% 胡散くさい鶴亀算

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\section*{▼胡散くさい鶴亀算▼}

「鶴亀算」というと小学校の算数で学習したり、就職試験の一般教養などに登場するものと相場が決まっているようだ。鶴亀算に限らず「仕事算」「植木算」「流水算」$\dots$など、ひねりを効かせた胡散(うさん)くさい算法はいくらでもある。おっと、誤解される前に言っておこう。これらの計算方法や考え方が胡散くさいと言っているのではない。それどころか、どれも洗練されたよい算法である。では、何が胡散くさいのかというと$\dots$。

まず、具体的な問題を解くことから始めよう。

\begin{enumerate}
\item[\textbf{問}] 鶴と亀が混在しているとき、頭だけを数えたら$13$で、足だけを数えたら$40$であった。鶴・亀はそれぞれ何羽・何匹か。
\item[\textbf{解}] 鶴だけしかいないと仮定すると、頭が$13$ならば足は$13\times2 = 26$でなければならない。しかし足が$40-26 = 14$多いので、これは$2$本余分に足がある亀のものである。よって、亀は$14\div2 = 7$(匹)で、鶴は$13-7 = 6$(羽)である。
\end{enumerate}

この考え方は洗練されていると思う。どこが洗練されているかと言えば、鶴の頭$1$と鶴の足$2$を対応させ、亀の頭$1$と亀の足$4$を対応させている点だ。このために$13$全部が鶴の頭であるという仮定が生きてくる。対応に漏れて残った$14$が、亀の余分の足に対応するからである。いかにも数学的な思考っぽくていいね。だけど、別解もある。

\begin{enumerate}
\item[\textbf{解}] 鶴の数を$x$(羽)、亀の数を$y$(匹)とおくと、頭の総数より$x+y = 13$が得られ、足の総数より$2x+4y = 40$が得られる。連立方程式を解いて、$x = 6$(羽)、$y = 7$(匹)となる。
\end{enumerate}

連立方程式の方がすっきりしているのは確かである。すっきりしている理由は、文章が見たまんまの式に変換されるからである。その上、変換された式を解くアルゴリズムが確立しているため、すべてが機械的に進む。鶴亀算とは違った意味で洗練されているだろう。

さて、いずれの解法にも胡散くさいところはない。もしかして、胡散くさいのは問題設定ではないかと思うかもしれないね。大体、鶴と亀が混在している状況において、頭だけ数えたりすることは現実的ではないだろう。それに亀が頭を引っ込めていたらどうなんだ、という指摘もあるかもしれない。しかし、これらは単に算法の名称に由来することでしかない。少しでも現実に近い状況にしたければ、
\begin{enumerate}
\item[\textbf{問}] 駝鳥(だちょう)と駱駝(らくだ)を一緒に放し飼いにしている牧場がある。駝鳥と駱駝の数を数えようとしたが、朝もやのせいではっきり見えなかった。しかし、頭だけは$13$、足だけは$40$であることは数えることができた。駝鳥と駱駝はそれぞれ何頭か。
\end{enumerate}
のようにすれば、まあ、実際にありそうな感じがするだろうか。

胡散くさいのは、鶴亀算のような算法は数値の四則計算だけで解ける---すなわち、小学生にも解ける---のに対して、連立方程式をたてる解法は等式の変形を伴うので、より多くのことを学んでからでないと解けない---すなわち、``より進んだ知識''がないと解けない---と考えられていることである。要するに、鶴亀算的解法より方程式的解法のほうが程度が高い、と思われている点だ。

とんでもないことでございます。繰り返すが、連立方程式は変換された式を解くアルゴリズムが確立しているから、すべてが機械的に進むのだ。そのために、より進んだ知識が必要になることは事実だが、``知恵を働かせる''必要はない。つまり、楽ちんなのだ。したがって鶴亀算の方がしんどい。このことから、より進んだ知識を使うことが、必ずしも程度が高いことを意味しないのである。

鶴亀算のような算法は、数値の四則計算だけで解けるから小学校で教えられているのではない。しんどいから小学校で教えているのだ。ほとんどの「○○算」は方程式をたてれば解き方が統一されて簡略化される。にもかかわらず、いろいろな種類の○○算を乱立させているのは、一にも二にも「知恵をつける」ためである。文字を使って方程式を解く手順なら、小学校の高学年にもなれば間違いなくできる。でも、そんなところで楽を覚えてしまったら知恵なんてつかないよ。楽をするのは、しんどいことが苦痛になったときだ。それは、解決すべき問題が複雑さを増してくる中学校の数学あたりだろうから、そのために方程式のような``道具''が必要になるのである。一度、道具を手にして便利さを味わってしまうと、○○算のような算法は怪しげで胡散くさく見えるかもしれないけど、そうじゃない。

同じようなことがコンピュータなどの使い時にも当てはまる。しんどいことを経験した後でコンピュータを使うのはよいが、手軽だからという理由だけでコンピュータを使っても知恵はつかないだろう。知恵がないまま道具を使うことは、道具に頼らず知恵だけで処理することに比べて劣るのである。道具は知恵をつけてから使うものなのだから。

そうは言うものの、こんな反論があるかもしれない。知恵不足でも道具が使えるなら、道具を使う方がいいんじゃない? だって、問題が解決するんだから。(沈黙)$\dots$ そりゃ、そうだ。で、こういうときのお決まりの結論は、両極端にならないでバランスを取ること、だ。優等生的でつまらないけど。

\end{document}