「教育」tommyのつぶやき2002年

 教育基本法の見直しについて賛否両論が渦巻いておりますが、一体“教育基本法とは何ぞや”という根本的な議論が尽くされていないのではないかと思います。見直し=改定という図式が暗黙のうちに成り立っているような気がしています。果たして、「見直し」は「改定」が前提なのでしょうか?

 何事も、時が経てば世の中や人の考え方は当然変化してきます。ちょんまげ姿が洋服姿になって当然のように、いつまでも古い衣を纏っていては可笑しいようにも思いますが、正月やお盆には和服や浴衣が当然のように、古くて新しい装いもあって当然でしょう。

 最近の国際品質管理規格のISO9000や環境ISO14001などは、毎年見直して、3年に一度は外部の監査が行われますし、規格の見直し改訂が実施されています。
ここでは、見直しは当然で、不具合点があれば修正することが当然になっていますので、定期的に自主的な社内システムの改訂が行われます。これらと比較すると(比較が適当かどうかは別として)、戦後の昭和22年に、当時のアメリカの占領軍、GHQの指導の元に成立した日本の新しい教育基本法を、55年間も見直しも行わないできたことこそ異常のような気がします。これは何も、この教育基本法が現代にそぐわないかどうかを論じることではなく、現代日本の情勢に適切であるかどうかを論じることに意義があると思うのです。また、この教育基本法は、憲法に則って作られているため、当然憲法との整合性を問われるのは無論のことです。

 何はともあれ、改めて教育基本法なるものを精読(?)してみる必要があるのではないでしょうか? 教育基本法の見直しに対する議論が「現代教育科学」(明治図書出版発行)の11月号に特集されて、多くの方々の意見や提言があって興味深いので、一読をお勧めします。

その中でも染谷幸二氏(北海道別海中学校)の『戦後の教師に明るい光を与え続けたのが教育基本法である』が興味深い。ここでは、子供たちに対して変わった角度から発問して、教育基本法の精神を明らかにしようとしている。特に義務教育における“授業料”や“教科書代”についての質問が、なぜ「教育基本法」に関わるのか、われわれも改めて考えてみたいことだ。当時貧しくて、教科書も買えず上級生を尋ねて古い教科書を入手しなければならなかった私は、優等賞/同窓会賞という形で、一年おきの同窓会賞によって進級する次の学年の教科書一式を支給されて(今思えば、貧しい私に対する先生方の思いやりであったのだろうが…)、大変救われたのであった。改めて現在の教科書無料制度に救われている子供たちと、無料が当然と何も考えずにいる子供達や保護者のいることを考えると、この憲法と教育基本法を改めて見直すことの重要性を感じるのである。

 近頃、学力の低下が取り沙汰されており、新聞報道によれば、文部科学省の昨年度の学力テストの結果では、算数、社会が低下の傾向にあるそうですが、「ゆとり教育」で学習量を削減し、土休完全実施で規律正しい学習の場を減らして家庭へ学習の場を移したことと無縁でもないでしょう。総合学習、体験学習といっても教育現場での対応はなかなか難しい。先日も小学生が先生に引率されて、市の体育館へバドミントンをしに来ていたので「何の授業?」と尋ねたら、「体験学習…」との返答なので、はて体験学習というのは学校でやることを別の場所でやること? と思わず妻と顔を見合わせてしまった。

 11/9にNHKから放映された、徹底討論「どうする日本の“学力低下”」でも、後半の遠山文部科学大臣との討論では、まったく噛み合わず、大臣は教育の一般論に終始し、教育現場が問題にしている義務教育の学習内容や授業の問題点とか、高校や大学に進学する際の学力レベルの問題については何の回答も持ち合わせておらず、パネラーの教育関係者をガッカリさせた。視聴している私も“問題は文部科学省にあるのではないか?”との感を深めざるを得なかった。これなどは教育基本法以前の問題ではなかろうか?( Dec. 15. 2002 )


 “問題児は問題のある家庭から生まれる”

 当然のようで、当事者の親はそうは思わないのが困ったものですねぇ。学校の先生(当然、責任回避の意図もあるでしょうが…)や周囲の人達も、問題を起こした子どもが普段は良い子だと言いますねぇ。しかし、良い子が問題を起こすわけは無いのです。

 「新生」(倫理研究所発行)の11月号に“子育てと家庭D 非行に走る子どもたち”というシリーズで、元少年院法務教官、保護観察官を歴任し、現在は相部教育研究所の所長として講演やカウンセリング活動に専念する相部和男氏が、長い経験を通してその問題点を語っておられます。

