% どうやって見分けるんですか?
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\markright{tmt's Math Page}
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\begin{document}
\section*{▼どうやって見分けるんですか?▼}
早速だが、問題をいくつか取り上げよう。
\begin{enumerate}
\item[1.]
\begin{enumerate}
\item 全長$500$mの道路に、端から端まで$20$m間隔で樹木を植えたい。樹木は何本必要か?
\item[] $500\div20+1 = 26$(本)。
\item 一周$500$mの池の周りに、$20$m間隔で樹木を植えたい。樹木は何本必要か?
\item[] $500\div20 = 25$(本)。
\end{enumerate}
\item[2.]
\begin{enumerate}
\item 異なる絵画が$8$枚ある。$2$枚選んで買う場合、何通りの買い方があるか?
\item[] ${}_8\textrm{C}_2 = 28$(通り)。
\item 異なる絵画が$8$枚ある。$2$部屋に$1$枚ずつ飾る場合、何通りの飾り方があるか?
\item[] ${}_8\textrm{P}_2 = 56$(通り)。
\end{enumerate}
\item[3.]
\begin{enumerate}
\item ひし形は平行四辺形であるための(\hspace{1cm})条件である。\qquad (十分)。
\item 平行四辺形はひし形であるための(\hspace{1cm})条件である。\qquad (必要)。
\end{enumerate}
\end{enumerate}
$3$組ある問題のどれも微妙に違っており、答も異なる。問題が違うので答が異なっていてもなんら不思議ではないが、1.の違いは$1$を足すかどうかであり、2.はCかPかである。3.は問題の問い方で答が異なっている。この手の問題に精通していれば迷うことなど何もないけれど、それぞれの単元の学び始めであれば少し考えてしまうものだ。
おっと、いま重要なことを言ったぞ。``少し考えて''という部分だ。そう、これらの問題は類似問題を考えて解いているうちに、問題が意図していることが読み取れるようになるもので、その結果、とくに迷うことなく正しい解答を導くことができる。
その一方で、$1$を足すのか足さないのか、CなのかPなのか、十分なのか必要なのか、といった区別がつかないために正しい答に到達しない人たちもいる。そして、彼らが言うことは決まって「どうやって見分けるんですか?」なのだ。正しい解答を導いている人たちは、何かで見分けているわけじゃないのに。
もし何かで見分けているとすれば、1.は直線に沿って植えるか円周に沿って植えるかだろう。2.は``$2$枚選んで''だから組合せ、``$2$部屋に$1$枚ずつ''だから順列という具合だ。でも、考えて解くことが習慣だった人たちは、おそらく単語や言葉で見分けていないと思う。3.については、理解の度合いによって人それぞれだろうから後述することにしよう。
考えて解くときにすることは、多分、図を描いたり状況を具体的に思い浮かべることだろう。1.なら図を描けば、$500\div20$で得られるのが樹木の数でなく、樹木と樹木の間隔の数ということが見える。だから、樹木の数は間隔の数より1多いことに気づくのだ。2.なら自分が絵を手にして行うことを想像すれば、$2$枚選ぶときにA、Bの絵画を抱える様子と、$2$部屋にA 、Bの絵画を飾る様子では状況が異なることが見える。だから、A、Bに順位づけが生じるのは部屋に飾る場合だと気づくのだ。
そもそも、形式的に何かで見分けることは危険なのだ。たとえば、$50$cmの千歳飴(ちとせあめ---見たことある?)を$5$cmずつに切ると、切り込みはいくつになるか?とか、$4$色から$2$色を選んでカスタネットの色を決めると、何種類のカスタネットができるか?とか。千歳飴は直線だから$1$は足さない、カスタネットは$2$色選ぶだけだから組合せ、じゃあない。正解は、
\begin{itemize}
\item[-] 千歳飴は$50\div5$個に分かれるが、切り込みはそれより$1$少ないから$50\div5-1$。
\item[-] カスタネットはたぶん、突起の有無で上下の区別があるので${}_4\textrm{P}_2$。
\end{itemize}
である。「直線」だの「$2$色選ぶ」だの、単語で区別するのではなく、文章を現実の状況に置き換えて考える必要があるのだ。
ただ、3.は文章を現実の状況に置き換えるわけではない。必要条件、十分条件というのは、教科書的には
\begin{quote}\noindent\bfseries
\textrm{P}\ $\Rightarrow$\ \textrm{Q}が真のとき、\\
\textrm{P}は\textrm{Q}であるための十分条件、\textrm{Q}は\textrm{P}であるための必要条件、という
\end{quote}
である。機械的と感じるかもしれない。でも感覚的には、Aであることが言えれば(Bであることを言うまでもなく)``Aだけで十分''なので、AはBであるための十分条件である。また、Aであることを言っても(Bであるとは言えないのなら)``Aは最低限必要なこと''しか言ってないので、AはBであるための必要条件である。こんな具合にとても自然な言葉づかいなのだ。
実際3.は、ひし形であることが言えれば(平行四辺形であることを持ち出さなくとも)それだけで十分なので、ひし型は平行四辺形であるための十分条件。また、平行四辺形であることを言っても(ひし形になっているとは限らないので)平行四辺形はひし型であるための必要条件に過ぎない。これらのことが感覚的に分かるとしたら、ひし形や平行四辺形を現実の状況に置き換えることができているからだろう。
見分けることにこだわるのは、おそらく考えることが嫌なのだろう。たとえば$2$次方程式
\[
\textrm{(A)}\ x^2-6x-8 = 0、\qquad \textrm{(B)}\ x^2-6x+8 = 0
\]
において、(A)は解の公式を使い、(B)は因数分解する方が楽だが、「どうやって見分けるんですか?」と聞く者が多いのも考えたくないことの証拠だ。見分けて解く人なんていないよ。誰でも、因数分解を試みて無理なら解の公式で解くんだ。数本に枝分かれした道の先をちょいちょいっと調べて、適切な道を進むことをしているだけなのにね。
でも皆、スープを見たらスプーン、ステーキを見たらナイフ・フォーク、のような決まりきった一本道が欲しいのだ。決まりきったことは機械に任せればよろしい。コンピュータでも簡単にプログラムが書ける。でも、考える---つまり試行錯誤や状況を図で表す---ことは機械にとって難しい。コンピュータでもしらみつぶしの探索は時間がかかるし、状況を図にすることは相当厳しい。
これからの時代はますます機械化が進むはずなのに、機械にとって難しいことはやろうとしないで、機械でも簡単にできることを身につけようとする行為は如何(いかが)なものか。考えることが数学の専売と言うつもりはないので、数学に限らず考える習慣が身につくような生活を心がけたいものである。
\end{document}