによる文明になるという説もある。(「宇宙と人間の謎」 深野一幸著 成星出版刊 )さて、貴方はそれを信じますか?( May. 5. 1999 )


 今日は「みどりの日」。みどりの日ってのは何なのかな? うちでは珍しくピンクの牡丹の花が6つも咲きました。藤の花も遅咲きの桜ももう終わりです。チューリップは、オランダのチェルブルグ市と南足柄市は姉妹都市ですので、どこの家にでもあると思いますが、もう盛りを過ぎましたね。君子蘭が今正に花びらを開こうとしています。ライラックも可憐な花をつけています。庭はいま花盛りです。春はいいですねぇ!

 天気もあまり良くないので、のんびり新聞を見ていますが、相変わらず恒例の叙勲の記事が大きく紙面をとっています。その昔、義父も地方自治の功労者として旭日章とやらをもらいに皇居まで参内しましたが、勲章の意義については何とも良く分かりません。推薦段階で対抗馬(?)と悶着があったとか、無かったとか聞きましたが、もらったところで人間の値打ちが変わるわけでも無し、勲章よりもその人の人間性が大事なのではないかと思います。  新聞の記事から、勲三等まで462人の内、どんな人が授賞しているのかを調べて分類してみたら、次の通りになりました。

  1.政治家(知事、市長、県市町村議を含む)            35人
  2.教育者(名誉教授、学長、教授)                 187人
  3.国家・地方公務員(教育者は含まず)               162人
  4.会社社長、会長                                    33人
  5.その他                                             45人
     (うち、文芸評論家、歌舞伎俳優、洋画家、彫刻家 各1)
 政治家が以外に少ないのに拍子抜けしましたが、それでも、勲一等のほとんどは政治家で占め、おまけに問題の多い埼玉県の知事がトップの勲一等旭日桐花大綬章とは恐れ入りました! (産廃問題片付くまでは、タンポポの花の勲章でたくさんですよねッ)

 紫綬褒章を授章された作詞家の阿久 悠さんは音楽界の現状を憂いて「最近はミュージックはあるがソングがない。言葉で聴かせる歌がない。ファンでなくても『この歌はいいよね』と言える広がりがない」と言います。
 私も阿久 悠さんと同じ年齢ですが、近頃の、頭のてっぺんから出す金切り声の、意味もよく聞き取れない早口なコギャルの歌には、上手下手以前に、とても心が休まる気がしません。これは、わざとディレクターが若者の嗜好を高音へとシフトさせているのだとも聞きましたが‥‥‥。
 人の耳に対する音の不快域は7000Hz付近にあるので、ちょうど現代の歌の音域がそれに近くなってきているのではないかと思っています。
 ベースやドラムなどの低音を、わざとブーストしているコンサートも気分が悪くなるだけで心休まる音楽とは言えませんねぇ。(オジンにはその良さが解らないだけだょってか?)
否、やはりさりげなく流して聞こえてくる情緒的な音楽が精神衛生上も良いのと違いますか?( Apr. 29. 1999 )


 リトルトンの高校での二人の生徒による銃の乱射で、図書室にいた生徒達に多数の死傷者が発生した事件は、現在のクリントン政権のアメリカの問題点を浮き彫りにしたものだと考える。すでに想像がつくだろうが、湾岸戦争やNATO軍に加担して無抵抗の相手に危険があるとしての徹底したミサイルや空爆による武力行使。また市場経済問題においても、自国の主張が通らねばスーパー301条を振りかざしての無理無体。戦後50年も経つのに両国の安全保障のためとばかりに、占領国と同じように多くの軍事基地を日本の国内に配置し、戦力武装配備を当然とする姿勢は、正に、ミリタリー・ルックに黒のトレンチコートをまとい、手に拳銃とライフルを引っさげたクリントン・アメリカの姿ではないのか?

 報道によると、事件は銃社会のもたらしたものであるし、人種差別等の偏見が引き金になっているというが、それが原因の一部ではあっても全てではない。それが証拠に、ニューズウイーク誌が2回にわたって幼児教育の特集を組んでいるのは、アメリカ社会において子供の教育に危機感を募らせている結果だと思う。教育の問題は、単にアメリカだけではなく、アメリカナイズされてきている日本においても、同じような問題が生じているのはご存じの通りであろう。日本経済の破綻も、金と欲(権力と名誉か?)、科学万能で「心」を置き忘れてきた結果ではなかろうか? 温故知新、東洋の思想を現代は改めて必要としているのではあるまいか。( Apr. 22. 1999 )


 長い沈黙を破って、ついにホンダのスポーツカーS2000が発売されましたね!
 その昔、ホンダS360って車がチエン駆動か何かでありましたね。ホンダが初めてオートバイから四輪自動車に乗り出した時のことが懐かしく思い出されてきます。
ホンダファンにとっては待ちに待ったその日が来ましたね。どこかのスポーツセダンなどと違って、2000cc、250馬力で2000年排ガス規制を50%以上下回るという、環境配慮にもぬかりはないですね。
 スポーツカーを礼讃するわけではないが、近頃街にあふれている不恰好な箱カーを見るにつけ、やっぱり車はFRで、胸のすくような赤いスポーツカーがいいねッ!(オジンの言うことではないか?)( Apr. 17. 1999 )


 全国の都知事選挙は終わりましたね。東京都の投票率は、前回より多少上がって57%程度だったそうで、やはり最近の選挙への関心の無さにはあきれます。わが南足柄市は、何時も70〜80%位ですが、今回の知事選挙では、何と47%のていたらくです。選挙権に対する権利および義務意識の低下は、救いようの無い世紀末ですね! 税金や自分の利害に直接関係するときは、驚くほど貪欲に権利を主張するんですがねぇ!

