教育について

  1. これから生まれる子供のために

  2. 3才までにこれだけは

  3. 知識偏重を避ける教育

  4. 企業内教育と部下の育て方

  5. 高齢化社会における生涯教育


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  1. これから生まれる子供のために

     子供の教育の出発点は結婚であろう。現代では結婚せずに子供を生む女性も多いし、子供を得てから離婚して子供を育てる女性もいるだろう。それはそれなりに理由もあると思うが、ここでは原則的に子供の将来像まで考えた結婚を前提としていることを承知していただきたい。ここでは私自身が独身時代に出会った一冊の本「児童心理学−子供の心はいかに発達するか」(山下俊郎著)から出発している。

     子供を育てることは、次の社会を担う人を育てることだと考えているし、そのための責任があるとも考えている。それ故、子供が生育する環境に重要な役割を持つ妻、すなわち母親となる人の存在は大きい。わたし自身は、結婚する際に(見合い結婚だったが)教員であった相手に対して、結婚の条件として、結婚したならば家庭で子育てに専念してほしいと申し出た。(私の母親が私達子供を育てる真剣な姿を見ていて、それが大きな影響を与えていたのかも知れない)もちろん当方は経済的な側面で子供のために一生懸命働く事を誓った。

     ある一卵性双生児の追跡調査では、生育過程での環境の影響が子供のIQ(知能指数)に大きな差を認めている。(IQについては別のところで触れたい)また母親だけでなく、「父親の背中を見て生きざまを知る」と言われるように父親の存在もまた重要であると考えている。事実、私自身は母親には早く死別しその思い出は少ないが、あまり接触のなかった父親の生きざまが自分を支配してきたように思うし、いまだに、いろんな点でその父を越えることができないでいる。

     昔から胎教ということがよく言われる。子供が母親のおなかの中にいる間に、よい音楽を聴かせたり、よいお話しを読んでやることで良い子供が生まれるという俗説があるが、胎児がすでに母親のおなかの中で周囲の環境を感じとり、胎児の脳の配線がかなり進むことが最近の研究でわかってきている。(従来は、生まれてから10才までの間に少しづつ脳が完成されて行くと言われていた)しかしながら、前述のような、よい音楽を聴かせるとか、良い物語を語って聴かせることだけが良い子供に育つ条件ではないだろう。

     両親が、和やかな良い家庭環境(経済的なものだけではない)の中で、心から子供を幸せにしようと一生懸命育てることこそ一番大切なことであろう。そして親として、生まれてくる子供のために恥ずかしくないように自分たちが学習し、努力することが結果として良い胎教となって良い子供が生まれてくるのではないかと思う。良い家庭であってこそ良い子が育つということを確信している。わたし自身もそういう点では決して良い親、良い家庭とはいえなかったかも知れない。あとの後悔は役に立たない。チャンスは一度しかない。子育てにやり直しはきかないのだから。

    ( Jun. 25. '97 更新 )

  2. 3才までにこれだけは

     これは本の題名ではない。子供が言葉をおぼえ、自分の意志を伝達でき、あるいは自分の意志で行動できるようになるまでの間に、注意しなければならないことと、どうしても躾ておかなければならないことは何かを考えてみようと思う。躾とは何かを明確にしておきたい。躾とは着物を仕立てる時に形が崩れないように糸で整えておくことで、一つには強制的に型にはめることである。また、そうでなくてもある程度、繰り返し、繰り返し教えて覚えさせることと言ってよいと思う。

     私は3人の子供を育て、3〜4才までの観察記録を通して考えた結果、以下に述べることがほぼ必要なことではないかと思う。子供を育てることがどんなに大変で、片手間では育てられないことをまず認識する必要がある。保育園に預ける、あるいは幼稚園に入園させる目的は、家庭ではできない集団生活を身につける、あるいは現今の少子化社会では、大切な友だちとの関わりを持たせることで、躾は家庭ですることと考えなければならない。(預けた方が楽だ? ではない。)

