% 勉強するなら数学に限らず...

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\section*{▼勉強するなら数学に限らず$\dots$▼}

人生の中で``決断''を迫られる場面は数多くやってくる。というか、すでに数多くの決断をしてきたのではないかな? 当然、よい決断と思えたこともあれば、悪い決断と思えたこともあるだろう。場合によっては他人の意見を鵜呑みにし、うまくいかず他人のせいにしたくなったこともあるんじゃない?

でもね、結局のところ
\begin{center}
\textgt{決断とは、自分を信じられるかどうか}
\end{center}
じゃないだろうか。他人が何と言おうと、それを信じて(または、信じられず)決断を下したのは紛れもないあなただ。そして決断の根拠は、あなた\textgt{自身が信じたこと}である。

じゃあ、なぜそれを信じたのだろうか。おそらく、あなた自身の知識や経験が元になっていたはずだ。それら知識/経験に照らして『こういう理由だからこうしよう』と思ったわけである。

人は「よくわからないモノ」には拒否反応を示すものである。よくわからないから避けた方が無難と思うからだ。数学はそのうちのひとつかもしれない。でも、よくわかっていれば自信を持って判断できる。そう、ここがポイントだ。

感染症が流行って新しいワクチンが開発されたときなどは、『それ打って大丈夫なのな?』と思うのは自然なことだと思う。自信を持って大丈夫と思える人は、開発に携わったりワクチンが効果を発揮する理屈を理解できる人だ。でも、多くの人はそうじゃない。にわか勉強で理解に努めたり、開発関係者を信じたりして『よし、大丈夫』と思ってワクチンを接種するものである\footnote{「他人を信じる」ということは、「他人(の言動)を(\textgt{自分が})信じる」ことである。だから、その結果が失敗であっても他人のせいではない。}。

ところが、理屈の理解に努めようとせず、他人の言うことを信じなければ『それ、絶対ヤバい』と思ってワクチンは接種しないものだ。そういう人に限って、自分に都合のよい情報だけを仕入れ、乏しい理解だけを信じるものだから、場合によっては不利益を被るのである。おそらく『学校の勉強なんて社会で使わないから不要だ』と考えてもいるだろう。

\begin{center}
『でも本当は、数学をちゃんと勉強すれは、\textgt{理屈を理解する習慣がいつの間にか身につく}んだけどなあ』
\end{center}

たしかに方程式だの証明だのは、使うことなく生涯を終える人の方が多いのではないだろうか? でも、そうじゃないと思うよ。現実の活動場面では使うことはないかもしれないが、何らかの判断/決断の際には無意識に使っているのだよ。そして無意識に湧き出るのは、たぶんあなたに染み付いた理屈だと思う。

で、理屈の土台はそれまでに得た知識や経験だろう、このとき、知識/経験が豊富なほど「よくわからない」と思えるものは減る。つまり、わかっていることは増えるのだ。そして、そこには数学に限らない知識---たとえば古文や歴史なんか---も援助してくれるはずだ。\textgt{そう、数学だけじゃちょっと足りないかもね。}だから、判断材料が多いほど、よりよい判断/決断につながる可能性は高まるわけである。

そのためにも勉強は(実際に使わなくても、判断材料のためには)必要なのである。勉強は学校で学ぶものだけではないので、不要と思えることでも勉強量は増やせるだけ増やした方がよいのだ。

と、エラそうに書いている私は自分が勉強不足であることを自覚している。だから、けっこう頓珍漢(とんちんかん)なことをやらかしてきたように思う。あなた方には、たとえば、インターネットから都合よい記事や表面だけ掬(すく)い取って浅はかな決断を下さないためにも、たくさん勉強することをオススメする。だけど、勉強はどうしても``無駄''な行為にしか思えないから、無駄遣い同様、余裕がない人には難しいのかもしれない\footnote{無駄遣いは、お金に余裕があるからできる行為である。}。

\end{document}