「教育」tommyのつぶやき2003年

 世間を震撼させた長崎の幼児殺害事件はまだ記憶に新しいことですが、似たような犯罪は、遠く1997年の5月に発生した神戸の“酒鬼薔薇聖斗事件”の、小学生児童の頭部を切断して学校の校門に晒した犯行を思い起こすのではないでしょうか? 命を命とも思わず、残虐非道な手口にも悔悟の念さえも抱かない、異常性格な少年が増えているのでしょうか?

「新世」の10月号(倫理研究所刊)の連載“どうする! 日本I 子どもたちの心の闇”で、「根は、病める大人と社会そのものにある」と題して、稲田博己氏が、少年凶悪犯罪のバックグランドについて言及されています。
それによりますと、一昨年の家庭裁判所調査官研修所では、殺人や傷害致死などの事件を起こした少年の犯行動機や心理、生育環境、背景や原因などを究明した『重大少年事件の実証的研究』が発表され、平素はおとなしく環境に順応して問題がない「よい子」に見えながらも、殺人を犯したタイプの少年は、親とのコミュニケーションに乏しく、自然な感情の伴った温かい人間関係を誰とも得ることが出来なかった、と指摘されています。

 更にその親は、子どもを実際以上に「よい子」と過大評価する傾向があり、怒りや悲しみなど、子どものネガディブな感情を否定し、子どもに心の闇を育てる結果になる。つまり、子どもはありのままに愛されていないため、不満を抑制して「よい子」を演じつづけたあげく、外で問題行動を起こす結果に陥りやすい、とも分析しています。

 これらの原因は、子ども自身にあるのではなく、「心の壊れた大人」、「病める社会」、「倫理なき日本」が生み出した現代の土壌が育てたものと言えるでしょうか?

 これについて、稲田氏は“「人間力」を伸ばす子育て・基本三か条”を提案されています。

  @ 何はおいても第一に、「あいさつ」ができる子に育てること。
  A 家族が全員そろって食事をする機会を一回でも多く増やすと共に、「現代の心の囲炉裏」を取り戻すこと。
  B 学力よりも人間力を磨くことを最重視して、部活やボランティア活動を見直すこと。
であり、“要は、親自身が自らの人間力を高めようと、人のため社会のために日々を精一杯真剣に生きぬいている姿が大事なのです”と結ばれています。

 同じ問題は、「PRESIDENT」の9月15日号(プレジデント社刊)でも、“特集Aわが子を犯罪者にしないために「息子と娘」の問題”として取上げられています。

 ここでは「徹底検証 彼らはどんな家庭で育ったのか」を、ジャーナリストの駒村吉重氏が、臨床心理士の矢幡洋氏と対談されています。ここから推察できることは、父親と母親の役割がきちんと果たされていないと、子育てに歪が生じてくるのではないかと思われます。従来、父親の果たすべき役割は、世間の規範に厳しく正邪を質すことであり、母親は、父親の厳しさから子どもを守る優しさが必要だったのではなかったでしょうか?
それが何時の間にか、厳しい父親が陰をひそめ、要領よく世渡りして、子どもに甘いだけの父親が増え、優しかった母親に代わり、他人の子に負けない強い子を望む厳しい母親が現出し、父親抜きで、受験競争を勝ち残らせるために、アメとムチを使って、母子べったりの関係をつくってきたのではないでしょうか?

 本誌では、ジャーナリストの田中義厚氏が、“父親だからできる「子供のしつけ」全課題20”を述べられています。
詳しくは本誌をご覧下さい。ここに、それらの項目の一部を並べてみましょう。

  A 我慢することを教えるには
  B 世の中のルールを理解させるには
  E 依存心と甘えを断ち切るには
  F 自分の頭で考える習慣をつけさせるには
  H 心のやさしい子どもにするには
  K 「学校に行かない子ども」にどう言って聞かせるべきか
  N 「いい子を演じる子ども」はどう育てたらいいか
  R 娘の「援助交際」をどうすればいいのか
  S なぜ人を殺してはいけないかを教えるには
まさか、“子育てはみんな母親任せ”じゃあないでしょうね? 父親自らが子育てに真剣に取組むことが重要だということでしょう。さて、貴方ならどうする? ( Sept. 22. 2003 )


