「教育」tommyのつぶやき2001年

 「家庭教育手帳」を入手しました。これは群馬に居る長女が3人目の子供を産んだときに余分にあるので私にくれたものです。これを読んで感心してしまいました。全く、良いことが書いてあるのです。以前、私が“文部省の要らぬお節介!”と批判したものです。

 今時の若いママさん達は、子供を育てることが苦痛だと言いますし、自分の自由時間が失われると、夜泣きしたり、わがままを言う子供に、無分別に暴力を奮いケガをさせたり、いとも簡単に、幼い命を奪う人が増えているのです。それを見かねて、お上が「子育ての教科書」なるものを作って、配布するようにしたわけです。私はその所業を見て「お上のいらぬお節介!」と批判したのですが、実際に「家庭教育手帳」なるものを見てみると、何と良く出来ていることよ! と感心してしまいました。

 大まかな目次で見ても、

   @ 家庭とは?
   A しつけ
   B 思いやり
   C 個性と夢
   D 遊び
など、なかなか、微に入り細に亙って、噛んで含めるように書かれております。なるほど、これを良く理解すれば子育ては万全ですねぇ! 但し、読んで、実行すればの話しですよ。おまけに、困った時の相談先の電話番号まで紹介されていて、至れり尽くせりなんですねぇ!

 これだけではありません。新聞によると、保母さんや助産婦、一般主婦で、9ヶ月間、36時間の養成講座を受けた中から「子育て知識のほか、精神的に寛容、安定している」という基準で選抜された人が、“教育アドバイザー”として、核家族化で子育てに悩む主婦らを対象に、木目細かいサービスを提供するNPO法人が出来るとかで、先ずは都内を手始めに、全国30ケ所に拠点を設けて派遣するそうですから、益々おんぶに抱っこで、これには、私もグウの音も出ません! 新生児のお母さん(だけでもありませんが…)、頑張って下さい!! ( Dec. 16. 2001 )


 NHK「世界の子育て!」最終回の「子育てを楽しんでいますか?」を見ました。年々増えつづける児童虐待を憂慮していますが、子育てを楽しくないと言う母親や、子育ては当然母親の役目だとか、自然児が一番(何が自然児なの?“腕白でも良い、元気に育ってほしい”というテレビコマーシャルか?)だと、面倒な子育てから逃避している父親が多いことが原因の一端ではないかと考えています。中には、“親は無くても子は育つ”とうそぶいた若い母親もいましたが…。

 番組では、子育ての重要性に気付いたキャリヤ・ウーマンの母親が、仕事を辞めて子育てに専念し、それでも子育てと仕事を比較して数値で表わしてみる。
子育ての方が仕事よりも価値あるものであり、年収の価値に換算して約1000万円に相当すると言う。それなのに、子育て専業の評価があまりにも低いことを知り、子育て専業主婦のネットワークを広げて行く。

 従来は、自分の価値は仕事が出来ることである(いわゆるキャリア)と考え、子育ては仕事ではない(仕事ほどの価値はない)と考えて、育児を保育所や幼稚園に任せてきた。ところが、それによって多くの大切なもの、即ち“子供を通して学ぶこと”、“子育てによって広がるコミュニティ・ネットワーク”、“子育ての喜び・幸せを感じる心”など多くの価値あるものを、自己中心の価値判断のみで切り捨ててきた(或いは、子育ての大変さから逃避してきた)ことを改めて気付いて行く。

 番組では、仕事と子育てを両立するオランダのパートタイム制度を紹介している。1週間の内3日を仕事に向ける。残りを子育てに専念する。これを夫婦で分担することにより、例えば、前半3日間は夫が仕事に出かけ、妻が子育てをする。次の3日は妻が仕事で、夫が子育てを分担する。残り1日は夫婦で子育てをするということになります。この制度は、子育てと仕事を両立させ、夫と妻が子育てを平等に分担するようになっていますが、この制度が良いか悪いかは、それぞれの国の文化や考え方によるでしょう。

 その他、この番組では、プレーセンタでの手作りの絵の具を用いた子供達のお絵描き遊び(フィンガーペイント)を通して、真に子供が望む喜びと、大人である親の感性との大きなズレを認識させる。嬉々として絵の具まみれの手で紙に描きなぐって行く幼児と、絵の具で顔や手、衣服までも汚れることを忌避する大人との意識のズレが明確になっていく。これは感性の問題であろうと考える。いわゆる、金、物、名誉(地位)、外見(見栄)中心の現代生活に幸せを感じる心には、純真無垢の子供の感性とは相容れないものであろう。オモチャを与える場合にも同じことが言える。子どもは、決して高価なオモチャを欲しているものではない。大人の価値観によって子どもの価値観も形成されていくものであろう。

 自然を大切にといいながら、その実、自然とは程遠い人工的な環境を善しとし、便利さ中心の利己的感覚は、軽自動車で買い物のママさんが、駐車場に止めるのが面倒なため店の入口近くの道端に、迷惑かまわず駐車して買い物する感覚に代表される意識であろうか?

 先日の新聞の教育欄でも、“増える良い子の非行”という見出しで、おとなしい真面目な少年の起こす非行や犯罪が問題にされていて、「あんな真面目な成績の良い子が?」と周りの大人達から不思議がられることが度々起こっていることは周知の事実であろう。新聞では、それらの子供達の「育ち方に原因がある」という。

 良い子の両親は例外無く教育熱心であり、小さい頃から習い事に通わされ、「遊びは無駄」であるといわれている者もあり、親は、我が子の良いところしか見えていない。だから、子どもが犯罪を犯しても、「うちの子に限ってありえない。誰かにそそのかされて無理やりやらされたのではないか?」と責任を外に転嫁するのではなかろうか?

 子供らしい子供時代を経験することなく、親の期待に沿うことが良い子であるとの認識から、伸び伸びと、安心して暮らせる家庭すらなく、高学歴社会の中で一途に頑張ってきた結果、或る日突然緊張の糸が切れて暴走することになるのではなかろうか?