 都知事に当選した石原慎太郎さんも、当選直後の発言は、かなり自意識過剰な強気な姿勢に見えましたが、都の財政再建やら、構造改革やら、環境問題、はたまた国を相手に基地問題まで大変な課題を抱えていますから、急がずあせらず、しっかり頼みます。老人倶楽部の国会議員は頼りになりませんからねぇ。若い力(もう若くはないか?)を存分発揮して見せて下さい。先ずは、地方行政の改革こそが求められています。( Apr. 12. 1999 )


 今年のプロ野球は久しぶりに面白くなりそうですね。なにしろ阪神フアンである私は、先日の巨人との3連戦で2連勝したことは、野村阪神野球にとって幸先の良いスタートだと快哉を叫びました! また、西武のルーキー松阪投手が、155キロもの速球で日ハムを5回までノーヒットで押さえ、奪三振9というアッパレ初勝利は、いよいよヒーローの登場となりましたね。ちょっと最初から飛ばし過ぎで、肩を壊しはしないかと心配ですが、ヌーボーとした松坂君のことですから大丈夫でしょう。横浜がしょぼくれているとはいえ、まだこれからでしょうから、ますますプロ野球から目が離せません。( Apr. 10.1999 )


 改正男女雇用機会均等法が本日(4/1)より施行される。
此の度の改正によって男女の差別となる求人方法は罰せられる。男子のみを募集することや女子のみを指定して募集することは出来なくなる。また女性だからと言って男性と異なる給料や昇給なども差別とみなされる。その代わり、従来有った母性保護はなくなり、残業時間制限や深夜業も、女性だからと言う区別も無くなる。
 それ以外に職場での女性に対するセクシュアル・ハラスメントに対する配慮義務が企業に課せられる。

 しかし、これが男女同権の雇用機会均等法なのだろうか? 男と女は、もともと生まれた時から、医学的にも生理学的にも同一ではない。男は子供を産むことが出来ないし、そのため女には生理痛という厄介なものや、出産と言う男には無い苦しみが有る。そして、子供の成育には母の愛情を欠かすことが出来ない。「母性保護」とは、健全な子孫を産み育てるために、最も必要な思想ではなかろうか。

 男女同権とは、男子と女子の労働条件を同じにすることではないはず。今回の改正で、それらが考慮されなかったことは、将来に悔いを残すことにならねば良いが。
 不思議に思うのは、この改正に対して、女性議員や女性労働者からの反発も無いし、労働組合からも、何の反対も無かったことだ。女性の敵は、女性と言うが、強い女性はともかく、弱者に基準を置かねばならないだろう。
 4月1日だからといって、これは、エープリルフールで済まされることではないぞ!( Apr. 1. 1999 )


 NATO軍によるユーゴスラビアへの空爆が見切り発車してしまいました。イスラエルとパレスチナの争いと同様、アルバニアとセルビアの民族間抗争にNATO連合軍が加担しての空爆は、問題をこじらせこそすれ、解決を早めることにはならないのではないか?

 先の湾岸戦争やイラク「砂漠のキツネ作戦」といい、いつもこのような場合に、連合軍とは言いながらアメリカの力関係が大きくものを言っていることは否めない。はたして国連安保理の決議に基づくものかどうかは、はなはだ疑問も有り、国連としての機能が正常に働かなくなってきているのではないか? 国連理事国としての日本の見解は如何に? ( Mar. 27. 1999 )


 不審船2隻、日本海沿岸に出没 !! 日本の漁船名で偽装し、巡視艇をもやすやす振り切る35ノットもの超高速船。捕まえること困難と見て、ついに自衛隊の哨戒機の出動要請で威嚇のための爆弾投下という有様。相手の船はたくさんのアンテナを装備している様から考えて、あらゆる情報を受発信しているものと思われる。威嚇射撃もものともせず、36計逃げ足早く、北朝鮮方面と思われる海域へ脱出したと言うから、何と日本の防衛配備は頼りないことか! と思ったのは、私だけか?

 さっそく威嚇射撃やら威嚇爆弾投下に対して、過剰反応だとか不適切な処置だとか、野党からの声明が出たが、何故日本沿岸まで近寄らないと分からなかったのか? 拿捕出来なかったことに対する危機管理体制の不備などについての指摘は全く無かった。

 日本は平和ボケしてんじゃないの? もしも、仮に北朝鮮の工作船だとしたら、ひょっとすると、別に潜水艇などを潜航させていて、2隻の高速船は囮として注意をそらせるのが目的だったのかもしれない(真珠湾を忘れたの?)。そうだとすると、潜水艇はすでに日本沿岸のどこかに接岸しているのかも? 無防備?な不審船に対して、過剰反応だと言う位なら、こうした方が良かったのではないかと言う意見が先に有っても良いのではないか? 先にテポドンミサイルの発射実験といい、北朝鮮兵士の漂着事件や、韓国での潜水艦拿捕事件、核査察拒否事件など、北朝鮮に関する多くの問題がある現実をまず認識して、わが国の国土防衛や非常時のための危機管理体制をどうするか論じるべきではないのか?

