支援する人たちは、自治会の福祉会員の有志で、他に自治会の老人有志が参加していますが、子どもを自由に遊ばせて、お母さん方が、子どもの遊びや交流を通して子どもを観察しながら子育てを学んでいくというものです。時には、地域のボランティアや支援会員によるお話しやゲーム、あるいはハーモニカの演奏によって、みんなで合唱することもあります。私たち支援者は子どもたちの動きと危険を防止できるよう注意深く見守っています。
この子育て支援を始めてから、気になることがいくつかあります。その1つは、子どもが遊んでいる途中で、突然乱暴になることがままあるのです。それに原因が分らないのです。キレルという言葉が当てはまるかも知れません。それも、特定の子ではないのです。男の子もいますし、女の子もいます。お母さん方はあまり気になっている様子もありません。ケンカにならなければ良いというのでしょうか?
私には、それが非常に危険な予兆に思えて仕方がないのです。気がついたら、すぐにそれらのこのところへ行って遊びを別の遊びに転換するように導くようにしていますが、なかなか転換が難しい場合があります。その場合は、私自身が相手になって乱暴の相手を引受けることにしています。根気づよく相手をしていくことによって、そのキレル行動がだんだん収まっていくことが分りました。それに、乱暴の程度がだんだん優しい動作になっていくことも分りました。
このことで、私は最近多発している幼児や児童の虐待に関係があるのではないかと考え、それは、今話題になっている、子どもの“発達障害”に関係があるのではないかと考えました。発達障害の多くは脳の障害に基づく病気の症状のようですが、私には、病気も含めて子どもの生活習慣による、あるいは親の気づかない障害や生活習慣による子どもへの影響があるのではないかと考えています。また、これらの障害は遺伝的要素を持っていますので、その子の親自身が同様の障害を持っている可能性もあります。
発達障害については、以前その一部については、このコンテンツでも取り上げて述べていますが、発達障害についてもう少し詳しく調べることにしました。そして見つけたのが「発達障害の子どもたち」(杉山登志郎著 講談社現代新書)です。これによりますと、私の心配したことが明確に述べられています。本文の一部を引用すると、
「…発達障害の大多数は、生物学的な素因を強く持っていることは明らかであるが、引き金となる環境状況によって増えるということは十分に起こりうる。…たとえば高齢出産、タバコの影響、多胎、未熟児、生後から1歳頃までの環境的要因、刺激の絶対量の不足、逆に刺激の絶対量の過剰などなど。」
それらが子どもや大人を取り巻く外的要因にも大いに左右されうるものであることも否定できなないのです。また犯罪への関与についても次々と知られ始め、
「…2001年には、レッサーパンダの特異な帽子をかぶった青年による女子大生通り魔事件。…さらに2003年には長崎における少年による幼児殺人事件、翌年には佐世保における同級生女児殺人事件、…母親にタリウムを飲ませて殺害しようとした少女の事件、塾の講師が教え子を殺してしまった京都の事件など」
最近に発生した重大犯罪の多くにも、強い影響を及ぼしているようです。
発達障害に関する要因と対策の全てを解説することは難しいので、詳しくは参考文献を参照していただきたい。いづれにしても、私たちが子育て支援をする上で、これらの知識を少しでも理解して注意深く作業を進める必要があるように感じているところです。(Sept. 29. 2010 )
この中の、“家庭教育の現状は”というアンケートの集計では、次のグラフにあるように、
大半の人は家庭の教育力の低下を認め、特に、親自身が基本的な生活習慣や責任感が不足していることを自覚しており、親が仕事の忙しさにまぎれ、家族と一緒にすごす時間が少ないと考えています。
それでは“どうすればよいか”という問いには、自分たちが、子どもたちのために家庭教育を充実させようという、積極的な努力をする考えはなく、地域や子育て支援などの制度に頼って、子育て家庭の家事を支援する活動を望んでいるのです。
私たち高齢者も、小学校からの要請もあり、登下校での児童の安全や挨拶運動にも協力し、幼児を持つ若い世代への子育て支援活動等も行っていますが、基本的には、自分の子どもは自分たち親が育てる(教育する)のが原則であると認識しています。むろん、学童になれば、学校で教育してくれるもの、と思いがちですが、学校教育は社会生活における基礎的な常識を身につけるための、集団生活や必要な教科学習だと考えています。あくまで自分の子どもの子育て、生活習慣、しつけや社会常識などを教えることは、親の基本的な責任と義務ではないかと考えています。
しかし、現代では、モンスターペアレンツに代表されるように、親自身が未熟で成長していないため、権利意識だけが強く、責任と義務を果たさなくなっていて、社会全体も“甘やかし構造”になってきており、政治自体も、何でもかんでも国民の要求に応える制度政策に傾いてきているように思えて仕方がありません。社会弱者への福祉・支援施策は必要ですが、一般の不必要な要支援政策に税金を使う必要も無いのではなかろうか?