 世の中では、それらの全ては学校教育の問題として位置付けられているが、現代の大人の心の歪みを映しているのではないだろうか? 教育の一歩は、親が子供を育てる中で、“子供に教わる”こと、“子供から学ぶ”ことではないだろうか? そして、“子供の感性を大事にする”こと。家庭が和やかで安心して暮らせること。羽根を伸ばして居られること。そして、両親がお互いを尊敬しあい、協力しあい、子供が家庭の一員であることを認め合って生活する場となっていることが重要であろうと思われ、その為には、何よりも親自身の意識改革が今望まれている。

 では、学校教育に問題はないかと言うと、そうでもない。“学習は自然に学ぶ”と言う基本的な姿勢が欠けていて、知識の詰め込み教育に偏っていることは問題であろう。それは、教育者の養成機関である大学教育の問題点でもある。また、大学(高校)序列の問題は、親の意識の問題に戻ってくるので、「鶏と卵」のネストに陥る。

 いずれにしても教育問題は、幼児教育、学校教育と言うよりは、子育ての問題に帰着するようだ。親が楽しく子育てが出来るようになって初めて、教育問題は解決するように思えるのだが…。そのまえに、金と欲の醜い政治利権や官僚行政の問題を解決する必要があるか? ( Dec. 12. 2001 )


 とても素晴らしい本に出会いました。46年間お医者さんの仕事をしてこられ、その内、13年間を救急病院で小児科医長をされていて、正しい医療のあり方に疑問を感じ、ついに自分の思う医療を実践する為に小児科医院を開設したという、真弓定夫医師の講演をまとめたものです。

 以前にも書きましたが、小児科病院は何時も満員です。鼻をたらしている子なんて一人も見かけません。お母さん方もファッションセンス豊かで、子どもも良い服装ばかりです。顔も手足も汚れている子はいません。栄養も十分で痩せている子なんて見かけません。それなのに、小児科は大繁盛なのです。どこかおかしいのではありませんか?
その回答がこの講演をまとめた本(1300円もするのに、たった100ページ程の冊子なんですよ)の中にあったのです。(「自然にかえる子育て」 真弓定夫著  芽ばえ社刊)

 日本の医療が進歩したと言われながら、病気はちっとも減らないし、治らないのです。医療技術だけが発達しただけなのです。それを疑問に感じない私達がおかしいのです。
真弓先生は、子どもの能力は大人よりも高いのに、親や医師は子どもの能力を過少評価していて、子どもが自分で病気を癒す妨げになっていると言われます。実際に、身体が病気を治そうと熱を出しているのに、それを解熱剤で抑え、毒物を排出しようと下痢になっているのに、下痢を抑える薬を飲ませて、自然治癒力を阻害しているのです。(ちなみに、真弓医院では、薬を一切使用していないそうです)

 それだけではありません。食べ物にしても、日本人は本来米食で、栄養豊かな味噌汁や旬の野菜の煮物や魚、海草類、茸類を多く摂取してきたのに、今は、欧米のように、パンに牛乳の食事になり、チーズやバター、牛肉や豚肉等の動物性の食品を多く取るようになってきています。
よく言いますが、自分の暮らしているところ(地場)の野菜や魚介類で、旬に有ったものが身体に良い物だそうですが、現在では、食糧自給率が27%ですから、ほとんど外国から輸入された食品を食べているのです。これでは、健康を保つことは出来ませんし、ましてや、具合が悪ければ直ぐに小児科へはせ参じ、薬漬けでは自然治癒力の働く時がありません。病気を作って、病院を肥らせているだけなのです。

 それでは、どうすれば良いのでしょう?

 先ず、人間も動物の一種であることを再認識することから始まります。種として人間に一番近いサルを考えれば良いでしょう。サルは、ほとんど植物しか食べていません。それでいて栄養失調にもなりませんし、病気もほとんどしません。病院が在るわけではありませんから、病気は自分で治さねばなりません。遠くまで電車や飛行機で移動できませんから、当然、自分の行動範囲の中に在る植物が、食糧になっています。食物を得るためには、食卓に座って待っていてはだめですから、食糧を探して広い範囲に行動することが必要です。これが必要な運動になりますし、身体を鍛えることにもなるのでしょう。人間は、そう言うわけにはいきませんから、良い生活習慣を身につけなければなりません。

 また、一般常識化されている必要な食べ物というものを見直す必要があります。例えば、

 カルシュウムを摂るために牛乳を飲むことは正しいでしょうか? データで見てみましょう。

  牛乳100g当りのカルシュウムの含有量    110mg
  小松菜100g当りのカルシュウムの含有量   170mg
  大豆100g当りのカルシュウムの含有量    240mg
  大根葉100g当りのカルシュウムの含有量   260mg
  わかめ100g当りのカルシュウムの含有量   780mg
  ごま100g当りのカルシュウムの含有量   1200mg
  煮干し100g当りのカルシュウムの含有量  2200mg
真実がどこに在るか良くわかるでしょう? これは乳製品を消費させるワナと言っても過言ではないでしょう。牛乳は動物性食品なのです。

 医者要らずのための食材は、金沢大学名誉教授の吉村さんの「まごは(わ)やさしい」 で表わされる、

  「ま」は、豆類。  豆腐、納豆、枝豆、いんげん、さやえんどう、そら豆、小豆など。
  「ご」は、ごま。  ごま和え、ごま油、すりごま、ごま塩など。
  「わ」は、わかめ等の海藻類。  わかめ、昆布、ひじき、のり、もずく、寒天など。
  「や」は、野菜。  但し、最近では無農薬、低農薬との注釈が必要ですね。
  「さ」は、魚、小魚など。  貝類、いか、えび、かに等含めて魚介類と言った方が良いでしょうか?
  「し」は、しいたけ等の茸類。  しいたけ、しめじ、まいたけ、なめこなど。
  「い」は、芋類。  じゃがいも、里芋、さつまいも、山芋など。
ご覧のように、ここには、動物性のものとしては、魚介類しか挙げられていません。牛乳、鶏卵、牛肉、豚肉、鶏肉、チーズやマヨネーズなどの乳加工製品は、身体に良くないのです。それに加えて、カタカナ名の食品は、一般的に避けた方が良いとも言っています。むろん、おやつとして与えるものにも注意が必要ですよ。

