- 姓 名 :Tomio Okada(雅号;逢鹿/ペンネーム;東 志郎)
- 血 液 型 :B型
- 生年月日 :Sept. 19. 1936
- 性 格 :誠実、正義感強い(自分が一番正しいと思い込むふしあり)、 短気、優柔不断なところあり
- 出 生 地 :三重県松阪市(松阪牛のスキヤキがおいしいよ)
- 現 住 所 :神奈川県南足柄市( 足柄山の金太郎の古里だよ〜 )
- 趣 味 :書道、絵画(セザンヌ、ルノワールが好き)、オーディオ(音楽鑑賞)、詩吟、尺八(修行中)、 写真(ディジタル・カメラのトレーニング中)
- 好きな女優・歌手:八千草 薫、黒木 瞳、長山洋子
- 音楽家 :庄司紗矢香(バイオリニスト)
- スポーツ :柔道、合気道(2段)、水泳、ジョギング、パークゴルフ
- コンピュータ歴 :TK−80(ボードマイコン)以来の付合い、但し、理解度は今いち。
- システム :@ AptivaE 13J、Duron 850MHz、Windows Me、Netscape Navigator 7.1
A Mac mini M9687J/A、PowerPC G4 1.42Ghz、Mac OS X、Safari/Firefox
B ThinkPad G41、Celeron D 2.66GHz、Windows XP、Netscape Navigator 7.1
- 家族構成 :妻、長男、長女、次男、但し現在は妻との二人暮らし。
空襲が三重の田舎にも近づいて、学校では、防空壕への退避訓練と運動場を耕してのさつまいも作りであった。もう小学校3年生になると、田植えや畑仕事の手伝いは当然のことで、勉強などはほとんどできなかった。
昭和20年の6月のある夕方、私は学校で教室の窓に腰をかけて、足をぶらぶらさせながら友達や担任の先生と話に夢中になっていた時であった。息せき切ってかけつけた兄の「お母さんが大変だ。早くかえってこい」に夢中でとんで帰ったが、久しぶりに見る母はすでに意識もほとんどなく、私の取る死に水でかすかに口びるを動かすだけであった。声も涙も出すことができなかった。
母が亡くなった以上、母の実家にいられなくなり、父親に連れられて父の知り合いの家の離れの小屋に引越した。ここでの生活は最低で、電気もなく、雨が降れば傘をさして寝るようであった。月明かりで勉強したこともあった。「蛍の光、窓の月だね」と笑ったものであった。
それからしばらくして、昭和20年8月15日。終戦の玉音放送を聞いた。下の姉は、母の看病で結核が感染し、看病疲れもあって入院していた。私には感染を心配して見舞うことすら止められていたが、その年の10月のある日
「つうちゃんの見舞いに行こう」。めずらしく父と兄に連れられて松阪の病院に出かけた。久しぶりに会った姉は、ひどくやせ衰えてはいたが、笑顔を見せていた。それが姉と話をした最後であった。その月の内に姉は帰らぬ人となった。
愛する人2人を続けて亡くした父の落胆と悲しむ姿は、そばで見ていられなかった。
後に、父に再婚話が持ち上がった時、姉弟3人で話合い、母は私達を生んでくれた母一人でいい、継母はいらない。苦しくても兄弟が助け合って生きていくから、と父に申し入れて再婚話を白紙にしてもらった。今考えると、父には大変申し訳ないことをしたと思う。父にはそれから淋しい長い人生を送らせてしまった。親不孝なことをしてしまったと後悔している。親の心子知らずであった。
その頃は、父の仕事も少なく食べていくのがやっとであった。そのため兄は新制中学(この年、6.3.3制となって従来の小学校高等科2年は新制中学2年へ編入することができた)へは行かず小学校を卒業した後、新聞配達をしたり、パン屋で働いたり、大工の見習いをしたりして家計を助けた。
気立ての優しい兄は、少ない給金の中からいつも私には古本屋で少しでもよい本をと探して買ってきてくれた。その中の一冊が宮沢賢治の「どんぐりと山猫」であった。むさぼるように、繰り返し、繰り返し読んだ。だから今でも宮沢賢治が大好きである。
縁あって宮沢賢治の生誕の地、岩手県の花巻に工場を建設する仕事を得た。むろんここではじめて賢治のすべてを知ることができ、改めて兄に心から感謝し、この上ない喜びであった。
上の姉は内職をしながら母親代わりとして私の面倒を見てくれた。私は中学を卒業したら父の手伝いをしながら大工になろうと考えていた。
しかし、父の言うには、「これからは学問ができないと仕事ができなくなるから高校へ行け」。一見物分かりがよいようであるが、その日食うや食わずでは、高校に行くのは大変なことであった。
とりあえず担任の先生に相談したら「お前ならどんな高校でも大丈夫だから受験してみなさい」、費用のことなど、こちらの心配はよそに、先生とは何と気楽な稼業であろう。(失礼!)
