「教育」tommyのつぶやき2000以前

 NHKテレビで「子供に異変 聞く力低下」を見ました。学校で先生の話の内容を聞き取る力が著しく低下しているそうです。学習に大きな影響を及ぼすことは無論ですが、連絡事項を正しく聞き取れないと困ったことになります。集中力の低下とも思いましたが、中には、自分に関係の無いことはよく聞き取っていて、肝心の自分に必要なことを聞き逃していることがあるのだそうです。どの情報が自分に必要なものかの判断が出来ないのかもしれません。うっかり聞き漏らすと言うことはままありますが、それは聞き返せば済むことですが、何が自分に必要な情報かを判断できないとすると、打つ手はありません。

 これは大きな問題ですね。子供達を取り巻く環境がそうしているのでしょうか? 核家族化や個室化によって、家族との対話が少なくなっているせいかも知れません。テレビをつけっぱなしての“ながら”勉強、一人で黙々と息を詰めてゲームに熱中する毎日、ウオークマンや携帯電話、インターネットでのメールのやり取り、どれを取って見ても記憶しておかなければならないほどの、判断力を必要としませんねぇ。しかし、それだけが原因とも思えません。一体彼らに何が起こっているのでしょうか?

 今、教育問題がクローズアップされています。その理由の一つは、生徒の学力の低下と授業が出来なくなっている学級崩壊。もう一つは青少年のゆすり、たかり、暴行傷害、殺人などの凶悪犯罪の増加でしょうか?
 今日の新聞に発表された教育改革国民会議(首相の私的諮問機関)の最終報告にあるように、「道徳を教えること」や「奉仕活動をさせる」、「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」(?)、「新しい時代にふさわしい教育基本法」への見直し(改訂?)等でそれらが解決できることなのでしょうか?
 教育改革国民会議の答申内容全てに疑問があるわけではありませんが、もっと根本的な問題が隠されているのではないでしょうか? それに、最終報告がもっと泥臭い実際的な提言内容であったなら、良かったのかも知れません。偉い先生方が寄り集まって議論を尽くされた結果だとは、到底考えられないような内容ではありませんか?

 それよりも、日経新聞に連載された「教育を問う」の方が、切り口が新鮮で、なるほどそうか! と思わずうならされました。マスコミの方が教育現場での問題点を的確に把握しているのではないでしょうか? 最近の新聞やテレビ番組などマスコミの、教育問題に対する取り組みは目を見張るものが有ります。私達が気のつかない点までも明らかにしてくれています。

 私には、文部省が学校の管理権に執着していること自体が、今の教育の自由を束縛し、個性的な教育の可能性をも潰しているように思えます。
「なぜ?勉強しなければならないの?」と言う質問に答えていません。優秀な学生が良い教師になるとは限りません。世界記録保持者の選手が、優秀な監督やコーチに成ると限らないのと同じでしょう。教育は、教育に対する溢れる情熱であり、子ども達に対する豊かな愛情が最も必要なことなのではないでしょうか? 教育基本法や学校教育における管理を強化すること、道徳教育や奉仕活動をやらせることを決めることではないと思っています。

 貴方は今回の教育改革国民会議の最終報告をご覧になって、どう思われましたか?( Dec. 23. 2000 )


 悲しい子供の虐待事件の報道が続いていますね。罪の無い子供が、食事も満足に与えられずに餓死するという事件が発生しています。それも、実の母親や父親が虐待をしているという事実に驚きを禁じ得ません。一体、母親の母性本能は何処へ行ってしまったのでしょう? 父親の尊厳は無くなってしまったのでしょうか? 学校などでのイジメのおおもとは、家庭での子供への虐待にあるのではないでしょうか? 子供を生きている物としてではなく、ゲームのキャラクター感覚で育てているのでしょうか?

 以前、NHKテレビで「子育てを放棄する親たち」を見ましたが、それによると子供をどうして育てていいのかわからないと言うのです。まさに本能の喪失です。自分の事しか考えられない親のエゴイズムがそこに見られるようです。自分の権利主張ばかりに固執した現代人の哀れな姿が見えてきます。男女雇用機会均等法に見られるように、なぜ従来の母性保護の思想を捨ててまで、男女均等(平等では無いですよ!)でなければならないのでしょうか? 私には、実力に見合った評価は、男、女の区別は無いように思います。ただ、従来の男社会に於いては、女性の地位は決して高く評価されない場合が多かったようには感じていますが、それと男女雇用機会均等法の中身とは全く異なるように思えて仕方ありません。そこには(現代を象徴する)金・地位・名誉だけに拘る姿しか映ってきませんが…。

 児童虐待については、何も日本だけではありません。世界の子供達の虐待については、国連によって“ユニセフ(United Nations Children's Fund)”が、当初、戦争で荒廃した地域の子供達の支援のために設立されました。その後、多くの子供達が貧困と飢餓の為に、大人によって虐待されることを防止する為、1959年に「児童権利宣言」を国連が採択し、1979年を“国際児童年”としたことはご存知でしょう。このことについては、何時も日曜日に布教活動される“ものみの塔”の冊子「目覚めよ!」の12月8日号に“子どもたちの問題、ついに解決へ!”でも述べられています。

 また、同じように、恵まれない世界の子どもたちの支援組織としての“フォスター・プラン協会”の活動についてもご存知のことと思いますが、同じ児童虐待にしても、現在日本で起こっている事件は、余りにも常識を超えています。世界での児童虐待は、少なくとも貧しさからくる児童への強制労働、児童の売買、病気、飢餓などですが、日本のそれは、戦争や経済的な貧しさからくるものではなく、全く原因を異にするものだけに、異常であり、精神的に未発達の大人の増加が大変心配です。ひょっとすると、環境汚染によって、人の脳への知的障害が起きているのかも知れません。何とか早く手立てを講じないと、大変なことになりそうですね。( Nov. 16. 2000 )


 新聞によりますと、日本アイ・ビー・エムとマイクロソフトは、中古パソコンを再生して教育施設など非営利団体に寄贈する社会貢献事業を、来年の二月から共同で始めると発表した、とあります。2001年には1000台を寄贈する予定だそうですが、21世紀は教育が最重点な年だろうと思いますのでとても良い考えです。新品でなく中古パソコンというのが泣かせますねぇ! 効果的なリサイクルで、素晴らしい計画です!

 マイクロソフトのビル・ゲイツ会長は、アメリカで18,000の図書館をインターネットで結び、自ら教育振興に意欲を示しているそうですし、日本の教育について、パソコンやインターネットへの立ち遅れを指摘していましたから、ソフトウェアで積極的に協力しようと言うことでしょうか? 日本の企業では、官庁への納入に1円パソコンで話題をまいても、日本を背負って立つ子供達の育成には、ポンと1円パソコンを提供する考えはないんでしょうかねぇ?( Dec. 12. 2000 )


 Newsweek誌の12/13号には、はたまた幼児教育について「新・0歳からの教育」シリーズで、“第1回 はじめの一歩”が掲載されています。前回の別冊「0歳からの教育」より読み易く、分かり易くなっており、子育てに心配な数々の疑問に沿って解説する仕組みになっていて、初めてのママには安心できるものかも知れません。

 子育てに大切なことは、周囲の情報に迷わされないこと、特に現代は情報化社会なので、一般世間の常識、即ち平均値で自分の子供を判断してしまう危険性がある。人には個人差があるのでしっかり見極めたい。もし、不安なら小児科の先生に相談して見ると良い。
 何よりも重要なのは「幼い時の経験は、そのときの子供の幸せだけでなく、将来の学習能力や推論能力にも影響を及ぼす」ことで、特に言語能力は、母親のお腹の中にいるときから始まっていて、母親と周囲の人との会話に聞き耳を立てていることを忘れてはならない。また、赤ちゃんとお母さんとの会話が重要で、緩やかなリズムではっきりと話しかけることと、繰返し話しかけ、子供だからと言葉を単純にしてはいけない。それに親との対話が多いほど子供の語彙は豊富になる。

 いずれにしろ子育ては、両親が一生懸命に子供に愛情を注ぐことで、子供の将来は決まるのです。また親が、公平で一貫した態度で「していいこと」と「悪いこと」の区別を教えなければ、子供は混乱してしまいます。現代の青少年の問題はこれに尽きるのではないでしょうか? 子供のことは、生んだ母親が一番よく知っているはずです。赤ちゃんもお母さんを一番信頼しているはずです。自信を持って子育てしましょうね。
もし不安だったら、私の“3才までにこれだけは”も読んでみて下さいね。( Dec. 9. 2000 )


 日経新聞のオピニオン・解説のページに、椎名武雄氏(日本IBMの最高顧問)が「社会人も教育の現場へ」という提言をされている。そこには“教育問題は教育現場だけの問題ではない。まして批判するだけでは何の解決にもならないと考えている。経営者はもとより学校教育を終えた社会人は、教育の現場を実際に見たことがあるのだろうか。評論家になるのではなく、自らできることを探し出し、行動し、解決していかなければならない”と述べておられる。また、

 “最も重要な教育はコミュニケーションなのではないだろうか。家庭、学校、社会で、様々な立場の人と対話することにより、ある出来事を多面的にとらえ、他人の成功や失敗の経験を参考に、自分なりのやり方を見つけ出す。つまり、一つの型にはめ込むのではなく、創造力を高め、個性を伸ばすことが重要なのだ”ともおっしゃっている。

 青少年の問題、教育の問題は、単に学校教育や親の問題だけではないことはむろんであるが、この問題に、椎名氏のような企業の経営者が我が事であると気付いて、積極的に教育の問題に関わっていただくようになれば、自然に世の中も変わり、現代の青少年の問題解決にも大きな力となるであろうし、社会人の教育問題への関わりには心から歓迎したい。( Nov. 25. 2000 )


 新聞によると、国立大学協会は総会で、大学入試センター試験では、原則として5教科7科目を科す入試改革を進めることを決定したとある。毎度のことであるが、センター試験の善悪に付いては、世の親達(受験する当人ではないぞ!)の色々な思惑による批判がある。今回の決定に対しても、文部省が推進している初等中等教育での“ゆとり教育”と矛盾するではないかと言う批判が起こっているようだ。いわゆる誰にでも入れる大学という“大学教育の大衆化”に沿っていないということか? これでは悪評の「共通一次試験」の復活ではないか? と言うことらしい。

 余り難しく考えることでも無いのではないか。受験する当人が何の目的で大学に行くのか? 自分に相応しい大学を受験し、自分の目的にしたがって学べばよいではないか?  親が大学を選ぶ必要は無い。親自身が学ぶのではないのだから。子供の自主性に任せば良い。難しい試験を乗り越えるのも、人生の一つの試練である。( Nov. 22. 2000 )


 “あなたに問う!! 父親の役割”週刊東洋経済の105年創刊記念の特集です。
 家庭教育がクローズアップされるにつれて、父親の役割に付いて、色々な本が出されましたね。文献欄にも、2,3挙げてありますが、女性の発言力が強くなるにつれ、子どもの教育に母親の影響が大きくなり、それとは対照的に男性は無口で優しいひ弱な父親が多くなってきたような気がします。その所為かどうか知れませんが、日増しに子どもの非行やいじめ、家庭内暴力、不登校、学級崩壊などが新聞やテレビを賑わすようになってきたように思います。(ただそう思っているだけですよ。念のため!)

 週刊東洋経済の特集では、サラリーマンの父親達へのアンケートを通して、父親がどう考え、どう子どもとコミュニケートしようとしているかを考察して、問題点を浮き彫りにしようとしています。しかし、そのアンケートの結果からは、やはり優等生的回答(?)しか見出せません。そこからは強い父親としての自信に満ちた哲学とか強い個性やリーダーシップを見つけ出すことは出来ません。だからといって、全ての責任を父親だけに押し付けるのは可愛そうですよね?