 これだけではありません。私達の生活環境が、近代的だという名の下に容認されている住居、衣料、電化製品や携帯電話などの電磁波の問題にも触れられています。風通しの悪くなった断熱住宅、体温調節を狂わせるエアコンの普及、皮膚呼吸を妨げる衣料品の数々、数え上げればきりがありませんが、これらの生活環境の悪さが子どもの成育や精神(自律神経)を侵してきています。これは、子どもだけの問題ではありませんが、特に影響を受けやすい乳幼児の子育てには、十分考慮しなければなりません。

 最も心配なのは、これらの問題を大した問題ではないという思い込みで無視していることでしょう。子育ての結果は、すぐには現れません。既に、現代の子ども達に多くの異常が見られるではありませんか? その原因を何と見ていますか? ( Nov. 16. 2001 )


 新聞によれば、国立教育政策研究所が3歳児の保護者一万人を対象とした調査で、保護者の30%が“子どもの将来は3歳までの育て方で決まる”と感じていて、28%が何らかの習い事をさせていると言う。

 確かに、“3歳までの”というより、小さい時の育て方で子どもが良くも悪くもなるということが言えそうだ。しかし、幼児教育の是非とは異なるように思う。白紙の状態にある子どもの教育は、砂に水が沁み込むようにどんな知識でも受け容れていくため、その子に対してどのような教育を施すかが重要なことには違いない。しかし、習い事をさせることが教育の全てではない。否、幼児教育の一部分に過ぎない。

 一方、幼児教育には関心を持ちながらも、“子育てが負担”と感じている親が56%もあるということは、小さい時から互いに競争心を燃やしていて、そのことが親のストレスになっているのかも知れない。

 親が子どもをコントロールできる学力は、せいぜい小学生止まりであり、高校以上になると本人の意欲次第であると考えられるので、幼児期は心のゆとりと自然観察など、子どもの好奇心の芽を摘まないような育て方が必要なのではないだろうか?
 自分の子供を虐待して死なせる親が増えている現代では、地域ぐるみの子育てを目指してのコミュニティ作りが重要なのかもしれない。( Nov. 1. 2001 )


 NHKテレビで「なぜ救えない? 多発する児童虐待」を見ました。年々幼い子供達が親に虐待されて尊い命が失われていますが、良い対策はありません。悲しい限りです。

 虐待を察知しながら、虐待を防止できず死に至っていることで、 児童相談所や市役所の対応に非難が挙がっていますが、これは大変難しい問題です。何しろ、子供を養育するのは親の責任でもあり、義務でもあるわけですから、他人がとやかく言える筋合いでないことは確かです。第三者はとかく無責任な発言をするものですが、何とかして、この悲しい事故を無くしたいものですね。

 子供を育てた人は誰でもご存知でしょうが、自分の子供を可愛くないと思う人はいないし、良い子に育ってほしいと思うものです。そのために躾の度が過ぎたり、いらいらしている時に子供が泣き止まないと、つい手荒なことをしてしまうものです。しかし、通常、そこに良識と愛情の歯止めがあるわけで、それをはずれて暴走した結果、悲しい結末になるわけです。この事態を、どうして未然に防止するかと言うことになるわけですが、この原因には、現代の結婚に対する考え方や生活環境などの社会構造が大いに関係しているものと考えています。

 先日、金曜フォーラム「変わる家族と住まい」を見ましたが、その中で“家”が、家族のと言うよりは、個人個人の独立した部屋の集合体と言う形に変わってきているということを知りました。私達の時代には、“家”は、家長を中心とした家族の集団としての住まいでありました。そこには、父親である家長の権限と責任による規律と、母親の愛情の下での団欒がありました。ところが現代では、個人個人の自由と権利が優先され、例え家長であるとも家族の自由を束縛できなくなっています。つまりは、家長による統制力が失われてしまっているのです。

 テレビでは、極端な例かもしれませんが、夫婦さえもプライバシーを尊重して、別室になってそれぞれ自分勝手に(と思いますが…)生活しており、例え親であっても、ここに独立した部屋を持つ子供の自由を束縛することは出来ない。家族の中でもこのようであるから、他人との間はさらに関係が薄くなって、コミュニケーションが失われてきているのは、想像に難くない。それゆえ、子育てに関しても、昔のように、おばあちゃんの知恵もなければ、近所との助け合いも無い、無機質な生活の場が有るだけになっている。

 だから、「子育ては楽しいですか?」 と言っても、楽しいはずも無く、経験の無い中での子育ては苦しみでしかないし、「子育てを放棄する親たち」のように、自分の権利主張ばかりで、相手の権利(子どもの人権)を無視した愛情を喪失した親たちが増加しているのではないか?
 その上「あなたに問う!! 父親の役割」に見るように、女性の台頭により、強い母親が君臨し、その蔭に、自信を無くした“弱い父親”像をかいま見ることが出来ます。

 このままでは、児童虐待を根源から断つ手立ては見えてこない。子育ての当事者だけでなく、周りの大人全てが子育てに関心を持って、互いに支え合うために立ち上がらねば、親の満足を得るために、虐待を受けながらも、必死に良い子になろうと努力している子供達に明るい未来はこない。児童虐待を自分のこととして、今一度、子育てについて考えようではありませんか? ( Oct. 17. 2001 )


「学ぶ意欲をどう高めるか 〜大衆化の中の大学教育〜 」をNHKの教育トゥディでみました。高校全入時代から大学全入時代へと変化して行く中での大学教育は、今大きな壁にぶつかっている。

 1998年の大学入試センターの調べによると、大学に入学した学生に、どんな力が低下しているのか、上位3位までをみてみると、

  1.自主的に課題に取り組む意欲
  2.論理的に思考し、表現する力
  3.必要な基礎科目の理解
だそうである。これらについては、何も大学生だけのことでも無い様に思える。何も大学が大衆化したからだけでもなかろう。子供の時から両親に過剰な期待を背負わされて受験競争に明け暮れ、自分の好奇心を抑えて育った結果がこうなったのではなかろうか?