 いつもいつも無抵抗平和主義だけでは、現在の緊迫した世界情勢に対応できないのではないか? 何も争いを引き起こす種を蒔くことは無いが、例えば、不審船などを衛星により監視し、発見した際には、停止させ調査できるような警備体制を作る必要があるのではないか? 巡視艇の燃料切れなど笑い話にもならない。威嚇射撃や効果の無いムダな爆弾投下で税金のムダ使いは止めてもらいたい。爆弾を投下するなら、不審船の進行前方へ投下し、船足を押さえて巡視艇が接舷できるように考えたらどうなの? ( Mar. 24. 1999 )


 今、私は中村天風という人に大変興味をもち、「天風のすべて」(サンマーク出版刊)という本を読んでいます。ご存知の方もあるかと思いますが、中村天風は「心身統一法」を説く哲学者とも言えるし、「クンバハカ」という呼吸法を行う気の行者でもあると言えましょうか。一般には「人が人らしく生きるとは何か」と言うことが天風の主張するところかも知れません。
 私が天風に興味を持ったのは、明治から昭和までの多くの有名人、例えば、山本五十六、昭和天皇などの皇族方や松下幸之助、プロ野球の広岡達朗などが薫陶を受けていると言うことだけではありません。

 私は、高校入学と同時に強くなりたいために柔道を始めた。最初はただ人からいじめられないために強くなりたいという動機からであったが、嘉納治五郎先生の柔道に対する考え方を知るにつれて、人の道の大切さも考えるようになった。
 しかし、柔道をやる以上は、他人より強くならなければ意味が無い。しかし、一方で柔道の技を力学的に解釈するやり方には納得がいかなかった。結局は力の柔道になってしまう。この時に、何だかわからないが、気(心)というもの、あるいは自然体(形だけではない)というものが大変大事なのではないかと考えるようになった。身体全身の力を抜いて、畳につけた両足から大地の気を吸い上げるようにすると、足が畳に吸い付いて相手は自分を倒せなくなるのではないか? 事実、それがうまくいった時は、高段者でも私を倒すことが出来なかったりすることがあった。しかし、これらは、偶然そうなったのかも知れないし、確証はないまま時が流れ、就職した後も練習を続け、更に20年後、関連会社に出向して、そこで合気道に出会い合気道に精進することになった。

 合気道は、相手を倒すことが目的ではなく、「気」によって相手を制することで、力の柔道に比して、和をもって尊しとする柔軟な武道と感じた。しかし、開祖植芝盛平伝(講談社刊)を読むに及んで、「気」と言う意味については、実際練習での技に対し、やはりまだ心に引っかかるものがあり、以前と同じ思いのままで練習を続けていた。

 そこで出会ったのが、西野皓三氏の「気の奥義」(翔伝社刊)であった。西野氏は西野バレー団で有名であるが、合気道の師範でもあった。しかし、合気道における「気」の原理を更に追求されて、ついに独自の「西野流呼吸法」を編み出されたのでした。私には、この呼吸法が今までの合気道よりも、ずっと自分の感じ方に近い「気」のように思えるものでした。西野流呼吸法も訓練しながら合気道に精進し、「気」を自分のものに出来ないままで定年を迎えることになりました。

 ところが、最近になって「気の確立」(藤平光一著 東洋経済新報社刊)を入手し、ここで中村天風と植芝盛平を師とする著者の話により、私が長い間もやもや感じていた「気」の問題について、ハッと目からウロコが落ちたのです。

 中村天風師の言う「心が身体を動かす」。すなわち心と身体は一体なのです。そして、私達は大地から、宇宙から、そのエネルギーを吸収して活動しているのです。だから、宇宙と一体になったとき(私の友人は訳がわからんと言っていますが、もし私自身が路傍の石になったとしましょう。私の体重は約60Kgありますが、60Kgもある石を簡単には動かせないでしょう。)、私の意思以外では、私の身体を容易に動かすことは出来ないのです。言うならば、これが心身統一法であり、「気を出すこと」になるのです。ヨガとか、座禅とか、瞑想とか、呼吸法は、そのための手段であり、修行なのです。

 自然体とは、自分が自然と一体になること(全身の力を抜いて自然にまかせる)であり、「気を出す」とは、自分の五体の全ての感覚を研ぎ澄ますことにより、外界のわずかな変化にも即座に対応できることであると言えるのではないでしょうか? 言葉では簡単ですが、これに到達するには容易ではありません。でも心のもやもやが40余年にして晴れ、ようやく解を得ることができて、今とても幸せな気持ちでいっぱいです。

 こんな経緯で、中村天風とはどういう人かと興味を持ったのです。私の妻も「天風のすべてを」読んで、天風の数奇な運命と出会い、それに人知を超えた摂理に、とても感動しています。ぜひご一読をお勧めします。( Mar. 29. 1999 更新 )


  血液検査で「愛を告白!」というのは大げさですが、イタリアの科学者グループが、恋人同士が本当に恋に落ちているかどうかを、血液中の特定のたんぱく質を測定することによって判定できる、ということを発見したそうです。さすが情熱の国イタリアらしいですね。そうすると、二股かけて恋愛中の人は、どう判定されるのでしょうか? まさか、2種類の型の違うたんぱく質が検出されるってことは無いんでしょうね?