 「日本の教育はここが問題!」と言うことで、大学教授や精神科医、私塾の先生、その他多くの人が意見を述べられていますが、その中でもユニークな考えを、ミサワホームの社長さんが披露されておられます。

「家は子どもの為にというのが持論ですが、本来、家庭の中で躾をする場所である居間に、子供も含めた家族一同が集まって、お互いのコミュニケーションをとるべきなのに、広い子供部屋にはテレビやゲーム機があり、子供が昼間からそこに引きこもるような家の造りにしてしまった。個室を造って“子失”という不幸を招いてしまった」

と言う意味で、家作りに責任があると言うのだ。確かに、一家団欒と言う日本の家庭文化を、各個室にドアという障壁を作って奪ってしまい、畳や布団も椅子やベッドの生活様式に取って代わられ、案外それらによって、家庭教育の場をも失ったのかも知れない。( Nov. 13. 2000 )


 NHKの“シリーズ 日本の宿題「教育改革」”が2夜にわたって放送されましたので、録画して、@,Aを通してゆっくり拝聴しました。これは、今までの教育改革の議論の集大成と言えるのではないでしょうか? 中教審教育改革国民会議21世紀日本の構想懇談会、その他多くの教育問題の討論の中で現代教育論議がたたかわされてきましたが、結局行きつくところはここなのかも知れません。
この討論に参加されたのは次の方々です。
   橋爪大三郎さん (東京工業大学教授)
   白井智子さん (ドリームプラネットインターナショナルスクール校長)
   高木幹夫さん (日能研代表取締役)
   堀田 力さん (さわやか福祉財団理事長)
   寺脇 研さん (文部省政策課長)
 先ず、「教育改革@ 学校で何を学ぶのか?」では、まずメンバーの方々に“学校のどこが問題なのか?”について、それぞれの問題認識を披露してもらいます。
 まず橋爪さんは、「“無連帯”即ち、校長も教頭も、教師達も、生徒たちも、親達も、それを取り巻く社会も、関連無くバラバラである」と考えています。

 木さんは、データーで示して、「今まで低下してきた私立中学の受験者数が、今年上昇に転じた。これは、2002年に学習指導要領の改訂があるということに親達が反応してきた。公立高校の先行き不安と、自由になったら私立の方がもっと良くなるだろうという期待感にある」と考えています。

 白井さんは、「“学力”で人間の価値を決めるな!」と言います。

 堀田さんは、「“個の圧殺”即ち学校と言う制度が一人一人の個性を殺してしまっている」と考えています。

 そして毎度お馴染みの文部省の寺脇さんは、「主要教科重視、平等(均質)教育という考え方を改め、個人の自主選択が必要だ」と述べます。

 それでは、文部省が打ち出している次の3つの方針
   1.学習内容3割削減。
   2.学校完全週5日制。
   3.総合的な学習。
を考えに入れて討論に入りますが、寺脇さんは、これらの議論がどこでも、誰とでも行われることを期待しているし、学校を特別の枠内に閉じ込めないように求めています。

 さて、「教育改革A 提言 どんな学校を作りたいですか?」では、実際に沖縄で無気力とも思える6才から19才までの子ども達130人と寝食を共にして1年半、悪戦苦闘して学校を興してきたドリームプラネットインターナショナルスクール校長の白井智子さんの実践報告が圧巻です。白井さんは提言ではなく、こうゆう学校になってしまったと言います。白井さん自身、人の気持ちをどうやって解るかと言う闘いだったのではないでしょうか?

 先ず、“何の為に勉強をするのか?”を考えることから始まります。準備の段階から子ども達を一緒に関わらせてきたそうです。そして、世の中に出る為には(自分にとって)何が必要かを徹底的に議論したのだそうです。午後の時間は、自由に自分に必要なことをやるのだそうです。しかし、自分だけが中心の考えではギクシャクする為、グループでは徹底的に話し合うことになりますが、全て子ども達自身で解決させるようにしているそうです。しかし、自分さえよければ良いと言う子が多いため、全体ミーティングを持って解決に臨みます。
即ち「問題は、子供たち自身が解決する」ということになります。

 新しい学校を作るには、学校の制度を変える必要があります。教育に必要なことは、学びたい時に、学べる場があるかどうかです。締めくくりとして、それぞれ一言づつで表現します。

 橋爪さんは「選択、責任、連帯」
誰もが自由に自分の進む道を選択できること。それには責任が伴いますし、周囲との関わりが必要です。

 白井さんは「ひとりひとりの才能を見つけて伸ばす」
その為には、今までの価値観(良い学校とか、学力とか)を変えていく必要があります。

 木さんは「子どもに合わせた場づくり」で、その場が学校であれば最も望ましいが…。

 堀田さんは「個の復活」
ひとりひとりの良いところを認める。それは、一人一人を良く見ているか? 学校の居心地が悪い、楽しくないと言うことがそういうことではないのか?

 寺脇さんは文部省の関係者として、「情報公開、説明責任」を挙げる。
情報公開することによって、大人達が、学力の呪縛から解放され、自分が楽しいか? 幸せか? という判断で考えるようになれるのではないか?

 最後に、堀田さんが次のように話したのが印象的でした。
「学校ということにとらわれず、人間として一人一人がどれだけ楽しく生きていくか。それには、大人も、高齢者も、全部、自分の思いを活かして生きてゆけるか、又、そういう社会にして行くか」と。( Oct. 18. 2000 )


 不登校生や障害などで学校に通えない人達に、インターネットを用いたハイスクールの試みが日本でも行われている様子が、TBSテレビの「報道特集20年、そして21世紀」で報道されました。

 渋谷にある“アットマーク・インターハイスクール”では、インターネットを用いて在宅で学習して、その成果に応じて認定し、アメリカの高校の卒業資格が与えられるように成っています。アメリカでは広く在宅教育制度が認められていて、多くのホームスクーラーがいて、ホームスクール法的養護協会もあるそうですが、日本では、まだその緒についたばかりで、ホームスクールとしての市民権はありません。むろんアメリカにおいても問題が無いわけではありません。アメリカ学校管理責任者協会では、ホームスクールでは家族だけの環境に引きこもってしまい、社会性を損なうという指摘をしています。

 アットマーク・インターハイスクールでは、まだ生徒は12人しかいませんが、各生徒の学習を支援するサポートティーチャーがいて、生徒のやる気を引出すように定期的に訪問したり、コントラクトと呼ばれる学習計画を立てる援助をしたりしています。卒業の資格を得る為には、19の単位を取得しなければなりませんが、日常生活の全てが学習の単位となるように工夫されています。また、普段、顔を合わさない生徒の交流の為に、サマーキャンプを実施しています。

 しかし、ここでも問題はあります。インターネットによる学習に付いては問題はないのですが、生徒が12人ではビジネスとして成り立たないのです。そのために、理事長である日野さんは、小中学校にまで範囲を広げてインターネットスクールを拡大しようと考えて文部省を訪れますが、義務教育に付いては学校教育法に定められていて、学校以外での在宅教育は認められていません。そのためには、学校教育法の見直しや改訂を経なければなりません。

 義務教育とビジネスの間には、まだまだ大きな垣根が立ちはだかっているのです。しかし、現在の学校教育現場で発生しているいじめや不登校などの色々な問題を解決する手段として、インターネットを用いた学習は効果的でもあり、かえって学校教育よりも自主的な学習習慣が育まれる効果も期待できるのではないでしょうか? 
 いずれにしても、子供が置かれた環境に対して、親としてどういうふうに教育環境を整えてやれるか、その選択に任されています。ただ、卒業資格に拘るあまり、人間関係を忘れ、知識の詰め込みだけに偏らないように注意しなければならないと思います。( Oct. 5. 2000 )


 首相の私的諮問機関である教育改革国民会議の中間報告が発表されましたね。
小渕首相当時に第1回の会議が開かれて、その時に、教育制度の改革も必要だとは思うが、現代の教育の問題は社会構造に根ざしている問題が大きいと述べたが、今回の提言の内容を見ると、そのことには触れていないようで、学校教育の中に奉仕活動を義務付けることや、教師の免許更新制度の導入、学校の評価を行いその情報を親や地域に公開する、という私達の考えていることとは異なる見方での提案が多いように思う。更に、教育基本法を必要に応じて改正すべきだ、ということが述べられている。

 今回の提言が、実際に起こっている教育現場の問題の解決に直接繋がらないとは言わないが、前回の3分科会のまとめが発表されたときにも感じたが、“奉仕活動の義務化”が本当に必要なことかどうか疑問が解けない。また、教育基本法についても、一定期間を経たら見直すことは必要とは考えるが、そのことが現代の教育問題に対して重要な影響を及ぼす点とも思えないのだが、如何なものだろうか? ( Sept. 23. 2000 )


 いつも不愉快になることの一つに、本屋での店員の客を無視した振舞いがあります。昨日も、パソコン関係の雑誌を見に行きました。インターネットをやりたいという相談を受けて、プロバイダーの選び方の本を探しに行ったのです。すると、開店早々のため、見渡すと、お客は数人しかいませんでした。本を探している目の前に、若い男の店員がやってきて、いきなり私と雑誌棚の間に割り込むと、無言で雑誌の入れ替えを始めたのです。いつもは我慢していましたが、もう我慢の限界に達していました。思わず「他人の目の前に邪魔する場合は、“ごめんなさい”とか、“失礼します”ではないのかね?」と質しました。店員はびっくりしたように、私の顔をまじまじと見て、“スミマセン”とつぶやきました。しかし、申し訳ないと言う表情ではありません。変わった客(おじいさん)だなあ、と言う感じです。

 店員のほとんどは、アルバイトの学生やパートの主婦が多いようですが、これはアルバイターとかパートタイマーだからと言うわけでもないと思います。店員への接客教育の不足と言う事もあるでしょうが、人としての基本的なマナーの欠如ではないかと思います。会社の中でも、二人が向かい合って話しているその間を、平気で突っ切って行く社員も多く見られるこの頃です。きっと小さい時からの教育(保育)の欠陥でもあり、親として、子どもを育てる基本が欠落しているのではないでしょうか?

 NHKの教育テレビで「少年少女プロジェクト」特集 今父親を考える のシリーズを、昨日もやっていましたが、その中のアンケートで、“父親は、友達のようであって欲しい”と言う意見が一番多かったのです。特に母親の多くがそれを望んでいると言うのです。父親には、子どもと同じではなく、大人の見識を持ち、子どもが信頼できる人格を持って欲しいではありませんか? しかし、子どもや母親と断絶していてはいけませんがね。これは、なかなか難しいことですね。

 また、行く度に腹の立つことは、コンビニとかディスカウント店の商品の配置変えです。このまえあった場所に目的の商品がないのです。 これは、スーパーで売り上げを伸ばすためには、毎日の売り上げ商品のデーターを分析して、仕入れ数量をコントロールするとともに、商品の配置を頻繁に変えて、客が目的の商品を探すためにあちこちの棚を見て歩いて、当日の購入目的以外の品物にも注意を向けさせて、商品購入の機会を増やすために行っているのです。これは、全く顧客の立場を無視して、店の売り上げ(利益)だけを追求しているからに他なりません。店の売り上げは伸びるかも知れませんが、客は、目的の品物を探すために多くの貴重な時間(Time is Money)を費やし、不利益を被っているのです。

 これら顧客の利益無視の状況は、旧来の体質に安住し、顧客に対して、最も重要な品質に注意を怠ったために発生した、雪印の事件や、その後続発している多くの食品会社での異物混入や変質クレームに繋がっていますし、三菱自動車のリコールに繋がるクレーム隠し等も同じ問題で、社員に対する教育の不備と、経営者の人格の問題に帰着するのではないでしょうか? 教育の問題は、なにも子どもの教育だけではないのです。( Aug. 27. 2000 )


 「特集・子育ては楽しいですか?」NHKの教育テレビでの全国(選抜?)ママの生出演によるトークを聴きました。先に、託児所での幼児虐待で、多くの死傷者が出ていて大変問題になっていますね。幼児や児童の虐待は後を絶ちません。その上、少年の母親の殺害事件等、悲劇が繰り返されています。いったい子供たちの上に何が起こっているのでしょうか? ここでも、焦点はそこにあるのではないかと思われます。

 ファックスでの意見は別として、出演しているお母さん達(と言うよりママ達)の子育てに対する考え方に、私とは大きな違いがある事に驚きました。

 その1つ目は、子育てが楽しくなくて、苦痛だと言うのです。とても1対1では耐えられず、虐待に近い行動をとってしまうと言います。何故私(母親)だけが子育てを強いられなければならないのか? と言う疑問に多くのママ達がうなずきます。では、何故子どもを産んだんでしょうか? 子どもをどうしたいのでしょうか?

