% 掛け算の順序が大事だったワケ

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\begin{document}

\section*{◆掛け算の順序が大事だったワケ◆}

いまはどうだか知らないのですが、$20$世紀の小学校の掛け算教育においては、掛ける順序が重視されていたものです。たとえば、
\begin{quote}
\textbf{[問]} $6$人の子どもに$5$個ずつみかんをあげるとき、みかんは全部でいくつ必要ですか。
\end{quote}
という問題に対して、正答は
\begin{quote}
\textbf{[解]} (式)$5\times6 = 30$、(答)$30$個
\end{quote}
であって、
\begin{quote}
\textbf{[解]} (式)$6\times5 = 30$、(答)$30$個
\end{quote}
は、『答は正しいが式が間違っている\footnote{『答は正しいが式が間違っている』はあり得ないと思います。たとえばこの問題を、$10$個パックのみかんを二人ずつまとめて配る意味で$10+10+10 = 30(個)$と解答しても×でしょう。式から意味が読み取れなければ$13+6+11 = 30(個)$みたいな式と同等で、偶然正答と一致しただけにすぎません。掛ける順が重要であるなら、答だけが一致したところでその答に意味はないのです。\textbf{答だけ}は○というのは、何の教育にもなっていないと思われます。}』とされることがまかり通っていたように思います。式が間違っている理由は『掛ける順序が違う』からです。なぜなら、一あたり量を集めて総量を求める場合の式は
\begin{center}
\bfseries $(一あたり量)\times(数量) = (総量)$
\end{center}
だからです。しかし、掛け算は掛ける順序が逆でも同じ値になるので、掛け算の順序にこだわることに納得がいかなかった人は多いはずです。

実は掛け算の順序にこだわるのは、おそらく数学的および数学教育的にきちんとした理由があるからだと思います。ただ、それが納得できる理由かどうかは別ですが。

数学的な理由とは、一あたり量および数量と総量との関係を$(一あたり量)\times(数量)=(総量)$と\textbf{定義}したからです。$(数量)\times(一あたり量)$でも同じ結果になるのは事実ですが、そのことは定義とは別の話で、あとで考慮すべきことです。実際、行列などの乗法では交換法則が成り立たないことがあるので、掛け算を定義したからと言って、掛ける順序を逆にしてよいわけではありません。もっとも、こんな話は小学生に言っても伝わりませんけど。

数学で重要なことは、何かの定義をしたなら、まず定義に忠実に従うことです。その点において、$(一あたり量)\times(数量) = (総量)$と定義した以上、式は$5\times6$でなければならないのです。

さらに、これは長方形の面積の計算とは異なることに注意してください。長方形の面積は$(たて)\times(よこ)$で求めます。あらかじめ、たて$5$\,cm、よこ$6$\,cmなどと述べていれば、面積の計算は$5\times6 = 30$(cm$^2$)とすればよいのですが、単に図を見て面積を求めるとなると$5\times6$でも$6\times5$でも正しいのです。

\begin{center}
\begin{tikzpicture}[scale=0.5]
\draw[shift={(-10, 0)}, thick] (0, 0) -- (6, 0) -- (6, 5) -- node[above] {6\,cm} (0, 5) -- node[left] {5\,cm} cycle;
\draw (0, 2) node {$\updownarrow$ たて} (0, 4) node {$\leftrightarrow$ よこ};
\draw[shift={( 5, 0)}, dashed] (0, 0) -- (5, 0) -- (5, 6) -- node[above] {5\,cm} (0, 6) -- node[left] {6\,cm} cycle;
\end{tikzpicture}
\end{center}

なぜなら、左図のように長方形が描かれていれば、たて$5$\,cm、よこ$6$\,cmですが、右図のように見る方向を変えれば、たて$6$\,cm、よこ$5$\,cmとなるので、$5\times6$でも$6\times5$でも$(たて)\times(よこ)$の計算に間違いありません。つまり、定義どおりに計算したことになるのです。

それならば一あたり量については、定義は$(一あたり量)\times(数量)$の順に掛けるものであっても、数値の掛け算は逆順の計算---$(数量)\times(一あたり量)$---も同じ結果になるので、
\begin{center}
$(一あたり量)\times(数量) = (総量)$\quad または\quad $(数量)\times(一あたり量) = (総量)$
\end{center}
と、再定義すればよいと思うでしょう。まったく、そのとおりです。はじめからこのようにすれば、一あたり量の計算について、掛け算の順序にこだわる必要はないのです。