 広島で、高校の卒業式に「君が代」を斉唱するように県の教育委員会から通達が出され、実施しようとした校長と教師達との間でもめ、悩んだ校長が自殺をするという痛ましい事件が発生しました。卒業式に「君が代」を唄おうが,唄うまいが、どうでも良いことではないのじゃないですか。そんなことにまで教育委員会が口出しをするんですか? それだけでは有りません。その問題を重要視したのかどうか知れませんが、内閣は「日の丸」を国旗として、「君が代」を国歌として法制化を、至急国会に提出すると言うことです。今まで「日の丸」はオリンピック用の旗、「君が代」は国技館のお相撲さんの歌と思っていたのでもないでしょうが?( Mar. 2. 1999 )


 昨日とはうって変わって雲一つ無い日本晴れです。富士山が真っ白に輝いて見えます。
 今日は、地域福祉会の廃品回収の日で、朝早くから慣れない軽トラックを運転して部落を走りまわって、各家庭から新聞紙や広告のチラシ類、雑誌、アルミ缶やビール瓶・一升瓶、ダンボール、ぼろ衣類を収集して廻ります。
 福祉会員は、ほとんどが老人会員なので、この力仕事は年々大変になってきています。しかし、これは貴重な活動資金となるので止めるわけにはいきません。各家庭をまわると、そのご家庭の、福祉に対する協力や老人会員に対する気遣いがうかがわれます。何時も何も拠出して頂けない家庭もあれば、出される新聞紙や雑誌類が無造作に束ねられて、トラックに積むのに重くて苦労したり、ばらけてしまって困るものがあると思えば、老人でも容易に持てるように小さく分けて束ねて下さっている家庭もあります。それぞれのご家庭の人柄がしのばれます。毎日の新聞で、家庭内外の暴力や学級崩壊などが報じられていますが、日頃からの家庭での、他人を思いやる何気ない心遣いが大切なのではないでしょうか。

 日経新聞の「春秋」欄に農家の跡取り娘さんが、中学の頃から、農家の重労働からどうしたらのがれるか考え続け、大きくなってから水耕栽培の会社を設立して活躍していることが載せられていた。農業の行き詰まりを打開するには、このようなベンチャーを育てる必要があるということらしいが、水耕栽培だけについて言えば、私もその昔、野菜工場(水耕栽培)の建設を会社に提案したことがある。その後、かいわれ大根のO157事件が発生して、水耕栽培の危険性がクローズアップされたこともあるが、それとは別に、自分で家庭菜園を作るようになって、作物は自然に育てることが最も良いことだと思うようになりました。化学肥料を使うと野菜は容易に大きくなりますが、味や日保ちも悪くなります。堆肥や少量の有機肥料で自然に育てたものは、味や日保ちも良くなります。しかし、形も不揃いで、育ちも遅いし、小鳥に啄ばまれたり、虫がつきやすいので手間がかかります。
 百姓と言うのは、自然相手の大変な仕事だということでしょう。楽をして、大量に栽培するということは、自然を無視して、いかに人間に都合の良いように生産するかという、現代の一番の問題点ではないかと思います。究極的には、クローンの問題や遺伝子操作の問題に行き着くことでしょう。
 それよりも、重労働となる作業を楽にする方法や道具を工夫することこそ大切で、自然に逆らわず、小鳥や虫たちといかに共生していくかということが大切なのではないでしょうか?( Feb. 28. 1999 )


 「奥妙在錬心」−−−心を鍛えることが奥伝を得ることにつながる。と言うのが、沖縄の伝統空手の精神なのだそうです。空手は、素手で相手を確実に倒すのが目的の武術だと思っていました。だから、スポーツとしての空手を考えても見ませんでしたし、暴力的な要素が多いとして敬遠していました。とんだ思い違いでしたね。
 私も、強くなりたいためと、弱い身体を鍛えたいと柔道を始めましたが、礼を重視し、形(かた)を重んじる精神修養としての一面を持つ柔道に大変魅力を感じたものでした。その後、試合が無い合気道を知り、形を重んじ、無理の無い動きに、現代の力の柔道よりも魅力を感じて今も続けていますが、いずれも日本古来の古武術が元になっています。
 沖縄の空手道連合会 でも、空手が勝負に拘るスポーツ化に憂い、本来の精神鍛錬としての伝統空手のPR活動を始めたことを新聞報道で知りました。以前、私も国際柔道が勝敗だけを目的のスポーツになったと嘆きましたが、空手でも同じだったんですね。ぜひとも精神面を重視する武道として伝承していってほしいものですね。( Feb. 22. 1999 )