 2つ目は、子どもを育てるより、働いている方が楽しいと言います。子育てだけで終わりたくないとも言っています。では、子育てだけでなく何をやりたいのか? との質問に対しては、答えに窮してしまいます。何しろ、子育てに縛られたくないと言うのが本音のようです。そのため、安心して預けておける託児所が欲しいと言います。更には、地域で子育てをする習慣が失われているとまで言い切りますが、果たして、ママさんたちは、地域に積極的に溶け込んで、自分自身が、他人の赤ちゃんの面倒が見られるのでしょうかね?

 3つ目は、2人で産んだ赤ちゃんだから、パパも半分は子育てをすべきだと言うのです。もちろん、子育てには父親の役割も大切です。しかし、父親が仕事に一生懸命で、子育てに協力してくれないと言う前に、2人で話し合えば良いのではないのでしょうかね? それとも、私みたいに、結婚する時に子育ての条件まで決めてO.Kをとっておくことでしょうか? 結婚なんて、所詮他人同志が一緒に家庭を築くわけですから、はっきりした契約をしておかないと後で困りますよ。(しかし、こんなことまでしなければならないような夫婦は味気ないですね)もし、子育てが嫌なら(自分はどうして育てられたのでしょうか?)子どもを産まなければ良いと思いますがね?

 4つ目は、育休の後、職場復帰をした時に、何故自分の元の職場に戻してくれないのか? あるいは、自分の好きな仕事が出来るようにしてくれないのか? と不満をぶっつけます。へえー? 貴方が復帰するまで、その職場の仕事を保留にしておくんですかね? それとも、貴方の好きな仕事を準備するとでも約束していたんですかねぇ? 私は、仕事に良いも悪いも無いと思っています。まして、貴賎の差も無いと思っています。それが仕事なのですから。

 5つ目は、子どもは、親がいなくても育つものですよ。だから自分が一生懸命育てようなんて考える事はない。と言うのです。いったい誰が子どもを育てる責任と義務があるのでしょうか? 託児所や保育園の保母さんの方が確かに専門家かも知れません。しかし、子どもには両親の愛情が必要ですし(だだ大きくなれば良いだけならかまいませんが…)まして、自分達の理想の子ども像があるわけでしょうから。しかし、保育園に預けていた方が、仕事が終わって迎えに行った時、喜んでしがみ付いてくるから、かえってお母さんの愛情が強く感じるようになって良いのですよ(?)と悪びれもせず言い放ったのには、おもわず目が点になってしまいました。その子が、お母さんの来るのをどんな気持ちで待っていたのか、考えてもいないんですねぇ。

 これらを聴いて感じた事は、子育てが、どんな仕事よりも尊く大切な事かを認識せずに、子育てによって自分の自由が奪われていると言う、被害者意識がとても強い、利己的な母親が多いと言う事です。それに子育てによって、自分自身が子どもからいろいろ学ばなければならない事があると言う事を知らないのでしょう。それに、自分の能力を生かして働きたいと言うのも、自己中心で、本当は期待できる何の能力も無いと感じました。ただ、お金が儲けられて(主婦してるよりは)、職場で男性達にチヤホヤされて、仲間と一緒に遊び歩ける楽しみのためだけではないでしょうか?

 本当に能力があり、実力があるなら、子育てをしながらでも、できる事は何でもあるのではなかろうか? ただ単に、自分の欲望(不満解消か?)を満たしたいだけで、面倒な子育てに関わりたくないと言う事ではないか? 幼児は親の考えている事に非常に敏感なので、愛情の欠落は、将来子どもの成長に重大な欠陥が生じる危険性がある。それらの子ども達は、学校に上がってから、更に、(他人より優れ、有名学校に入学し、良い会社に就職するという)母親の利己的な期待に沿わなくてはならなくなる。ついにその期待に沿えなくなった時に破綻が生じよう。

 人が生きると言う事は、自分の全てを他に与える(役立てる)事であり、子育ては、自分の愛情の全てを、子どもに与える事なのである。決して見返りを求めてはならないのが、神の教えであろう。( Aug. 8. 2000 )


 日経新聞の教育欄の囲み記事「職員室」で、筆者の中学校では、今年から通知票(内容が問題なんだよね)の所見欄の記載にワープロを使用しても良い事になった(今までは手書きだった)そうで、ほとんどの先生がワープロを使用するようになったのに驚いたと書いておられる。しかし所見欄は、生徒一人一人に大切なメッセージを伝えるところであり、大切なメッセージは機械的な活字で代用するには抵抗があって、手書きに拘る私の考え方は古いのだろうか? と結んである。

 これは重要な意味を持っているように思う。現代のコミュニケーションが、速さと利便性に重点が置かれているからであろうか? 携帯電話やインターネットの E-mail が巾を利かせ、それに伴う問題も多く発生している。本来、コミュニケーションの大切な所は、対話者の表情と感情の伝達にあるのに違いない。言葉を文字で表わせば、感情の幾ばくかは書かれた文字に表現できるが、活字からは読み取れない。まして E-mail になるや、用件の即時伝達が主となって、肝心な所は今度会った時に、てな具合になってしまう。ワープロは便利であるが、それなりの使い方が必要だろう。筆者の言うように、自分の生徒に自分が精一杯考えた内容を、心を込めて自分の手で伝えたい、と考えて手書きに拘る事は尊い。まして、一人一人に対話して伝えられる事はもっと尊い。

 私も会社でOA化を推進してきて、パソコンやワープロを導入してきたが、これは、あくまで事務の効率化であって、手書きで用を足せるものに、それらを使用する必要はない。しかし、中には何でもかんでもワープロやパソコンを使って、手書きなら10分で済むところを、自分の気に入るまで何度でも打ち直して時間をムダ使いする者もいる。パソコンに向かっているだけで仕事をしていると言う錯覚にとらわれているようだ。反対に、パソコンやワープロを使えば、早く分かりやすく出来るものを、手書きで時間をかけてやっている者もいる。要は、目的によると思う。

 年賀状等は良い例で、私は絵も含めて全て手書きを続けている。そのため、絵の題材(時事問題やその年のトピックス)を求めて、年末は四苦八苦する。年末までに出来上がれば良いが、年を越して2日の書き初めを兼ねる場合もあるが、書き終えてやっと新年を迎えた気がする。また、時間をかけて作って頂いた年賀状を頂いた時はうれしいし、何も書いてなくても、元気な相手の顔がみえてホッとするものである。デシタル化を手放しでは喜べない私である。( July. 22. 2000 )


 教育改革国民会議(首相の私的諮問機関)の3分科会(第一分科会=人間性、第二分科会=学校教育、第三分科会=創造性)がまとめた報告書の内容が明らかになった。それによると、

   @ 教員免許状の更新制度の導入
   A 小中高校の各段階で共同生活を伴う奉仕活動の義務化
   B 大学九月入学制度の導入

などがある。
 教員免許の更新制度に付いては、従来,免許を取得すれば終身免許として更新の必要がなかったものを、一定期間毎に更新手続きを義務付けて、教員の質を向上させる目的らしい。しかし、運転免許と同じく、ペーパードライバーならぬペーパー教員ならともかく、日常教育現場に携わっている教員ならば、夏休みなどの教員研修会(内容は厳選の必要あるとしても)を通して再教育や研鑚の機会は常にあると思えるし、教員自身も自己学習の努力を怠らないのではないか? それよりも、教員資格を与えるときの、教育者としての適性や教育に対する意欲・情熱などについて、判断基準を明確にすることと、教育現場での教育成果の正しい評価こそが必要だと思われる。一般に公務員には、私企業と異なり、業績考課とか授業に対する評価制度はないため、努力目標が定めにくい。何を基準にして免許更新を行うのか納得のいくものでなければならない。

 また、Bの大学の九月入学制度の導入は、高校卒業後、大学入学までの間に猶予期間を設け、その間にボランティアや社会活動、海外でのホームステイを通して、視野の広い人材を育成する目的と言うが、それでは、その猶予期間にそれらの活動を義務付けるつもりであろうか? 視野の広さや人格などは単純に論じられないもので、もしも、高校卒業後、大学入試までの期間が短すぎて、大学側で考える適正な人材が得られにくいとするなら(ほんとうにそれで適正な人材がえられるのかねぇ?)、大学自身が適切な選抜方法と入試時期を自由に選択できるようにすれば良いのではないか?

 Aの小中高校の各段階での共同生活を伴う奉仕活動の義務化については、既に先達の教育者の多くが試みられていることで、現在でも実施されている学校も少なくないと思われる。“奉仕活動”や“共同生活”が何を意味するかはわからないが、その一つに、既に述べたことのある“小原教育”を実践している玉川学園などがある。(文献参照)
ここで問題となるのが「…の義務化」であって、奉仕活動を受け入れる基盤づくりをどうするかという問題に突き当たる。さらに奉仕活動には、奉仕をする側の心の準備がなければ、結局“仏造って魂入れず”にならないともかぎらない。

 教育に今何が必要なのかは、教育現場の管理者である学校長や教頭などの昇格人事が妥当なものであるか? そして管理者としての教育が充分かどうかを、まず調査し、適正な人格者を配置しなければ始まらない。( July. 16. 2000 )


 「子育てを放棄する親たち」。NHKの“クローズアップ現代”を見ました。
 東京都内のある乳児院で預かっている乳児53人の内、13人が子育てを放棄された子供たちだそうです。“ネグレクト”と呼ばれる子育ての放棄は、親と子の間に信頼関係が成立しないのだそうです。当事者である母親の話しを聞くと、子どもに対する愛情が全く感じられず、自分中心で自分が被害者であると言う意識の方が強いのです。

 全国の乳児院で見ると、2769人の内、児童虐待を受けている子どもが1/4の693人で、その内の296人が養育の放棄・拒否された子ども達なのです。母親が児童虐待する理由の一つは、子育ての悩みを相談する相手がいないということであるが、同時に乳児検診さえも受けていないことが多いと言います。また、そうでなくても全国の児童相談所を訪れる母親は、5年前の4倍にもなっているそうです。この現実を聞いて肌寒い感じがしました。

 本来なら、子どもが生まれれば幸せと感じるし、子育ては母親として当然楽しいことではないだろうか? ところが、現代は子育てで家庭に縛られるのは嫌で、働いてお金を稼ぐことに価値があるという考えが強いのではないかと言います。このことから、価値観の転換が必要だと言っていますが、私には人間本来の母性本能の喪失ではないかと思われます。現代では、男性、女性の役割分担が不明確で、更に男女同権、男女雇用機会均等法などから、母親だけが何故育児をしなければならないのか疑問に感じる女性が増え、父親にも育児の分担を要求することが当然と思われてきている。

 育児を夫婦で協力し合うのは当然で、“協力を要求する”という行為は大変不自然な気がするのは私だけだろうか? また現代では、核家族の生活となっていて、おじいさん、おばあさんが近くで助言することもできないし、都市化により隣近所の付き合い関係が薄れ、育児について聞いたり聞かれたりする事も無く、孤立してしまい易い状態を作っているのではなかろうか? 近所づきあいを煩わしいものとして避ける若い母親が増えていることは確かであるし、コミュニティにより子育てが行われることが忘れ去られてきたのは、やはり自己中心、物や金に価値観を置く現代の気質によるものだろうか? 専業主婦に対する世のキャリア主婦からの風当たりが強いのも、大変気になっているこの頃である。

 次の世代をになう子供達を不幸にしないように、良く考えなければならない。少年法の改正(刑罰適用年令の14才への引き下げ等)にしても、親達の責任を子供達に転嫁しているとしか思えない。私たち大人が、親としての義務と責任をよく認識して、真剣に子育てを考えなければならないのではないだろうか? ( Jun. 18. 2000 )


 BS討論「緊急提言 待ったなしの教育改革」を興味深くうかがいました。これは、教育改革国民会議の委員である5人の方達による討論です。

先ず、金沢市教育長の石原多賀子さんは“地方からの教育改革〜くらしの場・子どもの目線”(地域の人達との出会いと関わりを大切にする)

芝浦工大学長の江崎玲於奈さんは“未来への投資 天性を見出し、育成に努める”(教育への投資を増やす)

ジャーナリストの大宅映子さんは“いろいろあらぁな”(十人十色の生き方?)

