% 混同するにもほどがある

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\begin{document}

\section*{▼混同するにもほどがある▼}

小学校では算数を習うけれど、中学校から先は数学になる。何で呼び方を変えるんだ? 小学校では主に\textbf{数}の計\textbf{算}をするのに対し、中学校からは\textbf{数}の\textbf{学}問をするからさ、などともっともらしいことを言う輩(やから)もいたりする---私もその一人かもしれないけど。でも、方程式などの道具をばんばん持ち出してくる中学校以降の数学の方が、どちらかというと計算的じゃないかな? それよりも、小学校で習う仕事算とか鶴亀算みたいな算数の方が、どちらかというと学問的じゃない? もちろん総括的に見れば、小学校で習うことは計算的で、中学校以降に習うことは学術的なのかもしれないけれど、ことさら区別しなくてもよさそうだ。あれ?「混同しないにもほどがある」って話になってきたぞ。

本題はここからである。このサイトのあちこちには
\[ 0.999\dots = 1\ \dots(*)
\]
という話が形を変えて出没しているのだが、世間ではこれをどうしても納得しない人々がいる。原因は数学の学習不足であるけれど、それ以前に、算数と数学を混同するにもほどがあるからだ。

計算が中心であることが算数ならば、社会の至る所で行われている勘定や会計処理は算数の範疇(はんちゅう)であろう。一方、数や図形の事象を追求することが数学ならば、現実離れしようとも理詰めで語れるものは確かに数学の範疇であろう。では、$(*)$はどっちの範疇?

もちろん数学の範疇である。なぜなら、理詰めで矛盾のない説明ができるからである。$(*)$が納得できない人は理詰めの説明が理解できないことより、算数---いや、むしろ会計---の感覚でものを考えているからだろう。とくに「$数学 = 計算$」という図式で固まっているのだ。会計感覚では$0.999\dots = 1$であることは許せないはずである。なぜなら``帳尻が合っていない''からだ。

何度も言うけど、数学は会計処理じゃないから帳尻合わせなんかしなくてよい。肝心なのは``辻褄(つじつま)が合っている''ことである。$0.999\dots = 1$であることは矛盾なく説明できる。つまり、辻褄は合っているのだ。この例に限らず、数学に算数の感覚を持ち込んで、話をおかしくしていることがどれほどあるのだろう。

だからといって、算数と数学の線引きをきっちりしろなどと野暮なことを言うつもりはない。算数は数学の感覚を必要とするし、数学もまた算数の感覚を必要とする。誰の言葉か知らないが、『突き詰めると$\dots$
\[\begin{array}{ll}
生物学は化学に\dots &(←話が遺伝子レベルになればそうだな)\\
化学は物理学に\dots &(←話が分子レベルになればそうだな)\\
物理学は数学に\dots &(←話が微分方程式とかになればそうだな)\\
数学は哲学に\dots &(←話が無限の概念を含めばそうだな)
\end{array}\]
$\dots$なる』らしい。話はここまでみたいだけど、じゃあ、哲学は突き詰めると何だ? そりゃあ、人間の本質に行き着くのだろう。人間の本質? それって、生物学で研究してない?

どうやら人間がやることは、色々なところで様々なものが混合しているようだから、明確に線を引こうなどと考えない方がよさそうだ。でも、混合しているからといって、混同しすぎてよいわけではない。

\end{document}