% 発見?それとも発明?

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\section*{▼発見?それとも発明?▼}

数学の定理は、むかし誰かが証明を与えたことで一種の『真理』となっている。で、その真理は大抵、証明した人が『発見』したものだと解釈されることが多い。たしかに『発明』と言うには違和感がある。と言うのも、国語辞典なんかには
\begin{quote}
\textgt{発見:} はじめて見つけ出すこと \\
\textgt{発明:} はじめて考え出すこと
\end{quote}
のように書かれている。定理の証明は、はじめて``考え出すこと''にあたるかもしれないが、定理自体は真理として存在していたはずだ。定理をはじめて``見つけ出した''のは証明者(もしくは定理の存在に気づいた人)たちなのだから、数学の定理は『発見』と呼ぶのがふさわしい。証明者たちは定理を``発見''し、単にその正当性を示すための証明方法を``発明''したのである。地中からダイヤモンドの原石を``発見''して、それがダイヤモンドであることを証明するために研磨技術を``発明''するようなものだ。

本当にそうか?

たとえばピタゴラスの定理。本当にピタゴラスの業績かどうかは怪しいのだが
\[
直角三角形であること \Leftrightarrow 三辺の長さに\ a^2+b^2 = c^2\ が成り立つこと
\]
は、人類が存在しようがしまいが真理として成り立っている。つまり、もともと存在しているものだ。それを人間が``発見''して、文字・数字・数式の``発明''の上に証明が展開されているのだ。だから定理は『発見』された$\dots$じゃないよ!

直角三角形って人類の『発明』だよ。そもそも\textgt{直線}---その上にある点が一様に無限にのびているもの---はこの世にない。だって\textgt{点}自体、位置はあるが大きさはないものなんだから。なにそれ? $1+2 = 3$だってそうだ。私たちはよく、$1$個のりんごと$2$個のりんごで$3$個のりんごになると解釈をするけど、それは厳密に$1+2 = 3$になってないよね。りんごは同じ形と大きさに見えても、実際は微妙に異なっているに決まってる。日常ではそれを$1+2 =3$に当てはめるけど、数学では
\[
(1.0\stackrel{0が100個}{\dots\dots\dots}05)+(2.0\stackrel{0が100個}{\dots\dots\dots}02) = 3.0\stackrel{0が100個}{\dots\dots\dots}07
\]
を$1+2 = 3$に当てはめることはない。そういうあり得ない\textgt{数}は人類が頭の中で『発明』したのである。

数学の世界はすべて人類の頭の中で『発明』されたものだ。それを現実の世界で適用できるものに適用しているから、数学が実態を伴って実在しているように感じるが、実際は人間の頭の中にしか存在しないものである。見つけ出したんじゃない、考え出したんだ。

だけど物理の法則はちょっと違うと思うのだ。たとえば万有引力の法則である$\displaystyle F = G\frac{m_1m_2}{r^2}$は、人類が存在しようがしまいがこの宇宙で成立している。この法則がこのように記述できるようになったのは人類の``発明''ではあるが、$2$物体にはたらく力が、$2$物体の質量に比例し、$2$物体間の距離の$2$乗に反比例することは、宇宙の真理である。人類はその真理を``発見''したにすぎない。そう考えれば、多くの物理の法則は『発見』でよいだろう。

でも、数学の定理はすべて『発明』である。数学の理屈はすべて、人類が考え出した数や点・線などで構成されているんだからね。おお、すごいことを発見しちゃったぞ。

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