 新聞やテレビ報道によると、新生児は“生後2〜3日で母語を聞き分ける”という研究結果を、日立製作所が開発した脳機能解析装置を用いてイタリヤ、フランスの研究所と共にその成果を発表したとありました。人は言語視覚野と呼ばれる耳の近くにある脳の領域を用いるが、生後3〜3日の赤ちゃんが、既にこの領域を働かせていることがわかり、新生児は母親の体内で言葉を聞いて覚えているか、もともとその能力を持っている可能性がある、と研究者は見ている。

 もともと胎児が、母親のお腹の中から外部の様子や会話を理解しているらしいことはわかっていて、胎教の重要性が言われており、イギリスで始まった“ブック・スタート”と呼ばれる、幼児絵本を介在にした新生児に対する親子の対話による教育プログラムは、それを考慮に入れた幼児教育ではないのだろうか? 幼児の脳の発達が、既に体内で始まっているらしいことも判っており、益々、胎教の重要性が立証されてきたと言える。

 しかし、一方で、脳の発達初期は極めて微妙なため、その影響は大きく、幼児教育は非常に注意を要することは確かだろう。これらについては、Newsweek誌の別冊「0歳からの教育」及び「新・0歳からの教育」も参考になるでしょう。
 ただ最近は、乳幼児の殺害や児童虐待の多発に見られるように、生物的な親と子の関係が薄れ、子どもを愛おしんで育てることから、金と物中心の自己中心的な親子関係の無機質的な知識教育や、単に大きく育てる、生育させることが中心となってきているように思われて、幼児教育の現実に杞憂しているのだが、本当にそれが杞憂で済めばよいのだが…。( Sept. 12. 2003 )


 少し前でしたが、厚生労働省が、育児休暇期間を最長2年にして子育て環境を改善する育児・介護休業法の改正を行うという新聞報道がありましたが、またも御上のいらぬお節介ではないかと眉をひそめてしまいました。

 少子高齢化で、かえって昔より子育てが楽になっているのではないでしょうか? 目的と手段が入れ替わっているように感じるのです。厚生労働省は、働く女性が増えて、育児をしながら働き続けられる環境整備が、少子化対策で急務と判断したとあります。少子化の問題点は、子供を預けて働きたい母親の環境整備が重要なのでしょうか? そして、それが育児休暇期間の延長だと言うのでしょうか? 子供を生まない女性も増加しています。いや、結婚をしないで働きつづける女性も沢山います。子育て環境を整備するのだとしたら、子供が小学校にあがるまでの間、一緒に母親が十分面倒を見られる育児環境がほしいのではありませんか? 

 もし育児の価値が評価されるなら、育児専業主婦を援助し、優遇すべきであるし、働く女性(キャリア・ウーマン)の社会貢献を評価するなら、企業が彼女たちの働く環境や企業内託児制度を充実させ、それに対して企業への助成制度を検討しても良いのではないだろうか? いずれにしても、良い育児環境を作るのが目的なのか、女性の社会進出を助けることが目的なのか、十分検討すべきではないか? これは、少子化を抑制することとは本質的に異なるし、もし少子化に歯止めを掛けるとしたら、働く女性の意識や育児への価値観を再認識させなければならないのではなかろうか?