でも、そうしなかったのはなぜでしょう。憶測の域を出ないのですが、そこには教育的な理由があるのではないかと思われます。掛け算の順序はどちらが先でもよい、と決めるのは状況を難しくするからです。

昔の話ですが、学習指導要領において『円周率の値を$3$で計算してもよい』とされた時期がありました。当時は、簡単な方向に流されてよいのかなど騒ぎになったものですが、実際は逆で、『$3$で計算``してもよい''』ということで状況判断を難しくしています。小学生には荷が重かったはずです。

『$3$でもよい』となると自由度が上がってよいように思えますが、小学生にとっては、『じゃあ、どういうときに$3$を使って、どういうときに$3.14$を使えばいいの?』となりかねません。自由度とは異なりますが、実際、順列・組合せを習った高校生でさえ、『どういうときにPを使って、どういうときにCを使えばいいの?』などと言います。順序があればP、なければCに決まってるでしょ! でも、順序のある・なしを自分で判断ができず、具体的に『こういう文言のときはP、こういう文言のときはC』という手取り足取りの道しるべが必要になる生徒は多いのです。おそらく学習指導要領は、自ら判断する能力を磨くために『$3$でもよい』を導入したのだと思いますが、そのような教育をするのは大変なことで、結局、判断力を伸ばすことなどできず、機械的な指導をせざるを得ないのです。

また、日本の人口$1$億$2{,}345$万$6{,}789$人を概数で表せと言われたらどうでしょう。大人であっても人により、$1$億とか$1$億$2$千万とか$1$億$2{,}346$万とか言うのではないでしょうか。概数というものは案外と雰囲気に依るところが大きいものですから、場面に応じて異なる概数になるのは仕方がないでしょう。

しかし、概数について学び始めたばかりの小学生には、たとえば、千以下の位を四捨五入して万の位までの概数で表せ、と言う必要があるでしょう。学び始めの頃は選択肢が多くてはだめで、きちんとした一つの方法を示すべきなのです。正解が複数あってもよいということは、そのような土台ができた上で理解できる概念だからです。

大人から見れば、一あたり量の計算定義が$2$通りあったところで何が問題だと思うかもしれません。とくにこの場合は、掛け算の順序を無視できるので、状況判断の必要もないでしょう。しかし、学び始めの小学生にとっては、何も考えずに$2$個の数を掛ければよいというのでは、学習していることにならないはずです\footnote{極端なことを言えば、掛け算の文章問題であれば、それがスペイン語やアラビア語で書かれていても数字は世界共通ですから、考えることなく文中の$2$個の数を掛ければよいのです。}。定義に従って計算をする、一あたり量の意味を理解する、などを学んでいる最中なのですから、掛け算の順序を介して問題の理解度をはかることは一つの手段かもしれません。もっとも小学生にしてみれば、できるようになるのが先決だから、定義に従って計算することの大事さなんてどうでもよいことなんでしょうけれど。

ところで、掛け算に限らず計算で大事なことは、『計算ができること』ではなく『何の計算か分かること』だと思います。掛け算の勉強中に二つの数が出てきたら、無条件に掛け算をしても間違いないのですが、それはおよそ人がする行為ではありません。機械的に計算することは機械がやればよいのです。

要するに、何らかの問いに対する計算が、掛け算なのか割り算なのか、もし割り算ならどちらが割られる数なのか、などを発見するのが人が行うことなのです。それには丸暗記をするのではなく、いくつかの暗記項目をどうつなげるか、または、どう組み合わせるか、を正しく見つけられるようにする必要があります。

たとえば次の問いを考えてみましょう。

\begin{quote}
\textbf{[問.a]} 時速$4$\,kmで$10$\,kmの道のりを移動する。かかる時間は?\\
\textbf{[問.b]} 時速$4$\,kmで$10$時間かけて移動する。移動した道のりは?\\
\textbf{[問.c]} $4$時間かけて$10$\,kmの道のりを移動する。移動速度は?\\
\textbf{[問.d]} $4$\,kmの道のりを$10$時間かけて移動する。移動速度は?
\end{quote}