慶応義塾幼稚舎長の金子郁容さんは“コミュニティー・スクールの設置”(地域住民が作る公立学校)

多摩大学学長のグレゴリー・クラークさんは、ただ一人、外国から見て感じた日本の大学の実態から“Challenge入学”(大学入学制度及び進級制度の改革)

 討論が進むにつれて、益々教育改革の問題点がどこにあり、今どう言う手を打ったら良いかが判らなくなってくるのが実情だ。現在の教育制度をいじって見たところで、現在の青少年の無気力、非行、犯罪等の解決には即効性は無い。何故かと言うと、教育の効果は、短期間で現れるものではなく、むしろ日本の社会構造の変化につれて、変化すべき教育制度の改革が行われてこなかったために、そこに潜在していた歪みが、現代において顕在化したに過ぎないのではないかと考えられるのである。

 社会構造の変化を考えると、古い農民社会から工業化社会に発展するにつれて職業が多様化し、従来、勤勉が尊ばれた時代からタレント(多能)性が要求され、更に創造性が要求されるようになってきた。それによって日本の教育制度が、能力の均一化(横並び)から能力・個性に応じた教育が必要になってきている。これは、とりもなおさず個人の能力の差を認めて、従来の均質な教育、同一化とも言われる教育方法を改める必要があると考えられる。

 更には、新しい義務教育制度で、学校教育を1/4にして、残りの3/4を家庭での自主教育に任せようとしているのであるから、親の意識改革が最も重要な位置を占める事になる。こうなると教育制度改革だけでは解決のつかない問題となろう。更に教育関係者の資質向上も重要なこととなり、教育者を育成する高等教育機関である大学の改革が重要となって、“鶏と卵”のネストに陥ることになり解決の難しさが分かるだろう。

 現在多発している青少年犯罪等の問題点を、家庭教育や学校教育制度の改革に結びつけることに無理があるような気がするのだが…。あなたはどう考えますか? ( Jun. 11. 2000 )


 最近特に気になることがある。一つは、女子高校生の喫煙で、今までそれほど目立ってはいなかったが、最近近所の高校の女子生徒がタバコを咥えているのが、目に付くようになってきた。もちろん、近くで発見すれば注意し、喫煙を止めさせてはいるが、注意してもあまり悪びれた顔をしないのである。(“このおじいさん変わってるねっ”という表情に見える)注意する張り合いがないと言うか、あきれると言うか、注意する方が悪いことをしているように感じてくる。男子高校生は注意してきく者はほとんどいなくなったし、自転車でタバコを咥えて走り去るので、注意するひまさえないのが実情である。
 前回、近所の高校に電話して下校時の立ち番を(観察)をやって見なさいと提案しておいたが、一向に実施される風も無い。この校長(女校長)にして、この生徒ありか? それとも喫煙自由の校風か?

 もう一つは、茶髪や金髪に厚化粧、イヤリングや金のネックレスで着飾った夫婦が子供を連れて遊んでいるのだが、お母さんの方はタバコを咥えて小さい子を抱いているのに出会うことが多いし、結構子供にも化粧をさせていることも多い。子供に対するタバコの害も気になるし、小さいときから化粧をし、お母さんのタバコ姿を日常から見ているのでタバコに対する忌避意識が少ないのではないかと思えてくる。以前注意された女子高校生が「親が良いといった」という言い訳もまんざらウソで無いような気もしてくる。

 会社でも女子社員の喫煙は増えているし(喫煙の害が叫ばれているのにですよ!)、男女同権だから(?)女性だって当然ですと主張している風にも見える。一体世の中どうなっているの? と考える方がバカじゃないのとさえ思えてくる。男の茶髪、金髪(白髪や緑髪もあるよ)、イヤリング、ネックレス、お化粧が当たり前の現代は、どこに常識の接点を見出せば良いのだろうか? (May. 28. 2000 )


 NHKテレビの教育トゥデイ「自主性尊重で学校教育は変わるか」を見た。
文部省は学校改革について、次のような4つの大きな柱を立てて改革を進めようとしている。

  @ 心の教育の充実
  A 選択ができる学校制度
  B 学校の自主尊重
  C 大学改革

今回は、このシリーズの4回目に当たり、教育評論家の尾木直樹さんと文部省政策課長の寺脇 研さんとの討論で進められている。
 これには、地方分権制度の「教育長の任命制度の廃止」や学校教育法の改正による「学級編成の弾力化と教職員配置の改善」とか「民間人の校長採用」や「学校評議員制度」等が関わってくる。これは地域住民の意志を学校教育に反映させることと、学校の中の制度を改善することによって、学校運営を改善し、校長の経営権限を強化して学校の自主性を打ち出すことが狙いらしい。

 校長の権限を強化することで、それぞれの学校の自主性が確立されれば良いが、今まででも同じことであって、校長の資質そのものが向上しない限り、かえって独善的になる恐れもあり、学校間の質の格差がひろがる心配もあるので、各学校の横の交流、学校の方針やカリキュラム、教育の成果(実績)などの情報公開等が是非とも必要なことだと考える。従来、学校内のことに付いては、ほとんどブラックボックスであって、PTAがあっても実際には有効に機能していない。

 13年程前の話ですが、私の末っ子が中学生で、私がPTAの役員だった時に、女生徒のイジメによる自殺未遂事件が発生した際、非常に危機感を感じ、全校の保護者を学校に召集して、イジメに関する問題を全体集会で討論しようとしました。その時に、学校側は全教員に緘口令を敷き、学校内にはイジメの実態は無いと言い張り、結局話し合いはもの別れになってしまった苦い経験があります。

 また或る日、末っ子が授業の途中で歯から血を流して帰ってきたので、どうしたのだと問い質したところ、体育の授業で同級生からイジメを受け、顔を足蹴りされたのだと言う。担任の女先生は、見てみぬ振りで「早く帰って、病院に行きなさい」と帰されたと言う。私は怒って「学校内で起こったことは、学校側の管理責任だ! 帰って病院に行けとは、言語道断! 校長に談判する!」と学校へねじ込もうとしたが、末っ子が「そんなことをすると、内申を落されるから止めて」と言われて、情けなくもガマンしてしまいました。学校に子供を人質に取られている感じがして、恐ろしく惨めに感じたことを思い出します。

 結局は、校長や教師の質が向上しない限り、学校改革はありえないと思うし、それに、学校内の情報公開が正しく行われ、地域住民が遠慮無く発言できる様にならないと良くはならないと思うので、私企業と同様、目標(教育、授業等の)設定と同時に成果の考課を行って、教員相互の切磋琢磨が行われないと、年功序列の学校慣習を引きずって、その上に従来どおりの校長が居座ることになるのではなかろうか?

 先日も,近くの高校の生徒の“ご乱行”に堪りかね、高校に電話して「地域に協力をお願いするばかりで、自分達の管理努力を怠っているのではないか?」と文句を言った。しかし、それに対してどう対処し、その結果がどうなったかは、多分明らかにはされないだろう。学校評議員制度が正しく運用されるようになれば、地域住民が評議員として多少ともお役に立てることもあろうが…。学校関係者は、とかく治外法権として、一般人の立ち入りを歓迎しない。

 横道にそれたが、結局、学校改革は、学校自身(校長や教師)が意識改革を行わない限り、いくら制度改革や地域協力を求めてみても始まらない。また文部省が、現場に根ざした視点で文部行政を変革しない限り、容易に改善されない難しい問題ではなかろうか? ( Apr. 23. 2000 )


 中教審の文相への答申「少子化と教育に関する提言」内容を新聞で読んだ。家庭の子供に対する教育機能が低下している問題で、「家庭教育学級」などへの親の参加を促すことや、父親の「子育て参加講座」、地域で子育て支援を行う必要性があるなど、子育てに対する支援の提言は、確かに子離れ、親離れできない家庭が増えている現在、必要なことかもしれないが、ただ何となく、子育て当事者であるはずの親の主体性を無視した過保護、いらぬお節介という感もぬぐえない。

 また、学校教育にしても、子育て教育、保育体験などの提言を盛り込んでいるが、受験教育主体の学校教育に対して、はたしてそのようなプログラムを必須科目として組み込む事が出来るのか疑問だ。他方、企業に対して、子育てのための弾力的な労働時間制や在宅勤務、必要な期間の育児休職や事業所内託児所の設置推進などの提言は、大変有効なものだと思うし、ぜひ具体化してほしいものであるが、ただ、その制度を悪用して、自分のための自由な時間として利用する人も案外多いのではないかと思えるので、高い視野から見た提言よりも、やはり当事者である親達が子育てに望むことをどうして実現するかを、支援することも大事なことであろう。何しろ、金や物に執着して、子育てと言う本能を忘れてしまっている現代では、利便性ばかり追求している社会構造自体を改革しない限り解決の道は程遠いのではないかと思うのだが…。( Apr. 19. 2000 )


 教育改革国民会議(小渕首相の私的諮問機関)の初会合が開かれたとある。そうそうたるメンバーを見ると、立派な業績を持つ先生方には申し訳無いが、もう結論が見えてきそうな気がする。教育問題に付いては、既に多くの人達の多くの議論がなされ、多くの著作や文献がある。それを集大成するだけで事は済むとは思わないが、少なくとも現代の教育の問題点は出尽くしていると思われる。

 委員でもある柔道の山下泰裕(東海大教授)さんが良いことを言われている。“現代の子供の問題の多くは、子供の(原因が)問題ではなく、大人や大人社会の問題と考えている“。これは正に現代社会を演出している政治の問題に帰着するのではないか? 毎日の新聞報道に、正義とは程遠い政治家や国会の審議のあり方、警察官を含め多くの官僚の不正や企業の贈収賄、脱税、リストラに名を借りた首切りがまかり通っている。今や労働組合は有名無実の存在になっているではないか? 正義の騎士は何処に?

 とは言っても、教育の問題の解決にはならないので、良く考えてみると、これには幾つかの問題点が含まれているように思う。
 第1は、学力に関する問題。
       これは高校や大学の受け入れ側から見た基礎学力の必要
       な達成度と言える。均質教育をめざす日本の特質か?

 第2は、従来は常識だと思われてきた公共公徳心と正義心の欠如の問題。        他人に迷惑をかけなければ良い? と言う考え方か?

 第3は、生きることの意味と命の大切さの認識が希薄になっている問題。        これは感謝の気持ちや自分の過ちを認めて心から詫びる        ということが出来なくなっていることと共通か?

 第4は、勤労意欲の問題。        かなり以前からあるモラトリアムとフリーターの増加で、        価値観の多様化というよりも、親の子離れ、子の親離れ        など自立心の欠如か?

