% 三人寄れば文殊?の知恵?

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\section*{▼三人寄れば文殊?の知恵?▼}

『三人寄れば文殊(もんじゅ)の知恵』ということばがあるが、それは三人の知恵は文殊の知恵に匹敵することを意味し、『平凡な人でも複数人が協力すれば、素晴らしい考えが出るものだ』につながっている。文殊は、お釈迦(しゃか)さまの両脇に仕える者の一人で、知恵を司(つかさど)る仏とされる。脇のもう一方をかためるのが普賢(ふげん)である。

大勢の協力でよい知恵が浮かぶことは、多くの人が経験しているだろう。だから世の中って、そういうことで発展してきたのだと思う。本当にそうか?

そうだと考える人なら、いくらでも例を挙げられるだろう。たとえば世に広く浸透している商品なんかは、いろいろな人が集まって侃侃諤諤(かんかんがくがく)、喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論の末によいものができた結果である。中には、たった一人のアイデアが世間に受け入れられてヒットする場合もあるだろうが、こういうのは稀(まれ)な部類に入るのかもしれない。

違うと思うよ。何が違うかっていうと、複数人の協力によって``\textgt{素晴らしい考え}''が出たことだ。``素晴らしい''の定義次第だけれど、いまの例の素晴らしいところは、ヒットしたことが素晴らしいのであって考え自体はそうでもないと思えるからだ。

世間でヒットするとか注目を浴びるということは、要するに\.大\-\.衆\-\.に\-\.刺\-\.さ\-\.ることである。で、大衆ってのは(私を含め)大部分が平凡な人なのだ。つまり、平凡な考えだから平凡な人たちに受けたのである。

これとは異なる例がノーベル賞のような賞である。『○○氏が△△の業績で受賞した』とのニュースが流れると、『○○って誰?』『△△って何?』と多くの人が初めて知るのだ。○○氏の△△の業績は何年も前から世の中にひっそりと浸透していたのにね。つまり大衆には刺さってなかったってことになる。素晴らしい業績にも関わらず\dots。

もちろんノーベル賞の受賞者が一人であっても、そのような業績に関わった人たちは多くいるはずだ。チームを組んでいたかもしれない。でも受賞者が一人なら、結局は業績の核心を突いた考えを出したのは受賞者一人なのである。大勢が集まって素晴らしい考えを出したのではない。もし受賞者がそのチームにいなければ、きっとその業績には至らなかったに違いない。この場合は、大勢の考えが集まって素晴らしい考えが出たのではなく、大勢の中の一人が素晴らしい考えを出したと考えられれる。つまり、三人寄って文殊のような知恵が出たのではく、三人寄ったうちの一人が文殊であったのだ。

いま挙げた二つの例を比較しよう。一つは、大勢から出た平凡な考えが大衆に刺さったため、世間に広まる素晴らしい結果を生んだ例だ。これは文殊に匹敵する知恵が出たわけではない。もう一つは、大勢の中の一人からでた素晴らしい考えが的を射たため、大きな業績につながった例だ。これは文殊に匹敵する人が知恵を出したのである。

『三人寄れば文殊の知恵』というのは、『三人寄れば文殊(に匹敵するほど)の知恵(が出る)』のではなく、『三人寄れば文殊(に匹敵する人から)の知恵(が出る)』なのである。凡人が三人集まったところで、平凡以上の考えが出るわけがないのだ。しかし無作為に大勢が集まれば、その中に``文殊''がいるかもしれない。

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