% ホントに「同じこと」って言えるの?

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\section*{▼ホントに「同じこと」って言えるの?▼}

私が他人のことをとやかく言えた義理ではないのだが、こむずかしい話や説明をするときに、「たとえば何々の場合は何だろ。だから、いまの場合もそれと同じことだよ」なんて表現することは、よくあると思われる。数学は抽象的なことばが多く使われているので、分かりやすいように現実的な事例で示したり、コンピュータの仕組みを説明するのに、身の回りの道具などに置き換えてみる、といったことだ。具体的には、
\begin{quote}
それ以上、数の積に分解できないと思われる素数も、実は複素数の積に分解できることがある。物質の根源のように思われる原子核だって、実は陽子と中性子に分解できるじゃないか。それと同じことだよ。
\end{quote}
であるとか
\begin{quote}
住居の機能の一部であるキッチンを使って食事を作るのと同じように、Excelの機能の一部であるVBAを使ってマクロを組む。また、食事はいくつかの料理で構成されるように、マクロはいくつかのプロシージャで構成される。
\end{quote}
みたいなことである。いずれも、私がどこかで述べたことがらだ。

自分で述べておきながら、ホントに同じことを言ってるのか?と疑ってみよう。まず、$2$や$5$は素数であるが、たしかに$2 = (1+i)(1-i)$、$5 = (1+2i)(1-2i)$と分解できる。原子核が陽子と中性子に分解できるのも事実である---しかし私は見たことがない---ので、素数も原子核も似たような性質を持っているかのように聞こえる。でも、似ているのは分解できるということだけである。

まず、素数には分解できるものとできないものがある---たとえば$3$は複素数の積にならない---が、原子核はすべて陽子と中性子で構成されている(らしい)。それに、素数が分解されるときは必ず$a+bi$と$a-bi$の積になるが、原子核の場合は陽子や中性子の数が$5$個だったり$6$個だったりする(らしい)。つまり、分解される個数が違うのだ。また素数は、分解したとき整数値を使わなくてよければ$2$は、たとえば$\displaystyle -(1-i)^2\left(\frac{\sqrt{3}}{2}-\frac{i}{2}\right)\left(\frac{1}{2}-\frac{\sqrt{3}}{2}i\right)$とすることができるし、さらに望めばいくらでも多くの積に分解することもできる。しかし原子核の分解はクオークで打ち止めと考えられている。要するに、ほとんど関係ないことがらを並べて述べたに過ぎない。

では、VBAの方はどうだろう。実際、料理を作ったりマクロを組めばわかることだが、どちらも様々ではあるが限られた材料を使って、創意を重ねながら一つずつ作業を進めていくので、料理もマクロも似ているように思える。でも、似ているのは機能の一部であることだけである。

そもそも料理は一つひとつ独立しているが、プロシージャは互いに関連している。もちろん、料理だって他との兼ね合いを考えて作るだろうが、それぞれの一品はそれで完結しているものだ。でも、マクロの中のプロシージャがそれだけで完結していることはまずないだろう。また、限られた材料といっても、料理の素材は自由に組み合わせられるが、マクロはそうではない。それに、食事はキッチンに依存していない。キッチンがなければ食事が作れないわけでもないし、食べられないわけでもない。しかし、マクロは違う。VBAの機能でなくテキストエディタなどでマクロの記述はできても、VBAの機能がなければ働かないのだ。結局、この例も無関係のことがらを並べたに過ぎない。

私は、何も懺悔(ざんげ)のために自分が述べたことを持ち出したわけではない。適当な他人の例を思い出せなかったのと、かりに思い出していても、むやみに他人を批判するような真似はしたくなかっただけのことだ。

たとえ話というのは、話を分かりやすくする効果がある一方で、本質からずれた話になることがほとんどだ。そのため、本当の真実が伝わらない可能性がある。困ったことに、たとえ話は分かりやすいので、さらに人から人へと伝播しやすい。逆に、真実の話は難解なので、きちんと理解できる者の間でしか広まらない。つまり、真実でない話が広く伝わるということだから、世の中で広く信じられていることは、それほど信頼できる話でないとも言える。分かりやすいたとえ話をするのも考えものである。

私が言いたいのは、似ている部分に目を奪われて本質を見失ってはいけない、ということだ。何かの説明をする人であれば、理解してもらいたい善意がそうさせるかもしれないが、主張の正当性をどうにかして認めさせようとしている人であれば、都合の良い部分を強調しているだけかもしれない。一部に共通する話が全部に共通するなんて保証はどこにあるの? 口車に乗ってだまされる前に、ひと呼吸おいて考えようじゃないか。

\end{document}