% 究極のカンニング
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\section*{▼究極のカンニング▼}
試験でよい点数を取りたいのだが勉強はしたくない。だったらカンニングをすればよいのだ。でも問題がある。バレたら甚大な被害---というより報(むく)いだな---を受ける。相応の覚悟が必要である。だったら$\dots$バレなきゃいいじゃん。
\textgt{絶対にバレない}カンニング。それは、何かが書かれた紙を隠し持ったり、目立たない機器を通じて回答を得るのではなく、自分の頭に\textgt{完全コピー}しておくことだ。そうすれば、頭の中から``そのまんま''試験用紙に書き写すだけでよく、誰かに咎(とが)められることもない。究極のカンニングでしょ?
なに言ってんの、それのどこがカンニングなのさ、という声が聞こえるのは承知している。でもね、多くの人が数学の試験ではそうしている、または、そうしてきたんだよ。
数学の``勉強''ってかったるいものである。数学の勉強が、自分の力で問題を解けるようになることを目的とするなら、本当にかったるいものだ。自力で問題が解けるようになるには、まだ自力で解けていない問題に取り組む必要がある。解けていないのだから、解き方を考えなくてはならない(\textgt{解き方を覚える}、じゃないよ!)。それには、教科書・参考書をひっくり返し、解決できそうなヒントを自分で探し、それを手掛かりにして推論と試行錯誤を繰り返すことを、解答にたどりつくまで続けるのだ。
当然、めちゃくちゃ時間がかかる勉強の仕方だが、数学に限らずスポーツや楽器の演奏やダンスなど、上達するためには自分の手足・頭脳をフル回転させて練習するものである。それだけ時間をかけるには何かが犠牲になることも必然で、``好きなこと''なら大抵の場合、寝食を犠牲にしてでも打ち込んでしまうものである。しかし、数学の勉強となると$\dots$寝食を犠牲にしたくはないだろう。
学生にとって数学ができるというのは、数学の試験でよい点が取れることとほぼ同義だ。だから、よい点が取れるような``勉強の仕方''をする。もちろん寝食や趣味などが優先されるようにだ。それには、短時間で成果があがらなくてはならない。学校の試験は型にはまった出題がされるものなので、要は型を丸暗記すれば時短になって効率がよい。その結果、数学の試験の最中は丸暗記したことを解答用紙に書き写すだけのものとなる。これって、さっき言った究極のカンニングのことだよね。
たしかにカンニングが成立すれば、試験勉強のために自分の時間を犠牲にしなくて済む。自力で問題を解く力はつかないけれど、数学は好きじないのだから点数さえ取れればよい、という考えの人にとっては問題ないのだろう。
もし学校の試験が型にはまったものでなければ$\dots$と言いたいところだが、さすがに試験は入試であっても、ほとんどが型通りになってしまうものである。しかし型通りの解答を作ることは、今やコンピュータがすべてやってくれるのだ。だから、人はコンピュータがやってくれないことをしなくてはいけない。それは何かって? カンニングでは解決できないことだよ。つまり、あらかじめ用意されたものから外れることが解決できなくてはならない。臨機応変、変幻自在なんてことばが当てはまるのだろう。それができるためには、そのような経験をしてなくてはならないはずだ。数学の試験で言えば、教科書・参考書をひっくり返し、解決できそうなヒントを自分で探し、それを手掛かりにして推論と試行錯誤を繰り返す経験だ。
数学ができる人というのは、試験でよい点を取るだけではないのだよ。表面上は、丸暗記の結果、試験でよい点が取れた人と同じに見えるものだが、解答用紙に書いたものが異なる。数学ができる人は、推論と試行錯誤を繰り返した結果``身についた''ことを記述したのに対し、丸暗記の人は、単に``暗記した''ことを記述したに過ぎない。数学ができる人は暗記なんてしなかったと思うよ。問題を解いてるうちに身についたんだよ。
人がコンピュータに勝るとしたら、それは暗記したことではなく身についたことでだろう。一例として、人は笑いや悲しみを身につけているけど、コンピュータはおそらく笑いや悲しみを身につけることはないだろう。数学に限らず学校の勉強---教科の勉強だけでなく人との関わりなんか---は、何かが身につくような勉強の仕方をしたいものである。そうでなければ、コンピュータがあれば地球に人は要らないとなりかねないからね。
\end{document}