% 20周年って中途半端に迷惑

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\section*{▼$20$周年って中途半端に迷惑▼}

何かの記念に○周年のお祝いや行事を行うことはよくある。結婚$10$年目とか開業$10$周年なんかのことだ。それはよいことだと思うのだが、$20$周年となると中途半端だと言いたくなる。ある条件の下では、という注釈がつくけど。

結婚$20$年目の場合は文句はない。$25$年で銀婚式、$50$年で金婚式などは知られているが、なんと$1$年目の紙婚式から$15$年目の水晶婚式まで各年目ごとに名称があるという。で、$20$年目は磁器(または陶器)婚式と呼ぶらしい。文句がないというのはすでに決まりごとが存在しているからではなく、延々続く可能性がないからだ。結婚$100$周年は訪れるかもしれないが結婚$200$周年は来ないだろう。

私が言うある条件とは、延々続く可能性がある場合だ。たとえば会社設立○周年などがそれにあたる。会社は$100$年でも$200$年でも存続可能だ。このような場合$20$周年は中途半端だ。正確に言うと$20$周年そのものではなく、$20$周年を設定することで\textgt{生じること}が中途半端なのだ。

人は$10$進法を基準に活動しているので$10$年がよい区切りの意味をもつ。その上の桁なら$100$年だ。しかし、$10$年から$100$年までは間隔が広い気がする。そこで半分(半世紀)の$50$年、さらに半分(四半世紀)の$25$年に区切りを入れるのだろう。金婚式、銀婚式はそれにならったに違いない。さらにもう半分に区切ると$12$年(と半年)となり$12$進法と馴染みがよいのだろうが、いまでは時刻などの一部に残っているにすぎない。$12$年は$10$年とみなすことは自然なことだろう。

つまり、$100$年を半々に区切るなら
\begin{center}
$100$年 $\to$ $50$年 $\to$ $25$年 $\to$ $10$年 $\to$ $5$年 $\to$ $2$年 $\to$ $1$年
\end{center}
とするのが尤(もっと)もらしい。ほら、$20$年なんてないでしょ。しかし、『だから$20$年って中途半端なんだよ』と主張するつもりではない。先に言ったように、$20$周年を設定することで\textgt{生じること}が問題なのだ。

たとえば創立$30$周年を考えよう。おそらく、$30$周年が創立以来初めての周年行事ということはないだろう。以前に、$10$周年の次に$20$周年をやったから$30$周年が生じるのだ。すると当然$40$周年、$50$周年、$60$周年、$\dots$と続くだろう。それは結構なことだけれど、会社も$30$年、$40$年経てば、創業時の人たちの多くは会社を離れているものだ。なのに$10$年ごとに延々行事が繰り返されるのって、どうよ? 中心となって行事を差配する社員だって『単なるギョーム』でやってるんじゃないの? それって単に迷惑なことだよね。

そういうのって、現在の社員にとっても創業時を知る社員にとっても好ましいことじゃない。せっかくの行事が惰性で催され、何もかもが中途半端な印象になりそうだ。そうしないためにも、創業時の社員が多く在籍している$10$周年記念を終えたら『次は$25$周年だな』とか『次は四半世紀記念だな』とか叫んでおこう。それだけで中途半端な$20$周年や$30$周年が省かれて、$25$周年、$50$周年が盛大に行われるに違いない。創業時の人たちがいなくてもね。

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