 NHKテレビの「巨匠たちのアトリエ」に芸術家の真髄を見ました。100歳近くになっても衰えることの無い創作意欲、脳梗塞で手足が不自由になりながらも、絵筆や彫塑に取り組む姿に、神仏の姿を見るような荘厳ささえ感じてきます。101歳でマンゴーの写生に3年の歳月を費やして完成させるまで筆を止めない、日本画の小倉遊亀さん。「楽しい! 楽しい!」を連発しながら、良く見えない片目で彫刻刀に覆い被さるようにして板画に取り組む、棟方志功さん。白黒の版画の世界に彩色銅版画を取り入れ、「エーゲ海に捧ぐ」の著作で作家としても知られ、自ら映画の監督としても活躍された異才の芸術家、池田満寿夫さん。いずれも死ぬまでが現役だと迷わず言いきり、好きだからこそ、これ一筋に創造し続けるのだ! とおっしゃることに間違い無いなと感じ入った次第です。
 私達サラリーマンでは、「仕事が好きな道だからこそ常に新しいやり方を求めて、創造を続けながら人生を全うする」という気概も意欲も維持できるとは、とうてい言えないのではないかとさびしい気がしました。もっともサラリーマンでは、仕事の速さと体力が衰えれば厄介物扱いですからね。(と言うのは言い訳か?)( Feb. 11. 1999 )


 神環保(神奈川環境保全)の脱税7億円には開いた口がふさがりません。なにしろ二十数社もの幽霊会社を使って支払ったようにして所得隠しをしていたと言う。それだけではない。厚木の米軍基地(何で今もなお国内に米軍の基地があるのか?)の住宅地から焼却施設から排出される煙からのダイオキシンに対する強力な抗議に対して、政府は神環保に対して「見舞金」という名目で施設の改善費用を支給したというから、これまたキツネにつままれたような話だ。
 話は変わるが、埼玉県所沢市のダイオキシン野菜の報道に対する世間の大騒ぎは、報道の難しさと、問題点の焦点が明確になっていない点で大問題のような気がする。
 私達の町の焼却施設のダイオキシンは大丈夫なのだろうか? ( Feb. 9. 1999 )


 「イロハのイ」。何のことだかわかりますか? 今日、2月1日は放送記念日です。昭和5年、日本のテレビの父、高柳健次郎先生がはじめて30cmのブラウン管に「イ」の文字を映し出して、時の昭和天皇に照覧したものです。その時分はブラウン管の作り方が不完全で、何時爆発するかとはらはらしたと聞いています。
 テレビは、私の日記にも大事件として登場してきます。昭和29年2月1日の日記にこう書いています。「今日の午後2時にテレビの実況放送が開始され、名士の祝辞などがあった。その実況の様子をラジオで聞きながら、テレビがほしいなあと思った。見ていたら面白いだろうなあ。」日記には,当時のテレビの絵が描いてあって、「像映面(ブラウン管)は7吋で17球(の真空管)で、大方はミニアチュア管で出来ていた。ツマミが4つあり、中の1つはダブルで一番左がボリウム兼スイッチ、次が水平・垂直のダブル、その次はちょっとややこしいので忘れた。(コントラスト?)一番右が微調整のツマミだった。整流にセレンが使ってあったので変に思ったが、整流管では大きな電流が出ないからだそうだ。ブラウン管の左に4吋か5吋のパーマネント・スピーカーが取付けられ、その後に電源部らしき物が金属の箱によってシールドされていた。水平・垂直偏向コイルは0.2〜0.5mm位のエナメル線が2,30回巻いてあっったが、あんなものでよいのだろうかと思った。−−−−僕も死ぬまでには組みたてたいものだ。」と書いている。
 当時、高校生だったが、学校の文化祭で理科クラブの展示として電気店からテレビを借りてきて受信して大好評を博したことを思い出します。就職した後、秋葉原で17吋の白黒テレビキットを買ってきて、会社から帰った後徹夜して、3日かかって組立て、高校時代の願望を果たした。そのテレビは、結婚して子供が生まれてからも長いこと愛用していた。
 今は、子供にでもテレビやステレオを買い与え、個室の勉強部屋を与える親も多いと聞く。生活が豊か(?)になって、価値観も多様化したのかもしれないが、夢も無くなっているような気がするが、皆さんどう思いますか? 単なる私のセンチメンタリズムでしょうか?( Feb. 1. 1999 )


 国立天文台がハワイのマウナケア山に建設した世界最大の主鏡が直径8.2mもの光学赤外線望遠鏡「すばる」の初観測(設計通りの性能がでているかどうかのチェック)の観測写真をインターネットの国立天文台のホームページで見ました。信じられないほどの鮮明さ(宇宙空間から観測しているNASAの「ハッブル望遠鏡」より精密な画像という)で、140億光年もの遠くにあるクエーサー、1500光年の距離にある良く知られた美しいオリオン星雲、木星や土星に至っては、これは絵ではないか?と思えるばかりの鮮明さに感動した。その昔、東京の板橋にある望遠鏡のメーカに注文し、我が家の子供達が夜空に胸躍らせ、最近まで現役だった600倍の天体望遠鏡は、もうお役御免か?( Jan. 30. 1999 )