 これとは別に、日経新聞の8月19日の朝刊に“家庭の「教育力」低下”という見出しで、国立教育政策研究所が、2001年10月に子育てをする男女12,000人を無作為抽出し、その内の3859人が回答したものが載せられているが、その上位5位の「家庭の教育力が低下している理由」を見ると、

  @ 子どもに対して、過保護、甘やかせ過ぎや過干渉な親の増加  66.7%
  A テレビ、映画、雑誌などが子どもに及ぼしている悪い影響   50.5%
  B 子どもに対するしつけや教育の仕方が分からない親の増加   47.1%
  C 子どもに対するしつけや教育に無関心な親の増加       44.4%
  D 学校や塾など外部の教育機関に対するしつけや教育の依存   44.2%
となっている。
 設問の詳細や回答がどういう形で行われているのかは分からないが、過保護、過干渉の親の増加というのは、回答者も含めて言っていると考えると変だし、しつけや教育の仕方がわからない親の増加というのも同じように良く分からない回答で、他人を批判していると見るべきなのか?
 しかし、自分たちの場合を考えても、Bは初めて子どもを育てる際には、核家族では当然なように思うし、Dなどは、受験競争では躾はともかく、教育は相手に任せざるを得ないのではなかろうか? それよりも、“家庭の教育力とは何か?”という定義が明確になっていないのではなかろうか?

 いわゆる3才頃までに家庭でしつけなければならないことが、現代では(言い方は悪いが)親が金儲けに一生懸命で、肝心の子供の面倒を保育園や幼稚園、更には小学校に上がってからも学童保育で他人様にしつけまで委ねているということだと思う。これは、親のその又親から受け継いだ子育てを踏襲しているのだとは考えられないだろうか? そうでないとしたら、いったいこの現象はどう言う原因に基づいているのだろうか?

 別な言い方をすれば、子育てを重要だと思ってはいないし、世の中全体が子育てに対する価値観が低いというべきなのだろう。

 そこで文部科学省が、来年度から親になる高校生(?)を対象にした“子育て講座”を新設したり、思春期の子どもを持つ保護者向けに“子育て学習”講座を開設するそうである。そうして、企業や官庁、自治体に働きかけて、子育てしやすい雇用環境を整えるのだという。それによって、家庭教育を支援する機運が地域全体に育つことを期待するのだそうである。はたまた“お上の要らぬお節介”なのではなかろうか? この前、文部科学省が作って、「母子手帳」ならぬ「家庭教育手帳」を乳幼児を持つ家庭に配布したが、その続きであろうか? ご苦労様なことですねぇ。“教育力の低下している”お父さん、お母さん、ガンバってね。( Aug. 23. 2003 )


 日経新聞の報道によると、中教審の教育課程部会はその中間報告案で、指導要領の性格(基準性)について「すべての児童生徒に指導すべき内容を示したもの」として、教えるべき最低限の内容であると指摘し、その上で「児童生徒の実態に応じ、指導要領に示されていない内容を教えることも可能」と位置付けている、とある。

 指導要領が、従来教える範囲を規定していると解釈される場合があるとして、記述の見直しを提言したというようですが、「ゆとり教育」によって「学力の低下」を招いているという心配が、今回の提言になっているようにも勘ぐられます。何よりも“学習指導要領”の目的と必要性を議論した上で、それを一般公開して“学習指導要領”はどうあるべきかを実務担当者である教師を交えて討論すべきだと思いますが、いつまでたっても密室討議で事を決める習慣から抜け出せないでいることこそ問題ではなかろうか?

 またまた、鶏と卵のネストになりますが、教育の目的と手段を取り違えないようにしてほしいものですね。もちろん、ここで言う教育とは、人として立派な人格をつくると言う「全人教育」(「玉川学園 全人教育 夢への挑戦」など参考文献参照)を言っているのであって、高度な知識や技術を習得させる「英才教育」を言っているのではありません。世界で比較して、日本が「高得点」を獲得できることを目指すことでもありません。強いて言えば、世界の平和や地球の環境問題に貢献できる人こそ、最も必要な人材なのではないでしょうか?