 第5は、教師の教育者であることの自覚の欠如の問題。        親の躾や地域のかかわりの不足を指摘し、自分達の義務        と責任を転嫁している点など。

 第6は、学校教育に対する親の価値観の問題。        これは目的意識とか学校教育に対する期待感と言うべき        ものだろうか?
その他にも色々あろうが、良く見てみると親の考え方や価値観(人生哲学?)が大きな部分を占めることが判る。これが出発点であることに異論はないだろう。しかし、教育改革と言う以上、教育制度を抜きにしては語れないとは思うが、そこに社会構造すなわち政治の問題をどう取り込むか、今後の展開が大変楽しみですね。( Mar. 28. 2000 )


 「21世紀日本の構想」懇談会(小渕首相の諮問機関)が教育に対して答申した内容に次のようなものがある。

(1) 義務教育を週3日にする。
(2) 英語を第二外国語にする。

 この答申についてどう思いますか? 随分大胆な提案ですね。現在の義務教育制度を見直し、思い切った改革をすることには異論がありません。しかし、良く考えてみると、懇談会の構成委員のおっしゃるような提案内容に対して、実際に子供達の親が、自分の子供の教育に対して選択権を行使できるようには自立していないように思います。週の残り半分をどうやって過ごさせるか? 子供にしても、自分がその時間を有効に使うためには何をしたら良いか? 結局は将来の受験に備えて塾にやらせることしか考えられないのではなかろうか? お偉い諮問委員の方々の理想的な考え方は立派でも、一般的な庶民にしてみれば、絵に描いた餅みたいなもので、右往左往するだけで解決にならないように思う。
 委員の一人は、皆が右往左往して知恵を出し合うことに狙いがあるようなことをおっしゃっていましたが、無用な混乱は避けるべきでしょう。それよりも、教育現場のやり方に対して、文部省が細かいことまで指導・管理をしないで先生方に任せることこそ、それぞれの学校の個性的な教育が出来るし、現場の先生方の自由な発想が子供を育てることになると考える。

 また、義務教育制度を改革するとしたら、義務教育年限を再検討した方が良いのではなかろうか? 現在は中学までの9年間となっているが、先の答申の主旨からいけば、小学校の6年間で十分で、昔のように、中学以上を多様化して、その子の特性に応じて自由に学校を選べば良いのではなかろうか? 12才にも成れば十分自立できる年令であり、自分の将来の方向を決める(選択する)ことが出来るのではないだろうか? 昔なら、私達の兄や姉のように既に社会人として働き、家計を助けていたではないか?

 今の親達は、子供をいつまでも子供として過保護にし過ぎているのではないか? 教育は、教えることではないはず。自らが学ぶ、あるいは共に学ぶということではないのか? その手助けをするのが義務教育であり、学校制度(私塾なども含めて)なのではないだろうか? だから、今問題になっている教育問題(学校での問題)は、大学やその先に有る就職までも含めた受験制度と、親や社会の価値観の問題に帰着すると考える。その問題を抜きにして教育改革を語れないと思うが、どうだろうか?

 (2)の第二外国語としての英語の問題にしても、いらぬお節介で、それが必要な人は学べば良い。そうでなくても幼稚園から英語塾は満員盛況である。それこそ選択の自由であろうし、将来はIBM等が開発している同時通訳器(現在は翻訳率90%位という)により、例え、英語が話せなかったり、読み書きが出来なくても困ることも無いのではないだろうか? それよりも、国際交流のためには英語圏だけでなく、むしろ異文化(その国の歴史や考え方、生活習慣など)の理解を深めることこそ、お互いのコミュニケーションに必要なことではなかろうか? ( Mar. 12. 2000 )


 小中学校でのコンピュータ教育の必要論が盛んな昨今では、コンピュータの教育が出来る教師の確保について問題になっていることも多いようだが、これについて日経新聞の教育欄に、神奈川県津久井町の串川小学校の佐藤先生が良いことを書いておられる。

 佐藤先生のコンピュータ教育(と言うのかどうかわからないが)とは、あらかじめソフトが組みこまれているパソコンを子供達が自由に触れるように置いておいて、「電源の入れ方、切り方」程度を教えておくだけである。
すると、子供達は先生の指導を受けなくても、自分たちで使い方を発見して、みんながそれを教えあってどんどん使えるようになってしまう。そしてコンピュータ・システム管理やネットワーク管理までこなしてしまう天才的な子供も現れると言う。「発見」、「まね」、「教え合い」を通して自然に学んで行くと言うわけである。
そこでこの考察を通して佐藤先生は、総合学習に求められるものについて3つの要素を述べておられる。

 その1は、
「子供の学ぶ力の見極め」である。子供は大人に教わらなくても学ぶ力を持っており、大人がむやみと教え込むことによって,子供の学ぶ力を奪っている。

 その2は、
「大人と子供の学び方の違い」である。“発見(思考錯誤による)・まね・教え合い”は子供特有の学習の仕方であって、大人は論理的にしか学べない。

 その3は、
「学ぶことを子供の世界のものにしていく演出」である。これが最も大切なことで、バソコンを子供たちの管理で自由に使えるように任せることであろう。遊びの延長線上にコンピュータというものがあると言える。

 これらの事実については、子供を持つ親は誰でも分かっていることであろう。私達の子供もそうであったが、私の2才の孫もそうであった。私がインターネットをやっていると自分もやりたいと言ってきかない。果ては、私の膝によじ登ってきてキーをムチャクチャに叩き始める。これには閉口して、ついにワープロを彼のものとして使用することを許可した。とりあえず、フタを開いて電源をON、OFFすることを教え、簡単なキーの押し方と画面の関係を見せておいた。
 すると、自分のコンピュータができたことにご満足で、遊びに来るたびワープロを引っ張り出して、言われた通りキーを叩いて画面をのぞきこむ。そのうち、別のキーも叩いてみはじめる。すると、色々な画面が現れるので面白く、ついには違う使い方を発見し、私に教えてくれるようになった。多分文字が読めるようになったらワープロも使えるようになっているかも知れない。しかし、彼の親は決して彼に自分のワープロやパソコンを自由には使わせないだろうなぁ。

 大人になるとこうはいかない。どのキーを押すとどうなるのか分からないと手も足も出ないのである。子供は身体で考え、大人は頭で考えるという思考形態の違いが、長い間の学校教育の結果で身に染み付いてしまっているのであろうか?
教育と学習の意味を改めて考えさせられることではなかろうか?( Jan. 16. 2000 )


 中教審(中央教育審議会)の文相に対する答申の中間報告によれば、大学に対して、大学入学に際して学力の低下を防止するためには、少子高齢化による全入傾向が進む中で大学側の定員充足のためだけに入学させることをやめさせると言うことを強く打ち出している。しかし、この考え方は学びたい者が学ぶと言う“教育の機会均等”を阻むものである。学力低下の問題は、初等中等教育において中学校での教育が高校への入試対策としての受験主体の教育に変化していることも、中学校での基礎教育の充実を阻害させているのではないかと思われる。

 NHKの「教育トゥデイ 日本の大学は危ない」の放送番組でも、大学1年生5000人の調査で、中学で学んだはずの分数の計算が出来ないことが指摘されている。また理科系の大学生に物理の基礎が出来ていなくて、大学で物理の補修授業を行っているところが増えていることは、高校での基礎教育が十分行われない理由として、大学入試に際しての受験科目の選択制によって、必要な学力よりも受験突破のための一時的な勉強だけが目的となっていることの弊害ではないかと思う。

 私が働いている会社でも、若い新入社員が「学校で習ったことが何んにも役に立たない。学校で勉強することは無駄じゃないのかなあ」とぼやいている。私は彼に「学校で学習したことは、ほんの基礎的な知識であって、それを仕事にどう活かすか、それ以上にもっと勉強して役立たせるようにするかは、君の努力次第であり実力だよ」と話している。

 昔と違って、新入社員の面倒が十分見られないほど社員の数が減って、それぞれが連携無く仕事に追われている現在の企業では、受験競争にばかり明け暮れ自主的な学習に不慣れなため、あてがわれた仕事にどう対応して良いか分からず、相談することもできず、ひどいときには入社2日目から不登校ならぬ不出社となって、ついには“自分にはこの仕事は向かない”と辞めてしまうのが現実である。これを一概にフリーターの時代とマスコミは喧伝するが、その本質はリストラに専念する企業の実情と、わが国の教育の根源に関わる問題であると考えている。

 今回の中教審の中間報告から推測される大学改革については、大学生の学力の低下や初等中等教育の充実と言うよりは、むしろ入試選抜方法や受験教育をどう改めるか、学校教育をどう考えるかが重要で、単に大学が就職のための肩書きとなること自体を改めないと改善されない問題であろう。そのためには逆に、学びたいものは自由に大学に入学できることこそ必要なのではあるまいか? 多分、大学の権威を云々する人々にはガマンならないことかもしれないが、これこそ学校教育の位置付けの問題と思うがどうだろうか?( Nov. 4. 1999 )


 NHK教育テレビ連続放送していた「教育トゥデイ 不登校13万人の衝撃」で、国際文化センター所長(臨床心理学)河合隼雄さんのお話を聴きました。不登校には、いくつもの理由があって、それぞれについて良く考える必要があります。不登校が必ずしも悪いばかりではなく、不登校の必然性があるのだと話されます。親にして見れば、世間体もあるし、不登校は悪いと頭から決めてかかっているところがあります。不登校の中には、軽い気持ちで「俺も一度やってみるか?」という者もあるし、考えることがあってしばらく不登校でいたいと言う者もいる。親や教師が尻をひっぱたいて容易に登校するような生徒はあまり問題ではないが、もっと深刻な不登校については、それぞれのケースに応じてよく考えなければならないし、むしろ不登校がその子供達にとって必要な行動であり、そういう行動を取らざるを得ない現代の学校教育だとか、社会構造に問題があって、それらの原因の一つ一つをつぶして行く必要がありそうだと言う。

 子どもたちの心は、ちょうど毛虫が蝶になる間に蛹である期間があるように、子どもたちはその期間に蛹の中で動けないでじっとしているか、あるいは爆発して暴走するかどちらかの状態にある。悪いことに、外から蛹を突っついたり、開いて中を覗いたりする大人がいることである。
 学校では、先生が決まりきった事を教える事ばかりが先で、創造性のある、ゆっくり考えて違った答えを出そうとする子どもは疎外されている。ゆっくり子どもの答えを待つ事が出来ない。やはり学校を改革する事が必要で、現在そういう動きが出てきている。先生が変わるためには、現在の考え方に固執しないようにスクールカウンセラーと先生が話し合う事で気づくことができる。

 親はどうかというと、ほとんどが子どもと向き合っているのはお母さんで、しかも暇も金も十分にある。子どもが自立的になってくると父親との関わりが重要になってくる。他人の子どもたちも、周りの大人たちが関わった方が良いと言う考えがあるが、大人たちがみな同一の価値観を持っているとよくない。いろんな価値観を持った人が大勢関わった方がよい。それに子どもに問題が起こった時に、それから逃げないで課題をもらったとして受け止める事が大事で、常に親子が一緒に食事をしたり、話をしたり、行動を共にする事も大切で、特に子どもの話をゆっくり聞いてやる事が肝心だ。

 何しろ今は、日本の文化が変わりつつある時期で、子どもが何を訴えているかを良く考えてみる必要がある。不登校だ! 不登校だ! と世間もマスコミも騒ぎ過ぎで、もっとおおらかに長い目で見る必要がある。夫婦でよく話し合う事も必要だし、もっと子どもと一緒に悩む事の出来る親であってほしいですね。
と言うことだそうです。( Oct. 17. 1999 )


 大学生の学力低下について大学の学長のアンケートによって指摘されている。一体、大学生に必要最小限の学力とは何だろうか? 日経新聞の調査によると「読み、書き、そろばんの基礎学力の低下が著しい」あるいは「他人とまともな会話が出来ない」等と言う社会性の欠如も憂慮されている。
 しかし、少子化が進む中で、中学から高校への全入を過ぎて、高校から大学への全入の流れは止めようが無い。学長や教授の学生時代には、多分、大学へ入学するには相当の学力を要しただろうし、大学も今より少なかったのではなかろうか? 大学に進学できるのは、金持ち(?)の子弟か、高校での学力優秀な生徒であったに違いない。つまり、学力優秀な生徒でなければ大学に進学できなかったに違いない。
この事は、高校についても言えることで、私たちが高校へ進学する頃は、工業高校へ入学するには中学の学業成績が10番以内でないと受験できなかった。
 しかし、現在は生活水準も向上し、経済的にも裕福になって、高校全入は当然の時代である。ここで平均学力を云々しても始まらないのではないか? また、コミュニケーション能力についても、電話、ファックス、インターネットの普及と核家族化や少子化あるいは自動販売機の普及などによって、対話の機会が少なくなってきており、社会性の欠如と言う点でも当然の結果のように思える。