 それによると、非行少年と幼児期に溺愛した保護者の内訳では、母の溺愛が70.3%と最も多く、次に祖母の溺愛が22.3%でほとんどを占める。
更に、家庭内暴力の対象が、何と母に対してが63.4%とダントツで、次の、父に対しては13.3%、物に対してが11.4%、そして同居の親族、兄弟と続く。溺愛を受けた母親が暴力の対象にされているのが何とも不思議で、理解できません。

 相部さんは、非行の火種は3歳頃までの幼児期の「ワガママ」であると言われます。それは、子どもの言うことを何でも聞いてやることが親の愛情だと勘違いをしているのだと言います。その結果、子どもの要求は大きくなるにしたがってエスカレートしてきて、その要求に親が答えられなくなり破綻をきたすのでしょう。こうして我慢することを知らない子どもは、思い通りにならないと暴力を振るったり、家にいても面白くないために外にはけ口を求めて、不良交友が始まり、夜遊び、無断外泊、家出などの非行に走ることになると言います。

 相部さんの「子どもをダメにする親の12のタイプ」をここに挙げてみましょう。

   @ 手抜き型  しっかり抱かずに育てた(人工栄養等)ため、信頼関係が無い。
   A ホイホイガミガミ型  幼児期に溺愛、大きくなったらガミガミ。
   B ベッタリ型  子離れ親離れが出来ず、依頼心が強く、自立心が乏しい。
   C バラバラ型  両親の教育方針の不一致。対応がバラバラで混乱する。
   D コンクリート型  親が真面目で堅く面白くないため、息抜きができない。
   E 交換条件型  成績が上がれば何かを買ってやる。利益中心で利己的になる。
   F 比較型  他の兄弟、友達とすぐ比較する。劣等感を持ち自信を無くす。
   G 恩着せ型  「お前のためだ」などと恩着せがましく言う。やる気を無くす。
   H 急き立て型  「早く何々をしなさい」とせかし、世話を焼く。他人依存。
   I 直撃型  親だからと子どもの心を無視して不用意な言葉を投げつける。
   J 差別(偏愛)型  兄弟の片方を優遇したり差別する。自己中心/ひねくれ
   K ネクラ(監督指導)型  子どもの机の引出し、手紙などを検査する。
 これらを見てみると、良い親のつもりでいても、いずれも多少身に覚えがあり、どれかに当てはまりますし、それ以上に幾つも当てはまることがあって身が縮みますねぇ! いまさら反省してみても後の祭ですが…。

 また、問題児の家庭の共通点は、子どもが父親と一緒に遊んだことが無く、子育てを全面的に母親任せにしている場合が多いそうです。幼児期に父親と遊んだことの無い子は、男性の逞しさや頼もしさを学ぶ機会が無く、逞しさに欠けて不健康だと言います。親子が同じ体験を通して(共有化)信頼関係を築くことが重要なのではないでしょうか?

 また、“笑い声の絶えない家庭に非行は生まれない”とも言われますから、和やかな団欒のある家庭をつくるように努力しましょう!( Oct. 21. 2002 )


 “叫び・子育てママ13万通のメール”。NHKスペシャルを見て驚きました。子育てに、子どもと向き合わないで、パソコンの掲示板にばかり向き合っている未熟児ママの実態に愕然としました。

 子育てで困ったら、先ずパソコンで発信し、助けを仰ぐと言うのです。それも知っている友達に相談のメールではないのです。不特定多数の子育て経験のママさん達へ、掲示板に書きこんで返答を期待するのです。確かに誰かが答えをくれるかもしれません。しかし、その答えが必ずしも正しいとは限りませんし、多数の回答があれば、その中から正しい選択をするのも容易ではありません。もし、間違った解答を選択したら、子どもはどうなるのでしょう? そんなことは有り得ないんだ、と言う確信を持っているから出来ることなんでしょうか? それとも、自分で考えるってことが出来ないのでしょうか?

 女性の高学歴化(「女子大生亡国論」とか言う、問題になった本がありましたっけ?)とキャリアを重要視する高齢化ママや、拝金主義の共稼ぎ(共働き…同じだょ!)世代によって、母性本能が働かなくなっているんですかねぇ? 子育ては、子どもと向き合って、子どもから色々学ぶことなんですよねぇ。子どもから学ばないで、パソコンで見も知らない誰かからの知識で子どもを育てようなんて、虫が良いですねぇ! 子育ては(子育てだけではないが…)知識だけではないのです。物言わぬ赤ん坊から、肌を通して感じることにより学び、ママ自身が成長することなんですよ!