     ともすると、子育ての大変さを保育園の保母さんに肩代わりさせているのではないかと思われるふしもある。子供が病気になればなったで、両親に面倒を見てもらえばいいという。自分がすでに自分たちの家庭を持って自立していることをすっかり忘れているように見えることも多い。
     子育てより仕事の方がはるかに楽であろう。経験もあるし、失敗してもやり直しがきくし、それでいて給料がもらえるのであるから、こんないいことはない。子育ては経験もないし、その子の将来がかかっていて失敗は許されないし、やり直しはきかないから、その不安を克服するだけでも大変なものである。まして毎日子供だけを相手の暮らしは、とても我慢できないだろう。しかし体力的に衰えてきている老齢の親が子供(孫)の面倒を見ることは、もっと大変な作業であることは容易に想像がつくであろう。

     もし経済的に仕方なく働かざるをえない場合はともかく、贅沢な暮らしをしたいがため(あるいは仕事を辞めたくないため)に子供を犠牲にすることは決してよくない結果となろう。家庭に愛情さえあれば、どんなに貧しくても子供は幸せであり、健やかに育つのではないかと考えている。異論もあろうが、このことについては、それぞれの家庭で十分議論を尽くしていただきたい。

     よく指しゃぶりやタオルしゃぶりをする子供を見かけるが、これは愛情欠乏症と思われる。偏見かもしれないが、多分共働きの保育園児に多いのではないかと思う。私の末っ子もそうであったが、これは末っ子が弱虫で泣き虫であったために、私が彼に対して厳し過ぎた結果、おびえてそうなったものと反省している。子供には優しくなければならない。ただし過保護に育てることとは根本的に違う。

     子供を育てるためには、親は2つの視点を意識して区別しなければならない。その一つは、子供と同じ目線で物を見たり、子供の気持になって考えること。いつも高いところから見ていて小さなことに気づかない事が多い。子供が泣けば抱いてあやせばよいと思っている母親が案外多い。私のすでに結婚して子供を持つ娘もそうであったが、泣くには泣く理由がある。子供の表情の変化が解らなければ子供の気持はわからない。しかし、子供を抱いてやるなというつもりではない。親に抱かれていることが、どんなにその子にとってうれしいことか、心安らぐことか、それこそ親のもっとも大切な育て方の一つであると考えている。

     私は小さい時に母を亡くして母親の思い出は少ないが、今でも記憶に残っているのは、虚弱体質だった私の体質改善のために、その頃はなかなか手に入らなかった注射薬のアンプルをどこからか手に入れて、遠くの病院まで寒い北風の中を毎晩通った時の、母に背負われた背中の温かみが昨日のことのようによみがえってくる。
    また、戦時中の食料難で米が手に入らない時に、子供のために少しでも食べさせようと三重の実家から大阪まで夜行列車を乗り継いで少しばかりのお米を運んでくれた。その当時、米は統制品のため見つかると没収されたので、何度も捕まって没収され、その度にすまなそうに家に帰りつく母の疲れた顔が焼き付いている。それと三重の実家に疎開して母の病気がまだそれ程重くなかった時、大きな地震があって、母は私をしっかりと抱いて大きな木の下に避難して震えていた母の気丈さが、今でも忘れないでいる。

     愛情は十分かけてこそ子供は健やかに育つものである。ただ親の気分次第の愛情では子供は安心していられず、情緒不安定になるに違いない。

     もう一つは、当然親として大人の経験を踏まえてきびしい目で子供を見ることになろう。案外、誰でも親ばかになりやすい。子供が喜ぶ事ばかりするものである。今は経済的に豊かであるから、子供が欲しがれば何でも買ってやる親が多い。しかし、既製品のおもちゃの多くは、子供の感性を豊かにしないし、独創性を育てない。それは、その目的、使い方がはじめから決められているからであろう。最近は、知育玩具といって知的能力を開発するという宣伝文句で、親バカ市場を開拓しようとしているらしいが、人の能力開発はそれ程単純ではない。

     子供にはその辺にある木切れ、石ころでもおもちゃになり、宝物にもなる。子供をよく観察してご覧なさい。さも命ある物のごとくそれらに話しかけ、想像によって内なる世界を膨らませていることが分かるでしょう。これを汚いものといって取り上げ捨てさせてしまう親が今でもいる。大変悲しいことである。

     また必要な時には、子供が嫌がることこそ忍耐強く躾ることが肝要であり、こうすることこそ親としての本当の愛情であろう。

    1. 風邪を引かせないこと。(子供は体温調節ができない。かなりの熱があっても元気に動き回る)