 教育は点数で比較できるものではありません。比較できるのは目的に対する達成度を知る手段の一部に過ぎないのです。“学習指導要領”も、目的を達成する手段の一部ではありませんか? “総合的学習”も、「全人教育」を達成するための学習と言う手段の一部だと考えています。自立的な学習習慣を身につけるための、一つの手段というべきでしょうか? もともと、相互の関連を無視して、科目別に縦割りの学習をして点数を競っていた学習こそ「英才教育」の手段ではなかったのでしょうか? 英才教育を選ぶかどうかは、学習する側の選択の権利であって、義務教育の目的では無いように思いますがねぇ? (お前は理屈っぽいねえ! そんなこと、どうだっていいじゃないの?/じゃあ、貴方は自分の子供がどう育って欲しいの?/そんなの分かりっこねぇよ! どうせ俺の子だもの、蛙の子はカエルさ!/じゃあ、“学習指導要領”なんて、どうでも良いんだ!!)( Aug. 12. 2003 )


 教育や子育ての問題点について、内閣府の「第2回青少年の生活と意識に関する基本調査」から、日経新聞の教育欄に“数字は語る”の囲み記事がありますが、最も多くの親が、前回の1995年の調査と比較して悪くなったと指摘したのは、

  @ 家庭のしつけや教育が不充分
  A 世の中全般の乱れ
  B テレビやマンガなどの悪影響
  C 教師の教育する力が不充分
  D 地域社会とのかかわりが乏しい

ですが、当然と言えば当然で、さて、これらの問題をどうすればよいのでしょうか?

 親として、今なすべきことは何なのかを問いただしてみたい気もしますねぇ。
また、この結果を、文部科学省や遠山大臣がどう受け止めているのか、日教組はどう見ているのかも知りたい気がします。統計は統計で、俺たちの知ったこっちゃねえや、と開き直られても困りますがねぇ。( Aug. 3. 2003 )


 教育基本法改正の問題の目的がどこにあるのか一向に見えてきません。そもそも、この教育基本法見直しの発端は、いじめ、不登校、学級崩壊、家庭内暴力、青少年の非行化に対する対策としての数々の教育改革が効を奏せず(文部科学省の方針が一貫しないことが原因では?)、これは、GHQを中心に作られた新教育基本法に基づく、戦後の学校教育の不完全さではないかという発想にあるのではないかと考えられる。

 雑誌「世界」(岩波書店発行)7月号で、東京都の都立高校改革(都教育委員会の“一芸一能入試”改革)も含めて、教育改革の目的論として論議している。元々教育の問題は、学校教育に限ったものではなく、かといって公立の教育と私立の教育とを比較することでもないと考える。私立の一貫教育が良いからといって、公立で一貫教育を実施して一律に効果が上がるものでもないし、私立の一貫教育が、全て同じ目的で実施されているのかどうかも明らかではない。

 特に公立の学校教育において大きな問題と思われているものが、学校教育の問題を、学校教育の実務者で無い多くの委員で構成される教育委員会が実質的な実権を握っていて、理論的な改革案を実務者である教師に押し付ける構造になっていることこそが、問題ではないかと以前から言われている。

 教育改革にしても、入試改革にしても、問題は、改革の目的や目線がどこにあるかではなかろうか? このことが、公立学校教育の目的と一致してこそ、真の教育改革であり、前述の様々な青少年の問題の改善につながるものであろうと考える。往々にして、目的と手段が混同されて、“教育改革”という手段が、“青少年の健全育成”という目的に取って代わっている気がするのである。教育基本法の見直しにしても“初めに改革ありき”となってはいまいか? 本誌でも、教育基本法改正問題について“子どもの危機を「改正」の理由としてよいか”と竹内常一氏がなげかけている。

 教育問題は根が深く、以前から「臨教審」、「中教審」、「教育懇談会」、「教育改革国民会議」等での数多くの提言がなされている。一体、これらの提言がどう活かされ、どのような問題の解決につながったのかを、先ず明らかにすべきではないのか?
特に、本誌で取上げている“「民間人校長」はなぜ自殺したのか”の野田正彰氏の論文にある如く、“教育改革”の名の下で、本意ならず犠牲になる人々が、未だ存在するのではなかろうか?

