% 簡単にできる方法はないですか?

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\section*{▼簡単にできる方法はないですか?▼}

数学をやっている連中は小難しいことが好きなんだろう、と思ってないだろうか。とんでもない。数学をやっている人たちは、面倒くさいことや難しいことが嫌いなのだ。つまり、この点では数学嫌いの人たちとなんら変わらないのである。じゃあ、何が違うのだろう。それは、面倒くさいことがもっと楽にならないか、難しいことがもっと簡単にならないか、と``常に考えている''点である。楽にしたり簡単にしたりするために、とことん考えるものなのだ。

しかし、数学嫌いの人はそうではないだろう。面倒くさいことがもっと楽にならないか、難しいことがもっと簡単にならないか、と考えたとしても、その``方法''を見出すためにとことん考えることはせず、その``代替''になるものがあればいいと思っているのではないだろうか。というのも、こんなことを目にしたことがあるからだ。それは$\dots$
\begin{quote}
「たとえば$x^2-9x-36$の因数分解は、足して$-9$、掛けて$-36$になればよいので$(x+3)(x-12)$になることは分かる。ただ、調べることなく$3$と$-12$を知る方法はないか?」
\end{quote}
という趣旨の質問だ。実は質問の真意は分からないのだが、おそらく係数が大きな数になったときに$2$数を探すことが難しいから、そのようなときでも一発で$2$数を知ることができないか、ということではないかと思われる。もしかしたら、因数分解を習い始めたばかりの中学生の疑問だったかもしれない。

それにしても耳を疑うような話ではある。はあ$\nearrow$? 係数が少々大きかろうが、ほんの数通りの組み合せを試せば済む話じゃないかね。ところが、数通りの組み合わせを試行錯誤によって調べるの苦痛なのか、要するに「もっと簡単に分かる方法はないか」と聞いているわけだ。はあ$\searrow$。

どうやら彼らにとっての数学は、計算をすることであり、計算とは一本道で処理できるものを指しているようだ。つまり、小学校の頃から決められたやり方で計算することに慣れてしまったため、自分で考えたり試したりすることができないのである。

では$x^2-9x-36$の因数分解で、足して$-9$、掛けて$-36$になる$2$数を試行錯誤することなく求めることができるのだろうか。もし、できるなら彼らにとって福音となるかもしれない。

$2$次式$x^2+ax+b$の因数分解において、$(x+m)(x+n)$の$m$, $n$を一本道で求める方法は存在する。それは、
\[
m = \frac{a+\sqrt{a^2-4b}}{2},\quad n = \frac{a-\sqrt{a^2-4b}}{2}\ \dots[公式?]
\]
に代入すればよい。実際、$x^2-9x-36$の場合は、
\[
m = \frac{-9+\sqrt{(-9)^2-4\cdot(-36)}}{2} = \frac{-9+\sqrt{225}}{2} = +3,\quad n = \frac{-9-\sqrt{(-9)^2-4\cdot(-36)}}{2} = -12
\]
であるから、$(x+3)(x-12)$となる。

でも、これって簡単か? この例では少なくとも$\sqrt{225}$の開平ができなくてはならないぞ。それでも数通りの候補を試す必要がない分、楽だと思うのだろうか? 本気で、[公式?]を覚えておけば因数分解が一発でできる、と言って嬉々としているなら恐ろしい。数学の全てを、一切考えることなく「暗記して当てはめる」で乗り切ることで済まそうとするなら、数学なんて勉強しなくてもいいんじゃなかろうか。浮いた時間は他のことに使おう。考えない数学なら、専門家がプログラムした機械どころか、中学生がプログラムした機械があればいい。

(考えないで)単に機械的に当てはめることが正当であるのは、(繰り返し考えたことで)自然と機械的にできるようになった場合である。スポーツで上級者の動作を真似たからといって同じようにできるものではない。上級者は繰り返しの練習---おそらく試行錯誤もしたであろう---で自然な動作が身についたのだから。つまり、上級者は何も考えずに反射的に動作しているのではなく、反射的に動作できるようになったから考える必要がなくなったのである。公式(動作)だけ真似ても意味はないのだ。

そうは言っても、簡単な道に流れていくことは必ずしも悪いことではない。たとえば$24\times25\times7$の計算は、
\[
24\times25\times7 = (6\times4)\times25\times7 = (4\times25)\times(6\times7) = 100\times42 = 4200
\]
と工夫すれば簡単に、または暗算で計算できるのだが、最初の式を簡単にするために時間がかかるようでは本末転倒である。$24\times25\times7$を$(6\times4)\times25\times7$にすればよいことに気づくのに$40$秒かかって計算を$5$秒で終えるより、$24\times25\times7$を頭から順に掛けて$30$秒で終わらせる方がましだと思うのだが。とくに、時間が限られている試験に臨んでいる場合はね。

そもそも``工夫する''と気楽に言っているが、$24\to 6\times4$を工夫と呼ぶなら、そこでは整数の因数分解をしていることになる。それって、無意識のうちにできるものなのか? 単に、九九の逆に過ぎないと言えるほど簡単なことではないと思う。たとえば$48\to 12\times4$にする必要があれば、完全に九九の域を超えている。自然にできる工夫では到底ない。もし、工夫して計算するやり方が身につかないのなら、無理に工夫することはないだろう。

同様に、$2$次方程式を因数分解---とくに``たすき掛け''---で解くことが苦手なら、解の公式一本で済ませても仕方ないことだと思う。工夫して簡単にすることは数学好きの人にとって嬉しいことかもしれないが、目の前の問題さえ解ければいいという人は解ければよいのである。解けそうもない問題は、どうせ手をつけないのだから。

ところで、小学校では計算の工夫をさせる単元があるようだが、ある問題に対して指導書にはおそらく$1$通りの模範解答が示されているのだろう。それだと、模範解答以外の工夫を``発明''した児童は認めてもらえないことになる。工夫の仕方が強要されるなら、それは``工夫''ではなく``無用の公式''である。

\end{document}