      特にエアコンの普及により部屋の温度を快適に保つことが容易になったため、寒い外気に子供を触れさせた時、風邪を引かせやすい。また夜寝る時の暖房は、子供が汗をかきやすく十分注意しなければならない。できるだけ着るもので体温調節をした方が良い。更には、常に外の空気に触れさせて身体をなじませ、かつ、日光浴や乾布摩擦などで身体を丈夫に育てる事が肝要であろう。
      また、添い寝をする親も多いが、自分の布団の中へ子供を入れると、親と子の間に隙間が出来て風邪を引く原因になりやすいので、必ず別の布団でそばに添い寝するようにすること。それによって一人寝の習慣もつけやすい。( Mar. 12. 2000 更新 )

    2. 体験させて身体で覚えさせること。(行動範囲内にある危険なことを極力取り除いておくこと)

      アイロン、電気ポツト、電気ストーブ、煮物、みそ汁等、子供には危険なものがいっぱいある。取り返しのつかなくなるまえに、やけどしない程度の温度で触れさせてみて、熱いことを体験させるのがよい。そのほか戸、サッシ等でのはさまれ事故についても、予めけがをしない程度で体験させておくのが良いと思う。

    3. 良いことと悪いことを区別させること。(特に公共道徳心は小さい時から)

      これは親自身の良識が問題となることであろうが、子供自身も経験から判断できない問題なので、よく言い聞かせてわきまえさせることであろう。子供だからという甘えは許されるものではない。

    4. 物を与え過ぎないこと。(子供の発達に応じてよく考えて)

      特におもちゃの与え過ぎに気を付けたい。運動神経を発達させるための道具は、その子の発育に応じて考えた方が良い。本を与えるにしても、興味を持った時にタイミングよくわかりやすいものを与えて、親子一緒に楽しむことが望ましい。大人が良いと思う絵本は、時には大人を意識した芸術作品だったりして、必ずしも子供に適当でない場合がある。また、あれもこれもと沢山与えるより一つに飽きたら、次にまた違ったものを与えた方が良いように思う。
       先ごろは、国際人を目指して、小さい時から英語を覚えさせようと、英語の絵本、英語のビデオ、英会話教室と、親達の熱の入れようにはほとほと感心するが、一般論と自分の子供の適性と教育目的とは別物で、必ずしも将来英語を必要とはしないかもしれない。

    5. がまんが出来るようにすること。(自分だけの自由にならないことを教えること)

      子供が泣き叫んだりすると、つい一回ぐらいはと許してしまうことが多いが、一回許すとそれは既成事実となって次にまた許さざるを得なくなるので、最初から決して許してはいけない。

    6. 「ありがとう」、「ごめんなさい」が自然に言えるようにすること。(おうむ返しではない)

      単に言葉を教えることは易しいが、本当に他人に感謝する気持を表すこと、心から自分の非を認めることを表すように教えることは容易ではない。心の素直さが必要で、親自身が言い表せねばならない。

    7. 子供の好奇心、探究心を阻害しないこと。(親の一方的な都合だけでダメと言わないこと)

      危険なこと、他人に迷惑になること以外なら、十分注意して、子供から決して目を離さないで、何でもやらせて見る方がよい。そして、子供が何を感じているのかよく観察することである。その結果、親として子供にどんな環境を造り、手助けしてやればよいかが見えてくると思う。

    ( Apr. 16. '97 更新 )

  3. 知識偏重を避ける教育

     今、教育は危機に瀕している。小学校、中学校におけるイジメの問題は教育の根本にかかっている。
     もちろん、現在の社会構造、特に企業のあり方など無関係とはいえないが、親の考え方、教師の指導の方法にも問題がないとはいえない。殊に、学校の教育管理者としての校長あるいは教頭の考え方が大きな影響を及ぼしていると思われる。
    私の子供たちが学校で受けた教育を通して見た場合、小学校、中学校を通じて、とても立派な、ほんとうの教育を実践されていた先生方に数多く遭遇している。しかし、えてしてそういう先生方は多くの親たちにあまり評判が良くなく、まして管理者たる校長等の気に入られず、転校させられたり、挫折して教師の職を辞されたりした方が少なくない。それらの先生方に共通していることは、授業のやり方が教科書に沿ったカリキュラムではなく、生徒の自然の観察力(洞察力)、創造力を大切にするために、強いて正解だけを求めないところにある。思考の過程が大切で、解答に至る時間の速さは問題ではない。この方法は知識人間を作る今の教育方法とは、相入れないし、それを求める親や校長(知識の成果を追い求める人たち)の感覚には合わないからであろう。

