% 天下りだが...

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\begin{document}

\noindent\textbf{天下りだが$\dots$}

中高の数学の教科書を見ている限りは「天下り」という表現を目にすることはないだろう。しかし書物によっては
\begin{quote}
天下りだが$m = G^2+1$とおく
\end{quote}
とか
\begin{quote}
天下り的に関数$f(u,~v)$を定義する
\end{quote}
などという表現に出会うことがある。

これは、「唐突だがここではこうする」と言っているのに等しい。つまり「ここでは定義する理由を説明することはできないが、それによって話がうまく進むので、いまは従ってもらいたい」という程度の意味だ。

天下りの表現はともかくとして、数学を学ぶ上で初めて天下りに出会うのは、おそらく
\begin{quote}
$(負)\times(負) = (正)$
\end{quote}
ではないだろうか。$(負)\times(負) = (正)$であることは天下り的な定義である。ところが、あまりに頭から決めつけるのは教育的によくないせいか、大抵は「どうしてそうなるか」を丁寧に説明している。それはそれで悪いことではない。少々無理すれば日常の中に$(負)\times(負) = (正)$となる場面を見つけることができるのだから。

人に様々な性格があるように、数学の理解にも様々な過程があるものだ。「これはこういうものだよ」と言われて素直に従える者もいれば、納得しないと先へ進めない者もいる。後者にとっては、天下り的な表現はあまりありがたくないかもしれない。

しかし、一般に天下り的な説明がなされた場合、そこをちょっと我慢すれば数行または数ページ先で、なぜ天下り的表現をしたかが分かるものだ。天下り的表現は、円滑な議論のために数学にはなくてはならないのである。そこが世間の天下りとは違っている。

\end{document}