% 普段の生活に数学は必要ないよね?
\documentclass{jsarticle}
\pagestyle{myheadings}
\markright{tmt's Math Page}
\renewcommand\baselinestretch{1.33}
\def\M{\item[\textbf{M:}]}
\def\K{\item[\textbf{K:}]}
\begin{document}
\section*{●普段の生活に数学は必要ないよね?●}
\begin{enumerate}
\M えーと、あと、キャベツでも買っておくか。
\K あら?
\M ん?
\K もしかして\ldots、M先生じゃありませんか?
\M \ldots そうですが、どちらさまでしょうか?
\K Q高校のとき、お世話になった数恵(かずえ)です。私、数学はできなかったから、覚えていらっしゃらないかもしれませんけど。
\M 数恵さん? もしかして増待(ますまち)数恵さんですか?
\K そうです。わあ、うれしいな。覚えていただいてたなんて。
\M いやあ、当時の面影が残っているものですね。ここで買い物をしているということは、近くに?
\K ええ。大学を卒業してから都内の銀行に勤めていたんですけど、結婚してこっちに住むようになったんです。それにしても、どうして先生が買い物をなさってるんですか?
\M 実は、家内が去年亡くなりましてね。以来、このスーパーにはちょくちょく来るようになったんですよ。
\K まあ、そうとは知らずに失礼なことを\ldots。
\M いや、別にかまいません。
\K でも、なんだか変な感じ。高校のときは結構厳しかった先生のイメージに合わないですね。
\M 何てこと言うんですかね。こんなことにイメージを持ち出すなら、君こそ昔のイメージとはほど遠いですよ。数学以前に、計算力不足が際立ってましたから、銀行勤めが信じられません。
\K もうっ、いくらなんでもそこまでひどくなかったですっ! それに、私が銀行に勤めていた期間に数学を使ったことはなかったので、結局、数学はできてもできなくても関係ないことがわかりました。
\M ほう、ずいぶん確信をもって言うじゃありませんか。
\K それはそうですよ。私に限らず、知り合いの子は誰一人として数学を使ってないんですから。先生を前にして言うことではありませんが、普段の生活に数学は必要ないですね。
\M はあ、困りましたね。数学は必要ない、ですか。
\K まったく必要ないとは言いませんよ。技術開発や経済分野で数学が使われていることは知っています。あくまでも普段の生活に必要ないって言いたいんです。野球選手でなければ野球が必要ないように、技術者でもない限り数学は不必要だと思うんです。
\M う〜ん。それは大いなる勘違いというものです。
\K ということは、普通の人にも数学が必要とおっしゃるんですか? もしそうなら、たとえば高校の数学が普段の生活で必要なことを示していただきたいですね。
\M いやいや。ほとんどの人は高校の数学を普段の生活に使うことはないでしょう。だから、納得できる具体例をあげることは難しいのですが。
\K じゃあ、数学は必要ないってことに\ldots。
\M そうではありません。勘違いというのは「必要ない」という言葉のとらえかたでしてね。ここを押さえておけば、学校で数学を学ぶ意義が理解できるはずです。
\K 数学を学ぶ意義ですか? 一部の人には学ぶ意義はあっても、大多数の人には関係ないと思いますけど。先生は、全員に学ぶ意義があるとおっしゃるのですか?
\M もちろん。
\K え〜、そんなの信じられませんよ。
\M まあ、とにかく話を聞いてください。君たちは「必要ない」といえば「(一生)必要ない」と考えがちですが、そうではないんですね。私に言わせれば「必要ない」とは、「(今すぐには)必要(では)ない」や「(いつ)必要(になるかわから)ない」などを指しているものだからです。
\K それは、こじつけではありませんか。
\M こじつけでないことは私を見ればわかります。
\K はあ?
\M 実は、私はこの歳になるまで料理なんてしたことはなかったんですよ。
\K 何ですか、急に。
\M まあ、最後まで聞いてください。私も古い人間ですから、これまで台所に立つことはありませんでした。つまり今までの私には、家事などというものは不必要なものだったわけですね。
\K ははあ、なるほど。自分では必要がないと思っていても、先生のように急に必要になることがあるということですね。だから、数学もいつ必要になるかわからないので、普段から勉強しておけと。
\M まあ、そんなところですかね。相変わらず勘だけは鋭いですね。学生時代も勘だけで数学をしのいでましたから。
\K 茶化さないでくださいよ。そんなの自慢になりませんから。でも、先生のお話はちょっと無理があるんじゃないですか。
\M どこに?
\K 大体、家事というものは夫婦ともにすることです。奥様任せにしたことがすべての間違いなんですから。昔からご自分で食事の支度をなさっていれば、今になって慌てることもなかったはずですよ。
\M \ldots。
\K 家事は生活の基盤なんですよ。だから家事は「今すぐには必要ではない」とか「いつ必要になるかわからない」などというものではなく、「いつでも誰にでも必要」なものです。ここのところが数学とは違うと思いますし、中途半端に必要なのか不必要なのかわからない状態なのも変ですよ。数学は、必要な人には必要で、そうでない人には不必要なんじゃないですか?