このパンフレットでの結論として「家庭教育支援の主な今日的課題」が、
@ すべての親を対象とする家庭教育支援‥‥‥子育て支援施策としての学習支援(?)これって、親の子育て放棄促進政策じゃないの?
A 社会全体による家庭教育支援‥‥‥家庭教育支援を地域や企業を含め社会全体で行う(?)
B 学校・家庭・地域等の連携による「早寝早起き朝ごはん」運動の全国展開(?)
トキの繁殖計画やマグロ、ウナギの完全養殖がすすんでいるようですが、人間にも養殖時代がくるのですかねぇ? 人間も放って置けば、自分で子育てが出来ない親が増え、絶滅危惧種の動物に指定されるってことでしょうか? 貴方のご家庭は大丈夫?( May 7. 2010 )
「子ども手当て」の支給対象となるご家庭への世論調査によれば、支給される「子ども手当て」の使い道については“将来の教育費として預金する”が最も多く、次いで“塾やお稽古事に当てる”、更には“旅行や家族との外食費の足しにする”などと首を傾げたくなるような回答も見られる。
むろん、支給される「子ども手当て」の使い道まで政府や行政が管理することは不可能でしょうが、これでは、やはり“バラマキ”と考えられても不思議ではないだろう。
最近、とみに言われるようになってきたのが給食費の未納であるが、その原因が家庭の貧困とは考えられなくて、保護者の所得に関係なく、給食費を児童に持たせてこない親が増加しているらしいのです。以前、私が「学校給食は、戦後の貧しい家庭の増加と食料不足からくる栄養不良を解消するために設けられた制度で、その後の経済成長から食糧事情が好転して、飽食時代の到来によって給食制度はその役割を終了した」として、給食制度を廃止し、お弁当を通じて親子の愛情と対話を深めることが、教育上も良いと考えを述べたが、PTAでは“働く母親は忙しいし、日替わりの弁当を作るのは大変だから…”と多数の反対攻撃を受けた。そこには、親子の情愛や家庭教育に対する母親の考え方が、全く異質なことを痛感したのである。(朝食を食べてこない子も居ると先生も驚いているからねぇ!/子育て放棄や乳幼児や児童の虐待の増加が分る気がしますねぇ!)
このことは、共稼ぎ核家族の増加により、保育所の待機児童の増加や学童保育児童の実態を見ても明らかで、家庭と子どもの安心・安全が、保育施設などに委ねられているわけで、子どもの教育の重要性が家庭にあると言う認識が全く欠落しているように感じるのである。
これは、公教育についても言えることで、“ゆとり教育”と言って授業時間数のみならず、教科の内容までも極端に減らしたり、学力低下は“ゆとり教育”のせいだからと、詰め込み教育に戻したりと、「飽くなき改訂」を続けている文部科学省の実態をみても、「教育問題は、義務教育、学校教育の問題である」という従来の妄信が改まらないのである。いつもつぶやいているように、学校の教科を優秀な成績で卒業した人全てが、社会で立派な成果を挙げていて、学校では目立たなかったか、いつもテストに失敗していた人みんなが、社会で落ちこぼれてしまっているとは限らないのである。逆に学校での落ちこぼれ(こぼし?)生徒が、社会に出てから立派に成功している例が多々あるのではないかと思えるのである。
この度、高校全入時代に即応して、鳩山政権の目玉政策である高校無償化法が成立して実施されるが、これなども国民の中には、異論を唱える人もある。しかし、高校時代に貧乏で、教科書も買えず先輩から使い古しの教科書を借りたり、父子家庭でありながら、父親に定職(大工)があると言う理由だけで育英会から奨学金の受給がなかなか受けられず、食事にも事欠き、通学の電車賃にも苦労した経験を持つ私は、せめて勉学を求める学生には奨学金を受給できる法制度を確立してほしいといつも考えていたし、また、借りた奨学金は、できるだけ早く返済して、奨学金を受けたい学生が1人でも多く受給できるようにと考え、就職後、毎月の給料から出来る限り多くを奨学金の返済に当て、返済期限の1/2で完済させた。
ところが現在、奨学金の返済率が極めて悪いという現実を聞くと、これもまた学校給食費の未納(常識を疑うねぇ!/朝飯を作ってやらない母親もいるらしいょ!)と同根の気がしてならない。正に、子どもを育てる親の意識や子どもへの教育に重大な欠陥があるのではなかろうか?