 奈良の飛鳥池遺跡から日本最古と思われる貨幣「富本銭」が出土しましたね。今までは和同開珎(708年発行)が、中国の通貨であった開元通宝をまねて日本で初めて作られ、流通したと言われていましたが、富本銭はそれよりも古いものらしいですね。一説では、これは通貨として作られたものではなく、縁起物の厭勝銭ではなかったか? とも考えられています。それはともかく天武天皇が「これより銅銭を用いよ!」と勅命により、それまでの銀銭に代って銅銭が通貨として用いられたと日本書記にあるというから、日本経済史上の大改革であったことが想像できる。私の祖父が古物商を営んでいた関係か、私も古いものには興味があって、今も開元通宝1枚を大切に持っています。(銭形平次の投げ銭、寛永通宝は一文銭の価値が低くなった頃ですね)
 富本銭は、銅90%に硬度を持たせるために、アンチモンが5〜10%加えられていて、鋳造が難しいらしい。その点、和同開珎を流通させる際に鋳造を容易にするため、アンチモンの含有率を少なくしたらしい。今でこそアンチモンと気軽に言っているが、古代に通貨として、磨耗しにくく、変形しにくくするためにアンチモンを含む鉱物を混ぜて鋳造したと言う技術に驚きを禁じえない。
 原始社会では通貨が無く、物々交換(日本の敗戦直後の混乱期もそうであった)と言う取引を行う者同士の価値判断によって取引されていたものが、通貨と言う価値の固定された、携帯性の良い代替品を用いて取引が行われるようになったことは驚くべきことであったろう。また、現代は通貨の固定価値がくずれて、為替の変動制が導入され、EC連合の新しい「ユーロ通貨」なるものが生まれるに至って、原始社会から古代の経済社会の変遷に思いをはせるのは私だけの感傷だろうか?
 日経新聞の「春秋」欄によれば、「富本」というのは、中国の故事「民を富ませる基本は貨幣」から出たものと言うが、「政治の基本も民を富ませるもの」にしてほしいね。( Jan. 27. 1999 )


 衆議院予算委員会の実況をインターネットでみた。実況放送はNHKテレビで放映されていて、特に何と言うことも無いが、インターネットで動画と音声が視聴できると言うのは驚きであった。いわゆるデジタルTVというわけである。これを見るために、昨夜は遅くまでかかって、実況すると言うホームページへアクセスし、必要なソフトの Real Player を30分以上もかかってダウンロードして準備した。はたしてうまく動作するかどうか心配であったが、受信に成功した。私のシステムはごく一般的なもので、これがMPUや通信速度がもっと速いものだったら、もっとすばらしい動画なのかもしれない。ぜひ体験してみて下さい。
 何にしても即時性があり、音声と動画が同時に配信できることにより、インターネットでの報道のあり方が今後益々変わっていくだろうし、政治や経済ももっと身近に成ってくる。また、インターネットでのコミュニケーションのあり方も、もちろん変わるだろうと思う。情報に対する判断能力がますます重要に成ってくることは確かだ。( Jan. 25. 1999 )


 N自動車会社がダイムラー・クライスラーと提携するという話が急浮上してきた。確かに業界第二位だった昔の面影は無い。私もN自動車会社が好きで応援してきたが、いかんせん、ここ数年来、N自動車会社には失望してきた。いつまでも昔の栄光を追い求め、環境問題が重要に成ってきた現代に、GTRやシルビアなどに執着し、スポーティー路線を踏襲して、それでも社会に貢献できると思っている大勢の重役陣のバカ頭。救いようが無いと思う。以前、N自動車のディーラーでルノー(N自動車でルノーの代理店になっている)のメガーヌに試乗して、こんな車を作れば良いのではと提案したことがある。他を知り、己を知ることこそサバイバルに生き残ることである。否、世界戦略であり環境重視の現代に何を供給すべきかという企業哲学だと思う。
 N自動車が日本を代表する自動車会社で無くなることに、寂しいと思うのは、私だけではないだろう。重役陣をリストラして、若い新しい風を吹き込んで奮起してほしい。

 秋田県の欠陥住宅の件についてどう思いましたか? 秋田県が第三セクターを使って建設した住宅が、十分な監査を怠ったために、建設した住宅が不完全な造成や無責任な建築のために(私の親父は、道楽親父ではあったが、責任感が強く、私自身が尊敬できる大工であった)、地盤沈下などにより住宅の基礎にひび割れが生じたり、住宅が傾いたりした。被害を受けた住民の要請により改修工事に応じてはいるが、この件について秋田県は全く責任を認めていなかったようだ。
 ところが、TV報道などで騒ぎが大きくなったため、急遽、秋田県知事が被害当事者に対し謝罪を表明した。これはなんとも納得がいかない。事件がマスコミに取り上げられたから、責任を逃れるために形ばかりの謝罪を表明したのであって、心の中では責任は第三セクターにあって、県は何の責任も感じていないと考えているのではないかと思う。これが官僚主義の最たるものであって、秋田県だけでなく、すべての地方自治体の実態ではないかと思う。たまたまTV報道で取り上げられたからであって(マスコミの重要性を改めて認識した)。そうでもなければ行政は自分の責任を認めないし、市民もあきらめていて行政の責任を追及しない。逆に行政の責任を追及しようとすれば、周囲の(行政に加担する)市民から足を引っ張られ、村八分にされる危険があるのが実情だろう。今回の件は今後のためにも、訴訟によって徹底的に行政の責任を追及することが望ましい。
 いつも思うことだが、何故お役所にばかりいい顔をしてゴマをする人が多いのだろうか? 正しいことを何故正しく主張しないのだろうか? 自分だけ良い子になりたいのだろうか? 何とも理解しがたいと憤慨しているのは私だけなのだろうか?( Jan. 22. 1999 )


