% 宗教らしからぬ宗教・数学

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\section*{▼宗教らしからぬ宗教・数学▼}

数学は世界でもっとも多くの信者を抱える宗教である。ほとんどの人は自分は数学信者とは思ってないけれど、社会で生活をしていることが紛れもない信者の証(あかし)なのだ。

宗教なら神がいるだろうって? もちろん、いる! でも普通の人には見えないものだ。しかし、神の教えを直接授(さず)けられている人たち---大抵、数学者と呼ばれる---は、頭の中に教えを置いて日々布教に励んでいるのである。

私たちが最初に教えを請うのは数学者からではない。数学者の分派である、私たちに身近な人からだ。この人たちは分派であるから、四則計算や図形の性質などを教義とする「実在教」を教える。教えは目に見えるので、私たちはそれを信じ、教えに則(のっと)って毎日を過ごすのである。実在教のキモは(比を含めた)整数と平面幾何だ。そのため日常の出来事とよく整合し、私たちは何の疑いもなく教義を信じることになる。

ところが、あるとき突然``改宗''を迫られる。それは、負の値の平方根が存在する「複素教」であったり、平行線が複数または皆無である「非平面教」であったり、$0$と$1$だけで計算する「二進教」であったりと、さまざまである。

ここで『いままで信じてきた教義はなんだったんだ』と思い、改宗どころか無宗派となる人もいるが、大抵は実在教に従い粛々(しゅくしゅく)と生活を続けるものである。

一方で、改宗を素直に受け入れる人たちもいる。ただ、改宗といっても$180$\textdegree 転換するのではなく---``増宗''とでも言おうか---新たな教えを増やしていくのである。そうして混沌とした「数学教」に染まるのだ。

たとえば``無限''に関する教義は数学教にとって重要である。無限は目に見えず信者の頭の中だけにある概念であるから、修行の末に獲得した者だけがその存在を意識できる。ときどき怪しげなリクツ---たとえば「アキレスと亀」の話など---を振りかざして人をケムに巻く輩(やから)のせいで、$0.999\cdots = 1$が信じられなくなったりするものだが、数学教は$0.999\cdots = 1$を真理としている。

複素教や非平面教や二進教などは、ときにオカシナことを述べているように思えることでも、実はすべて真理であることを疑ってはいけない。それらを包括している数学教はすべて真理である。

中世の頃には負の値を布教する者さえ異端扱いされたようだが、現代でも特殊な真理を布教させようとする者はいる。それらが数学教に加えられるかどうかは分からないが、現在の数学教は、平均的な数学者が唱える教義が真理である。そして私たちは真理のすべてが信じられる(理解できる)わけでもないけれど、数学教の階層のどこかにいることは間違いない。多くの人は実在教までの信者だろう。しかし、その上の階層の信者も多くいるのだ。

いや、数学は立派な学問だろうと言うかもしれないね。たしかに、統計学とか解析学とか言って現実に直結している分野もあるのだが、それらは数学の一部でしかない。むしろ定義・公理をもとに構築される演繹体系こそが数学であり、それが大部分を占めている。現実に適合するのは、その中の一握りなのである。$1$, $2$, $3$, $\dots$などは実在していると思うだろうが、数学の概念は頭の中にしかないのだ。だから、信じるかどうかは本人次第であり、信じる者が救われるのである。まさに宗教。

さあ、数学教の信者ならより上の階層を目指そうじゃないか。ただし、一見正しいように思える邪教に流されないようにしよう。ところで、このサイトは数学教の流れを汲(く)んでいるだろうか。少しばかり邪教に染まっているかもしれないね。

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