     わたしの長男が小学生の頃の担任の女の先生は、顔は優しかったがとても厳しい先生だった。長男はおっちょこちょいで落ち着きがなく、授業中にはいつもそわそわしていて、鉛筆や消しゴムをしょっちゅう床に転がしては先生に注意されていて、授業参観の時など親として恥ずかしい思いをしたものであった。

     ある時、突然先生の訪問を受けた。それも家庭訪問の時ではない。山登りの好きだったその先生は、登山の帰り道に我が家に寄られたらしく、山登りの服装のままであった。
    「家庭訪問ではありませんが、登山の帰りに寄りました。」とのことで、何かと思ったら、長男に対する家庭教育について問題点を述べに来られたのでした。
    「お宅の長男は、授業中は落ち着きがなく、先生の話もろくに聞いていない様子です。ほかの子供たちにも迷惑になります。また、テストの答案用紙の裏に怪獣の絵ばかり描いています(みんなから怪獣博士と言われていた)。怪獣の本等はあまり与えないで下さい。」とのことである。
    これには大変困って「落ち着きがないのは注意しますが、怪獣については、今彼がとても興味を持っているので、将来は怪獣の原形である恐竜に興味が移り、それから地球の歴史に興味を持つことになるだろうと、わざと怪獣に関する本をいろいろ与えています。これが私の家庭教育のやり方なので、先生のおっしゃる通りには出来ない。」と反駁した。

     そこでいろいろ議論したが結論は出ず、半ば納得、半ばあきらめて帰られた。しかし、その後、長男の興味は怪獣を離れ、恐竜に移り、学校で地球の歴史年表を作成して発表することになる。しかし、私の無茶とも思える家庭教育方針なるものを尊重され、指導して下さったからこそ、長男もよい方向へ転換できたのではないかと思う。

     そのほかにも、この先生は、野外活動を積極的に進められ、ハイキングやスケート等に児童を連れていって下さって、子供たちも大変親しんでいたし、私達も尊敬できる先生であった。しかし、校長や他の先生方との考え方の違いは決定的で、ついには、教師を辞職されたと聞いている。長男は、大学院を出て電子関係の技術者となり先生のご恩に報いている。

     2番目の長女の場合は、男兄弟の真中だったためか、男性的でしっかりしていて負けず嫌いに育った。そのため幼稚園でも学校でも主役を演じることが多かったし、何をやらせても他人に負けるのが嫌いで一生懸命努力したようだ。
    先生方の中には嫌う人もいられたが、彼女の努力を買って下さって、もっといろんな可能性を伸ばしてやろうと、難しい課題を与えて挑戦させて下さった教育熱心な先生にも恵まれた。陸上競技や水泳、バレーボールなど、私達親が無理じゃないかと思われるようなことまで指導してくださったし、彼女もそれに答えようとがんばった。

     大学に進学する時も上智大学の英文科へ高校から推薦を受けたが、面接の際に「塾へも行かず、家庭教師にもついていないと本校では授業について行けない」からと入学は許可されなかった。確かに一般的にはそうなのかも知れないが、可能性はいくらでもあるはず。たとえ1%の可能性でも大切にするのが教育だと思うが・・・。

     そんな上智大に彼女は大いに憤慨し、それでは見返してやる(と考えたかどうかは知らないが)と、津田塾大学、慶應義塾大学英文科、東京外国語大学、学習院大学の受験に挑戦し、全てクリヤしたが、結局私の経済的な都合で国立の外語大に進み、これも2/3が留年と言う厳しさを克服して卒業し、社会人になってからも、家庭を持ち、子供を抱えて働く現在も、それらの指導のお陰でがんばっていられるのだと、大変感謝している。

     小学校の時の女先生の一人が末っ子の時にもご厄介になったが、先生からぜひ読むようにと私に下さった本が「斎藤喜博全集」の一冊で、今でも大切にしている。

     その当時、斎藤先生の教育観は正しくても、当時の校長や教師達には歓迎されないと考えて、その先生に手紙を差し上げて私の考えを述べたが、先生の信念は変わらず、末っ子がご厄介になった頃に不協和音が生じたのか、後に養護学校へ転出された。

