% 1+1=2 であることを証明できる?
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\begin{document}
\section*{◆$1+1 = 2$であることを証明できる?◆}
$1+1 = 2$であることや、正三角形の内角がすべて$60$\textdegree になることは、私たちにとって当たり前のことです。当たり前と言っても、そこは数学の話、当たり前であることでも「証明」をしなくてはなりません。
たとえば正三角形。これは$3$辺の長さがすべて等しい三角形のことですから、三つの内角もすべて等しいのは当然ですね。本当にそうですか? もしそうなら、同じ言い方で$3$を$4$に変えた、$4$辺の長さがすべて等しい四角形は四つの内角もすべて等しい、も当然のことになりかねません。でも、事実は違います。$4$辺の長さがすべて等しい四角形は「ひし形」であって、正方形ではありません。$4$辺の長さがすべて等しいからという理由で、内角もすべて等しいとは言えないのです。だから
\begin{center}
正三角形の内角はすべて$60$\textdegree である \quad(※)
\end{center}
ことは、きちんと証明をした上で言えることなのです。
すると、私たちが当然のごとく使っている「$1+1 = 2$」も、証明が必要になるでしょう。
数学の理論は、「定義」と「定理」で成り立っていると言っても過言ではありません。「定義」とは、私たちが決める必要最小限の約束です。たとえば「$1$は``いち''である」とか「$3$本の線分で囲まれた図形を三角形という」とか「$2\times2\times2$を$2^3$と書く」などは定義です。いかに数学とはいえ、はじめに何らかの約束をしないと物事は進みません。だから定義は``証明以前の約束''なのです。また、定義は無条件の約束ですから、どのような約束を作ってもかまわないのです。しかし「$2\times2\times2$を$4^5$と書く」と決めても、この約束からは何も生まれないでしょう。その意味で定義とは、ある方向へ発展するための素地にあたるものと言えます。
一方「定理」とは、定義から論理的に導かれたことがらです。場合によっては、定理をもとにして、さらに新たな定理を導くこともあります。このときの論理的な導きがいわゆる証明と呼ばれるものです。ですから(※)は定理です。なぜならこの事実は、「ユークリッドの原論\footnote{ユークリッド(330?B.C.--275?B.C.):ギリシアの数学者。}」で定義されたことがらを素地にして、理論を積み重ねた結果、導かれた事実だからです。
ところでユークリッドの原論は
\begin{enumerate}
\item 点とは部分をもたないものである
\item 線とは幅のないものである
\item $\dots$
\end{enumerate}
で始まる$23$の定義と
\begin{enumerate}
\item 任意の点から任意の点に直線をひくこと
\item 線分を延ばして一直線とすること
\item 任意の点を中心とした円を描くこと
\item 直角はすべて等しい
\item $1$本の直線が$2$本の直線と交わり、その片側の二つの内角の和が$2$直角よりも小さいときには、この$2$直線を限りなく延長していけば、この側で交わる
\end{enumerate}
という$5$個の要請(定義と同等のもの)が記されています。そしてこの後に、いろいろな命題や定理が示してあるのですが、特に要請の$5$番めにあたる文章は「平行線の公理」と呼ばれ、幾何学に大きな影響を与えました。
\begin{center}
\begin{tikzpicture}
\draw (0, 1) -- (7, 1); \draw[dashed] (7, 1) -- (10 ,1);
\draw (2, 1) node[below right] {$\circ$};
\draw (2, -2) -- (2, 2) node[midway, right] {\quad$\circ+\bullet < 180$\textdegree のとき、この先(→)で交わる};
\draw (2, -1) node[above right] {$\bullet$};
\draw (0, -1) -- (7, -1); \draw[dashed] (7, -1) -- (10 ,-1);
\end{tikzpicture}
\end{center}
$5$番めの要請は、それ以前の四つの要請に比べ内容が込み入っています。そのためこれは、$23$の定義と$4$番めまでの要請を使って証明できるのでは、と考えられました。しかし結果は「証明できるものではない」というものでした。それどころか、この$5$番めの要請を取り払っても、矛盾のない新たな幾何学を構築できることも分かったのです。この幾何学は「非ユークリッド幾何学」と呼ばれ、いくつかのモデルが存在します。つまり$5$番めの要請は、ユークリッド幾何学を構築するために必要な、まさに「要請」だったわけです。言い換えれば、$5$番めの要請がユークリッド幾何学へ発展させる素地になっているのです。
すると、話は少々ややこしくなってきます。それは、さきほど私たちにとって当たり前であった(※)が、非ユークリッド幾何学では成り立たない場合があるからです。そのことを考慮するなら、(※)はいかなる場合でも真実であるとは言えず、(※)の証明が効力をもつのは、ユークリッド幾何学の範囲に限られることになります。
さて、ここで話題を$1+1 = 2$に戻します。
私たちが普段使う数学には、「$1$は``いち''である」とか「$+$は``足すこと''である」という約束が素地になっています。したがって、これらは定義に相当するので証明は不要です。しかし「$1+1$が$2$になること」は定義ではありません。かと言って、定理と言い切るには証明を必要とします。ここでは、ユークリッド幾何学同様に、「$1+1 = 2$であること」は要請と考えたいと思います。
というのは、世の中には「$1+1 = 3$」や「$1+1 = 1$」になるような現象を探すことは可能です。だから必ずしも「$1+1 = 2$」を数学の素地にしなくとも、別の数学を作れるかもしれません。別の数学が作れれば、いかなる場合でも「$1+1 = 2$」が真実であるとは言い切れません。しかし、そういったことを認めると、非ユークリッド幾何学同様、非日常的な数学になってしまいます。
ユークリッド幾何学が$5$番めの要請によって、現実的な幾何学を構築するように、「$1+1 = 2$」が要請されること、それはつまり、数の基本体系を$0$, $1$, $2$, $3$, $4$, $5$, $\dots$とすることで、現実的な数学が構築されるのです。つまり「$1+1 = 2$\textbf{である}」ことは、現実的な数学を要請するという観点に立てば、証明すべき性質のものではないことになります。\textbf{しかしながら数の基本体系が$0$, $1$, $2$, $3$, $4$, $5$, $\dots$のとき、「$1+1 = 2$\textbf{になる}」ことは証明すべきことであり、実際に証明できるものなのです。}
\end{document}