\M むむ、君に説教されるとは夢にも思いませんでした。家事の点については返す言葉はありませんが、それでも数学については言葉を返しておきたいですね。
\K あら、強情ですね。
\M 当然ですよ。では、別のたとえでいきましょう。いま君の家にはいろいろな道具があるでしょう。テレビや洗濯機やヘアドライヤーなどなど\ldots。車はありますか?
\K ええ、あります。今日は車で来ましたから。
\M では、スコップはありますか? 電動ドリルは?
\K はあ?
\M ほら、置いてないでしょう。
\K だって、そんなもの使うことがないですから。
\M それでは、大雪が降ったらどうしますか? 部屋の棚が壊れて、至急直す必要が生じたら?
\K そんなときは仕方ないけど買いに行きます。
\M そういうときに限って、スコップやドリルを売っている店が閉まっていたり、売りきれていたりするものです。すると、ひどく困るでしょう。
\K でも、そんなあり得そうにない話を例に出しても納得しませんからね。普段でも数学が必要になることがある、とおっしゃりたいんですね。
\M まあ、そんなところですが、数学が道具と違うことを指摘しておかないと納得してもらえないでしょう。
\K どう違うんですか?
\M 私が話した例だけを考えれば、数学も道具も普段は必要ないもので、必要になったら用立てればいいように聞こえてしまいます。けれど、スコップやドリルは、たとえそのときに手に入れられなくても、次の日などに必ず手に入るものです。しかし数学の能力は、いざ必要となってもすぐに用立てできる代物ではありません。こればっかりは、学生時代からの地道な努力が必要なんですよ。
\K それだけでは万人に数学が必要とは言えませんよ。先生のお話は、将来数学を使う人だけに当てはまる内容のように思えますが。
\M いや、必ずしもそうではないんです。話を戻しますが、家の中にはスコップやドリルの他にも、ビーチパラソルやフランス語の辞書やビンゴゲームのセットなど、あらゆる物があればいいと思いませんか。けれども、そんなに物を置く場所だってないし、買うお金も必要ですね。いつ使うかわからない物に割く余裕なんてないのが普通でしょう。でも、こういう物は必要になったときに買ったり借りたりできるから、いまの時点ではっきりと不必要だと言いきれます。君の数学に対するイメージは、計算だとか公式だとか応用問題とかに傾斜しすぎているんです。確かに公式や応用問題は普段の生活に不要です。しかし、数学の本質は別のところにあります。ものの見方を広げたり、ものの考え方を柔軟にすることが本質なんです。
\K じゃあ、授業で覚えたことは一体なんだったんですか? ものの見方や考え方を学ぶなら、何も難しい数学をする必要はないじゃないですかあ?
\M うむ、ちょっと誤解がありますね。数学がものの見方を広げたり、考え方を柔軟にできるのは、皆が授業で習ったような理論を通してのことなんです。このことは逆に言えば、理論を学んではじめて見方を広げたり、考え方を柔軟にできるとなりますね。
\K でも、ものの見方や考え方を広げるなら、なにも数学に限らなくてもいいと思います。大勢の人の意見を聞いたり、多くの書物を読んだり、友達同士で悩んだりすることでいろいろな見方や考え方が身につくのではないですか? それに、ものの見方や考え方を広げるために、わざわざ数学という回り道を通る必要はありませんよね。
\M いや、数学で身につく考え方というのは、他の経験で代用できるものではありません。そのことは、わざわざ「数学的考え方」などという表現があることからも伺えるでしょう。普段の生活には数学の公式自体は必要なくても、数学的考え方が必要な場面は数多くあります。
\K だけど、そのためには高校の数学ができなくてはいけないんですよね。先生にとって高校の数学なんて簡単でしょうけれど、私たちにはかなり高いハードルなんです。結局、高校で数学ができなければ、数学的考え方を日常に活かすこともできないことになりますけれど。
\M それは、できないよりできるほうがいいに決まっていますが、別に大学入試問題をすらすら解けるレベルに達する必要はないんです。大事なことは、それ以前に自分自身でどれだけ考えたかです。極端なことを言えば、できなくても考えていさえすればいいんですよ。
\K え? もしかしてテストが0点でも考えていたらいいんですか?
\M それは極端過ぎますが、私に言わせれば、何ら考えることなく100点を取るより、十分に考えた末に0点になってしまったほうがいいと思いますね。
\K 本気でそうお考えですか?
\M 本気ですよ。何ら考えずに100点が取れても意味はないですから。なぜなら、考える力がつかないばかりか、100点分の知識はほとんど役に立たないでしょう。その代わり、十分考えた末の0点では知識は何も得られないけど、考える力は増えると思います。数学は自分で考えてさえいれば、副次作用で多くのものが手に入る教科なんです。手に入れたものは目に見えなくても、普段の生活の端々に影響しているのですよ。たとえば、発想が豊かな人や仕事ができる人というのは、どこかに数学的考え方を隠し持っているものです。公式なんか忘れていてもね。
\K ふ〜ん。だったら私はどうなんだろう。数学はできなかったけど、考える力はついたのかな?
\M 問題を解くときに一生懸命考えていたらね。
\K それなら真剣に考えてたなあ。
\M どういうふうに?
\K 早く数学の時間が終わらないかなあ、って。
\end{enumerate}
\end{document}