% 「習うより慣れろ」の真実

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\section*{▼「習うより慣れろ」の真実▼}

学校で丁寧に勉強を教えられて大人になった人たちの中には、何かを習得するためにはどこかで習うことが先決だと思っている人が少なからずいるように思える。実際、そういうタイプのものはたくさんあるが、一方で、つべこべ言う前にとりあえずやってみればいいんだよ、と口を挟む部外者も多い。他人事(ひとごと)だから好き勝手に言えるのかな。

でも昔から、教えてもらうより「見て盗め」みたいな世界は存在する。料理人なんかはその典型かな。いまはどうか知らないけど。

現代では、それに近いのがプログラミングの学習かもしれない。もっとも、見て盗めではなく「習うより慣れろ」という点で、教わるものではないことを暗に言っている。

なぜ、そのようなことが言われるのだろう。その原因は二つあると思う。

一つは、実際に習う類(たぐい)のものではないからである。伝統的な日本料理やプログラミングは運動や楽器の演奏のようなもので、理屈を覚えて再現するものではないからだ。さすがに見て盗めというのは行き過ぎだが、まず自分でやってみて試行錯誤しながら身につけるのだ。もっとも、まったくのゼロから始めることが無理なら、必要最低限の知識は教えてもらえるだろうが、結局は自分でやるのだ。そういうものだからだ。

もう一つは、教えられないからである。理由は、指導者が教えられないのだ。なにしろ指導者だって誰にも教えてもらってないのだから、人に教えられることは自分が受けた指導、大抵は
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『そうじゃないだろ。もっとよく考えてやれ。』
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のような``激アツ''の指導だけである。しかし、それ以上に教えられない理由があるのだ。

実は激アツ指導がまかり通っているのは、「体系的な指導法」が広く知られていないからである。たとえば相当な腕前の料理人であれば、料理に関するあらゆることが身についていて、知識や技能を活用して素晴らしい料理を仕上げることができる。ただし、その``仕様''はその人専用である。なにしろ試行錯誤の末に身につけたものだからだ。

プログラミングにおいても、そういう人は多い。だけど、身についた専用の仕様を体系的に組み替えることができれば、普遍的な指導を行うことができるはずだ。

そもそも学校で習う勉強は、以前は最先端の研究者だけが理解できたものであっても、いまでは高校生以下の全員が理解できるように体系立てて学べるようになっている。そうなるまでには相当の時間が必要だったんだけどね。

料理修行やプログラミングがいまだに習うより慣れろ方式なのは、結局、指導者が教えられないことに尽きる。教えることができる指導者は、身につけた知識や技能が体系的に整理できている人だ。

世に料理教室やプログラミング教室は数あれど、教師や教材が体系立てられたものでないと「教えてもらう」ことはできない。まあ、はなから教えてもらわなければ何もできないと考えてるようでは、明るい未来はないと思ったほうがよい。まず自分で始めてみるのが大事だ。何かを教えてもらう意義が生じるのは、ある程度のレベルに達したときなのである。

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