わが子3人の内、長男の大学院と長女の大学在学が同時期に重なったため家計の負担が重かったが、幸い2人とも奨学金の受給にあずかって、それぞれ無事に卒業できた。その有難さを当人たちが自覚しているかどうかは定かではないが…。(安下宿に同居で、家庭教師のアルバイトで苦労したよねぇ、兄ちゃん!)
そのあとの末っ子は、家計も少し楽になっていて育英会の奨学金は受給せずにすみ、本人も良く頑張って、大学院は特待生となって卒業できた。(親孝行な息子で助かったねえ!/貧しき者は幸いなり、“天は助くる者を助く”じゃ!)
しかしながら、奨学金制度が必要ないとは思わないし、やはり教育の無償化という制度(ばらまきとは異なる)によっても、家計の負担を軽減できるので、将来の人材を育成するにも役立つ有用な制度の1つではないかと考えるのである。
それに加えて、企業が社員を人材と認識して経済的援助だけでなく、社員の子弟に対しても保育所や幼稚園、或いは病院・診療所等を併設したりして労働環境を整えたり、社員への企業内教育を充実させて、学歴等による差別意識がなくなるよう、人材育成などにも力をそそいでほしい。
幸い私は、その理想に近い環境の会社に就職させていただいて、その立派な経営者と多くの良い上司にめぐり合えたからこそ、私と私の家族が現在あるのだと大変感謝している。のちに業務移管のために関連会社に出向した際に、その会社を親会社同様に良くするために、微力ながら全力を傾注して部下の教育に力を注いだ。また、自分の持てる知識、技術全てを伝え、役立ててもらうよう努力した。自分の体力を省みず、幾度となく救急車のご厄介になり、かえって迷惑をかけた部分も多かったが、十分恩返しをしたつもりであり、悔いを残すことなく退職することが出来た。
また、退職後には、元の会社の元の職場からシルバー人材としての再雇用要請があったが、生産技術関係では無く、あえて下働きとなる製造現場を希望して、職場の清掃、製造機の修理、不良品の選別や整理など、社員の嫌がる3K仕事や、それとは正反対のコンピュータによらなければ難しい部品管理などの作業を引き受けて、シルバーには与えられないノート・パソコンを自費で購入して持ち込み、部品管理用のソフトウエアを作成し、それらの仕事を果たすことで、私を育てて下さった会社への恩返しを実現して会社人生を終えた。
そして定年後の人生を、今は県の地球温暖化防止活動推進員の委嘱を受け、その活動に携わる傍ら、地域の人たちと子育て支援にかかわると共に、ブックスタートや図書館を起点にお話や紙芝居、読み聞かせ等のボランティアを務める妻に協力して、ささやかな幼児教育(らしき活動)に腐心している今日この頃である。
最近は、企業の多くに社会的道義観・倫理観が低下し、国際競争力としてコスト・ダウンのためには労働者の人権や生活も無視するような所業が多く見られるようになってきている。(品質やサービスが重要で、大量生産・大量消費はムダを生む。飽食も同じ!)