     私の末っ子は、することがいつものろまで、図画の時間などは、一枚の絵を時間内に書き上げられず、いつも家に持って帰って、仕上げてから翌日学校へ持って行っていた。それでも担任の女の先生は、辛抱強く指導をして下さって、出来たことを共に喜んで下さっていたと聞いている。

     ある時、一番好きなものを画用紙一杯に大きく書いてみなさいとおっしゃった。私の息子が家に持って帰ってきた画用紙を見ると、大きな楕円が一つ描いてあるだけではないか。これは何なのだと子供に問いただしたところ、「好きなものを描けと言われたから、ごはん粒を描いたんだ」と言う。
    これにはあきれてしまったが、なるほど、ごはんが大好きなのだ。その先生は何も文句をおっしゃらなかったし、その次には、もっと大きなものを描いてみなさいと言って、また画用紙を一枚下さったらしい。
    ところが、こんどは画用紙を十数枚もらって帰ってきた。一枚には大きな四角が画用紙一杯に描いてある。何だと尋ねたら、バスを描こうと思ったが先生が大きく描けとおっしゃったので、窓が一つしか描けなかったと言うのだ。そうしたら先生がバスを描くために必要な画用紙を下さったと言う。私はあきれてしまったが、子供は喜々としてその画用紙をつなぎ合わせて、大きなバスの絵を完成させて学校へ持って行った。

     その絵は、次の父兄会の時に教室の後ろに貼り出されていて、私は穴があったら入りたい気持だったことを覚えている。しかし、この先生のように、その子の感性に合わせて辛抱強く指導をして下さったからこそ、いじけることなく成長したのだと、その担任の女の先生を今でも感謝し、尊敬している。お陰で後に絵画で多くの賞をいただくようになった。今は大学院を出て機械技術者として頑張っている。

     しかし、世の中は皮肉なことに、この先生のやり方は校長はじめ多くの先生方及び親達には受け入れられず、しばらくして養護学校へ転出されたようだ。教育が教えることのみにこだわっていて、子供と共に学び、その才能を伸ばすことがおろそかにされていることの典型ではないかと考えているがどうだろうか?

     もう一つの身近な例を挙げてみよう。私の住んでいる近所に2人の子供を持つ2組の家庭がある。片方はエリートの父親を持ち、教育熱心な母親である。もう一方の家庭は父親が農家兼業のサラリーマンであり、母親も勤めを持っているが子供思いの優しい母親のようである。

     ある夏の日、ちょうど蝉が脱皮しようとするところを私の家の木に見つけたので、前者の母親に急いで持っていってその子供に見せてあげようとしたところ「こんなものは図鑑でよく知っているからいらない」と捨ててしまった。
    一方、蛹から蝶が脱皮しようとするところを見つけたので、急いで後者の子供たちに話したところ「見せて、見せて」と2人でかけつけて、長い時間かかって蛹から蝶が脱皮し、しわくちゃの羽がぴんと伸びて蝶になって飛び立つまで、辛抱強くまばたきもせず見続けていて、満足そうに帰っていった2人。
     私はこの2組の兄弟を見ていて親として子供たちに伝えてやれることは何なのかとつくづく考えた。一見図鑑の情報量の方が多いと思いがちであるが、図鑑から得られるものは知識だけであって、五感を通して得られる情報量の比ではない。実体験での感激は一生忘れることはないし、2度と同じ体験にはめぐりあえない、たった1度の機会であり感動なのである。(バーチャル・リアリティの世界と根本的に違う点である)

     誤解しないでほしいのは、書物より得られる知識そのものを否定する訳ではない。実体験で得られないもの、例えば、蝉の幼虫が土の中で10年もの長い間成長しながら地上へ這い出して脱皮するまでの過程は、ほとんど観察することができないので、図鑑などの知識に頼らなければならないだろう。しかしこれらの知識は、あくまで体験学習のための補助的な役割であると考えている。

     現代は情報化社会であると言われ情報が氾濫しており、いずれが事実なのか判断できないありさまである。インターネットも同じである。世界中と交信でき、電子メールで情報の交換もできる。しかしこれらは全て実態のない世界であり、バーチャル・リアリティの世界である。単に情報交換の手段であって、本当のコミュニケーションではない(コミュニケーションとは何なのかについては別に論議してみたい)。ともすれば本当の教育とは何なのか、知識・情報とは何なのか本質を見失う危険があるように思う。

