% 仮定がすべて
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\begin{document}
\section*{▼仮定がすべて▼}
数学の学習法や指導法には、その方法について度々(たびたび)派閥ができることがある。学習法については
\begin{itemize}
\item 解法などのあらゆるパターンを丸暗記して、出題された問題に当てはめる
\item 公式だけは覚えるが、出題された問題は公式レベルまで落とし込んで解く
\end{itemize}
みたいな、いわゆる「丸暗記派」と「省暗記派」のどちらがよいかという小競り合いが起きている。丸暗記派は、試験での設問パターンは大体決まっているのだから、できるだけ多くのパターンを暗記するのが効率的だと言う。一方省暗記派は、暗記できる量には限りがあるから問題の本質を見抜くようにしておけば、初見の問題にも対応できて融通が効くと言う。
また、指導法について典型的なのは、小学校の掛け算の指導において
\begin{itemize}
\item 掛け算には意味があるのだから、掛ける順序は大事
\item 結果は同じだから、掛ける順序はどっちが先でもよい
\end{itemize}
みたいな、いわゆる「(掛ける順)遵守派」と「(掛ける順)無視派」のどちらが正しいかという論争が起きている。遵守派は、設問を正しく理解するためには掛ける順序は決めておくべきだと言う。一方無視派は、掛け算の交換法則が成り立っているのだから掛ける順序が固定されるのはおかしいと言う。
どちらの派にも一理あるように思える。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が好きな人や喧々囂々(けんけんごうごう)のSNS住民なら延々と持論を展開する話かもしれないが、そんなのは不毛なやりとりでしかない。これらはどちらが優れているかの結論なんて出るわけがないのだ。だって、何を「仮定」しているの?
学習法や指導法について議論するのは結構だが、大体こういうときは
\begin{center}
「○○は△△だからよい」とか「□□は××だから悪い」
\end{center}
のように、○○や□□自体が真理であるような論調で互いが言いたい放題言うのである。違うでしょ〜。何かが真実であることを示すには、何らかの証明をする必要がある。で、証明とは仮定から結論を導くものなのだ。なのに、上記の主張はいずれも何も仮定していない。
学習法なら、生徒の現状と試験までの時間など(←これが仮定)が分からなければ、正しい結論は出ない。たとえば、実力がいまひとつで時間も少ないとなれば悠長なことは言っていられない。典型的な問題を数多く丸暗記して、確実に適用できる練習を積むしかないだろう。もし、実力がいまひとつでも試験勉強に十分すぎる時間が取れるなら、省暗記派への``体質改善''をはかるのもよいだろう。要するに、人それぞれに前提が異なるわけだから、前提(仮定)がその後のすべてを決めるのだ。
また指導法なら、学習のねらいや児童に何を学ばせるかなど(←これが仮定)が明確でなければ、正しい結論は出ない。たとえば、単元の確認テストをする場合を考えてみよう。掛け算の単元なんだから、式は掛け算に決まっている。だったら$2$値を見ただけで掛ければよいことは明白だろう。これで掛け算が理解できたと言えるだろうか。でも、単に$2$値だけの設問にならないようにすれば、何と何を掛けるか考える必要があるので掛ける順序にこだわる意味はないだろう。要するに、指導する目的があるわけだから、ねらい(仮定)がその後のすべてを決めるのだ。
もっとも仮定をきちんと定められても、数学のように理屈通りにコトが運ぶとは限らない。それでも、想定どおりに進むことも仮定に含めるなら、仮定から一つの結論を導けるだろう。それは、数学においても現実においても同じことなのである。議論するなら仮定を定めよう。すると、仮定の定め方によって異なる結論に至ることになる。そう、絶対的な真理なんてないんだからね。数学においても現実においても。
\end{document}