 自分のお腹から生まれた我が子の気持ちが、お母さんにわからないはずは無いではありませんか? もし、何も感じられず、わからないとしたら、そんな親に育てられる子どもは可愛そうですねぇ! 子どもの方は、言葉は言えなくても、お母さんの気持ちは全てわかっているんですョ! NHKで放映された「奇跡の詩人 11歳、脳障害児のメッセージ」の流奈君とそのお父さん、お母さんの物語を知らないのでしょうか? そんなのは例外で、自分には関係無いとでも思っているのでしょうか?

 これらのママ達は、自分が中心で、自分の目線でしか子どもを見ていないんでしょう。子育ては苦痛だと言っていますし、子育てに協力(?)しない夫とは離婚するしかないとも言っています。夫婦に和が無ければ、良い子育てはできません。お互いが話し合って良い家庭が築けるのではありませんか? 何しろ、子育てを考えずに、やたらと無計画に子どもを産んで(年子で産んでは、子育てが大変なのは火を見るよりも明らかでしょうに!)大変だ、大変だと言うより、どのように子育てをしようかと考えて、夫婦で話し合って出産時期を決めるべきではないのでしょうか? 勝手に産んでおいて、子育ては大変だと子どもに当たられたんでは、子どもが大迷惑ですよ!

 先ず、和やかな家庭を築くことからやり直して欲しいですね。幸せは、他人を思いやる心と、豊かな愛情から生まれるものです。親の育てたように子どもは育ちます。利己的な親からは、利己的な子どもしか育ちません。当然ですが、その家庭環境がそのまま子どもの性格に影響します。パソコンに向き合う時間があったら、もっと子どもの心と向き合って、子どもの心とママの心が一体になるよう、努力してください。以心伝心と言うではありませんか? 子どもの気持ちがママに伝わってきますか? えッ!何んにも伝わってこないって? こりゃあ、ダメだ! パソコンでしか伝わらないんだ!! ( Sept. 23. 2002 )


 やっと引越し後の整理も一段落して生活も平常に戻り、久しぶりに本屋へ出かけて行きました。

 子育てが難しい時代というか、子どもたち受難の時代とでもいうか、親達が自分の価値観を子ども達に押し付けて、親自身は自分勝手に生きているように見える現代にあって、人間の生き方を見つめた詩と書を著わした“相田みつを”さんの書の中から、子育てに関したものを20点選んで、児童精神科医の佐々木正美さんが臨床上から感じたことを述べながら解説されている本「育てたように子は育つ」(小学館刊)を入手しました。

 以前から、相田みつをさんの書(詩文)には興味を持っていましたが、ここのところ児童虐待が増えていることや、親がパチンコやらゲームハウスで遊んでいる間に、自動車の中に置き去りにされた子ども達が、死亡する事件が多発していることもあり、子育てについて書かれた相田みつをさんの詩を手にして、改めて相田さんの心の中を垣間見た気がしました。

 著者である佐々木さんも、精神科医として子ども達の心の歪みや苦しみに接して、大人世界の歪みを痛いほど感じてこられたのだと思います。私達も例外無く子育ての難しさを経験し、自分たちの子育てを反省している今日ですが、子育てはやり直しがききませんので、その前に気づくことが大切だと思っています。いろんな子育てに関する著作はありますが、この相田みつをさんの書(詩文)は簡潔にして要を得ているものだと思いました。

 その中から1つ「みんなほんもの」を取り上げてご紹介しますと、

   「トマトがねえ

    トマトのままでいれば ほんものなんだよ

    トマトをメロンに みせようとするから

    にせものに なるんだよ…」

まったく、私達は世間体を繕うことと、常に自分(子どもを含めて)を必要以上に良く見せようと、ウソの衣で包んで本物の中身が見えないようにするため、苦労しているのだろう。そのために、親の期待を裏切らないように、子どもたちは苦しんでいるんだ。

相田みつをさんのように「そのままで いいがな」とはいかないんだ。

 だから、相田みつをさんの書(詩)は、単に子育てということではなく、人間が生きるということの哲学ではないかと思います。

 相田みつをさんの書は、息子さんの相田一人(かずひと)さんが館長として、銀座5丁目の東芝ビルの5階に「相田みつを美術館」を開いておられるそうですので、ぜひ本物の書によって相田みつをさんの心に触れてみたいですね。( Aug. 4. 2002 )


