% 選択公理

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\begin{document}

\noindent\textbf{選択公理}

数学には重要な事実に名前をつける習慣がある。「ピタゴラスの定理」とか「平行線の公理」などのように。定理と公理の違いといえば、定理は決められた定義から証明される事実で、公理は証明するまでもない当然の事実であることだろう。聞きなれないかもしれないが「選択公理」と呼ばれるものがある。選択公理は
\begin{quote}
集合 $A$, $B$, $C$, $\dots$があるとき、$A$から一つの要素、$B$から一つの要素、$C$から一つの要素、$\dots$\\
をとって新しい集合を作ることができる
\end{quote}
というもので、わざわざ公理と呼ぶ必要を感じないかもしれない。たとえば
\begin{quote}
$A =$ \{Cat, Dog, Eagle\},\quad $B =$ \{Lemon, Mango\},\quad $C =$ \{Rocket, Ship, Train\}
\end{quote}
のとき、$X =$ \{Eagle, Mango, Ship\}とできるという話で、自然な行為を言葉で表しただけにも見える。ところが、これが物議をかもすというのだから数学は油断ならない。

問題が起こるのは無限集合を扱うときである。とはいっても
\begin{quote}
$S_1 = \{x\,|\, xは自然数\}$,\quad $S_2 = \{x\, |\, -4 < x < 4の無理数\}$,\quad $S_3 = \{x\,|\, \sin x = 0の解\}$,\quad $\dots$
\end{quote}
の例なら、$X = \{6,~{-\sqrt{2}},~\pi,~\ldots\}$のように簡単に新しい集合を作れてしまうね。本当に?

実は無限集合を扱う場合は「一つの要素をとる」行為が曲者(くせもの)なのだ。いまは$S_1$からは$6$、$S_2$からは$-\sqrt{2}$、$S_3$からは$\pi$を\textbf{適当に}選んだが、その方法は条件を満たす目についた数を一つ選んだものである。だから、この先の任意の集合$S_n$からも条件を満たす、目についた数を選ぶことになる。そこで質問。それは可能かな?

可能だという人は、「$\dots$」で省略された集合$S_n$は具体的な集合として存在しているのだから、そこから適当な要素を一つ選ぶことは必ずできると言うだろう。その通りだと思う。でも、一点だけ気になることがあるのだ。それは「$\dots$」が無限にあること。無限にある集合から要素を一つずつ選んで確定することができるのだろうか。

無限であることが何かの確定を妨げているわけではない。それは、たとえば$0.142857\dots$ ---正確に表現するなら$0.\dot14285\dot7$---を考えればよいだろう。$0.\dot14285\dot7$は小数点以下が無限に連なっていても$1/7$であることが確定する。その理由は$142857$が繰り返していることが明確だからである。そのため「$\dots$部分」を無限の時間をかけて調べなくてもよいわけだ。

しかし前出の集合$S_n$から一つの要素を選ぶために、実際に集合を目にする必要があるなら無限の時間を要するだろう。もし、扱っている集合が
\begin{quote}
$T_1 = \{実数x\,|\, a_1 < x < b_1\}$,\quad $T_2 = \{実数x\, |\, a_2 < x < b_2\}$,\quad $T_3 = \{実数x\,|\, a_3 < x < b_3\}$,\quad $\dots$
\end{quote}
のようなものであれば、たとえば「$T_n$からは$(a_n+b_n)/2$を選ぶ」と決めれば、集合$T_n$を実際に目にしなくても新しい集合$X = \{\frac{a_1+b_1}{2},~\frac{a_2+b_2}{2},~\frac{a_3+b_3}{2},~\ldots\}$を作ることができる。これには有限の時間で十分だ。

もし$T_n$の実数$x$を有理数$x$に変えて
\begin{quote}
$U_1 = \{有理数x\,|\, a_1 < x < b_1\}$,\quad $U_2 = \{有理数x\, |\, a_2 < x < b_2\}$,\quad $U_3 = \{有理数x\,|\, a_3 < x < b_3\}$,\quad $\dots$
\end{quote}
ということであれば、一つの要素を選ぶ根拠を決めることは難しいものとなってしまう。なぜなら、$U_4 = \{有理数x\,|\, 1 < x < \sqrt{2}\}$だとしたら一つの要素を選ぶ規則$(a_n+b_n)/2$は役に立たない。$\frac{1+\sqrt{2}}{2}$は有理数ではないので$U_4$に含まれていないからだ。

それでも、他の規則が必ずあるはずだから大丈夫というなら問題はない。規則は何も式や言葉で表現できなくてもよいのだから。選択公理が「公理」であるのは、集合から一つの要素を選ぶことは必ずできるという考えがあるからだ。言わば常識である。

ところが選択公理を常識と考えて証明に利用すると、常識ではありえないことが証明できることがある。たとえば「バナッハ=タルスキの逆理」とも呼ばれる定理がそうだ。大まかに言うと、$1$個の球をいくつかの部分にばらして再び構成し直すと元と$2$個の同じ球ができる、という定理である。明らかに常識に反しているだろう。証明に不備はないとされているが、証明には選択公理を用いているところがあるのだ。一見常識的に見える選択公理だが、思わぬ落とし穴があるものだ。そのため、選択公理は認めない、すなわち無限にある集合から要素を一つずつ選んで確定することは必ずしもできるとは限らない、という立場をとる人もいる。

\end{document}