% 「行」の不思議な常識
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\section*{▼「行」の不思議な常識▼}
あなたがだれかに郵便を送り、その返事を送り返してもらう場合を考えよう。返信用の葉書や封筒にあなたが居る(または会社がある)ところの住所を書くのはあたりまえだし、あなたの名前か会社の部署名を書くのも当然のことである。そしてここから先は広く日本の社会の習慣として行われていることだが、あなたの名前の下には「行」の文字が書き加えられる。あて先が会社の部署なら「係」などの文字が書き加えられる。
さて、今度はそのような郵便を受け取った側の行動を思い描いてみよう。自分がおよそ常識的な人物であると感じていれば、返信用の郵便に必要事項を記入した後にあなたがすることは、その恐れ多い宛名に書かれた「行」を消して「様」に書き直したり、「御中」を書き加えたりすることだろう。
私はこのことに納得がいかない。というより、この手順を踏んでいる習慣に納得がいかない。この習慣をかたくなに守っている人たちにはそれなりの言い分がある。返信する側になったときは、相手方を敬って「行」を「様」に変えるのは礼儀であると。また、自分に返信が戻ってくる側であれば、宛名の下に「様」をつけるなんてとんでもないことだ。私のもとへ戻ってくるのだから「行」で十分じゃないかと。
でも、ちょっと立ち止まって考えてほしい。郵便の仕組みなんて世界共通である。郵便物の表書きに住所を書けば配達人が郵便をその場所へ持っていってくれる。そして、その場所に名前の人物がいれば当人の手元に届くのである。何のことはない、表書きに必要なものは住所と名前だけなのだ。そう、住所と名前だけ。どこにも「様」とか「御中」とか書く必要はないのである。だけど「様」を書いている。当然だ。相手を敬えない者に手紙を書く資格はない。誤解のないように付け加えよう。私は相手方の宛名に「様」を付けることには異論はないのだ。
異論があるところは、自分に戻ってくる返信用の宛名に「行」はいらないということだ。これでも確実に戻ってくる。なぜって、そういう仕組みなんだから。
どうして私がこんなことにこだわったか説明しよう。実は私もこの習慣に何の疑問もなく従っていた。もちろん私のところにもたくさんの返信用葉書を含む郵便が来た。どの返信用の葉書の宛名にも「行」が印刷されていたので、私は常識人であることを示すために必ず「行」を消して「様」に書き直していた。しかし、中には私のこういった作業を軽減させてくれるつもりなのか、「行」の字が小さく、そう、消しやすいように小さく印刷されているものがあるではないか。
疑問に思ったのはこのときである。これでは強制的に「行」を「様」に直しなさいと言っているようなものだ。もし私の作業を減らしてくれるつもりなら、はじめから「様」を付けてくれるとありがたい。でも、おそらくそれはできない相談なのだろう。自分自身を「様呼ばわり」すればどういう顛末が待ち受けているかは、考える必要もないくらい自明なことだから。
私の結論を言おう。返信用の宛名には「行」も「様」もいらない。名前だけでいいじゃないか。これで返信が確実に戻るのだから目的は達成される。もし返信者が相手を敬う気持ちがあれば、名前の下に「様」を書き足せばよい。また、返信する相手の作業を軽減させてあげる目的なら、名前と同じ大きさで「行」と書こう。これに対して返信者はそのまま投函すればよい。
今では、私は返信用の葉書や封筒に書かれている宛名には一切変更を加えていない。そのままの状態でポストへ投函している。私はこのことで非常識な人物と思われるかもしれないが、それはかまわない。自分がばかげていると感じている習慣が、意味もなく存続していることが好きじゃないだけのことなのだ。
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