 日経新聞によれば、中学校の内申書に「絶対評価」を導入するよう文部科学省が勧めているということですが、従来の「通知表」の評価は「相対評価」でした。そのため、生徒の努力が正しく評価されないとして反対する女の先生が、生徒全員の通知表に“3”を記入して論争になったことがありました。

 遠山文部科学大臣は、「高校入試でも絶対評価の活用が望ましい。調査書(内申書)の客観性を高めて、定着するよう努力する」とのことらしいですが、腑に落ちないのが客観性であって、“誰が何のためにそうするのか?”がはっきりしないのです。

 入試のために、当の生徒が、自分の置かれた位置を知りたいなら、当然「相対評価」が適当でしょうし、もしも、生徒が自分の努力の「度合い」を、先生と言う客観的立場でみて欲しいと言うならば、可能かどうかは別として「絶対評価」も意味があるに違いない。しかし、当該評価を“誰のために?”、“何の目的で?”使うのかによって、見方、考え方が異なってくるのではなかろうか?

 中教審の中間報告にもあった「奉仕活動とその評価」などについても、義務化に対する問題が課題として残っており、本来の目的である奉仕活動が授業の中に組み込まれ、更に達成度として評価(対価)の対象になるに至っては、本末転倒と思わざるを得ない。ボランティアそのものの意義をもう一度よく考え直さないといけないのではないか? ( Jul. 31. 2002 )


 信じられないような光景を目にしました。

今日私は、子供たちにお話しボランティアをしている妻を迎えるために、図書館近くの駐車場に車を止めて待っていました。そこへ保育園の子供を迎えに母親が来ました。しばらくすると、兄弟らしい園服を着た男の子がやってきました。お母さんの姿を見て子供は喜んで駆け出してきました。あまり急いだためにつまずいて転んでしまいました。膝をすりむいたらしく、砂を払いながら泣きべそを掻いています。

 お母さんはと見ますと、無表情に立ったままです。急いで子供の方に駆け寄るでもありません。声をかけるでもありません。むろん怪我をした子供をいたわって慰めるでもありません。ただ黙って子供が近寄ってくるのを待っているのです。小さい弟の方も泣いています。しかし、お母さんは黙って歩き出しました。兄弟も泣きべそを掻きながらついていきます。

 私は思わずとんでいって子供の膝の砂を払い、膝の傷を確かめて“うん、大丈夫だよ。よくガマンしたね。えらかったね!”と抱きしめてやりたくなりました。そのお母さんは、“それくらいの傷は何とも無いよ、男の子はそれくらいのことで泣くんじゃないよ!”といつものことなのかも知れません。男の子は、男らしく腕白で元気に育ってほしい。弱みそな子は嫌いだ、と考えているのかも知れません。

 しかし、私にはそれが相手のことには無関心で冷淡な、利己的な大人としか見えませんでした。母親らしい愛情が欠けているように目に映りました。近頃、児童虐待をする母親の多いこともあって、とても気になりました。

 子供の健康と安全を守るのが親の務めです。そして優しい心と愛情が大切なのではないでしょうか? そういう日常の母親の心遣いが、結局、子供の心に相手に対する気遣いや優しさが育まれることになるのではないかと思います。
“腕白でも良い。元気な子に育ってほしい”というのは、自分自身のことしか考えない、自己中心の我侭な子どもが育つように思います。正義のためには弱い子の味方になって、たとえ負けるかも知れない強い相手にでも、堂々と向かっていくような子どもに育ってほしいと願うのが、本当の親の愛情ではないでしょうか? “腕白”は、決して望ましいことではありません。貴方はどうお感じになりましたか? ( Apr. 23. 2002 )


 驚きましたねぇ! 新学期が始まって、ゆとり教育そこのけで学力低下を阻止しようと(?)始業前の15分間に徹底的に復習をさせ、また放課後には理解不足の生徒の補修授業に取り組む学校が増えているらしいですねぇ! 何のための完全土休の“ゆとり教育”だったんですかねえ? それなら土休を止めて、しっかり授業をやれば良いではないですか? 一旦、言い出したことは止められないってコトですか?