 感動! かんどう!  カンドウ! 「感動! ニューヨーク・シティ・マラソン ゴールは人生を変える」を見ました。話は参加したことのある友人から聞いたことはありました。けれども表面に現れない人達の多くのドラマがあることを改めて知りました。全世界からこのニューヨーク・シティ・マラソンに集まってきます。日本からも脳性小児麻痺で言葉も不自由、足も不自由な木村さんが、口も利けないくらい疲れながら、ボランティアの人に支えられやっとゴールを果たした時の、見ていて息詰まるような感動! 同じように手足の麻痺と糖尿病を克服して参加したゾーヤさん。血糖値を付き添いのボランティアの医師にチェックしてもらい、注射を打ちながら、31時間以上かかって死にもの狂いで最後のゴールにたどり着く様子は、涙無くしては見ることが出来なかった。たくさんの障害者の人達が異口同音こう言います。「私たちも(健常者の)皆さんと同じ人間なんだ! それを知ってもらうためにも、何時間かかってでも、ゴールしなければならないんだ! 」
 ゴールしてゾーヤさんは言いました。「マラソンは人生そのものなんです。人はそれぞれ、いろんな苦しみや悩みを抱えながら人生のゴールに向かって走っています。それらの苦しみを乗り越えながらゴールを目指しているのです。だから途中で止めるわけにはいかないのです。」
 このマラソンは、全てボランティアによって運営されているそうです。参加者よりも多くのボランティアと多くの市民の温かい声援が、このニューヨーク・シティ・マラソンを支えている。これは正に福祉のあるべき姿ではありませんか!
 私も、マラソンを楽しみながら勝ち負けに拘らずに走りたいと、若い頃にランニングを始めました。「亀の子会」という同好者の集まりでした。亀の子のように遅くても山の頂上を目指します。今でも暖かい季節になれば、また日の出とともに5Kmほどジョギングをします。
 スポーツを楽しむ。参加することに意義を見出し、時間の制限も無く、ゴールで受け取る参加記念メダルの喜び。老若男女、健常者や障害者の区別も、人種の差別も無い、参加する人も応援する市民も一体となったニューヨーク・シティ・マラソンこそ「オリンピックの精神」そのものではないだろうか?( Jan. 17. 1999 )


 本当に心の底から感動した。教育テレビ こころの時代「一日の重み」。生命科学者であった柳沢桂子さんがその研究途中で病気になり、それも、どこの病院でも原因がわからずに、どこも異常が無いと診断される。ご本人は苦痛が増して次第に起き上がれなくなっていく。それでも病院の検査では検査値に異常が現れないため病気とは診断されず、厄介者扱いされる。そこで柳沢さんは現状を肯定することで、自分自身の身体の動物的な部分の感覚を尊重することで生きる決意をする。病気がひどくなってきて研究を続けられなくなり解雇されてしまう。自分の生きる道を失って苦悩するが、ある日突然、神秘体験によって自分の道が開かれる。そこで自分のやってきた生命科学の仕事を、一般の人達に科学技術用語を用いないで理解できるような著作活動に専念される。
 また生と死の境にあって宗教と科学の同一性を肯定される。生命とは、自分一人だけのものではなく、古来から脈々と続いてきた生殖細胞として受け継がれてきたもので、更には魚の脳からワニへ、ワニから哺乳類へ、そして人間へと続いており、己を無にする/自我を超越すると言うことは、欲望を断つと言うことではなく、ワニの欲望を人間の理性が、道徳とか倫理で包み込んで現れたものであると言う。
 最後には、食物も喉を通らなくなって、IVHとか呼ばれる生命維持装置によって頚靜脈から栄養分を注入されるに及んで、現代の医療というものが人の尊厳を無視した、単に生き長らえさせることの過剰医療であることを知り、IVHを取り外して自然のままに生命を委ねる。苦しみと絶望の中で、生命科学者として人間が生きるとは何なのかを悟っていく。淡々と心境を語る柳沢さんを見ていて頭の下がる思いがした。
 ここには、多くの問題を見た。人が生きるとは何なのか? 病気とは何なのか? 医療とは何なのか? 神仏、宗教とは何なのか? 生とか死とは何なのか? 現代のすべての問題がここに凝縮されているように思った。

 なんてこった! オリンピックの贈収賄疑惑。IOCお前もか? 何かと黒い噂のあるサマランチIOC会長と、これも噂の長野オリンピック招致委員会。しかも2002年のソルトレークシティー冬季五輪の買収疑惑に関連して、次々と疑惑の霧が広がってきそうだ。オリンピックがオリンピックたる精神を忘れ、商業化したことに原因があるのではないか?
 スポーツと商業化の問題は、いまさら言うまでもないことだが、韓国と日本のサッカーのTV放映権にしても金額はうなぎ上りでスポーツの報道は一体どうなるのか、先行き不安材料ばかりだ。思い切ってテレビ報道は止めて、新聞報道だけにしたら如何? オリンピックの開催も抽選で決めたら何の問題もないのに、IOC委員の投票で決めると言うところに何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。( Jan. 16. 1999 )