 しかし、別の角度から見れば、そのような学生を取り込んで教育すべき大学の体質が変わらねばならないと考える人達もいる。

 それでは、学生が求める授業とは何か、

   @ 知的好奇心がわく、考える授業
   A 出席することで味わえる、発展する授業
   B 学生自身が認められる「対話」のある授業
と言うから、全て受身の“オンブにダッコ”の甘ちゃんの姿が目に浮かんでくる。自分が何の目的を持って学ぶかと言う姿勢が見えないのだが…。
 しかし、それはそれとして、授業のノウハウを提示しているウェブ・ページが存在する。名古屋大学高等教育研究センターの「成長するティップス先生」であり、それを作成した池田教授は、世界中の授業実践記録を集大成したものだという。しかし、基本は“先生も生徒も楽しめる授業”を創ることだとおっしゃる。

 一方、大学教員の関心度を諸外国と比較すると、日本では、研究−72%、教育−28%で、著しく研究に偏っていて、教育(授業)にはあまり力を入れていないことが判る。これは、大学教員の評価が研究の成果に依るもので、これを教育(授業)の評価も取り入れなければならないと言う。即ち、今までの“教員のための大学”から“学生のための大学”に変えていかねばならないと結んでいる。

「成長するティップス先生」については、既に下記の書籍として出版されているので参考にしていただきたい。

  「成長するティップス先生:授業デザインのための秘訣集」 4/15初版

      池田輝政 他共著  玉川大学出版部刊 (1,400円)

 いずれにしても、教育とは、幼児教育から始まるわけですから、小さい時から好奇心の芽を摘まないように、また自ら学習する習慣をつけるように、親がその環境を整えてやりたいものですね。子育てが、その子の一生を決定するわけですから、両親の役割は重要ですね。( Sept. 14. 2001 )


 倫理研究所の創設者・丸山敏雄氏の「育児の書」にある“捨て育て”について、教育倫理研究室の森田正廣さんが「倫理」9月号で解説を試みられている。

 “捨て育て”と聞くと、一般的には、ほったらかしに勝手に育つように感じるが、この語は、丸山敏雄氏独特の表現であって、決して自由放任に育てることではないのです。「育児の書」のまえがきで、次のように述べられている。

 @ 子は親の心を映し、親の生活そのままを反射して、自分自身から出たわがまま、気ままは無いものである。
   病気は、こうした親の誤りの反映したものである。
 A いらぬお節介、いらぬ心配、過ぎた躾けの一切は、子どもの発達の敵である。「捨て育て」こそ、育児の鉄則である。
と、ここで“捨て育て”なる言葉が、初めて用いられているらしい。森田正廣さんは、丸山敏雄全集を通して、この“捨て育て”について、@親の心意、A親の行動、B子の性格・能力への影響、C健康への影響の4つの面から整理されて述べられている。

例えば、@親の心意でみると、

 ・親の我を捨てて育てる。子を信頼する。
 ・気にかけ過ぎない。心配し過ぎない。
 ・大人のおもちゃにせず、心で捨てて(絶対心配しない)、大胆に育てる。
また、A親の行動としては、
 ・子供のことは、子供にさせる。
 ・出過ぎた世話は一切しない。
 ・できるだけ自然のままに、のびのびと育て上げる。
 ・ちやほやしたり、甘やかしたり、干渉しすぎたりしない。
 ・与えるべきは惜しみなく与え、禁ずべきは断固として禁ずる。
 ・教えるべきことは、繰り返し、繰り返し、徹底的に教える。
などと述べられている。

“放任”と“捨て育て”の違いを、“放任”は、親の、子育てに対する関心が低く、“捨て育て”は、愛情が非常に深いので、その差は、天と地ほどの開きがあると述べられている。

最近の子育てにおける虐待や折檻死などを見るにつけ、聞くにつけ、両親、特に母親の子供に対する愛情が全く無いように感じられるのは、子育て以前の問題のようにも思われるが、遡って見れば、親の、そのまた親の子育てと愛情の欠落に問題があるのだろうか?
結局、自然を愛する心、自己中心でなく、他人を愛する心だと考えるのだが、自分のことしか考えなくなって、母性本能をも忘れてしまった現代人の性と言えようか?( Aug. 30. 2001 )


 韓国との歴史教科書の問題で一躍有名になった「新しい歴史教科書をつくる会」と教科書検定であるが、はからずも、NHKの教育トゥデイで、全国の小中学校で使われる教科書の実体を知った。

 文部科学省の検定を通った小中学校の教科書は、全部で260種類で23の出版社から発行されると言う。検定を通った教科書はどれでも自由に採用できるかというとそうではない。各教科毎に数人の教師により構成される調査員の意見を、教科書選定委員会で検討し、最終的には市町村の教育委員会が選択する決定権を握っている場合が多いという。

 ところが、実際には、文部科学省の検定を受けた教科書が公開されてから、文部科学省へ採択した教科書の必要部数を報告する(無償配布ですからね)までには、2ケ月間しかないため、十分な検討が出来ないのではないかと言う心配がある。
また、教育現場の経験が少ない教育委員で構成される教育委員会が、教科書採択の権限を持っていることにも疑問があるといわれる。(品川区の教育委員を例にとると、医師、弁護士、音楽家などが含まれている)

 私たちのように、国定教科書で、かつ教科書を自費購入して勉強した世代(貧乏な私などは知り合いの上級生から借りたものです)では考え方も異なるかも知れないが、小中学校での教科書の内容が、社会人になってまで何らかの影響を残すとは思えないのも事実である。今思い出そうとしてもどんな教科書だったのか、内容は無論、表紙さえも思い出せない。それよりも、実際に教えていただいた先生(教師)方の個性ある言動の方が彷彿として思い起こされ、教師の情熱こそが生徒に大きな影響を及ぼすのではないかと思いますがどうでしょうか? 現代の教育があまりにも知識・情報中心に傾斜しすぎているのではありませんか?