 しかしながら、大学生を受け入れるのは大学側であり、どのような資質の生徒を選択するかは大学側の意志決定にある。また、必要なら大学に入学してから必要な能力を開発するのも、大学側の責任でもあり義務でもあると考えるのは間違いだろうか? もしも、高校での教育で問題があるとしたら、高校と協力して必要な学力を履修できるように改革するか、大学入学時に必要な評価をして受け入れるべきだと思う。確かに、大学受験者の学力が受験突破のための学習に偏っているとは思うが、人の能力はやり方によって幾らでも引き出せると思うし、よしんば大学側の言う必要な学力が無くて運良く入学できた場合は、単に進級するのが遅れるだけではないかと思うのは早計か? 大学を出たから“優秀な社会人”になれるという保障はどこにも無い。それよりも大学で必要とする資質あるいは能力(学力?)が何なのかを明確にすることこそ必要なのではなかろうか? 頭でっかちの人間ばかり量産しても始まらないと思うのだが。( Aug. 29. 1999 )


 新学習指導要領「総合的学習」が、2002年度から実施される。一体「総合的学習」とは何ぞや? というのが一般的な受けとめ方らしい。何とか新しい教育方針を打ち出そうとして、文部省は、やたらと解釈の難しい課題を教育現場に押し付けようとしているように見える。もともと頭の硬い学校現場や教師達は、教育改革と言う錦の御旗を見て、その方向さえも定まらず、誰かがその方向を示してくれるだろうと期待し、右往左往しているのが実情ではないだろうか?
 あまり難しく考える必要も無い。今までの学校教育、特に義務教育では、文部省より示された指導要領に沿ってカリキュラムを消化するのに精一杯だったに違いない。そのため「学習」がおろそかになって「知識の詰め込み教育」になってしまっていた。と考えるのが妥当ではないだろうか? それから考えてみて、総合的学習とは、今までの各教科別の縦割りではなく、横断的に関連付けて学習する。と考えれば良いような気がする。

 「横断的学習」とは何か? これには2つの意味がある。1つは、各科目を関連づけると言うことと、もう1つは自学的学習を指導することであろう。前者は、もともと各科目が独立にあるものではなく、お互いに関連しているわけで、数学は社会にも関連し、理科にも関連がある。これをそれぞれ単独に切り離して学習してみても無意味であろう。それでは後者の自学的学習とは何ぞや? と言うことであるが、生徒が自から課題を見つけて学んでいくと言う方法を教師と共に実践することであろう。

 これらは何も目新しいことではない。諸先輩の教育者達がいろんなやり方で実践されてきたこと(文献参照)にほかならない。今も各地区の学校で実践されつつある自然に学ぶ教育実践として、例えば「ビオトープ教育」がある。詳細に付いては、文献を参照してもらいたいが、いわゆる「センス・オブ・ワンダー」即ち、レイチェル・カーソンの言う、自然から学ぶことが出発点にあるのではないだろうか?

 正解は1つではない。それぞれの考え方、見方によって色々な解を見つけ出すことが出来る。自分の解を見つけ出すことこそが学習することである。そしてそれを生徒と共に教師が実践することこそ「総合的学習」ではなかろうかと考える。そうすることによって初めて学習することが楽しくなり、心に「ゆとり」が生まれ、生命の大切さも自然に学ぶことが出来るのではないだろうか? ( Jun. 14. 1999 )


 また文部省がわけのわからないことを発言していますね。「塾」を教育の場として見直し、義務教育の補助機関として位置付けるってことですかね? 「学校で面倒見切れない児童は、塾を利用して下さい」と言うわけでもないんでしょう? もしそうだとしたら「塾」に補助金や助成金を出すって言うんでしょうか? あるいは、文部省指定「塾」などと言うものが出来るんですかね? そうなら、お役所的発想で面白いですね。

 教師の質の低下を塾で補うと言うことならとんでもない考えですね。子どもには、勉強(無理して知識を詰め込む)ことよりも、自然を介して自発的に学ぶ(学習する)ことが大切なのではないでしょうか? 
教師は、教えることではなく、共に学ぶことが大切でしょう。知識の詰め込みでは、理解の速度が遅い子が不利になります。また、知識だけの詰め込み教育は面白くありません。受験教育だけで育ってきた知識偏重教師を再教育する必要があります。そのためには、文部省自身が教育に対する信念と目的意識をしっかり持たなければなりません。
義務教育制度そのものの必要性までも再検討する必要があるのではありませんか?

 「学校で習った事が、大きくなってから何の役に立つの?」と言う質問に自信をもって答えることができるでしょうか? これに答えることが出来る時、本物の教育と言えるでしょう。( Jun. 3. 1999 )


 小中5・4年制を提言。自民党教育改革本部の義務教育研究グループだそうです。中学校の暴力事件や不登校を解消するには、現在の中学3年制ではクラブ活動などに十分に慣れる時間が少なく、社会性の育成効果?が十分でないとの見方らしい。
 ここで小学校から中学校への移行による慣れに問題があるというなら、義務教育制度改革については、いっそのこと小中学校を一貫して初等学校とする方が良いのではないか? 、しかし、そのことによってゆとりが出来、イジメや不登校が解消できるとはとても思えない。

 NHKテレビの「インタビューズ・世界の知性からのメッセージ」を見た。各界の有名人の若い世代に送るメッセージは、教育とは人に対する愛情であり、生きるとは、自らが自らの興味のあることに情熱を傾けることだという。

 例えば、世界的なチェロ奏者、ヨーヨー・マさんは、小さいときから音楽の英才教育を受け天才とまで言われたが、成長してから、決められたレールの上を自分の意思で無いのに走らされることに疑問を感じ、自分の意志で音楽とは関係無くハーバード大学に入り、そこでの広い世界に開眼する。むろん好きなチェロはそこでも活躍するが、他人の評価を受けるためにチェロを演奏するのではなく、好きだから弾くのだという。英才教育をも否定する。自分の興味のあるものを自分の意思でやりとおすことが大事なんだと言う。

 また、写真家で詩人でもあるゴードン・パークスさんは、極貧の中で立派な写真家となれたのは、両親の子供に対する愛情(慈しみ)や兄弟の愛情に包まれていたからで、非行に走ることも無かったし、ドラッグに頼る必要も無かった。人が人らしく育つのは愛情があってのことで、他人への愛情や人種を越えての愛情が大切である、という意味の事を述べられている。

 言うまでも無く、教育の根本は愛情であり、自分達の子供だけへの偏った愛情ではなく、他人との比較で評価するものでもない。教育の結果は誰かの評価で決まるわけではないと思う。自分がどう生きたか、自分の評価で決まることではなかろうか。自分自身の評価が厳しい人もあろうし、また、甘い人もあろう。でも、それはどうだって良いと思う。自分さえ満足であったなら。( Apr. 17. 1999 )


 NHKの放送記念番組「学校が好きですか」を録画して、一人でゆっくり見ました。これはNHKが放送している「中学生日記」に出演するオーディションで選ばれた生徒達から「理由無き不登校」についてジャーナリストの江川紹子さんが話を聴いているものです。

 江川さんの対話はとても巧みで、相手の話をむりに聞き出すのではなく、聴いていることです。普通、私達は子供の話を聴くとき、どうしても自分の主観が優先してしまいます。不登校に理由がないはずは無いと断定するところです。しかし、不登校の南部値里さんは、学校にも、友達にも、先生達にも、何の不満も無く学校に登校しないで自分で好きなことを勉強しているそうです。他の生徒達の中にも不登校経験者やいじめの経験者がたくさんいます。

 それらの話を聴いていると、問題の難しさがわかってきました。いろいろな理由が浮かび上がってきます。親にも相談できないこと。先生が無関心であること。不登校することが悪いことだと決めつけていること等。現在の義務教育の抱えている問題点というよりも、現代社会の抱えている問題点と言ってもいいのではないかと思えます。

 私の経験では、競争がいじめや不登校につながることはありませんでした。毎朝、授業が始まる前に、担任の先生がソロバンの競争をやらせます。読み上げ算を何題もやるうち、一人また一人と脱落し、最後に残るのは私ともう一人、中村さんと言う女子でした。二人の一番争いはかなり熾烈で、私が負けるほうが多かったのです。クラスのみんなは、この二人の競争にかたずをのんでいて、私が勝った時には、男子はみんな大喜びでした。競争はゲームと同じだったのです。無論、私以外の男子が勝つ時もありましたが同じです。

 いじめも有りましたし、先生が理由も聞かずに、私の頭を教科書で叩いたりしました。手でなく、教科書で頭を叩くことは許せない行為でした。50年経った今でも許せません。しかし、現在のいじめや先生への不信感は、私達の時とはかなり違うことが分かりました。

 南部さんの不登校は「自分は学校へ行かなくても、みんなに(勉強は)負けないんだ」という意地みたいなものが不登校につながっていることを、自分でもだんだん分かってきたように思えた。いろんな人と話し合うことにより、人の気持ちもわかり、自分の気持ちも明確になるので、コミュニケーションがいかに大切なことかが良く分かった。
 教育の問題は、本人を含めて親の接し方や考え方が、とても重要であることを改めて感じたし、学校が楽しいところでなくなっている現実もよく分かった。( Mar. 28. 1999 )


 文部省から高校の「学習指導要領案」が公表されました。それによると科目の削減とともに、卒業に必要な取得単位数が80から74に減少し、必須科目を38から31に減らして、選択科目を大幅に拡大したようだ。専門学科では、180科目から151科目へ減少する。ゆとりを持たせるために科目数を減少させ、選択の自由を増やして個性を伸ばそうということなのだろうか? 職業高校は別にしても、高校が大学の予備校化していることは確かではないのか? それとも、進学者は予備校で勉強しろ! ということか?
 それよりも何よりも、義務教育ではない高校に、文部省のお節介(失礼!)の「学習指導要領」が幅を利かしているということに驚いた。こんなことは各高校に任せておけばいいじゃないの? 「ゆとり」とは、自然の営みや季節の美しさを愛でる感性と、他人を思いやる心を持つことだと思うが?( Mar. 2. 1999 )


 文部省が「子育ての教科書」を作りました。その名も「家庭教育手帳」と「家庭教育ノート」。先のものが乳幼児を育てるためで、母子手帳に沿えて配布する。後のものは小中学生を持つ保護者に配布して参考にしてもらうと言う。保母さん向け、教師向けのものは無いんですかね?
 お上のお節介もここまでくればアッパレというほかないですね。子育て(教育)に関心を持っている親なら、そんな必要も無いだろうし、関心が無い親に「子育ての教科書」を渡したところで、見るわけ無いんじゃないの?
 文部省がやっていることは、問題になっている親の過保護と全く同じことではないの? 『文部省がやらねばならないこと』は、もっと別なことではないの? 現在の義務教育制度の問題点を洗い出し、教師と児童が楽しく学習できるような教育環境を作り出せるように考えることではないの? 受験中心の教育にならないように、学力(大器晩成ってこともありますからね)や内申書(これは何のためにあるんですかね?)での差別が行われないように、子供の人権が侵されないような教育システム造りこそ、文部省でしかやれないこと、ではないかと思うんですがね?( Feb. 15. 1999 )


 テレビ朝日の第13回民教協スペシャル「学校に行きたい 〜無着成恭の50年〜」を見ました。年配の方には「やまびこ学校」の無着先生と言えばお分かりでしょうか。

 敗戦直後の学校は、ほとんど教科書や教材も無く(タプロイド版に印刷された数ページしかない理科の教科書を、今も私は大切に保存しています)、授業は教師の裁量に任されていました。1951年、青年教師無着成恭は山形の山村の小学校で、一人一人の個性を大切にした「やまびこ学校」の実践を始めます。一人の「なぜ?」を、学級全体の「なぜ?」に発展させたのだそうです。そこでの文集「やまびこ学校」が注目を集めることになります。