 昨晩のNHKテレビ番組“難問解決 ご近所の底力「大迷惑・若者のタムロ」なぜ集まる?”の若者の心理分析から始まり、まず大人が心を開いて、若者と同じ目線で対話することから解決の糸口が解かれて行くことに、理屈ではない感動を覚えた。私たち大人自身の大きな問題点がそこで明らかにされたと言うべきか? 仏教で言う“因縁”、全ては現象を手繰って行くと原因に到達する。原因を取り除くことが解決する手段(現象を消滅させる)となる(当面の目標)ということだろうか? ( Jun. 20. 2003 )


 「新世」(倫理研究所発行)6月号の“さわやか対談”で、ブラジル・サンパウロ市のスラム街で20年以上にわたって貧しい人々の教育や保健医療などに尽力されてきたウテ・クレーマーさんと倫理研究所の丸山敏秋理事長が、“遊び”と“時間”をテーマに子どもとの向き合い方について語っています。

 貧しい家庭の子どもたちは、小さい時から大人のように働かなければならず、彼らに、奪われた“彼らの子ども時代”を返してあげたい思いから活動してこられたそうです。しかし、この活動を続けてきて“子ども時代”を奪うのは貧困だけではないと気がついたのだそうです。
例えば、日本などの先進国の多くの子ども達は、何時間もテレビの前に座って、一人でゲームをしたりしています。自分が成長できるような遊びを体験するチャンスのない、そうした子どもは“子ども時代”に体験する世界というのは、機械を通して見た世界でしかありません。しかも、そうした子どもには、心の頼りにできる大人がいない場合が多く、大人になってからの人生がいい形で開かれるためには、“子ども時代”のあり方がいかに重要であるかを痛感しているそうです。

 子どもは、遊んでいる時とても集中しています。真剣に遊んだ経験を持つ子どもは、大きくなった時にも、同じ真剣さで勉強や仕事に取組むことができるようになります。子どもは誰かに命令されて遊んではいません。自分の中から生まれてくる“行動を起こす力=イニシアティブ”によって、その遊びに没頭しているのです。この、自ずからのイニシアティブによって遊ぶということを通して喜びを得てきた子どもは、大人になってからも、ただ人の言うことを聞くだけではなく、自分の中から湧き出るものによって行動を起こすことが出来るようになります。

 このことは、大人自身が子ども時代の経験が乏しいからなのかも知れません。また、現代の大人たちが、子どもと真摯に向き合って生きていないのではないかとも考えられます。自分たち大人が、自分自身が楽しむために、あるいは楽な生活をしたいために、面倒な子育てを放棄しているように思えるのは思い過ごしでしょうか?

 別のページの「こちら生活相談室」欄に、“長男の家庭暴力”についての相談がされていますが、このお母さんは、ご主人がケガによって視力を失い、収入が1/2になったとかで、苦労されているようですが、反面、夫婦仲は良いほうで、週に何度かは一緒にお風呂へ入るし、夫婦喧嘩もしないといいます。これが夫婦仲の良い家庭と考えているとしたらとんでもないことですね。多感な中学生のお子さんに対して決して良い家庭環境とは思えません。「おまえは死んどけばいいんだ!」といって物を投げつけたり、髪の毛を引っつかむ長男の気持ちがわかるような気がします。子どもの教育について、子どもと真剣に向き合っていないのではないでしょうか?

 何時も言いますが、子どもの教育環境は、金銭でも物の豊かさでもないのです。子供に対する愛情の豊さと、和やかな、安堵できる家庭環境です。
ここでの回答者、田口氏は、“子どもは誰でも親をモデルに生きています。たとえ一時期反抗しても、親の生き方に感動できるのであれば、必ずまねをします。お手本にします。長男は、感動を覚えないあなたの生き方に失望しているのではないでしょうか?…この泥沼から脱却するためには、子どもを変えようとしてもだめです。貴方自身が、貴方の生き方に感動できなければだめです。…”と答えられています。