 いずれにしろ、教科書を使用するのは教師と生徒なわけで、教育現場から隔絶したところにいる学識経験者(?)と呼ばれる教育委員で構成される教育委員会が、見解や意見を述べるだけならともかく、教科書採択の実権を握っていること自体が何とも奇妙だと思うのですが…。現在の教科書採択の流れを、逆にした方が良いのではないでしょうか? それにしても2ケ月間で決定すると言うのは厳しい気がしますが…。( Aug. 5. 2001 )


 「新潮45」の7月号の特集・早期教育の「落とし穴」で、“「コンピュータ」は子供の脳を腐らせる”(柳沢賢一郎)、“百害あっての小学校「英語教育」”(茂木弘道)と共に、“取り返しのつかない「英才教育」”と題して埼玉医科大学の小西行郎教授が、人間の脳については良く分かっていないし、まだ未解明なことばかりなのに、行き過ぎた赤ちゃん教育や、子供の英才教育などの名目での早期教育が盛んなことに、警鐘を鳴らしています。

 特に、水泳、ピアノ、習字、ソロバン(電卓時代にソロバンとは不思議な気がしますが、指先の運動は脳を刺激すると言う事からでしょうか? それとも将来パチンコで稼ぐためなのでしょうか?)などの習い事や小中学校で習う、数学や国語、それに英語などを入学前に教える知識教育などがあります。これらの元はと言えば、三才までに教育しなければと言う「三才児神話」であると断言しています。それにソニーの井深大氏の「幼稚園では遅すぎる」と言う早期教育の奨めだと言うのです。

 確かに私も「三才までにこれだけは」という教育についてのコンテンツを掲げていますが、これは、脳の発達を促すための知識教育のプログラムを指しているものではありません。言語での意思表示の不可能な乳幼児に対する母親の子供への接し方や社会経験の無い幼児に対する躾についての重要性を述べています。

 小西教授によれば、「多動児」と呼ばれる脳の障害による自分をコントロール出来ない症状が、早期に脳に強い刺激を与えた結果による場合があるかもしれないと考えていて、早期教育による弊害の心配さえもあるということであるから、“過ぎたるは及ばざるが如し”とかで、本当に子供の幸せを願うなら、脳にどんな影響を及ぼすかわからない早期教育については、よく考えるべきであると結ばれている。
しかし、いずれにしても他人の子には負けたくない親にとって、はたして説得力になるのだろうかと疑問でもある。( Jun. 30. 2001 )


 「大法輪」(大法輪閣出版)の7月号に、ルナ子ども相談所所長の岩佐京子さんが“ビデオやテレビの小守りはやめよう”と書いておられます。子どもが好きだからと、アニメや機関車トーマスのビデオを、勝手に子どもに操作させている家庭もあるようです。

 私も、日頃からとても気になっている事に、幼児にテレビやビデオを見せておけばおとなしくしているとかで、忙しい(?)若奥さん達は、魔法の子守り道具としてテレビやビデオを活用していることがあります。

 別にビデオやテレビが悪いとは思いませんが、幼児には、父親や母親との対話こそが大切なことだと考えています。ですから、テレビやビデオを一緒に見ながら、共通の話題の中で色々な会話を通じてコミュニケーションが成り立ち、知らず知らずの内に、躾や教育が行われていくのではないかと思います。テレビやビデオは、あくまで幼児教育の一手段であって、子守りの手段ではないと考えています。

 これは、絵本を与える時も同じです。お母さんと一緒に見る、そして、色々な場面で話合ったり、興味が膨れ上がって、別の世界が広がって、また違った会話が始まったりして、コミュニケーションの世界が展開されるのではないかと思います。

 これについては、先日、民放で放映された子どもの教育について「親子の理想的コミュニケーション」の“すべての親に贈る理想的な読み聞かせマニュアル”では、

  @ 乳児に読み聞かせる場合
    ・「絵」を見せ、「声」を聞かせることで、外的刺激を与えるよう心掛ける。
    ・「親のペースで読まない」→ ゆっくり時間をかけて話しかけるように。
    ・「できる限り継続する」→ 日々の習慣とする。

  A 幼児に読み聞かせる場合については、読書アドバイザーの小宮さんは、
    ・ 子どもの生活体験と重なる本を選び、過去の記憶を引出すことが大切。
    ・ 予め、子どもが興味を持つキーワードを含んだ本を選んでおく。
    ・ 子ども自身が、キーワードに関して考えを広げるきっかけを与える。
           → 子どもが考えることにより、脳内に内的刺激が発生する。
    ・ キーワードに関して、他の情報も引出せる対話を繰り広げる。

そして、子どもがストーリーに興味を持って、次々と質問するようになったら(面倒がらないで)本に描いてないことも、どんどん想像を膨らませてあげると良いと思います。
ふだん身の回りで起こる様々な出来事を通し、自発的に考えさせることで子どもの脳は成長する。そのためには、どのように子どもと接し、理想的なコミュニケーションを育むかということを、親は常に考えておくべきである…と結んでいます。

 子どもを育てる親の役割は大切ですね。“親はなくても子は育つ”なんてことはあり得ないんですよ! 教育は“知識”や“情報”ではないんです。何よりも大切なのは、「豊かな愛情」と「楽しい対話(コミュニケーション)」なのです! ( Jun. 26. 2001 )


 今月初めに明らかになった、山形大学の入試判定ミス(1997から5年間で428人)に続いて、富山大学の人文学部での入試の配点ミスにより、2年間で16人が不合格になっていたと言う。それも、事の重大さに事実を隠蔽していたと言うから、何おか言わんや! である。受験生にとっては、入試の判定によっては、死活問題であることは言うまでもない。