 現在の学校では、個人の「なぜ?」は無視されているのではないでしょうか? そして、義務教育が文部省の教育方針による管理下で、今までのような教師の裁量による部分が無くなってきて、その結果児童の個性の差が学力の差として、いわゆる落ちこぼれが問題となってきたのでしょう。
しかし、その頃はまだ高校や大学に進学する人は極めて少なかったために、現在のような受験競争による歪みは、ほとんど問題にはならなかったが、多くの立派な先生方(教育者)が新しい教育実践を行われ、その先達に無着先生の「やまびこ学校」(著書は角川文庫、むぎ書房などから出版されている)があったわけです。のちに明星学園に移られますが、ここでも見るべきものがあります。(文献参照)

 1994年にカンボジアの首都プノンペンに「山びこ小学校」を設立します。現在の教育の荒廃を憂い、敗戦後の日本のように、内戦によって荒廃したプノンペンで、改めて「やまびこ学校」の実践が正しかったのかどうかを検証したいということと、外から日本を見るという視線で教育問題を考えるためだそうです。もう71歳になられるそうですが、「やまびこ学校」時代の情熱は衰えていません。心強い限りです。現代の青年教師達よ、負けてはなりませんぞ!( Feb. 14. 1999 )


 岡山県で開催された日教組の第48次教研集会では、小中学校での学級崩壊の問題が大きく取り上げられたようであるが、この辺りの中学校でも、子供の暴力、いじめ、窃盗、喫煙などが問題化しており、高校生の喫煙を止めさせようと必死になっている私が、最近自転車でタバコをふかしながら走り去る高校生に手を焼いて、駐在のお巡りさんに相談に行ったところ「中学生の非行の問題で、高校生まで手が回らないよ!」との言葉に唖然とした。

 日教組の集会での報道によれば、先生方の自信の喪失が目に見えるようで気の毒な感じはするが、教師が何をすべきかは昔も今も変わってはいまい。変わっているのは教師自身であって、もう一度、教師という職業は何なのかを考えてほしい。確かに親が悪い、社会が悪い、子供が悪いと他人を批判することはやさしい。しかし、他人を変えることは難しい。自分自身が変わることで他人も変わってくることを心してほしい。

 先日,帰省して妻の実家で、妻の兄達(長兄は中学校の校長であったし,今も教育委員会で子供の非行や暴力問題で苦労しているそうだ)と今の教育現場の問題について討論した際、次兄は「子供が悪いのは、今の親が甘やかし過ぎのせいで,親を教育しなければダメだ!」と言う。
言っていることは間違いではないが、教師が親を教育する義務も責任も無い。学校の中で起こる問題の解決は教師の責任でもあり,解決する義務もあると考える。子供の言い分を聞くことも良いが,必ずしも子供が正しいとは思わないし、子供の考え方の背景には必ず親の姿が見える。教師は,教師として毅然たる態度で、愛情深く子供に接することが必要で、かつ社会情勢を踏まえて教師の役割を良く考えて、尊敬される教師たるよう自分自身を高めることだろうと思う。教師だけで子供の問題全てを解決できると思い上がらないことであろう。

 親の問題は、現在の子供が次世代の親になるわけであるから、やはり子供の教育は重要である。また、親は、自分中心の生活から脱皮して,子供中心に(甘やかすことではない)お金よりも愛情主体の生活に変えることが必要であるし、現代の義務教育制度が時代に合わなくなってきている面もあるので、学校制度の改革も必要なことは論を待たない。更に、企業自身も(マスコミの影響も大きい)儲け至上主義を改めて、人々を幸せにする、即ち社会に貢献する文化を育んでいかなければならないだろう。だから教師一人の問題ではなく、それぞれの立場で出来る努力をすることしかないと思う。

 1月24日付のワシントン・ポスト誌に日本の学級崩壊の問題に付いて報道されているというから、外国から見た日本の問題として参考になることもあろう。( Jan. 27. 1999 )


 「BS討論 大学は生まれ変われるのか・大学審議会の答申」を見ました。そうそうたる学長、教授陣による討論でしたが、結論が大学側の教授自身の質的問題と大学の経営戦略に帰すると言うのは、少々物足りないと言うか無難な結論になってしまいましたね。
 大学改革を、大学自身の変革と捉えるのではなく、小中高校の延長線上にある教育の問題と捉えることで、大学入試、大学内の授業・研究そして社会に有用な人材として送り出す過程の問題と捉えて見るほうが的確なのではないかと感じた。

 現在の大学入試が、いたずらに無意味な競争として存在し、入試をパスすることが大学へ入る目的になっていて、大学へ入ったら安心して遊学と言う状況を生み出しているために、入学を無試験にして、卒業を厳しくする、即ち入り口を広く、出口を狭くと言うのは、あまりにも安易過ぎる考えのように思える。
 また、確かに教授連の無味乾燥な授業が、学生の学習意欲をそいでいると言うこともあろうが、それよりも現在の大学進学率を考えると、大学生の質的な面が昔とははるかに違ってきているし、生活環境の変化が個人の価値観や考えの多様化を生み出しているので、大学自身の存在価値も昔のものとは違ってきていると思う。
 現在のシステムでも学習意欲のあるものは、それなりに学習しているので、中学・高校で、学習する方法よりも試験をパスするためのテクニックしか学んでこないのではないかとも思える。

 また、少子化により次第に進学者が減少していくであろうと予測すると、また違った面で大学をはじめ学校教育の問題を考え直さなければいけない気がする。また、大学は社会への入口に最も近いため、自ずと企業との関係や連携も必要になってくる。企業の姿勢の影響を受けやすいため、それらの問題も決して無視しては通れないだろう。
 いずれにしても大学の改革は、社会の構造と小中高校を通しての教育の問題と併せて考えてほしいし、単独に大学内の改革(入試を含めた)で解決できる問題とは別に考えてほしいと思った。( Jan. 17. 1999 )


 正月早々負うた子に教えられました。と言うのは正月には子供たちが帰ってきて、恒例の酒盛りが始まり徹夜で討論しますが、今回は孫の躾についてわたしが長女に厳しく説教するのを聞いていた長男がこう言いました。「お父さんは、躾が悪いと言うばかりで、どうしたらよいのかを伝えていない。彼女はどういうふうに躾たら良いのかわからないのだから、具体的にこうしたらどうかというべきではないか。」

 これには、ぐうの音も出なかった。確かに孫の躾の悪さを非難してはいるが、躾の仕方について具体的な提案をしていない。だから、一生懸命躾ているつもりの長女にはどこが悪くてどうすれば良くなるのか分からなくて、更にストレスがたまるだけなのだ。

 これだけではないのだ。
  長男−−−お父さんは、親の学歴信仰が子供を受験戦争に駆り立てて、
       世の中を悪くしていると言うが、言うだけでは解決はつかない。
       学歴がどんな結果になるかを証明しなければ、世の親達の学歴
       信仰はなくならない。
  私−−−−じゃあどうすれば良いのかね?
  長男−−−それは一流大学を出た人達のその後の結果を公表することだよ。
  私−−−−そんなことは到底できっこないよ。
  長男−−−具体例がなければ単なる仮説に過ぎないよ。        世の親を説得できないし、教育を変えることは出来ないよ。
 正論である。まったく、何時の間にか子供は親を乗り越えていってしまっている。私の教育論議も砂上の楼閣に過ぎないのだ。しかし、「沈黙が金」でないのも確かだろう。間違ってはいても声に出さなければ、また批判を受けなければ正しいかどうか分からないのだから。

 NHK教育テレビのETV40周年「日本の学校・ここを変えて・21世紀に生かせ子供たちの声」を見た。子供たちの発言の背後に親達の影が見えてがっかりした。内申書批判にしても、学校教育に対する要望にしても、結局は高校入試、大学入試を自分に有利にするための要求に過ぎないのではないか。本当に学歴信仰がこの子供達の呪縛になっているとしたら、長男の言う通り学歴信仰を払拭するための証明が必要なのだろうか?

 少なくとも、私の元の会社では、中学を出て夜間の定時制を卒業した課長さんもいたし、私と同様高校を出ただけで部長さんや取締役になった人が何人もいました。確かに大学卒の管理職は多いかも知れないが、大学卒でも平社員のままで定年を迎える人の方がはるかに多いわけであるから、やはり学歴社会と言うのは幻想で、実際は実力社会なのだろうと思う。

 私自身は家庭の経済状況と自分の進みたい方向を考えて高校を選んだし、子供たちの進路も自分で決めさせた。(しかし、長女が大学に進学するときには、私立に行きたいと言ったが、長男が在学中で経済的に無理だったため国立しか許さなかったが)末っ子は、近所の奥さん方からバカ呼ばわりされていたが、自分に相応な高校に行って、大学も自分の実力相応な大学を選び、お正月にもらった自分のお年玉で受験料を払って、自分の行きたい大学へ親の知らぬ間に受験し、運良く入学していた。それは、たまたまうまくいつたんだと言われるかも知れないが、自分の人生は自分で選択するしかないと私は思っている。( Jan. 10. 1999 )


 文部省が10年ぶりに小中学校の学習指導要領の改訂を行う。それによれば教育内容を3割方削減し、教師の自由度を増し、教えることより考えさせることに重点を置くとある。一応もっともではあるが、果たしてその社会環境は整備できているのであろうか? 教師自身にそういう事を望んで実現できるのであろうか? 義務教育以降の高校の受入態勢は対応できるのであろうか?

 今まででも、これらの考え方で授業を行ってきた先生方は数多くいられる。それが可能にならなかったのは、上級学校の入試にどうやって対応するかにかかっている。多分親達が黙ってはいまい。義務教育が上級学校への進学塾と化しているからに過ぎない。ただ単に義務教育の中の学習指導要領だけを変えてみたところでどうにもならないのではないか? 義務教育と言うシステム自身を見直し、現在置かれた社会環境の中で必要な改革を行うか、あるいは義務教育の改革に見合った社会環境を整備していくしかあるまい。
例えば、高校無試験入学、学区制の廃止、小人数学級の実現等思い切った改革を必要としてはいまいか? ( Nov. 21. '98 )


 社会経済生産性本部(日本生産性本部と社会経済国民会議とが統合したとある)が「選択・責任・連帯の教育改革−−学校の機能回復をめざして」という教育改革に関する中間報告書を発表した。
 詳細な内容は分からないが、新聞によれば、
   1.小、中、高校改革では、
     (1)学区の廃止。(良いことだよね)
     (2)学校経営に対する校長の権限強化。
     (3)成績の評価を相対評価から絶対評価に。(ちょっと難しそうね)
     (4)義務教育の見直し。(当然見直すべき時期だよね)
     (5)高校入学は無試験に。(良いことだよね)
     (6)高校学力検定試験の創設。
   2.大学改革では、
     (1)学生定員を廃止し入学試験を無くす。(入るのはやさしいが、出るのを難しくか)
     (2)学費コストに応じて学費を上げるが、奨学金を充実させる。
     (3)大学の流動性、機動性を高める。(?)