何にも増して教育は大事で、乳幼児や学校教育まで包含して人を活かすことが、家庭、地域、企業、ひいては国を繁栄させる基になると私は信じている。(April 2. 2010)
┌――――┬――――┬――――┬――――┬――――┬――――┬――――┐ │年次 │1学年 │2学年 │3学年 │4学年 │5学年 │6学年 │ ├────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤ │新時間数│ 814│ 910│ 945│ 980│ 980│ 980│ │旧時間数│*782│*840│*910│*945│*945│*945│ ├────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤ │全時間増│ +68│ +70│ +35│ +35│ +35│ +35│ ├────┼────┼────┼────┼────┼────┼────┤ │国語 │ +34│ +35│ +10│ +10│ −5│ ±0│ │算数 │ +22│ +20│ +25│ +25│ +25│ +25│ │理科 │ ― | ― | +20| +15| +10| +10| │体育 │ +12| +15| +15| +15| ±0| ±0| │社会 │(生活)|(生活)| ±0| +5│ +10| +5│ │外国語 │ ― | ― | ― | ― | +35│ +35│ │綜合学習│ ― | ― | −35│ −35│ −40│ −40│ └────┴────┴────┴────┴────┴────┴────┘ ※ 時間数は、1時限45分特に力を入れているのは算数で、全学年で授業時間数が増加しており、国語は低中学年で強化するようにしています。また、体力が低下している事もあって、体育の授業時間も低中学年で増加しているのが分ります。5,6年生になると体育よりも外国語(英語)教育に時間数を振り向けています。これは、外国語の学習には低年齢からの訓練が効果的と云うことよりは、中学の受験勉強を想定しているように見えます。3年生から総合学習の時間数が大幅に削減されているのは、教科に重点を置いていると考えるのは当然でしょうか?
総合的な学習の時間については、次のように述べられています。
「育てようとする資質や能力および態度は学習方法に関すること、自分自身に関すること、他者や社会とのかかわりに関することなどの視点を踏まえる。伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題についての学習活動を行う。」となっています。分りましたか?
では「ゆとり教育」から一転「詰めこみ教育」に変身したのは何故でしょうか?
これは、学力向上を判定するのに点数で明確にしたいからでしょう。創造性(芸術性)、協調性、自立性(自学自習の習慣化、或いは生活習慣・規律性)や公共性、倫理、博愛、勤勉(勤労)等の全人格教育は、点数で評価する事が難しい事だからです。(教育の成果を点数で評価する必要はありません)
翻って、社会に出て必要とされることは何でしょう? 小学校で、国語の、算数の、理科の、英語の点数が良かったからと言って、何かの役に立ったといったことがあったでしょうか? 「学校で習った事が何にも役に立たないんですねぇ?」 、新入社の若者から老先輩の私などに問いかけられて、納得できる的確な答えが見つかるでしょうか? 学問や、知識や技術は先生から教わるものだ、という教育しか受けてこなかった現代教育の成果が如実に顕われています。このことは、何も今に始まった事でもありません。教育の問題点がここに有るのです。だから教育改革が必要なのです。そして「ゆとり教育」が生まれたはずなのです。
「教育改革」という、格好良い掛け声の下に、同じ過ちが繰り返されそうになっていませんか? 学習指導要領ばかりが塗り替えられるだけで、義務教育の本質にはどこにも改革が進められてはいないような気がします。教育の成果は、点数では表せませんし、すぐに効果が顕われるものではありません。教育は「100年の計」なのです。それ、小泉首相がよく言ったではありませんか「米100俵」!(意味が良く分ってたのかねぇ?/なるほど、ガソリン税は、道路を造るためにあるんだ!/?)
なにしろ、中小企業の社長さんに100人集まってもらって、小学校の義務教育で習った事が、社会で何の役に立ったか尋ねて見たらどうだろうか? きっと、先生の何かの時の一言か、ちょっとした励ましが背中を押したんだと思うよ。教育は、その感性を育てることさ!( Feb. 18. 2008 )
ところが、計画段階で都教育委員会から以下の問題点が指摘された。
@ 義務教育の教育の機会均等に反するのではないか? A 公立の中学校の施設を塾が使う事は、公共性に問題が有るのでは? B 有料となる教材作りが、公務員の兼業に当るのでは?ということで見直しを迫られ、結局、石原都知事が“学力が向上するなら良いじゃないの…”ということで、塾の講師の講座は、進学を目指す学力上位グループの父兄が塾に講師派遣を依頼する方式で、校外活動である。(受験勉強を塾に通わないで学校でやれる便利さ?)として認められたらしい。
塾に“軒先を貸して母屋を取られた”という結果になろうか? 何とも不思議な結論で、全国の小学校や中学校で同様な試みが続々と始まったとしたら、義務教育としての学校制度はどうなるのか? 義務教育は、学力向上だけを目的としているものではなく、当然、社会に出たときの社会人としての教養と品格を含めた全人教育を目的としているわけであって、これらは決して点数で測れないし、点数で比較されるべきものでは無いのではないか? 単に民間校長が、その成果を急ぐ余り教育の本質から逸脱したとすれば、教育そのものの方向を見誤る危険性がある。
以前にも“つぶやいた”が、50年ぶりの小学校の同窓会で、往時の餓鬼大将が中学を卒業して立派な社会人となり、職人の棟梁となったり、小さな会社を興して社長になったりしていて「お前、あの頃は鼻をたらして、テストはいつも0点だったよなあ」と懐かしがったりしたものだ。教育の成果は、本人が人として一人前に成長したかどうかであろう。否、まだ成長の途中であるかも知れないのだ。人生の全てを終える時、死を迎えて初めて自分の人生での価値が確定するのではなかろうか?