 原因の究明と責任の追及は無論であるが、教育改革が叫ばれている時に、締まらない話しである。こういう事が度重なると、他の学校でも? という不信感に繋がる。何しろ医者が患者の生命を預かっているのと同じで、学校関係者も、受験生の人生を左右するほどの重みがあるのだと言うことを、心底から感じ取って、決してミスが発生しないよう十分なチェックを忘れないでもらいたい。

 やはり、いっそのこと入試はくじ引きで決めた方が良いのではあるまいか? 学ぶことに学校の格付けなんてありゃしないのだ。その人が何を学びたいのかと言う気持ち次第なのだ! とは言っても、東大を受験したい人間が後を絶たないのは、学問(学校の看板)と世間体が世の中に幅を利かせていることか?(そりゃあ、東大に行けない男の“ごまめの歯ぎしり”さ!)しかし、大臣になったからと言って、勲章を貰ったからと言って、昨日の自分と、今日の自分に変りはないんだけどねぇ? ( Jun. 16. 2001 )


 日経新聞のSunday Nikkei のページに新しい連載“しつけのナゾ”が始まりました。筆者は、北海道大学の沢口教授で、脳科学から見た子育てを考えるものです。

 それによりますと、脳の発達には“臨界期”があって、幼児のある期間に教育を受けないでいると、その後から教育しても脳の発達は阻害されるらしいのです。いわゆる脳が白紙の状態の時が“臨界期”であって、例えば、10才頃までに適切な言語環境がないと、脳の言語システムはうまく発達しないらしい。それゆえに幼少期の知育は最重要なのだそうです。

 今日の日本テレビの“特命リサーチ200X”「ある少女に起こった驚くべき奇跡の実話」でも、親子の対話による子どもの脳の発達への影響と効果が報告されていました。親と子のコミュニケーションの希薄になっている現代では、これらが子どもの情緒の発達や行動にも大きく関わっているのではないでしょうか?

 私たちは、何となく経験的に、幼児期の教育が(知育だけではないが)子どもの発達に大きな影響を及ぼすのではないかと考えて、子育ての重要性を認識していますが、それを脳科学から検証されるようで、今後の展開が楽しみですね。( May. 6. 2001 )


 今、新聞やテレビで毎日と言うほど教育についての番組や報道がなされています。新しく内閣を組織された小泉首相も、教育の問題は重要だとして文部科学大臣に一般から起用し、文化人の遠山敦子さんが就任されました。

 しかし、異論を唱えるわけではありませんが、盛んに論議されている教育問題は“教科を易しくする”、“余裕時間を持たせるために時間数を削減する”など、学力低下が問題にされている現在の状況を、更に悪化させる方向に向かっているのではないかと、またまた議論の種になっていますね。結局、教育問題が何処に焦点を当てるかで全く違った対応になることを考えに入れていないのでしょうか?

 以前、教育改革国民会議のことで同じようなことを論じたことがありますが、教育の何が問題で、何を解決しようとしているかに焦点が絞られていないのではないかと思います。前述の問題は、すべて学校教育の問題と考えますが、この中でも、義務教育での問題点と受験システムの問題点や、大学(大学院)での問題点は別に考えなければならないでしょう。

 ところが、現在多くの問題提起がなされている少年犯罪や、両親による児童虐待問題などでは、学校教育の問題点とは全く違う視点から検討する必要があるのではないでしょうか?
 どちらにしても、教育問題の根源は同じであろうとは考えていますが、戦後の教育が復興を第1の目標に置いた経済の豊かさを目指したために、日本経済は目覚しい発展をし、その陰で人間教育(全人教育)としての“心の教育”がなおざりにされてきたのではないかと考えています。

 いま、最近出版された「いま魂の教育」(石原慎太郎著 光文社刊)を読んでおりますが、これは現在の教育の崩壊と言うか、青少年の犯罪や非行、更には親の子育てについて教育の問題点を鋭く突かれているものです。内容は、私たちのような古い人間には、当たり前のことを当たり前に書いてあるようにしか思えませんが、世の中、何時の間にか常識が、常識でなくなってしまっていると言う事でしょうか?
 例えば“自分が生きていることを感謝しよう”、“自然を畏怖し、全てのものとの共生を図ろう”、“他人を愛する心を育てよう”など、どれをとってみても当たり前なのです。どうしてこれらのことが当たり前のこととして受け容れられないのだろうか? ここに私達の教育の根本的問題があるのではないでしょうか? それらを総括して言えば“魂の教育”と言うことになるのかも知れません。

 もう一度原点に戻って、“人間とは何か?”ということを、じっくり考えて見ようではありませんか? ( Apr. 29. 2001 )


 久しぶりに「中学生日記」を見ました。NHKのこの番組は、中学校を舞台にして義務教育と学校教育での限界について、公共放送としての提言をしてきた貴重な番組であったように思います。しかし、視聴者側にとっては、公共放送と言う枠の中での制約上、今一つ物足りなさを感じていたのではないでしょうか? しかし、番組の中で結論付けるよりも、見ている人が自分の価値観で考える方が、より多様な結論があって良いとも考えられます。何が正しくて、何が間違っているか、結論は決して一つではないように思います。

 今回は、「さようなら名北中」で、中川先生が(私はこの女先生の大ファンなのです!/お前は、美人ならみんなファンだろうが?/バレたか!)文部省(文部科学省)の学校教育のカリキュラムの枠にしばられ、30人もの生徒の一人一人に充分向き合うことが出来なかったことで、多くの問題に直面し、自分の職責を果たせなかったことを悩み、自分は教師に向いてないのではないかと悩んだ末、辞職して、以前の同僚の経営するフリースクールへ転出する決心をする。NHKの最後の抵抗(ゴメンナサイね!)、文部省の学校教育、それも義務教育の見直しを示唆する内容であろうか?( Mar. 4. 2001 )


 TBSテレビの「ニュースの森」で“特集・子供たちが切れるわけ”を見ました。子供が切れる原因の一つに、動的な遊びが静的な遊びに変わってきていて、運動の不足とコミュニケーションの減少によって、脳の前頭葉の発達が遅れているのではないかと、信州大学の寺沢助教授は考えます。