せっかく行くのなら好きな電気を勉強したいと思ったが、電気科のある津の高校までは汽車賃が往復60円もかかる。授業料も考えるととても無理である。それなら多少とも好きな機械の学科のある松阪の高校なら、汽車賃が20円ですむ。これで決まりである。
あとは教科書代である。これは父が知り合いから中古の教科書を借りてきてくれた。
ノートと鉛筆は、中学の時、いろんな賞を取ってもらったものがまだ残してある。
普段、家で書いたり計算したりする場合には、印刷屋の内職をしている姉に頼んで反故紙をもらって使おう。
英語の辞書は買えないから中学で使い古した薄っぺらな辞書で我慢しよう。(ところが高校では、先生が「少なくともコンサイス、できれば英英辞典を使うこと」。再三にわたり注意された。卒業までこの薄っぺらな辞書で苦労した。)
条件は整ったので希望通り受験し、高校生となった。まず柔道部に入ることであった。
これは、おとなしかった私は小中学校を通していじめられてくやしい思いをしたし、正しいことを勇気をもって言うためには、やはりそれなりに体力や腕力にも自信が必要だったからである。これは、今でも良い選択だったと思っている。社会人となって仕事をする上で自信となったし、精神面でも大きなプラスになっている。
高校生活は苦労の連続であった。父は、母や姉の亡きあとの寂しさを紛らすためか(もともと勝負ごとが好きであったが)競馬、競輪、競艇と見境なく金を使い、果ては大阪に出稼ぎに出て、送金もまれであった。
高校へ入学はしたものの、2学期にして授業料が払えられなくなり、退学を申出る羽目になった。
育英奨学金を申込んだが、父親が正業を持ち働いている家庭には支給されない。私達の大家さんは資産家ではあるが、父親に定職がないために同級生のその息子には奨学金が支給され、奨学金を小遣いにした優雅な生活であった。この辺がお役所仕事で血の通わぬ行政を目の当たりにみるようであった。
なにしろ規則がそうなのだから奨学金はもらえず、それでも担任の先生のご助力のお陰でPTAより特別に奨学金を出してもらえることとなり、どうにか高校生活を続けることが出来るようになった。(その後、先生方のご尽力により育英会からも支給を受けることが出来るようになった。)
どうにか高校生活を続けることが出来るようになったが、生活は相変わらず大変で、姉の内職だけでは汽車賃のみか食費にもこと欠き、時には、弁当を持たずおなかをすかしたり、汽車賃がなく学校を休んだりもした。
苦しんでいる時、めげそうになっている時、姉は内職のお金の中からわずかばかりの紅茶を買ってきては、「ちょっと紅茶でも飲まない?」といってくれた。もちろんケーキもない、砂糖も入っていない、普通のお茶に少し赤い色の付いたものではあったが、私にはこの一杯の紅茶を飲む時が最高の幸せであった。
それは今でも心に安らぎを求める時、きっと紅茶を飲むのである。
いろんな苦しみにもめげず卒業までガンバることができたのも、姉の献身的な助力と、いろいろと援助して下さった先生方の熱意や、不撓不屈の精神を培ってくれた柔道部の諸先輩のお陰だと感謝している。
おかげで無事高校を卒業することになったが、この年、昭和30年は史上最高の就職難であった。自分の希望する電気関係には就職できなかったが、幸いにも、自分が好きで手作りで作っていたカメラに縁があったのか、畑違いではあったがフィルム会社に就職することができた。
初めての給料はわずかであったが、僅かばかりの家への仕送りと、夢にまで見たコンサイス英和辞書、それに長い間苦労をかけた姉への感謝の気持ちであった。それこそが自分で働いた汗の結晶の全てであった。この感激は忘れない。
幸いにして会社でも良い上司に恵まれて、これまた定年まで無事職務を全う出来たのも妻の援助とまわりの皆さま方のご援助の賜物と感謝している。これからは、これらのご恩に対して社会に報いることであると考えている。
交通機関:東京より東海道線(新幹線ならこだま号)で小田原下車。大雄山線で終点大雄山まで(約20分)。
小田急線なら新宿より新松田下車。バス関本行きで終点関本まで(約15分)。
大雄山駅(関本)より各方面へはバスまたはタクシーが利用できる。
車なら東名大井松田ICから大雄山最乗寺までまっすぐ約30分。丸太の森へ行くには
仁王門の手前を右折して、途中左折するが約25分。
いろいろ巡らされたコースを好きなように辿ることができる。また万葉植物苑、山草苑があり、万葉の歌に読まれた植物が138種類ほど栽培されていて、万葉の心に触れることができる。別に、薬用植物苑もあって150種類ほどの普段道端で見かけるような草花も薬効があるのかと感心したりする。
公園の中のあちこちには、自然を素材にした丸太の遊具や樹木に掛けられたロープ、はしご等でジャングルごっこ、ターザン遊びも楽しめる。そのほか、キャンプやバーベキューを楽しむ施設もある。
入園料は大人400円、子供300円。月曜日は休園。無料駐車場あり。(お問い合わせは 0465−74−4510へ)
仁王門より約2Kmの参道は老杉に囲まれ、途中には茶店が並ぶ。大雄山駅から歩いて坂道の40分は一汗かく位だ。バスやタクシーも利用できる。自家用車なら境内に数百台分の無料駐車場が用意されている。
御真殿から奥の院までは300余りの石段を登らなければならない。春は桜、新緑。夏はあじさいの花、秋は紅葉と自然豊かな名所で、地元では「道了(開祖)さん」で親しまれている。
最乗寺から箱根外輪山の一つ、明神ケ岳(1169m)への自然の残された登山道があって約2時間で頂上へ着く(軽装でズック靴なら大丈夫)。頂上から東には遥か小田原の海までの眺望が開け、西には雄大な富士山とその裾に広がる箱根仙石原を一望できる。