いつもテストで100点ばかりとっていた優等生が、社会に出て立派になるとは限らないのである。だから教育は重要で、はたまた点数では測れない難しいものなのである。
今回、政府の諮問機関である教育再生会議が最終答申をしてその役割を終了し、政府はこの内容をふまえて、新組織を2月中に立ち上げて教育問題を引き続き検討したい考えだという。教育再生会議の最終答申内容をよく検討してみて“つぶやき”たいが、従来の経過から言って、学力中心・点数至上主義の域を出ないと思われるので、元祖「ゆとり教育」で先の中教審で教育問題の真髄を提唱した、元文部省政策課長の寺脇研氏の情熱を掛けた思いを伝える“「さらば」ゆとり教育”(光文社刊)を紹介するので、是非ご一読願いたい。( Feb. 1. 2008 )
“…何よりも驚いたのが、書斎三段分の子供の本だった。「無名の偉人」、「私の社会見学」、「憲法と君たち」、「数と社会」…「私の昆虫記」、「友情」、「十人の発明発見」等々、分野は多岐にわたる。なぜ子供の本がと不思議だったが、『天野先生がお孫さんに読んであげたものだそうです』と聞かされた。これにはショックを受けた。私は書斎での仕事術の本をずいぶん書いてきたが、子供に与える知的機能は欠如していた…。子供たちの望ましい教育はどうあるべきかを、私たちは学校のありようばかりに目を奪われてきたが、家庭での教育の大事さを思い知らされた…”と結ばれている。
今、学校教育が、ゆとり教育から一転して、全国一斉テストの点数で学校の序列化が云々され、何だかとんでもない方向へ爆走しているように思われるし、親や祖父母による家庭教育(躾も含めて)も、保育園や学校にお任せになってはいまいか?( Nov. 9. 2007 )
ところが、インターネット犯罪やケイタイ電話を用いた犯罪がうなぎ上りに増えつづけていて、犯罪を防ぐためには通信内容を制限し、使い方を指導しなければならない現状になってきています。これは何れも人と人との対話関係が崩れて、機械と機械のバーチャルコミュニケーションが実態である事に起因しています。パソコンや電話が今のように普及していない頃は、対面によるコミュニケーションが普通でした。顔の表情や声音、言葉の使い方、身振り手振りなど全てに感情が含まれているために、文字や言葉の意味だけでなく、感情の意思疎通が重要だったのです。それは今でもとても重要な事なのですが、機械文明の発達は、スピードと便利さがとても重要な事と思われるようになって来ているのです。
これを一言で言えば“利便性”と言う事ではないでしょうか?