     今の教育の問題点もここにあると考える。今の教育には、学習する楽しみが奪われているように思う。教育が、豊かな人間教育でなかったとしら、もしも情報の多さ、計算の速さ、正確さだけだとしたら、それはコンピュータの世界で十分であろう。
    人間の技能、技術を支えるためにコンピュータが存在するものであり、コンピュータのために人間が存在するものではない。人の考える過程はパターン認識が主で、コンピュータの論理過程とは根本的に異なっているといわれている。それ故、いくら人間のやることをシミュレーションしてみても、コンピュータは人間の思考を越えることはできないのであろう。

     人は、生まれた時から学習を続け、死ぬまで学習することを止めることはない。学習の速さ、方法は、それぞれの人によって異なるので、その人に合わせた学習の方法を手助けするのが教育だと私は考えている。

     これに対してまた反論もあろう。現代の文化、科学を継承していくためには、高度な知識を教育として必要ではないかと。これも一見もっともな意見に見える。しかし、よく考えてみるとそれは教育として必ずしも必要なことではない。戦中戦後のほとんど教育らしい教育(学校教育として)を受けてこなかった私達の世代がコンピュータの時代に特に困ることもないのである。教育とは何か? もう一度考えていただきたいのである。

     よく幼稚園や小学校において、園児や児童に知能テストを実施して子供の能力を評価したり、クラス分けの際の参考にしたりすることがある。
    親も自分の子供の知能指数(IQ)に一喜一憂したりする。最近は専門業者がいたり、心理学の先生も参加して子供の能力を多面的に評価できるように改良されてはいるようだが、知能指数(IQ)のもともとの発想は、精神薄弱児童を特別に教育するためにフランスの教育局が心理学者のアルフレッド・ビネーに命じて作らせたもので、後にスタンフォード大学で改良を加えたスタンフォード・ビネーテストにより2900人の児童を調査して、そのIQ値の分布が正規分布にならず、IQ値の40付近に山があり、この群は脳に異常があることを見つけたとされている。

     しかし知能テストを実施する際にはそのテスト条件を整えるのが非常に難しく、通常のペーパーテストのように簡単にできるものではないようで、一般に行われているものでは、その結果によって子供の能力を評価することは困難と思われる。
     先に述べたように、育った環境の影響の大きいことが証明されているので、その子供(子供だけではないが)の教育環境を整えてやれば、全ての子供が自分の持つ能力を十分に発揮できるようになるに違いない。それ故に、人としての教育(環境)が、昔も今も大変重要なことであると考えるのである。

     人は自然界に存在しているのであるから(自然から文明が発生したもので人間が作ったものではない)自然を知ることこそ一番大切なことであると考えている。自然があり、人があり、社会があるのであり、教育もまた自然を観察することからはじまる。

     また多くの経験(体験)を通して、人は学習していくのであるから、知識を短期間にかつ正確に詰め込み、受験というハードルの、なるべく高いハードルを越えた者が勝利者であると考える今の教育は、根本的に間違っていると思うし、教育が単に競争の世界を作り出しているに過ぎないと思う。これは教育の場だけでなく、スポーツの世界でもいえるだろう。

     例えば、嘉納治五郎先生の考えられた日本の柔道と現在の国際柔道の違いではなかろうか。しかし、受験というハードルを無くすことが良いと言っているのではない。人には、ある目標を定めて、その目標に向かって努力するということも大切なことだと思っている。ただそのハードルの高さだけで人の価値(能力)を測れるものではないことを特に強調しておきたい。

     教育にもっとも必要なのは愛情である。先に述べた私の出会った立派な先生方は、それぞれ生徒に対する愛情が豊かで、どんな生徒にも平等で、忍耐強く、落ちこぼれと称する生徒(本当は落ちこぼしだろうが)をも切り捨てはしなかった。親自身に子供に対する愛情があれば、その子の個性を大切にして、その子に適したやり方で教育すればよいと思う。

     一流企業に就職するために一流大学へ入学できるように、またそのためには一流高校へ入学しなければ−−−という考えは本末転倒していると思うのだが、いかがであろうか? 世の中全てがサラリーマンだけになったとしたらどうなることか、事実起こりうるかもしれないが、考えてみても恐ろしい気がする。
     義務教育制度(文部省が授業の詳細なカリキュラムまで指定している?)が教育の自由を束縛しているとしたら、義務教育の目的を改めて見直して現在の制度を改めるにはばからない。義務教育を受ける権利を有してはいても、生徒は先生を選ぶこともできないし、ましてや学校を自由に選ぶこともできない。現在、望ましいこととは思わないが、既に塾(進学塾も含めて)が学校教育の欠点を補う役割を果たしつつあるのではないか。

