% 分かりやすいことだけが、しかも間違って伝わる

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\section*{▼分かりやすいことだけが、しかも間違って伝わる▼}

古くさい話題を持ち出すことになるが、小学校の算数において、円周率のおよその値である$3.14$が3で教えられるということがあった。これは、あらゆるすべての円周率を$3$で教えるというものではなく、状況に応じて$3$で計算してもよい、というものだったと思う。(←偉そうなタイトルで書き出してみたものの、すでに書いている本人があやふやであることは大目に見てもらいたい。)

そこには、いろいろな背景や駆け引きがあったと思われるが、それでも小学校で教える円周率の値は$3.14$であって、決して$3$ではない。円周率として$3$を使うのは、別に$3.14$で計算することもない場面に限られていたはずなのだ。ところが、この方針があまりに強烈な印象を与えたためか、当時は「円周率が$3$になった」と広く伝わってしまった気がする。

そりゃ、そうだよね。円周率の新しい指導法が
\begin{center}
「円周率は$3.14$を用いるが、場合によっては$3$を用いてもよい」
\end{center}
のように変ったらしい、と伝えるよりは
\begin{center}
「円周率は$3$でもよい」
\end{center}
と伝える方が絶対分かりやすい。伝えた本人は「場合によってはというのは、実際は$\dots$(以下なんたらかんたら)」と追加の話をしたかもしれないが、聞いている方はもう耳に入るわけがない。

で、その話が次の人に伝わるときには「『円周率は$3$』なんだって」となる。おい、こら。「円周率は$3$でもよい」ですら高々$9$文字じゃないか。なんでそれをわざわざ$5$文字に減らすのよ。ここで正確に「$\dots3$でもよい」と言っていれば、何人かは「$\dots3$でもよい? ってことは、$3$でもよくないときがあるわけだな」と感じるかもしれなかったのに。それもこれも「$3$でもよい」などというあやふやな表現より、「$3$」と断言した方が分かりやすいと思うからいけないのだ。

これは、何も数学に限った話ではないだろう。世の中の至る所で繰り広げられている光景だ。分かりやすい言葉にするほど正確に伝わりやすいのは事実だ。しかし、分かりやすい言葉にするほど正確さを欠くのも事実だ。

実は、円周率を$3$で計算してもよいことを認めた背景の一つに、学力不足の子供への配慮があったとも言われている。確かに、$3.14$を掛けるより$3$を掛ける方が断然楽だ。それはなかなか良いアイデアに思えるが、実際はまったく逆である。なぜなら、どのようなときに$3.14$を使い、どのようなときに$3$でよいのかを判断できなければならないからだ。これは大人にとっても相当難しい。分かりやすくしたつもりが、かえって難しくなっている。こんな、大人にとっても難しい判断を求めるぐらいなら、一律に$3.14$を使うように指導する方がましである。

間違って伝わる$\dots$ということではないが、間違って実行される例も挙げてみよう。たとえば、格差解消を目指して実は格差拡大を助長しているかもしれない話だ。具体的には、公的に教育費を``みんなに''補助すれば教育の機会を均等にすることができる、というのは分かりやすい話である。たしかに、生活費が目一杯なら教育費をかけられないので、補助のお陰で教育費の心配がなくなるのは良いことである。でもね。もともと余裕があった``一部の人たち''は補助のお陰でいままでの教育費が浮くことになる。だったら、浮いた分をより早い時期につぎ込めるじゃないか。それって、自動車と飛行機の競争を、飛行機とロケットの競争にするだけじゃないの?

それで、この話の教訓は何かというと「墓穴を掘った」である。私は、このサイトを分かりやすい言葉で書いているつもりなので、当然正確さが犠牲になっていることもある(というより、知識不足で正確さを欠いていることもままある)。または、分かりやすく言ったつもりで、かえって混乱を招いているかもしれない。他人を戒めているつもりで、自分を戒めることになってしまった。穴があったら入りたいほど恥ずかしいが、穴はいま掘ったところである。自己完結してるじゃないか。

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