 寺沢助教授によれば、この30年間に小学生の前頭葉の発達が4年も遅れているといいます。実際に子供たちの生活習慣を尋ねてみると、学校から帰ると一人でゲームをしたり、テレビを見たりして過ごしています。そしてお母さんとの会話もほとんど無いと言います。一方、松本短期大学の柳澤教授により、幼稚園児に対して行われた身体をいっぱいに動かす前頭葉プロジェクトの様子が紹介されますが、それによって集中力が養われたというテスト結果が示されました。

 以前お話ししたように、私の孫達も共稼ぎで保育園児のため、ビデオやテレビゲームが母親代わりになっていて、親とのコミュニケーションの不足や屋外での運動の不足を心配しています。しかし、親達は、特にそのことに関心は無いようです。世の中、共稼ぎが一般的になっているためかも知れません。子供を育てるために何が一番必要なのかを、もっと真剣に考えなくてはならないと思います。( Feb. 28. 2001 )


 文芸春秋の三月特別号には「教育再生 私の提言」“親達よ! 教師たちよ!”という特集があり、それぞれの人の主張がとても面白く、納得したり、憤慨したりして読んでいます。この中には「教育改革国民会議」の委員である曽野綾子さんや金子郁容慶応幼稚舎長、それに町村文部科学大臣、石原東京都知事、作家の佐藤愛子さんや立花隆さん、桐野夏生さん、重松清さんや榊原英資慶応大教授などの有名人や予備校の経営者や講師、学校の先生がた、多士済済です。それぞれが教育の将来を心配して語られています。

 しかし、それらの主張はともかく、現在直面している教育の問題は、大きく分けて次の3つに集約できるように思います。

   @ 学校教育法(教育基本法ではない)
   A 義務教育制度
   B 家庭教育(子育てと躾、教育への価値観)
むろん、これらを議論する上で忘れてはならないのは政治の問題です。教育には全て政治が関わっていることは否めません。強いて言えば、良い政治が行われれば、教育の問題も自ずと解決できる部分が少なくありません。

 一番大きな問題は、学校教育について文部省(文部科学省)があまりにも強力な統制力を持っていることだと思います。確かに過去においては、それが上手く機能していたこともありますが、現代においては状況が異なっており、必ずしも一律な統制が必要とは限らず、かえって間違った統制がますます状況を悪くするものだと考えます。

 次に、現在の義務教育制度が、現代の世の中の状況に対応できているかどうかをよく考えて、適切な施策を立案する必要があるのではないかと考えます。以前にも言いましたが、極端な話しですが、義務教育は小学校だけで良いのではありませんか? 中・高・大学は学びたい者が学ぶように自由化すれば良いのではないでしょうか? 学問(学力)が生きるためにどの程度必要なのでしょうか?

 特に問題になってくると思われる家庭教育については、個々の家庭での価値観が異なるために一律には論じられないが、いま増大している両親による児童虐待等の状況を考えれば、子供たちが親の愛情を受けて育てられていない事実があることを、先ず認識すべきでしょう。そうした時、親が子に対して充分な愛情が向けられるような環境を整えるべきで、共稼ぎ(経済的にどうしても必要な共働きではない)の母親を支援し、保育所や学童保育の充実を図る(児童手当拡充などは論外)よりも、子供を育てている専業主婦に対してこそ、子供を保育(教育)する重要な職業として認め、安心して子育てできるよう支援すべきなのではないでしょうか?

 アメリカのブッシュ大統領も「教育改革」を政策の第1に掲げているように、どこの国においても重要な問題となっており、国家の衰退も教育の如何にかかわると言っても過言ではありません。それゆえ、私たち国民一人一人が関心を持つことが必要であり、そういう気持ちで、この「文芸春秋 三月特別号」の教育提言特集を読まれることをお薦めします。( Feb. 14. 2001 )


 玉川学園(玉川大学)の1面新聞広告を見ましたか?
何で新聞広告などと思うなかれ。玉川学園が国際環境規格ISO14001の認証を取得したと言うのです。広告によれば
“私たちは子供の「心に自然を」と言うことを大切にしています。いま、私たち自身の、そして子どもたちの未来のために、人類は「自然と調和する新しい生き方」への大きな転換点を迎えています。”そして、
“POEMと名付けたプロジェクトを展開し、幼稚部から大学までの環境教育を積極的に推進”するというものです。

 玉川学園については、“小原教育”という全人教育を目指した一貫教育実施校として注目し、紹介したことがありますが、更に新しい教育環境を目指した学習体制の整備をアピールしたものでしょう。私が市の環境委員会において、学校での環境教育を積極的に推進すべきだと提案していますが、玉川学園では、更にその上を行く国際環境マネジメントシステムISO14001の認証取得によって、全学園レベルでシステマティックに環境問題を学園に取り込んでいこうとするもので、画期的なものではないかと考えます。

 市もISO14001の認証取得を目指しているようですが、真剣に環境問題に立ち向かって行こうとしているのかは甚だ心もとないような気がしています。認証取得が目的になってはいないでしょうか? 認証を受けることによって、市全体にわたる環境問題を解決し、管理維持して行くことが大切なことなのです。グリーン購入やリサイクルを進めることだけではないのです。省エネルギー、ゼロエミッションに向けてグローバルな視点から環境負荷を減らすのが目的です。それによって市の財政も好転するようでなくてはなりません。また市内の各学校への環境教育についても積極的に推進する必要があるでしょう。市全体のシステムとして運用して行かなければならないと考えています。( Jan. 25. 2001 )


 日経新聞の「経済教室」欄に、河合隼雄さん(国際日本文化研究センター所長)が「今こそ心のつながりを」と書いておられる。
最近自然災害が多発しているが、天災地変は何時でも起こりうる事であるが、問題は自然を勝手に改変して自然を破壊した結果が災害に繋がっていることで、大人が子供を操ろうと押しつけ教育することも同じだと言う。