私達の中に、この“利便性”というものがだんだん浸透してきて、手間暇掛かるものは“悪”と考えられるようになってきています。対話の言葉でさえも“省略語”が多用されるし、ケイタイ電話などでは、更に略号や通話音だけで意味を伝達させたり、顔文字が感情を表すように使われています。これは正に昔のモールス通信と同じではないでしょうか? 通信の手段とコミュニケーション(意思疎通)とは自ずから異なります。それが日常となると、思い違いや、感情の齟齬による思いも因らない異常事態が発生します。人間関係の破綻や犯罪などの事件に遭遇する危険性を含んでいるのです。
教育の現場で、これらの利便性のみに拘り、人間性や情緒・情動などが疎外されるととんでもない弊害が生じる事は想像に難くないでしょう。安倍前総理が、殊に力を注いでいた教育再生問題で、教育基本法の改正と抱き合わせの教育3法(義務教育法、学校教育法、) ( )
最近の報道で驚く事は、可愛いはずの幼児や赤ちゃんを、自分の勝手な考えで食事を与えなかったり、暴力を振るって虐待したり、果ては死に到らしめるまで迫害がエスカレートするお母さんやお父さんが増加している事です。何がそれらのお母さんたちに欠けているのでしょうか? 自分のお腹を痛めた我が子が可愛くないはずは無いと、私達は信じていますが、自己中心の考えがここまで及んでいるとは信じがたい事実です。
それらのお母さんに、赤ちゃんと愛情の絆を絵本に求めてみたところで、せんないことなのかもしれませんが、やはり、赤ちゃんを育てる上で絵本の読み聞かせは、とても重要に思えるのです。そのためには、ここで述べられるような赤ちゃんの喜ぶ絵本を選ぶということも大変重要ではないかと思います。しかし、赤ちゃんが喜ぶことも重要ですが、それにも増してお母さんが、赤ちゃんを喜ばせたいと願う、心から赤ちゃんを愛する心が育まれていることこそ、何にも増して必要なことではないかと思います。
宮崎さんは、絵本を選ぶ時の大原則を2つ挙げられています。
@ 大人の感覚で絵本を選ばない。と述べられています。
A 赤ちゃんの発達を考えて絵本を選ぶ。
それは、宮崎さんのおっしゃるように、大人の目で良い絵本を探すからではないでしょうか? また、子どもの発達段階を考えないで、体裁の良い本を選ぼうとしているのかも知れません。
宮崎さんは、生れ落ちたばかりの赤ちゃんで、目が見えなくても「お母さんの声だけはちゃーんと知っている!」と言われます。お腹の中に居る間にお母さんの声や行動をじっと身体で感じて大きくなったのですから、当然といえば当然ですねぇ! だから、赤ちゃんは、お母さんのあやし言葉や子守唄が大好きなのだと、納得できます。それにお父さんの言葉や歌が加われば、もうご満悦です。こういう状況の中で「心地よい」という情緒が育っていきます。
では、赤ちゃんに絵本が必要になってくるのは何時でしょうか?
それは、赤ちゃんの「首が座るころ」から「寝返りができるころ」です。そのころは、「ころころ」、「わんわん」、「がたがた」など、リズミカルな繰り返し言葉を喜びます。しかし、視力の方は発達が遅く、遠いところはぼんやりしか見えませんが、30cm位の近いところは良く見え、「抱っこ」してくれるママやパパの顔はくっきり見えるのではないでしょうか? その特性を考えると、淡い色のあっさりした絵や、細い線描な絵は避けて、絵本の表紙がハッキリと明るい絵が良いようです。中身も色や線が明瞭で、赤ちゃんの身近なものを描いてある絵本が望ましいものだそうです。
当南足柄市でも、赤ちゃんの3ヶ月検診時に絵本を読み聞かせする“ブックスタート”が、お話ボランティアの協力で進められています。ボランティアが赤ちゃんに絵本を読み聞かせするのではなく、昔お母さんとして多くの子ども達を育ててきた経験を買われて、若いお母さんたちに、読み聞かせの要領を伝授しようという試みではないかと考えています。
赤ちゃんを育てる上でお母さんの愛情は何よりも大切ですし、良い子に育てるにはその愛情が何よりも必要なのではないでしょうか? そのためにもお母さんと赤ちゃんの絆を深めるために、絵本の読み聞かせは重要ですし、将来、本好き、読書好きな子ともに育って欲しいとも思うのです。
現代は、映像文化が発達して、テレビやアニメ、マンガ雑誌などが蔓延していて、小さい内から、テレビやビデオが子守り代わりを務め、お母さんの愛情が手抜きされているのではないかと心配しています。お母さんの愛情に勝るものはありません。愛情はお金には代えられません。一家の団欒と、安心、安全な家庭生活が人を豊かにし、国を栄えさせるのではないでしょうか? 教育再生とは名ばかりで、経済ばかりに軸足を置いた政治は、国を亡ぼすような気がしています。「美しい国」とは、隅々まで愛情が満ち溢れている国ではないでしょうか?
「美しい国」には、子どもを虐待したり、殺害したりする親は一人もいないに違いありません。オレオレ詐欺や、金属資材の窃盗、や“花より談合”など、自己中心、金中心の欲望も起こらないだろうし、戦争などとも無縁な国ではないかと思います。だから、みんなで、そんな「美しい国」を創って行きたいですねぇ!( Mar. 6. 2007 )