 私たちは、ともすると“自分は一生懸命にやっているのだ。なのに私の苦労も知らないで…”と考えがちです。そうではないのです。私自身は、皆さんのお陰で生かされているのです。周囲の全てに感謝することが大切です。試練は、貴方の気づきを促す神の思し召しです。子育ても、貴方が苦労するのではなく、子どもを通して貴方が多くを学ぶプロセスなのです。ひょっとして、貧困な家庭の子どもはかわいそうだ、と思ってはいませんか? 子どもは、愛情さえあれば、どんな環境にも耐えられます。甘やかしは、愛情ではありません。どうか真剣に子どもと向き合ってください。子どもを心から愛し、子どもから敬愛される親になって下さい。そして、貴方自身も親への感謝の気持ちを忘れないでね!( May. 19. 2003 )


ブックスタートが南足柄市でも始まろうとしています。ご存知かもしれませんが、この運動は0才児と共にお母さんが、本を読み聞かせることで赤ちゃんの心を育むというものですが、英国ブックトラストと協力してNPOブックスタート支援センターがこの運動を進めているようです。

 この運動は、初めて子どもを持つ若い母親の子育て支援として、地域の保健センターが地域ボランティアに働きかけてスタートしようとしているものです。最近の幼児虐待を見かねて、子育てを忘れた身勝手な親達を何とかしようと活動を始めたのでもないでしょうが、子育ては動物の本能なはずですが、その母性本能を失った人間の母親(父親もそうですが…)に対する要らぬ(ひょっとして要るのかな?)お節介介助のような気がしないでもありません。

 話を聞きますと、生後3ヶ月位の0歳児の健診の時に、その赤ちゃんと保護者を対象にお勧めの絵本の入ったブックスタート・パックを与えるそうですが、それだけでは始まらないので、保健センターだけでなく、市の図書館等が子どもボランティアグループなどと連携して推進するというものです。正に“オンブにダッコの子育て”ですが、現在の自己中心ママやパパの世代では仕方がないのかもしれませんねぇ…。

 しかし、それよりも何よりも、言葉も話せないし、理解できない0歳児に本を読んで聴かせるってことが、はたして子どもの心を育むことに必要なことなのだろうかと疑問に感じるのですが(無意味だと言うわけではありませんが…)、それも、専門家でもない素人のボランティアが関与して、間違った方向にならないかと、とっても心配です。

 もともと親が子どもを育てる時には、絵本など無くても、色々話しかけながらあやしたり、子守り歌や童謡などを唄いながら寝かしつけたり、時には、作り話(創作童話か?)をして聴かせたりしたものですが、今の母親は本が与えられないと育てられないのでしょうか? 子どもの心を育んだり、情操や感性を育てたりするには、何よりも両親の子どもに対する深い愛情こそが必要なのではないでしょうか? その愛情をブックスタートで育むということなのでしょうか?

 担当するボランティアの話しを聴いていると、ブックスタートの趣旨も分からないで「そんなの簡単よ!」と言うことですが、本を読んで聴かせることは簡単でしょうが、他人の子ども、それも0歳児の将来を預かる育児には大きな責任がかかってくることなので、他人事ながらとても心配になってしまいます。世のお母さん、お父さんたち、しっかりしてくださいよ! 貴方の子どもは貴方が育てるしかないのですよ! 貴方たちがしっかり勉強して、貴方たちの信念と価値観で、どのような子どもに育てようかと考えて育てるのです。そして、親が育てたように子どもは育つのです! そら、昔から言うではありませんか?“親に似ぬ子は鬼子”、“蛙の子は蛙”、“トビはタカを生まない”ってね。

 だから、親が努力すればするほど、子もそれなりに育つのでしょう。あまり他人を当てにしないようにね! 貴方が他人の子どもに興味が無いように、他人は貴方の子どもがどう育とうとも、大した興味は無いのです。むろん、責任も義務も感じてはいませんよ。
子どもは、両親の愛情さえあれば立派に育ちます。子育てに自信を持って下さい! ( Apr. 5. 2003 )