[問.a]、[問.b]はいずれも一あたり量と数量ですが、[問.a]は$10\div4$で、[問.b]は$4\times10$で計算します。また、[問.c]、[問.d]はいずれも数量と数量ですが、[問.c]は$10\div4$で、[問.d]は$4\div10$で計算します。一あたり量と数量の問いだからと言って、必ずしも掛け算をすればよいのではありませんし、割り算はどちらが割られる数であるかは重要です。つまり、数値の関係をどのように式につなげるかが問われているのです。

ところが、道のり(ミ)・速さ(ハ)・時間(ジ)の問題は
\begin{center}
\begin{tikzpicture}
\newcommand{\mihaji}[5]{
\node[shift={(#2-1, 1)}] {#1};
\draw[shift={(#2, 0)}] (0, 0) circle[x radius=1, y radius=1];
\draw[shift={(#2, 0)}] (-1, 0) -- node[above] {#3} (1, 0);
\draw[shift={(#2, 0)}] (0, 0) -- node[left] {#4} node[right] {#5} (0, -1);
}
\mihaji{1}{0}{キ}{ハ}{ジ}
\mihaji{2}{4}{キ}{ソ}{ジ}
\mihaji{3}{8}{ミ}{ハ}{ジ}
\mihaji{4}{12}{ミ}{ソ}{ジ}
\end{tikzpicture}
\end{center}
のような図---たとえば図$3$---を覚えて、時間を求めるなら$\displaystyle \frac{ミ}{ハ}$、すなわち$(道のり)\div(速さ)$だから[問.a]は$10\div4$、みたいな指導をすることもあると思います。そうすれば、数値の関連やそれらのつなげ方が分からなくても答が求められるからです。しかし、この図は案外高級なものですから、
\begin{center}
数値の関連が理解できない人は図を使いこなせず、数値の関連が理解できる人は図を必要としない
\end{center}
場合が多いものです。道のり・速さ・時間の関係が、$(道のり) = (速さ)\times(時間)$であることがしっかり理解できていれば、この式一つで速さも時間も求めることがでるからです。

ちなみに図を四つも示しましたが、道のり(ミ)の代わりに距離(キ)を、速さ(ハ)の代わりに速度(ソ)を用いれば、使われる文字が異なりますね。でも、数学的に正しいのは図$3$であると思います。数学で距離と言えば直線的な長さのことで、必ずしも真っ直ぐ移動しない長さは道のり(ミ)と言う方がよいでしょう。また、速度と言えば進む向きを含めた瞬間的な距離と時間の割合のことで、単に道のりと時間の割合は速さ(ハ)と言う方がよいでしょう。

結局のところ、反射的に計算ができれば掛ける順序などどうでもよいのです。でも、思考して理解して計算できることを望むなら、『何に』『何が』掛けられるかを知る必要があるでしょう。掛ける順序はそのために利用されているのかもしれません。なぜって小学校低学年あたりでは、思考して理解する算数の題材は、中学校・高校と違ってそうそうあるもんじゃないですから。早い時期に機械的作業にどっぷり浸かってしまわないよう、苦肉の指導として掛け算の順序を思考の醸成の道具にしたのでしょうか\footnote{実際は、この先で習う分数の掛け算・割り算を見越しているのかもしれません。(足し算の逆演算である)引き算は大きい方から小さい方を引く原則があり、数値の単位はみな同じなので、足す順序にこだわる必要はありません。しかし(掛け算の逆演算である)割り算は必ずしも大きい方を小さい方で割るわけでなく、数値の単位も異なるので、割る順序で求めるものが異なります。そこで正しい割り算ができるよう、掛け算の段階では単位の区別をするような指導、すなわち掛ける順序を重視しているのでしょうか。}。

それでも、理解が進めば自然と``反射的''に計算するようになります。でも、理解が定着していれば一あたり量と数量の区別はついているはずです。定義に従い、自ら考え、反射的に解けるようになることを繰り返し、数学ができるようになれば文句なしです。

一方で、単に``機械的''に解くことだけ繰り返したのでは、暗記項目をつなげる回路を作ることはできないでしょう。$21$世紀初頭現在、AIは人に劣らない能力を示すことが多々ありますが、それとて定義に従い暗記項目をつなげて相応の回路を作っているだけでしょう。自ら新しいことを考えるには至っていないと思います。だから、人であれば考えておかしいと気付くことでも、AIは奇妙な結論で応えることが稀にあるのです。将来AIと共存するためには、考えることを放棄するわけにはいかないでしょう。

\end{document}