 20世紀は確かに科学技術は飛躍的に進歩し、自然を思うままに操作し、欲望を満たすことが出来るようになった。しかし、よい気になって自然をコントロールしていると思っているうちに、自然破壊がひどくなって、公害に悩まされるようになった。
公害については反省が生じ、相当防止できるようになったが、心の自然破壊には気づいていないのではないだろうか? 人が死ねば悲しい人を傷つけると自分の心が痛むそんな心の自然のはたらきが、はたらかなくなってきている同情する共感するなどという心の自然の流れがストップしてしまっている

 それでは、心の自然破壊はどうして生じたのだろう? 人間が余計な物を造ったり、自分の好きなように改変したりするからで、子供が生きている存在であることを忘れ、まるで機械を扱うように(ペットか何かと同じではないか? 更に最近ではペットまでもロボットになっているではないか?)自分の思い通りに動かそうとするので、子供の心の中で自然破壊が起こる。子供だけではない。大人は、金儲けや出世などのために、無理を重ねて、心の自然破壊を続けている。
 心の自然破壊を防ぐものは、“心のつながり”である。そのことに気づいて、最近、急に家庭教育の重要さが叫ばれるようになった。しかし、教育と言うのは操作的教育を実践したりすると逆効果で、“家庭教育”と言わず、“家庭生活”の重要性で、親子が“共に生きている空間”を共有していると感じる体験があれば良い。相手を自分の思い通りに動かそうと言う気持ちを棄てて、共に居るというだけでよいのだ。

 お金を儲けることと、使うことに狂奔しているうちに、余った心のエネルギーのはけ口として、地震だ、火山だ、水害だと不必要に不安を高まらせているのではなかろうか?
“お金の経済も大切だが、心のエネルギーの経済も大切である。これからは、心のエネルギーもこみにして考える経済学が必要になってくるのではなかろうか?”と結んである。

 私達が教育の本質を忘れて、金と物と地位と名誉を獲得することを第一にして、心をどこかに置き忘れ、家庭を破壊し、親子の関係も破壊してきたように思える。いま改めて教育が心の幸せに結びつくことができるように、方向転換しなければならない時期にきているのではあるまいか? ( Jan. 21. 2001 )


 お正月には、恒例のことで孫達がやってきました。長男の4年生になる男の子と長女の5つになる男の子、それに昨年生まれた11ケ月になる赤ちゃんの総勢3名の孫に囲まれておお賑わいとなりました。子どもは何処の子どもでも可愛いものですが、最近つくづく思うことは、子どもが親の愛情に飢えている事です。そんなことは無いとお思いでしょうが、親が、親の目線でしか子供を捉えていないということです。私の孫達にも同じことが言えるのです。

 4年生になる子どもは、学校から帰ると、毎日6時頃まで塾で勉強や習い事があって、自分の自由になる時間は余り無いのだそうです。国語、数学、理科、社会を塾で勉強するのだそうです。パパやママの期待に一生懸命答えようとしている涙ぐましさが見て取れます。息抜く暇が無いではありませんか? 最近の新聞紙上で犯罪を犯す子供が真面目でおとなしい子が多いと聞きますが、わかる気がします。遊ぶと言えば、時間を惜しんでのポケットゲーム機なのです。息が詰まってしまいます。
 5つになる娘の子供だって例外ではないのです。お正月だと言うのに、公文の数学の練習に余念がありません。99の計算は苦も無く出来ますし、字だって読み書きできるようです。まだ保育園なのですよ。何でそんなに小さい時から難しい勉強を習わせるのでしょう?
 英才教育で、身体で感覚を磨く訓練を要する器楽(バイオリンやビアノなど)演奏や水泳、体操や、絵画などの芸術性のものなどは、小さい時から訓練する方が良いのかも知れません。しかし、それは将来までも続けることが条件なのでしょう。

 中教審では、“教養”即ち「社会とのかかわりで自己を位置付ける力」として、小中学校での「読み、書き、計算」の確実な習得が必要だとして、「ゆとり教育」のもと、個性重視に偏りがちな一部の風潮を批判した、とありました。新聞によれば、そのほか“教養”の定義として、「わが国独自の文化や歴史を深く認識し、異文化などを理解する資質」、「地球規模の視野や歴史的、多元的な視点で物事を考える力」として、家庭や地域で様々な体験を積むことが必要だと指摘しています。また個性や自主性を尊重するあまり、基礎、基本の反復練習(まさに公文式教育でしょうか?)を「一方的に教え込むもの(独創性を育まないと言うことか?)」ととらえ、好ましくないとする見解も有る」としている。それに大学での基礎学力の低下が指摘されていることなどから、“読み”、“書き”、“計算”を小中学校でシッカリやりなさいと言うことだろう。

 何故これを問題にするかと言うと、孫達(近所の子供も)は、おじいちゃんの私と“モグラごっこ”や“戦争ごっこ”であばれるのが大好きなのです。小さい時から同じような“ごっこ遊び”で育っているため、大きくなった今でも、何よりもこのスキンシップなゲームが一番好きなのでしょうか? それだけ普段自分の両親との間でのスキンシップが無いとも言えます。その遊びになると、言葉使いまで幼児に戻ってしまうのです。そして、いかにも幸せ一杯なのである。私達の小さい時と同じで、勉強なんぞはクソ食らえなのだ! 
今の親は、他人の子供をいかに出し抜いて、勉強の出来る子に育てるかに血眼になっているのではなかろうか? その結果が子供達の落差となり、学級崩壊ともなって、大切な人の命の尊さ、自然の恵みへの感謝の気持ちの欠如となっているのではなかろうか?

 重ねて言いたい。「なぜ勉強しなければならないの?」、「なぜ人を殺してはいけないの?」。この問いに親が正しく答えられることが先ず必要ではないか?
IT(インターネット/インフォメーション・テクノロジー)の時代に、知識の詰め込みはたいした意味があるとは思えない。それよりも人や動物を含めて、自然とのふれあいこそが求められている時代だ。
まず親と子の間で、豊かな対話を取り戻そうではないか!( Jan. 6. 2001 )


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