 「子育てがつらい理由」についての内閣府の「社会意識に関する世論調査」の結果が日経新聞のMONEY&LIFE欄にありますが、その第1位は“子どもの将来の教育にお金がかかる”の51.6%でダントツですが、教育費は何時の世でもかかるのは当然だと思いますし、自分達もそうして育ったのではないのでしょうか? まして、最近は中卒で働くということはありませんし、高卒は当然で大卒さえも当たり前になってきていますから、教育費はかかります。しかし、子ども達の将来の教育費が“子育てがつらい”理由になって、子どもを産まなくなっている原因だとしたら、ゆゆしき問題ですねぇ。

 第4位の「子どもが小さいときの子育てにお金がかかる」(24.8%)も同様な理由だと思いますが、ここには子育ての喜びや希望は微塵にも見られません。それに加えて、第2位の「自分の自由がなくなる」や第5位の「自分が思ったように働けない」に至っては自己中心主義で、何をか言わんやである。更に、第8位の「子育ての大変さを配偶者など(夫?)周りの人に分かってもらえない」となると、“そんなことを他人に分かってもらってどうするの?”と言いたくなりますし、第6位の「子どもにどのように接すればよいか分からない」(14.5%)となるともうお手上げで、“児童虐待”がなるほどと思えてきて悲しくなってしまいます。

 生物的な親と子の関係が、いつのまにか無機物的、ロボット的と言うか、子どもに対する慈しみ、人に対する愛情というのが欠落してしまっていて、今に、人間までも“絶滅危惧種”に指定される危機感に襲われてしまいます。世代間の落差と言えばそれまでですが、子育て専従の妻と、仕事一筋で奮闘し、3人の子どもに支えられて生きてきた私たちとのあまりの違いに愕然としています。

 さて、貴方は、この内閣府の統計をどう見られますか?( Mar. 17. 2003 )


 またまた学校教育で、首を傾げたくなるような話を聞きました。妻が言うには、いつものボランティアの仕事で市立図書館へ行ったら、沢山の小学生が先生に連れられてやってきたそうです。そのうちの一人に“何の授業?”と尋ねたところ、“総合学習の時間です”との答えです。先生はと見ると、別の所用があって子ども達をほおっておいて、どこかへ出かけてしまいました。皆、てんで好きな本を見つけて読書したり、おしゃべりしたり。これって、総合学習なの? 雑学(?)ではないの? 遠山大臣どの!

 確か、昔は、担任の先生が用事があったり、お休みの時などで“自習”って言ったっけ? ( Mar. 1. 2003 )


 日経新聞によれば、文部科学省の公立小中学校3万3千校を対象にした教育課程編成状況調査で、習熟度別学級による小人数指導を実施している学校が、
   小学校   63.1% ( 2000年度 38% )
   中学校   64.7% ( 2000年度 31% )
と急速に伸びていると言う。また、始業前の学習(漢字や計算、各教科の補充的学習など)も小学校では73%、中学校では66%位が実施しているそうである。

 習熟度別小人数学級のような能力別クラス編成は、学習について行けない児童の学習を助ける上で効果的とも言えるが、別の意味では、個人の差別意識を助長しやすいので問題が多い。また、難易度の高い学習に挑戦する意欲を抑制してしまう弊害も伴いやすい。問題が早く解けることが必ずしも能力を表してはいないのではないか? 児童自身が自分の能力に応じてクラスを選択する場合は問題が少ないが、大抵は普段の成績(例えば、テストの点数など)で決められてしまうのが一般的であろう。
難しい問題が時を経て突然理解できることがままあることは、大人になっては良くあることであるし、一律に全ての教科が完全に理解できている必要も無いようにも思われるがどうであろうか?

 文部科学省の「ゆとり教育」が、学習内容を削減して、少ない学習内容でより理解をしやすくする、と言うことではなかったのか? それとも、「ゆとり教育」を実施したために“学力の低下”が発生して、“学力を向上(回復)させる”に“習熟度別学級”が必要になったということなのか? 本当にそうなら、イタチゴッコで、公教育では“本当の教育”はできないのであるから、塾や民間の教育機関とかNGO等に頼るしかあるまい。それを“教育基本法の見直し”等と言うことでごまかしてはいないか?

