% 証明

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\begin{document}

\noindent\textbf{証明}

証明とは真理や真実を明らかにする手続きである。世の中には何かを証明しなければならない場面というものはあって、そういうときは大抵「見ろ、これが証拠だ」なんて風に一つの根拠を突きつけたりするものである。そして証拠が納得できるものであれば、ふつうは丸く収まる。

しかし、数学でいう証明は少し違う。何らかの根拠を示す点は同じだが、根拠を示すために必ず前提となるものがなければならない。前提とは「公理」や「定理」などを指す。つまり、公理や定理を「仮定」した上で、証明すべきことが真理であることを示す必要があるのだ。仮定もなく、いきなり根拠だけ述べてはだめなのである。

たとえば
\begin{quote}
三角形の内角の和は$180$\textdegree \quad(※)
\end{quote}
であることを示すとしよう。中学校数学的には、三角形の底辺と並行な直線を向かいの頂点を通るように引いて、平行線の錯角に関する定理などを用いて証明するのだろう。でも、細かいことを言えば、それは単に根拠を述べたに過ぎない。なぜなら仮定が明確にされてないからである。この場合の仮定とは「三角形が平面に描かれていること」である。三角形が球面に描かれていれば(何をもって球面上の三角形というかの定義が必要だが)(※)は成り立たない。

実は(※)を仮定するところから始めてもよい。すると、三角形が平面に描かれていることが真理となる。数学の証明というのは鶏と卵の関係のようで、仮定次第でどうにでも理屈をこねられるものなのだ。

別の例では、$1+1 = 2$であることは数学的に証明すべきことだが、その証明にはいくつかの仮定がある。つまり、それらの仮定の下で$1+1 = 2$であることが証明される。だけど、もし$1+1 = 2$が真理であると仮定してしまっても困ることはないはずだ。要は、どこまでさかのぼって仮定とするか、ということである。私みたいにイイカゲンなことばかり言っている輩(やから)にとっては、ある程度下駄を履かせた位置を仮定とするのが心地よいものなのだ。

もっとも、証明や根拠など無意味なものもあるようだ。「神は存在する」と言っている人にとって、その真理を証明することがそうだ。だって、証明するための仮定なんてないと思うからだ。

\end{document}