と言うような大胆な提案がなされている。全てをなるほどとは思わないまでも、今の教育を改革するためには、これ位の大鉈を振るわないと改善されないような気もする。単に制度面だけで解決は出来ないとは思うが、この案が文部省や、それに関連する官僚側でなく、民間側(企業主体)から提言されていることに意味がある。( Aug. 23. '98 )


 教育課程審議会の審議のまとめを見ました。カリキュラムの改訂は授業時間数の削減により暗記偏重を無くすとあるが、何ともよくわからない。確かに教科の自由選択性は増えるが、それが次の段階(高校から大学進学への)も考えてのゆとりとも思えない。週休二日と授業時間の削減分を塾での勉強に当てろと言うことか? 
 教育課程の審議をすると言うなら、現在の受験システムの改訂を含めて考えないと「絵に描いた餅」になることを否めない。またこの改訂に対して教育現場の教師の対応に問題ないのかも十分検討しておかないと、理想と現実のギャップに苦しむことになろう。

 また別に、青少年問題審議会の中間報告の記事も見ましたが、これなども教育課程審議会で考慮すべき問題も含まれており無関係ではない。家庭や学校、企業、情報メディア等が連携して取り組むべきであるとしているが、具体的にどうするのか来年7月の最終答申が楽しみでもある。中間報告をもとに、良いと思われることは出来るところから一日でも早く実施に移してほしいものだ。( July. 19. '98 )


 中教審の中間報告の要旨を新聞で読みました。要するに「躾を家庭でしっかりしなさい。悪い番組のテレビやビデオを親の判断で見せないようにしましょう。番組を年齢に応じて区分し、子どもに不適当な番組は表示するか、外国で導入しようとしているVチップ(例えば不良番組は自動的にハードウエアがカットする)の導入を検討すること。道徳教育を充実するとともに問題が発生した場合に警察などの公的機関の協力を仰ぐこと。」だそうです。

 何処にも子どもの人権尊重の精神や具体的な提案は見られず、一般論に終始しています。はっきり言って、教育現場を見ずに学者さんとお役所の仕事の結果と言えるでしょう。かたや国会では少年法を改正して、適用年齢を引き下げ犯罪者としての扱いを強化しようとしていますし、学校に対してナイフなどの危険物の所持検査を強化するように指導しています。

 これは明らかに青少年の保護・育成や人権擁護の思想が欠けています。悪いのは不良出版物やテレビ等のマスメディアでの不倫・セックス・暴力を野放しにしてきた大人社会の責任ではありませんか。これらを正すことが一番必要なことではないのでしょうか。また教育現場での自由と、受験教育に偏った知識教育の歪みを無くすために、文部省が学校制度の改革に真剣に取り組むことが重要なのではないでしょうか?

 犯罪者を罰することを強化するだけでは何も解決しません。学校自身、教師自身、文部省などの関係機関自身が変わらなければ何も変わりはしません。他人のせいにしてはいけません。何よりも自分自身が変わることです。他人は変えることは出来ないのです。( Apr. 2.'98 )


 「小原教育」と言う本に偶然出会いました。そして何と言うか心から震えるような感動を覚えました。すでに昭和の初めから現在に至るまで、一貫して個性的な教育を実践されてきている玉川学園の存在を知りました。

 この本との出会いは、私がたまたまパートタイマーで勤めはじめた社員10人ばかりの小さな会社の食堂の片隅の書棚の中に見つけました。この本は個人の蔵書の一部だそうですが、どうしてこのような本をお持ちなのかご本人に尋ねてみましたところ、お子様が玉川大学に入学したいとのことで、親としてその学校がどんなところか知るために、当の大学を自ら尋ねられて購入されたとのことでした。この子にしてこの親あり。脱帽です。私の拙い教育論議が全く恥ずかしい次第です。

 小原教育を一口で説明することは難しいのですが、誤解を恐れず述べれば、その根幹に、学問・道徳・芸術・宗教・身体・生活があり「個性に応じて自ずから学習する(自学的学習)。自然から学び体験により学習する(労作教育)。音楽、演劇、美術などを通して感性と創造性を育み、心身共に健全な人格を育てる(全人教育)。そのために生徒と先生がお互いを通して学び成長すること」と言えないでしょうか。

 小原教育実践のすばらしいことは、もう一冊の「玉川学園高等部 全人教育の実践」に実践の結果をまとめてあり、そこで小原教育の問題点と課題が提起されているところにあります。これほどまでに真剣に教育問題を考え、実際に取り組んでこられたことに敬意を表するとともに日本の全ての教育関係者にこのような信念と取り組みを心から希望しています。

 青少年の非行、犯罪について、ナイフなど危険なものを所持していないか持ち物検査をする。犯罪者として糾弾する。法律で厳しく規制するという逆の方向に進みつつあるように思います。しかし、変えることが必要なのは、大人自身であり、大人社会の価値観であると思いますし、自分が変わらなければ、相手を変えることはできないのです。

 文部省が変わること、学校自身が変わること、教師自身が変わること、そして親自身が子供に対して変わることこそが青少年の健全化へのキーとなるでしょう。更に付け加えれば、儲け第一主義の、マスコミを含めた社会を形作るあらゆる企業の経営者自身が変わらなければ、健全な青少年の育成は出来ないと思います。( Mar. 15 '98 )


 ニューズウイーク誌で幼児教育について取り上げられた「0歳からの教育」が、昨年の暮れ12/22にニューズウイーク日本版別冊として発売された。内容については、特に論じることでもないが、日本の幼児教育について昔から言われてきたものと大差無いが、幼児教育について米国が、今、直面している問題が何かをここに見ることができる。ひるがえって日本でのばかげた高校、大学入試戦争に対して、子供の教育の原点としての幼児教育が、本当に正しく行われているかを、改めて問いかけるものとして、是非一読をお薦めする。( Jan. 2. '98 )


 公共学童保育所を作ることを決めたというニュースを聞いた。またまた国のお節介で公費の無駄使いか。そもそも学童保育というのはなぜ必要なのかということを十分論議しなければいけない。

 最近、親が子供を育てるという基本的な責任と義務を放棄し、自分がやりたいことをやるという権利主張が優先しているように思う。少なくとも義務教育までは親の責任で育てる義務がある。但し、児童を何処かへ預けないと生活が出来ない貧しい家庭の人達の救済策は別であるが、平気で子供の保育を他人に任せて、仕事に(稼ぎに)生きるという安易な姿勢は、古い親の立場として次世代の子供たちの行く末が案じられてならない。

 子供の権利はどう擁護されているのだろうか? 古い考え方と笑われようが、子供が安心して育つためには、親の親身な世話が必要なのだ。金には代えられない愛情なのである。「子育てだけでおわりたくない!」と言う声が聞こえてきそうであるが、自分達も子供を生むまでに十分自由に過ごしてきただろうし、子供達が独立してからでも自由は得られるではないか。次世代を育てることこそが親の責任と義務であろう。
 拡大している現代の子供達の非行の実態をなんと見るか? 「俺達の知ったことか!」とでも言うか? ( Oct. 25. '97 )


 「心の教育」中教審に諮問。新聞の大きな見出しを見て、またか!と思いました。先の「飛び入学制度」に続いて文部省いや文部大臣は何を考えているのかよく分からない。

 教育というのは、親が子に伝えるべきことを伝え、自然から学ぶべきことを学ぶことしかないのではないか。教育者が意図して(恣意的に)押しつけることは教育と言わず、洗脳というに近い。問題は、学校の先にあるもの、企業であり、世の中の受け入れ体制であると思う。それに儲かれば、善悪を問わず子供を食い物にする商売が成り立っていること。学校教育を見直す前に、現在大人が作りだしている社会構造こそ見直すべきではないのか。( Aug. 5. '97 )


 NHKの人間大学「子どもに教わったこと。 灰谷健次郎」を見た。
作家あるいは詩人としての灰谷健次郎を知ってはいたが、彼が教師であったことは初めて知った。教師が大人の、いや教師としての職業としてだけの、教科をこなすための物差しだけで、子供達の可能性の芽を摘み取っている危険性を身をもって体験された事実を聞いていると、私達も親として、あるいは祖父(祖母)として、本当に子供達や孫達に接しているかどうか、今更ながら恥ずかしくなってくる。

 共に学ぶ、いや子供達から教わることの大切さが、身にしみて感じられてくる。末っ子の時の担任の女先生(今でも尊敬している)のことが思い浮かんでくる。本当の教育とは何なんだろうか? もう一度考えてみたい。( July, 14. '97 )


 神戸の小学生、土師淳君の惨殺事件は、1ケ月経って犯人が顔見知りの中学生だと分かった。現在取調べ中ではあるが、犯行の原因となったのが、学校で傷害事件を起こしたため、先生から学校へ来るなと言われてそれを根にもち、学校を見返してやるため(?)に何の関係もない小学生を殺害し、その首を学校の門の前に晒した。母親はPTAの役員で、教育熱心だというし、周りの人も「おとなしい良い子だった」という。しかし、他にも小学生の女の子2人を殺傷した事件に関係があるらしいというし、おとなしい良い子の中学生が、何のためらいもなく抵抗できない弱い子の命を奪う。このような理解し難い行動をどう判断したらよいのだろう。

 こういう事件が起こると、直ぐに学校の教育の問題が云々されるが、同じ教育の問題としても、やはり家庭の教育、家庭環境、遡っては両親の子供の育て方(考え方、人生観など)に大きな問題点が隠されているのではないだろうか。

 今、周りの子供たち、中学生、高校生の日ごろの素行を見ていても、多くが、その年齢に応じた「らしさ」がなく、みんな幼稚園児と同じレベルとしか思えない幼稚な行動をとり、それぞれの年齢での自覚がまったく欠落しているように思えるのは、私だけだろうか?
 それに、子供が要求することは、何でも聞いてやる甘い親が氾濫しているのは、何故だろうか? また、勉強、勉強で、子供に能力以上の期待を負わせるのは、親のエゴだとは思わないのだろうか? 子供の人生(将来)は、子供自身が決めることではないのだろうか?

 確かに家庭の問題だけではないのかもしれない。乱れに乱れている社会構造自体の問題に対する警鐘なのかもしれない。しかし、改めて教育の原点に立戻って、生きるとは何かを考え直さなければならないだろうと思う。( July. 1. '97 )


 何だかよくわからない「中高一貫教育」を答申した中教審の真意が計りかねる。
いったい何故?中高一貫教育が必要なのか? 原因があるから結果がでてくるのではないか? 「−−−だから中高一貫教育でなければならない」という結論が出された審議過程を明確にすることが重要であろう。今、教育改革が必要だからとりあえず当たり障りのない「中高一貫教育」(昔からよく年寄りの先生が言っていたような気がするし、私立ではそんなの普通だよね!)という答えが出てきたように思えるのは私だけだろうか?

 教育の多様化が必要と考えられる時代に、本当に「中高一貫教育」が無理なく実践でき、かつ効果的なのだろうか? 従来の画一的な義務教育でさえ、もっと自由な教育方法を取り入れるように改善することを真剣に検討すべきではないのか。
 教育は教えることだけではないはず。自ら学ぶためにはどうすればよいのか? その疑問に答えることが新しい教育制度の答えであると考えるがいかがであろうか? ( Apr. 7. '97 )


 教育の問題は、古くて新しい問題である。なぜかというと教育の結果が直ぐに分からないからであろうか。自分の子供の教育にしても、良いと思ってやったことでも必ずしも良かったとは思えないこともある。しかし、現在世間で発生しているいろいろな問題を見るにつけ、聞くにつけても、やはり教育に大きな問題を抱えていることには異論がない。

 最近、橋本首相が教育改革の必要性を言いだしていると聞くが、今までのように教育改革が、単に受験システムの見直しやイジメ対策のためのシステムの見直しだけであってはならない。イジメの原因は、大人社会のイジメ、庶民に対するお上(お役人)のイジメ、社員に対する上司および同僚の目に見えないイジメ、資本と経営力にものをいわせた大型店やスーパー、ディスカウントショップ等の、価格破壊という美名に隠れた小売店に対するイジメに代表されるような、イジメの社会構造に端を発していることに気が付かなければならない。

 いま大人が、親が、子供に対して人生に何が一番大切なのかをどう認識して伝えているのか。また、それが生かされる社会なのか。あるいは教師が子供の人格をどのように認めて、どのような教育を実践しているのか、その実態を明らかにした上で教育の問題に取り組むべきだと考える。
 週休2日にして「ゆとりの教育」だという短絡的な考えはやめてもらいたい。(実は教師のためのゆとりだったりして)本当のゆとりとは、心のゆとりであって、家庭が、学校が、勉強(学習)そのものが、子供にとって安心なもので喜びを与えるものでなければならないと思う。

 ここで一応お断りしておくが、難しい教育論を展開するつもりでもないし、そのような知識もない。ただ長い人生の一区切りとして、生き抜いてきた経験から自分の考えを述べてみたい。もっと一般的な教育論を希望される方には、ごく一般的な書籍を文献として挙げておくので参考にしていただきたい。


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