 もう一度「教育」の原点に立ち返って、文部科学省の存在意義から考え直したらどうか? ( Feb. 7. 2003 )


 どうする! 日本“礼節をなくした日本人”。「新世」2月号(倫理研究所刊)田中範孝氏が、作家の中野孝次さんの「現代人の作法」やラフカディオ・ハーンの「日本瞥見記」などから、明治時代の日本人観では、日本人の倫理観の高さや作法のみごとさは、外国のそれと比較しても賞賛できるレベルにあって、現代の日本ではその片鱗さえも見られず、「おはよう」、「ありがとう」、「ごめんなさい」も言えない子ども達の氾濫(?)に危機感を覚え、ある人の言うように、今の日本の社会を「高学歴無教養社会」で、「志操も威厳も無く、風格も陰影も無い」という。
“このまま行ったら消滅してしまうしか道は無いでしょう。このところ日本の子ども達の学力の低落を危ぶむ声が姦しいが、真に憂えるべきは、学力よりももっと深いところの国力、即ち数量では計れない国民の心の質の凋落であろう”と述べられています。

 それを証明するように、日経新聞の元旦号の社会面に『街は「無」があふれていた』。無目的、無作法、無責任、無自覚、無批判、無常識、無気力、無反応、無関心、無節制。「社会の一員」意識希薄、とその危機感を大きく取り上げています。その中で東工大の今田教授は“常識を知りながら無視するのは非常識。今はその常識すら持ち合わせていない。『無常識』だ!”と指摘しています。

 更に、恐ろしいことを1/23の日経新聞は報道しています。警察庁の青少年問題調査研究会(委員長・矢島中央大学教授)の性に関する意識調査で、
“中高生の七割近くが「同世代の女子が、見知らぬ人とセックスすること」を容認しており、そのことは「問題だが、本人の自由」であると回答している”という。特に女子高生の半数の50.5%が「本人の自由」だとしており、「してはいけない」の45.3%を上回っていると言います。

 こうした事は、何も子ども達だけの問題ではありません。中野孝次さんも言われているように、“親が子に、人間としてこうしなければならぬ、これはしてはならぬと、生きる上での価値観をはっきり教えてやることがすべての始まりなのです”
わが子の教育をできなくて、何で他人の子どもを注意できるでしょう? 親自身が姿勢を正して、きちんと食事をする、きちんと挨拶をする。それがスタートである、と田中氏は結んでいます。

 これは別の見方をすれば、同日の新聞記事で“出生、最低の115万6000人”と、少子化を問題にしていますが、この背景には、2002年の婚姻件数75万5千組に対して、離婚件数が29万2000組と、1/3以上の数の離婚が発生していることが背景にあり、他人同士が忍耐、努力して家庭を築くことよりも、自分だけの生き方を優先して、協力、感謝、奉仕の精神が欠落していることのように思うのは邪推でしょうか? 貴方は離婚容認派?

 また、現在大きな問題になっている携帯電話などの「出会い系サイト」による児童の性交渉・性的被害があるが、1/22の日経新聞記事によれば、その法規制について運転免許試験場での3324人に対するアンケートの調査結果を公表しているが、全体の八割が“児童(未成年者)との性交渉の勧誘を禁止すべき”と回答しているという。ところが、警察庁の法規制案に対して、日本弁護士連合会では、
「サイトで横行している児童売買春の勧誘行為は許されないことだが、一律の法規制は不正とは無関係なコミュニケーションまで規制することにつながり、プライバシーを侵害し、表現の自由、通信の秘密の保障に反する恐れがある」(じゃあどうすれば良いの?)として反対しているという。

 いつも言うようであるが、何が優先するかであって、児童の人権保護より、表現の自由や通信の秘密の保障が上回ることではなく、児童売買春から児童を保護する事の方が大切だと思うのだが…。弁護士や裁判官が絶対正しいわけではないし(弁護士や裁判官も密かに出会い系サイトを楽しんでいたりして…)、むしろ逆の場合が問題になっているために司法改革が必要なことでもある。大人の常識が問われている現代であろう。( Jan. 23. 2003 )


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