     また、教育に大切なことは、その子の存在を常に認めてやることである。(愛情を与えることと同じ意味である)人は無視をされた時、無気力(無力感)になると言われている。自分の存在が認められて、なおかつ、自分が他人の役に立っていると感じた時、人は心から満足し、そして更に努力して大きく成長する。切り捨てご免の現代の教育は、この点が欠けてはいないだろうか?

     IQ(知能指数)に対してEQ(情動の知性 emotional intelligence )が最近話題になっているが、EQとは、自分の感情をとらえる時、自分を向上させていく時、自分を認識する時、他人の感情を理解する時、人とうまくつきあっていく時、どのように振る舞えばよいのかと言うことで、IQのように数値で測定できないものであるが、現在の子供たちの置かれている環境において、感情の抑圧、背徳、暴走などの問題点を考える上では参考になる考え方といえるかも知れない。

    ( Apr. 13. 14. 1999 更新)

  4. 企業内教育と部下の育て方

     最近のビジネス誌の社長対談を見ると、多くの企業が儲け第一、売上げ至上主義に傾いているように見えてくる。品質・納期・コストの内、品質(サービス、リサイクルも含めた)が置き去りにされているように思える。これは品質が悪いといっているのではない。また生産活動を通じて社会に貢献する、あるいは還元すると言う姿勢が見えてこない。
     私が入社した当時の社長の新入社員歓迎あいさつの中で、社長は「企業は、利潤を上げることと社員の皆さんを幸せにすること、そして生産活動を通じて社会に貢献することである。そのためにはたとえ利潤が少なくても、社会で必要とするなら少量であろうとも生産し供給するのが企業の務めである」と言われた言葉をいまだ忘れないでいる。

     しかし、昨今の企業戦略を見て分かるように、コストを下げるためには手段を選ばない。コストを下げる目的は他企業よりも一層売上げを伸ばすためであり、そのためには工場の人員を削減し、あるいは新入社員の採用を見合わせ、期間従業員、契約社員などという訳の分からない雇用形態を生み出し、更にはパートタイマーや定年退職者を安い賃金で雇い入れて、社員と同じ仕事が出来ることを要求する。
    果ては、もっと労賃の安い海外へ進出するというお定まりのパターンである。自社の技能、技術がいつの間にかカラッポになることも念頭にない。

     それだけでは飽き足らず給料の高い中高年の勧奨退職とくる。海外との競争力に打ち勝つためには従来の終身雇用ではいけない(?)。能率に応じて支払う能率給制度の導入である。果てはプロ野球よろしく年俸制の導入で貢献度に応じて年俸の更新を行っていこう。、
    単純労働ならともかく、公正な能率査定がはたして可能なのであろうか。管理者の部下の教育効果はどうして測るのだろうか? いやいや部下の教育、すなわち社内教育(企業内教育)は管理者には任せない。(管理者さえいらないと中間管理職の廃止を決めた企業もあると聞いている)学歴重視の使い捨てでいこう。学卒(大学卒)より院卒(大学院卒)にし、必要なら学生の内から企業の奨学金を与えて(ヒモ付き奨学金)企業に必要な研究をさせて、卒業後はわが社へ入社してもらおう。青田刈りどころではない苗代買いである。
     このような企業体質が日本の教育全体を歪ませ、そこに働く人の意欲をも低下せしめ、人の人格をも無視している諸悪の根源であろう。

     また売上げ至上主義は、必要以上の品物を市場に氾濫させ物の価値観を低下させ、果ては使い捨て・浪費社会を現出させるだけでなく産業廃棄物の増加を招いている。それだけでなく市場占有率の競争により企業の合併(コングロマリットの生成)が見境なく行われることにより、戦前の財閥の再興にも似た兆しさえ見えると思うのは杞憂だろうか。それに大企業の膨張は、中小企業あるいは零細企業を圧迫し倒産に追い込むかも知れない社会構造の崩壊が心配される。