 以前につぶやいたことがありますが、新入社員の若者が“先輩! 学校で習ったことが何にも役に立ちませんねぇ!”とぼやいていました。もともと学校で習うことなんて、社会へ出て役に立つものではないんですよねぇ! 文部科学省の大臣やお役人が、世界の学力統計を気にして、マスコミに叩かれないように苦心しているだけなんですよ!

 本当の学問や実力は貴方の努力次第なんですよ! 学校で習ったことを役立つようにするのも貴方次第ですよ! 戦中、戦後の教育の空白時代に育ってきた今の年寄りでも、ちゃんと生きているではありませんか? 大臣だって、社長だって、ソバ屋の親方だって立派に育っていますよ! 北島のサブちゃんだって苦労しながら立派な歌手の親方になっているではないですか? 何でもかんでも学校教育に期待しすぎじゃないですか? それよりも、躾をきちんとする努力を考えたほうが良いと思いますがねぇ。

 四月になって新入生がどっと入ってきた近所の高校で、タバコを吹かして自転車の片手ハンドルで下校する生徒が、どっと増えました! それも女子高生が大勢いるんですよ! 今までこんなことはありませんでした。その中の3人組を捕まえて、“タバコは止めなさい!”と言ったところが
“お父さんもお母さんも、いいって言ってるんだからいいじゃあないか”
“これは君自身の問題だよッ、身体に良くないじゃあないか!”
“自分で良いと思ってるんだから、いいじぁないか!”
ああ言えば、こう言う、手に持ったタバコを放そうともしません。後から後からそんな生徒が通るんですから、もうお手上げです! 取り囲まれて何をされるかわかりません。そばで女房がおろおろして、“止めときなさいよ、後で仕返しでもされたら…”
世の中どうなっているんでしょう? 今時の親や学校の先生は、何を教育しているのでしょう? “ゆとり教育”や“学力向上”なんて、どうだっていいじゃないですか? 肝心なことを忘れてはいませんか? 遠山大臣殿!( Apr. 12. 2002 )


 この四月から、義務教育である公立の小中学校が、“ゆとり教育”による授業時間数の削減と完全週休二日制が実施されます。

 最近、学力低下の問題がクローズアップされるにおよび、遠山文部科学大臣は、学力を低下させないようにしっかり学習させなさいと念を押すようなコメントを出しましたが、なんとも不可思議な感がするではありませんか? 授業時間数を減らすだけでなく、教える内容が3割削減されるわけですから、当然ますます学力低下する懸念があるわけで、学力低下を問題にするなら、“ゆとり教育”は、その点を明確にして行わないと問題解決にはつながらないような気がします。

 今回の“ゆとり教育”は何を目的にしているのか? “ゆとり教育”によって、何が変わるのかによって、今までの教育の問題点と、これからの教育の問題点がはっきりするのではないかと考えます。いま問題になっている“学力低下の原因が何か?”と言うことを分析しないことには、“ゆとり教育”が学力低下の直接原因になりうるとは断定できないし、それよりも“ゆとり教育”がなぜ必要なのかを、もっと国民に良く説明をし、議論をして、理解を深めた上で実施すべきなのではないでしょうか?

 以前にも度々述べてきましたが、学校での教育(授業カリキュラム)内容にあまりにも旧文部省が関わりすぎていて、規制や拘束によって教師(各学校の教育方針を含め)の自主性が損われていることこそ問題ではないか、と考えますが如何でしょうか?( Mar. 24. 2002 )


 日経新聞の教育面にある「職員室」欄は、毎回なかなか興味深い。

今回の“「心の中の鬼」で盛上がる”は、一年生の道徳の時間に、「心の中の鬼退治」というゲームを通して自分の中にある欲望を気付かせて、どうしたら良いかを考えさせるのだが、ゲームの後で、自分の中から出て行ってほしい鬼や、来てほしい鬼などを書かせたところ、みんな見事に自分のことが解っていて、より良くありたいという意欲に溢れていて、教師自身が子供達の意外に深い心の中に考えさせられ、
“表面的に子どもたちの短所をあげつらうことはやめよう。私は、(私の中の)「おこりんぼ鬼」の退治を決意した。”と結んである。

 私たちも、普段、子どもの心の中を十分に理解しないで、大人の常識(?)に照らして命令したり、従わせたりして、それが教育などと誤解しているのかも知れない。今日も、孫とママの会話をそばで聞いていて、さもありなんと感じた次第。
お宅でも、案外、正しいのは親ではなく、子どもの方では? ( Feb. 9. 2002 )


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