% all is nothing
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\section*{▼all is nothing▼}
``all or nothing''という言葉がある。「全てを、さもなくば無を」というところだろうか。すべて手に入らなければ、せめて半分でも手に入れたいと思うのは凡人の考えだ。``all or nothing''というのは、正反対の選択を迫っている。$1$か$0$か。でも、そうじゃない。私の感覚では、これはどちらに転んでも同じことだと言っている。つまり、``all is nothing''だ。要するに全部$0$。
このことを如実に語るものがある。講演会に参加しているとか、学校で授業を受けているとか、あなたが何か得るための活動をしていると思ってほしい。
講演会の内容がまったく理解できなかったらどうだろう。たとえばスワヒリ語で話されていたり$\dots$。また、授業の内容がまったく理解できなかったらどうだろう。あまりに程度が高い授業だったり$\dots$。いや、もしかしたら、自分があまりに程度が低かったのかもしれない。いずれにせよ、得るものはない。
では、逆に講演会の内容がすべて``理解できている''としよう。ここで言う理解できているというのは、話されていることが分かるという意味ではない。話されていることが分かる上に、その内容は既に自分のものになっていることを指す。話されていることが分かる上に、なるほどと感心するのとは違うことに注意してほしい。それは、授業の内容がすべて理解できているというときも同じである。このような場合であっても、やはり得るものはないだろう。だって、既に自分のものになっているんだから。
もっとも、講演会は学校の授業と違って、最先端の講義がされることもあるので、その場合にすべてが理解できているというなら、あなたは先頭集団の仲間だ。得るものはないかもしれないが、開拓心が増すはずだ。しかし、そうでない場合はまさに``all is nothing''であろう。
では、どんな状況が望ましいのだろう。話の$90$\%が理解できていて、$10$\%がなるほどと思えるときだろうか。理解できていることとなるほどと思えることが半々のときだろうか。または、理解できているのが$50$\%ぐらいで、残りがまったく理解不能のときだろうか。
私の個人的な意見を述べさせてもらえるなら、講演会では、理解できている割合は極力低く、そして残りのすべての割合でなるほどと感じられるのが嬉しい。私が参加するような講演会は、繰り返し聴く性質のものではないし、持ち帰って熱心に研究するつもりもないからだ。それなら、心地よく聴きたいものである。すべて理解できている話でも心地よいかもしれないが、やっぱり刺激がある方がよい。
でも、授業となると話は別だ。授業だって、理解できている割合は極力低く、そして残りのすべての割合でなるほどと感じられる方がよくない? そうすれば、少しの知識の上に新たな知識がたっぷり入るので、大変効率がよいでしょう。
いやいや、そんなことはない。授業の場合は、理解できている割合は極力高く、そして残りのすべての割合でよく分からないと感じられる方がよいのだ。それじゃあ、心地よくないだろうって? その通り。その部分に心地よさなど要らない。むしろストレスになる方がよい。しかし、それは極力低い割合のストレスだから、きちんと対処すれば乗り越えられるし、力ってのはそうやってつくものである。
こう言うと、「残りのすべての割合でよく分からない」という部分が「残りのすべての割合でなるほどと感じられる」である方が、より効率的に思えるのではないだろうか。しかし、それは間違っている。講演会はその場限りだから、そのときに分かる方がよい。授業は違う。そのとき分からなくても、後で何度でも振り返ることができる。この機会があるために、理解を他人任せでなく自分の責任ですることができるのだ。ただし、注意しなくてはならないことがある。授業は``あなたの都合にお構いなく''進むのだ。つまり授業が進んでしまう前に、よく分からないことをものにしておく努力が欠かせない。その負担を小さくするために、理解できている割合が極力高くなくてはならなかったのである。
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