% 答は一つ

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\section*{▼答は一つ▼}

数学を好む人がその理由の一つに挙げるのが、数学は答が一つしかないので明確である、というものがある。確かに数学の答は一つである。計算をしたら、あるときは$10$になるが、別のときは$20$になるなどということはない。また、方程式$x^2 = 9$には$3$と$-3$の二つの答があるように見えるが、実際は、解が$2$個なのであって「解$x = 2$,~2」という答は一つである。では、証明問題はどうか。証明問題は説明の仕方が何通りもあることが多いので、書き方によっては何通りもの答があるように見える。しかし実際は、AならばBであることを示すための解法がたくさんあるのであって、「AならばBである」という答は一つである。つまり、証明の仕方が正しければ「AならばBである」ことが唯一の主張で、正しい証明をしながら「AなのにBでない」ということが主張されることはない。

と、このように言っておきながら恐縮だが、数学は答が必ずしも一つに限らないことがある。たとえば$1+1$の答は、$2$や$1$や$0$になる。それは、算術和、論理和、二進和のどれで計算したかによるからだ。しかし、通常の計算規則に従うなら$1+1 = 2$以外にあり得ないし、論理和の規則に従うなら$1+1 = 1$しかあり得ない。すなわち、答は一つである。つまり、数学は答が一つしかないので明確である、と言えるのは、数学のどの世界観で見ているかが明確だからなのだ。決して、数学自体が明確なのではない。

で、実はこれは前置きである。ここで、突然だが国語の試験の話になる。国語の試験問題には、文章には書かれていないことを読み取らせる設問があったりする。たとえば「太郎はなぜそのような行動をとったと思われるか」とか「作者は何を意図してこのように言ったか」みたいなものだ。もちろん試験だから正解が一つだけある。しかし、太郎にそのような行動をとらせた理由や、作者が言っていることの本心などは、作者に聞かない限り分からないはずだ。にもかかわらず、正解はこれだと言い切っているのはなぜ?

ひじょーに、うさんくさい。国語の文章なんて、読み手の受け取り方でどうにでもなるんじゃない? だから答は複数あって当たり前。なのに答が一つなんて。やっぱり数学の方が明確で分かりやすくて最高!って考えるなら、それは大きな間違いである。

さっきも書いたよね。数学は答が一つしかないので明確である、と言えるのは、数学のどの世界観で見ているかが明確だからだ、って。国語の試験で正解が一つであるのも、国語のどの世界観で見ているかが明確だからである。要するに、国語の試験の正解を胡散(うさん)臭く感じるのは、国語の試験の世界観に疎(うと)いだけなんだ。

国語というか、余に数多(あまた)ある小説や随筆などは、作者が自身の感性で自由に書いている。中には意見を押し付ける者もいるだろうが、多くは作品の受け止め方は読者に委ねられているはずだ。すなわち、読者の数だけ解釈があると言ってもよい。つまり作品が世に出た時点で、文章の解釈は作者の手から離れたのである。そして、出版界や純文学界などの世界観に従って評価されるのだ。

そう、作者の手から離れた作品は、作品の出来によってそれぞれの世界観が植え付けられる。当然、教科書に載るような、もしくは試験に出題されるような作品は、それなりの世界観に取って代わる。そして、それなりの世界観には独特の規則・感覚というものがある。そこでは、作者がどう考えたかは意味がない。その世界観の規則が作品を縛るのだ。もちろん規則は明確になっているが、一般に知られるほど確かなことではない。それが国語と数学の違いだろう。国語は、国語の世界観を習う前に、人それぞれの世界観で文章を読み始めてしまうので、国語の世界観が身に付きにくいのだ。それに比べて数学は、習い始めから数学の世界観を教わるので、皆が同じ世界観を持ちやすい。それが、「数学の答は一つ」の真相である。

さあ、数学を好む人に数学が好きな理由を聞いてみよう。もし、数学は答が一つしかないことを理由に挙げたら、続けて国語の---あくまでも「国語の」であって「読書の」ではない---好き嫌いも聞いてほしい。ここで、国語も好きだと言えば筋が通っている。だが、国語は嫌いだが数学は好きであると言うならば、本当の理由は別にあるはずだ。国語嫌いの数学好きが、答が一つを理由に挙げるのは的外れである。

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