     企業は、単に優秀な(高学歴の)社員だけで成り立つものでもない。いやいわゆる優秀な社員はそれ程必要ではない。
     製品の品質は先ず設計品質に追うところが多い。次に製造工程の管理による品質に左右される。もちろん製造から設計にフイードバックされる改善も重要な役割を占める。更には、製品を出荷するための検査(工程内の検査も含めて)でいかに市場でトラブルを発生させない品質に仕上がっているかどうかを最終的にチェックし、懸念があれば、製造あるいは設計にフィードバックして満足な製品を市場に供給する。
    この流れからみても、優秀な(言葉に語弊はあるが)社員は通常研究開発および設計の一部に必要と思われるだけで、後は十分な教育訓練と、わずかな不具合をも見逃さない勘と経験豊かな作業員が必要なのである。

     このことは高学歴者を用いることだけでは容易に達成できないし、それぞれの企業の実際に即した企業教育が必要であることを示している。
    また高齢化社会での人材の活用においても改めて見直すべき点ではなかろうか。企業内教育は、単に企業に必要な人材を作るだけでなく、その人が企業より外に出た場合に、その人を通していかにその企業が優れているかを知らしめ、更には製品の信用度を高めることにもつながる重要なキーポイントとなることを忘れてはならない。

     また、部下を教育する立場にある管理者(あるいは先輩)は、常に将来を見て新しい技術を勉強し部下の方向付けを行うようにしなければならない。管理者自身が出来ないことを部下に教育はできまい。
     部下の教育については山本五十六の有名な言葉がある。「やって見せ、言って聞かせて、やらせてみせて、褒めてやらねば人は動かぬ」。非常に含蓄のある言葉である。

     教育と言うと上から下へ一方通行のように思われがちであるが、共に学ぶという姿勢が大切で、部下が自分を乗り越えていって、はじめて教育の効果があったと喜ぶべきで、自分の部下が自分より上の地位を得て活躍してもらえれば最高の幸せである。
    いまだに、重要なポイントは部下には教えないで隠匿しておき、上司としての地位保全を考える人が少なくないように思えるのはひが目だろうか。

    ( Oct. 25. '97 更新 )

  5. 高齢化社会における生涯教育

     生涯教育については、いまさら言うまでもないが、現代は平均寿命が延びて高齢化社会を迎えているため、定年(一般的に60才として)後の過ごし方が問題となっている。
     これについてはそれぞれ個人の考え方にもよるが、定年になってから考えたのではやはり遅過ぎるように思う。まして仕事人間で通してきた人は、定年になってなにも考えられず、心の中にぽっかり空洞が開いてしまったと言う話をよく聞く。やはりもっと若い時から(遅くとも50才になるまでに)自分の趣味なり、興味のあることをこつこつやっておいた方がよいように思う。

     それには長くつきあえるものがよい。定年になったらあれもやろう、これもやろうと思っていても、いざ実際に定年になって暇ができると、いつでもやれるからと、かえって何もやれないのが現実です。
    サラリーマンは会社に勤めている間に定年後も長くやれるようなことを続けてやっていることが大切です。暇ができてからではなく、暇を見つけてやっておくべきです。趣味の講座やカルチャースクールを利用するのも良いし、自分一人で探求したり、楽しんだりすることもよい。なにしろ義務感でやるということにならないよう、余生(と言っては失礼か)を楽しむことと考えてやることだろう。

     それとは逆にやらなければならないという立場に自分を追い込むことも有効な手段かも知れない。その点で通信教育などは、レポートの提出の義務や、添削、採点などの結果の楽しみもあって良いだろう。

     それとは別に地域のボランティアに積極的に参加することが、自分のためでもあり他人のためにも役に立つことで、ボランティアの活動を通して広く世間を知り、また地域に多くの友人を得ることが出来て大変役立つのでお薦めしたい。
    殊に男性は、私もそうであったが普段は会社人間で、近所や地域の人々との交流も少ない(ご近所の奥さんやお子さんたちの顔も知らない場合がある)し、それでなくても家にこもりがちになり易いので、思い切って家から外に飛び出す事が必要である。それによってお年寄りや若い人たちの考えを知る機会にもなり、適当なストレスも受けて、健康のためにも良いのではないだろうか。

     企業自身が、定年を控えた社員に対して定年後の人生設計とか、生涯教育について集団講座を持つという話も聞くが、しょせんは自分自身の人生であるから、他人まかせでなく個性のある生き方をしたいものである。( Sept. 16. '97 更新 )


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