 NHKの教育テレビの「日本の学校・ここを変えて・21世紀に生かせ子どもたちの声」見ましたか? 現在直面している教育の問題点を総て見ることができた。子どもたちの考えていることは全て親の考えていることではないかと思ったし、ファックスで寄せられた意見はみんなもっともだとも思えるし、この番組を見ている人たちはどんな人達かと興味深かった。本当に見てほしい人達はこの番組は見ていなくて、民放のもっと面白い番組を見ていたりして! 教育の問題は非常に難しいね。しかし改革はどうしても必要だ!( Jan. 10. 1999 )


 インターネットや携帯電話を利用した犯罪が引き続いて発生しました。このことはすでに述べた通りで、当然発生することが予測できることでした。私たちはコンピュータの向こう側にいる相手とのコミュニケーションが正しく行われるものと信じて、チャットしたり、そこに書かれたインフォメーションだけで、相手を友人あるいは恋人として信用しています。特に若い女性は、流行の先端にいるとの得意さみたいなものが、他人と違ったことをやっていることで、つい無防備になってしまうのではないでしょうか。歩きながら“携帯”している女の子の顔は輝いていますよね。それほど彼女たちは常に人との会話に飢えており、誰からも注目されたがっているのでしょう。
 インターネットでのコミュニケーションの問題点はそこにあります。毎日顔を合わせて話を交わしている妻でさえも、本当の心の中を十分理解できているとは限りません。まして多少のチャットで相手の人格がわかるはずもないのですが、インターネットの上と言う特殊な環境の中では、そのような理性は働かないのかもしれません。逆に言って顔も素性も分からないからこそ、煩わしさがないのだと言う人もいます。
 いずれにしても、今後ますますこのような事件の発生が多くなることでしょう。事件に巻き込まれないためには、自分自身が教養を高めて、正しい判断が出来るようにならなければしかたがありません。いくら法律で規制したとしても犯罪はその網の目をくぐって行われるに違いありません。お互い気をつけましょうね! ( Jan. 8. 1999 )


 五輪にプロ野球の選手を派遣するよう全日本アマチュア野球連盟から巨人に要請があったらしい。なるほどアジア大会でプロの選手を入れた韓国にコールド負けして、頭に血が上ったんでしょうね。参加することにこそ意義があるというオリンピックの精神はどこにいったんでしょうね。
 年を追うごとに派手になり、勝つことだけに意義があるようになってきたオリンピックや、スポーツ医学やら外国に出かけてまでの訓練、つぎつぎと開発される先端技術のスポーツ用具に頼っている各種競技会に、私は嫌気がさしているんですよ! 優勝者だけに月桂冠だけのご褒美でいいのじゃないですか? そう思いません? 工芸品の金、銀、銅のメダルなんて不要ですよ。これがあるから、選手に国の威信がかかって、競技が楽しいものにはならないんですよね。いっそのこと「プロリンピック」って名称に変えたらいかが?( Jan. 6. 1999 )


 北米国際モーターショーで、ビッグ3は燃料電池によるゼロエミッションを目指した電気自動車を実用化し、発表した。これは明らかにトヨタを先陣とする低公害車であるハイブリッドカーや直噴エンジン車の上を行く技術を示し、日本車に対抗するためと思われる。のんびりしていると日本車は後塵を拝することにもなりかねない。Co2やNOxの削減だけではなく、排出するものはわずかな水蒸気か水だけと言うことになる。
 厳しい年明けとなったね。環境庁運輸省は、日本の自動車工業会に遠慮なく厳しい規制値を示してほしいね。ブレークスルーは背水の陣でこそクリアできる。( Jan. 5. 1999 )


 

明けましておめでとうございます。


 1999年1月元旦は、ユーロ円のスタートで始まりました。これが日本にとって、いや世界経済にとって吉と出るかどうかが大変興味のあるところです。1998年は、日本を含めて世界に金融恐慌が巻き起こりました。その中でヨーロッパ連合は、世界の中での生き残りをかけて、この通貨統合を敢行しました。それぞれの国の体力の差が、これによって良い方向に修正されるという期待がかかっていますが、はたして新生世界連合の方向を見極めることができるでしょうか?

 1999年7月の日「アンゴルモアの大王が降り、地球の全人類は生か死の選択をせまられる」とノストラダムスの予言書は語るとある。不気味な世紀末を迎えた人類に、これからサバイバルのために、いや人類のエゴにより汚された地球をあらゆる生物のために、どうして蘇生させるのか大きな命題を突きつけられている。その中で、はたして日本の役割は何なのか? 日本の環境技術が世界を救う術となるか?
 いずれにしろ皆様方のご健康と、ご多幸ならびにご活躍を心からお祈り申し上げます。又、拙い私のホームページにも相変わらずお付き合い下さいますようお願い申し上げます。( Jan. 1. 1999 )

私がホームページを作った目的

 私の言っていることが正しいかどうかはともかく、自分のご都合主義ではなく、日本の将来のために、自分たちの子孫のために(ちょっとオーバーかな?)自分の意見を主張し、行動することが大切だと思ったんですよ。(頭の老化を防ぐためにもね)
 今まで自分を育ててくれた諸先輩および社会に対して、残された自分の人生の時間をこのために使おうと考えたんですよ。
 インターネット・ディベート、これが実現できれば最高です。貴方がどうか私の考え方を批判したり、周りの人たちと討論して下さることを願っています。


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