% そばとカレーライスの正しい食べ方

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\section*{▼そばとカレーライスの正しい食べ方▼}

ここでは数学、いや数学教育、いやいや全ての行いについて、いかに間違った選択がなされているかを論じよう。

たとえば数学の勉強方法で、誰かが「これこれのやり方をすれば成績が上がる」と言ったとしよう。そして、たしかにそうだと納得して同じようにやってみたが、効果が現れなかったということはないだろうか。また、どこかの職場などが「こういう取り組みをしたらうまくいった」という話を言い広めていたとしよう。そこで、うちの職場でも同じようにやってみたが、かえって不都合なことが生じてしまったということはないだろうか。

勉強方法の失敗なら自分が好んで行ったことなので、結果が得られなかったとしても自分の責任で済むだろうが、まぬけな上司のせいで、とばっちりを受けたとしたら何ともやりきれないはずだ。なぜ、同じようにやっていながら、結果が大きく異なるのだろう。理由は一つである。
\begin{center}
\bfseries 正しいことを行うなら、正しい環境で行わなくてはならない
\end{center}
からである。

正しい勉強方法を真似るのは結構だが、勉強する環境---それは適切な教材であったり本人の能力であったりする---が備わっていただろうか。正しい取り組みを真似るのは結構だが、職場の環境---それは現在の業績であったり従業員の士気であったりする---が整っていただろうか。数学の問題を解く場合だって、正しい公式を用いても方針が間違っていれば正解にたどり着かないものだ。なのに、みんなそれに気づかないのである。

いまここに昼食は常に盛りそばを食べる細田さんがいる。栄養の面ではどうかと思うが、空腹を満たすことが目的であるとする。細田さんがある日、となりの席でカレーライスを食べている飯田さんを見て、来週からはカレーライスにしようと決めた。実は飯田さんも常にカレーライスを食べていたので、そばを食べている細田さんを見て、来週からはそばにしようと決めた。空腹を満たすのが目的なら、二人の選択はまったく正しい。

そこで二人は馴染みになっている食堂のおばちゃんに、来週からはカレーライスとそばを交換してと頼むのである。そして次の週に出てきたのは$\dots$。なんとせいろにライスが盛られ、そばつゆを入れていた徳利にあふれんばかりのカレールウが入り、薬味はわさびとネギ、そして箸が添えられたカレーライス。一方は、深皿にそばが盛られ、ソースポットにそばつゆが入り、口直しに福神漬け、そしてスプーンが添えられた盛りそばである。

普通なら二人の怒りが爆発するところだが、まあ、話の腰を折らないように二人には無理してでも食べてもらうことにしよう。``せいろカレー''は、徳利から少しずつルウをたらして箸でつまめば何とか食べられる。わさびとネギはよいアクセントになるだろう。``深皿そば''は、スプーンでそばを細かくちぎっておけば何とか食べられる。のどごしは楽しめないが、福神漬と一緒に食べれば新鮮だろう。で、おばちゃんはというと、二人が食事をしているので満足なのである。

食材は二人の望み通りでも、明らかに環境が間違っている。でも、二人が何とか食事できているから、おばちゃんはおかしいことに気づかないのである。

それは作り話じゃないか、と思っているでしょ。でも、実際はあちらこちらで普通に見かけることなんだ。あなたの職場にもあるんじゃないの? 上の者が、どこで仕入れたか知れないけれど、職場のためと言いながら新しい取り組みを導入する。そして下の者はそれに従ってみる。ところがにわか仕込みのせいで、奮闘の割には成果が上がらない。成果が出ない理由は、仕入れ先の環境とあなたの職場の環境が違っているからなのだが、上のまぬけは取り組みが不十分としか考えないものだ。そうじゃないんだよ。中身を変えるなら、それに合った器も必要になるってこと。そして、器は上の者が用意すべきことなんだ。どう? 思い当たる節があるでしょう。

似たような話は教科の評価にもある。たとえば数学には、
\begin{enumerate}
\item 数学に関する意欲や態度
\item 数学的な見方や考え方
\item 数学の技能や処理
\item 数学の知識や理解
\end{enumerate}
のような四つの観点があると考えられている。四つに分けることがよいかどうかは別にして、おそらくこのような観点で能力を測ることは正しいと思われる。すると授業の中で、各個人に対して観点に沿った評価ができるだろう。それも正しいと思われる。そして、試験で観点に沿った出題ができるはずである。それも正しい---わけないだろ。それは救いがたいほど間違っている。

一人ずつ対面しながら口頭で試験をするならともかく、解答を記述する一般の試験では、四つの観点は全て知識を測ることに集約されてしまっている。にもかかわらず、問題ごとにそれぞれの観点を評価するようなことをしている場合がある。観点に分けることは正しくても、筆記試験という環境ではそれは正しく機能しない。卵、小麦粉、砂糖、クリームなどは単品で評価できても、出来上がったケーキを食べて、卵、小麦粉、砂糖、クリームなどを別個に評価できないことと似ている。

途中まで完璧に正しいことをやっていても、環境に気が回らなければ、結果的に間違ったことをやっているに等しいのである。

\end{document}