% 線引きしてもメタ頼み

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\markright{tmt's Math Page}
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\section*{▼線引きしてもメタ頼み▼}

数学は答が一つで明快だとか、白黒がはっきりしてよいとか、とかく物事がすっきり決まる印象を与えるようである。たしかに数学の定義などというものは、これ以上紛らわしいことがないくらい厳密に決めたりするので、そういう一面はあるだろう。しかし、数学を日常に取り込もうとすると、必ずしもそうではない。もっとも、この先の話は数学に限ったことではないんだが、とりあえず数学にからめてみよう。

数学が日常にある例で、誰もが経験するであろうことは数学の試験だ。試験は採点の都合上、答は一つに決まるようにすることが多い。たとえば問題が$\displaystyle \frac{1}{2}-\frac{1}{3}$の計算なら、答は$\displaystyle \frac{1}{6}$であり、これ以外はダメだろう。$0.166\dots$だと×になりがちだ。

うむ、こんな明確な話はない。でも、話はここで終りじゃない。採点基準として$\displaystyle \frac{1}{6}$は○、$0.166\dots$みたいなのは×、と決めておいても、なかには$\displaystyle \frac{2}{12}$とか書く輩(やから)がいるもんだ。でも、そのときは「$\displaystyle \frac{2}{12}$みたいなのは×ね」って決めればよい。すると次に、$0.1\dot6$とかの新手が出てくる。それでも、そういうのは全部その都度規則を決めれば済むのだから、採点基準がぶれることはない。

ほんとかなあ。じゃあ、
\newcommand\samplefrac{%
\begin{picture}(20, 15)(-3, 3)
\setlength\unitlength{.5pt}
\qbezier(20, 15)(0, 5)(10, 3)
\qbezier(10, 3)(20, -3)(15, 8)
\qbezier(15, 8)(3, 13)(0, 7)

\qbezier(0, 20)(8, 13)(22, 18)

\qbezier(12, 30)(9, 15)(13, 18)
\end{picture}%
}%
\samplefrac はどうする?

「字が汚いけどいいんじゃない、○!」「いやいや、これは$6$に見えないでしょ、×!」こうなると、せっかくの規則は無意味になって、焦点は
\newcommand\samplesix{%
\begin{picture}(20, 8)(-3, 1)
\setlength\unitlength{.5pt}
\qbezier(20, 15)(0, 5)(10, 3)
\qbezier(10, 3)(20, -3)(15, 8)
\qbezier(15, 8)(3, 13)(0, 7)
\end{picture}%
}%
\samplesix を$6$と認めるかどうかという話になる。

そう、いくら規則を厳格に決めても、規則には前提というものがあるのだ。いまの例なら、「$\displaystyle \frac{1}{6}$は○」という規則に対する前提は「$6$が$6$に見える」ことである。当然$\displaystyle \frac{1}{6}$と$\displaystyle \frac{1}{b}$は違う。では、$6$と$b$は何によって区別されるのだろう。

問題はそこにあるんだ。正答である$\displaystyle \frac{1}{6}$に対して、$0.1\dot6$や$\displaystyle \frac{2}{12}$や$\displaystyle \frac{1}{\delta}$などは単に$\displaystyle \frac{1}{6}$との比較である。つまり同じ目線で見ている。

一方、\samplefrac は同じ目線で見ることはできない。なぜなら、その目線で比較する前に\samplesix が$6$なのかそうでないのか見極める必要がある。$6$と認めれば○、そうでなければ×だ。つまり、一段上の目線から比較を始めなくてはならない。これはmeta-(「超える」意味を含む接頭辞)の世界から眺めることを意味している。

だったら、人が採点するのはやめて機械が読み取る方式で採点したら? たとえばマークシート方式とか。ごもっともな考えである。機械処理なら曖昧さは排除できる。

本当にそう思う? 機械処理が明確な線引きを可能にすると信じるためには、機械の動作を全面的に受け入れなくちゃならない。もし機械が\samplesix を$6$と認識せず、でも
\begin{picture}(20, 8)(-3, 1)
\setlength\unitlength{.5pt}
\qbezier(20, 15)(0, 5)(10, 3)
\qbezier(10, 3)(20, -3)(15, 8)
\qbezier(15, 8)(8, 13)(3, 9)
\end{picture}%
は$6$と認識したとしたら、あなたは納得できる? 同じことはマークシートの塗りつぶしでも起きる。この塗りつぶしはちょっと薄いから読み取れなかっただって?

もし機械の動作を全面的に受け入れないのなら、機械処理にかけた用紙を人の目で点検しなくちゃならない。おいおい、曖昧さの排除のために機械処理を導入したんじゃなかったの? 本末転倒だね。

結局のところ、どんな線引きを決めたとしても、対象がその線引きに合致するかどうかは一段上の目線で判断しなくてはならない。線引きの基準がすり替わるだけなのだ。何かの判定を誰かに委ねたとき、判定基準は明確にされているといっても安心できない。判定基準に沿っているかどうかの判断は、meta-の世界で曖昧なまま処理されるのだから。

\end{document}