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\section*{▼$0 \to 1 \to 10$▼}

世の中には、分業で成り立っているものが数多くある。たとえば、流行歌(←古い響きの言葉だな)には曲を作る人と歌手の分業があり、漫画には原作を書く人と絵を描く人の分業があり、$\dots$などなど。もちろん、流行歌でも漫画でも一人で両方こなす人は大勢いるけど、ここでの話題には無関係なので考えないことにしよう。で、何を考えるかというと、分業している場合、どっちの仕事(または作業)がより重要なんだろう、もしくは上なんだろう?

結論は、どちらも重要だし上下の区別もない、すなわち対等である。しかし、世間では勘違いしている人が多くいるようだ。

漫画を例にとってみよう。ある漫画では、原作者の方が漫画家より高い報酬を出版社から得ている、と耳にしたとする。なんで? たしかに漫画家は原作を読んで漫画を描いているわけだが、それが売れるのは一にも二にも漫画家の力じゃないの? いやいや、いくら漫画家の腕がよくても原作が面白くなければ売れないから、なんと言っても原作者の力によるところが大きいんじゃない?

どちらも、一理ある。漫画家を上と見る人は、おそらく心のどこかに次のような意識が働いていると思われる。それは、原作、つまり文章はほとんどの人が比較的容易に書けるが、漫画となるとごく一部の人だけが描ける能力である。したがって、限られた人にだけある能力の持ち主こそ、高く評価されてしかるべきだ。なるほど、表面だけ見た素直な意見だ。

原作者を上と見る人は、おそらく心のどこかに次のような意識が働いていると思われる。それは、原作、つまり文章はほとんどの人が比較的容易に書けるが、それゆえ、抜きん出た作品を書くには相応の能力が要るだろう。漫画はごく一部の人が描ける能力であるゆえに、最低限の力量さえあれば原作から漫画を起こせる。したがって、高く評価されてしかるべきなのは、抜きん出た能力の持ち主だ。なるほど、物事の内部まで見通した意見だ。

現実には報酬は、原作者と漫画家の違いでなく、売れっ子かどうかで決まる面が多いんだろうけど。ところで私は、実は本能では後者的な考えがある。というのは、曲を作る人や原作者は何もないところから自分の創造力をもって創る。言ってみれば$0$から$1$を創るようなものだ(これを``zero-one家''と呼ぼう)。一方、歌手や漫画家は与えられたものを、自分の感性を含めて大きく育て上げる。言ってみれば$1$を$10$に膨らませるようなものだ(これを``one-ten家''と呼ぼう)。見た目は、zero-one家がすることよりone-ten家がすることのほうがインパクトが大きい。しかし、zero-one家はone-ten家よりはるかに大きなエネルギーを使っている。どう考えたって、zero-one家が上だ。

でも、さっきは対等であると言った。なぜって、理性がそう言わせたのだ。でも、理性に訴えなくても、対等であることは理屈から分かる。それは、流行歌にしても漫画にしても、一方が欠ければ絶対に成り立たない代物だからだ。極端なことを言えば、自動車をエンジンとそれ以外の部品に分けたとして、エンジンが欠ければもう自動車ではない(タイヤとそれ以外、ハンドルとそれ以外みたいな分け方だと、空飛ぶ車や自動運転車ならタイヤやハンドルは要らないので、タイヤやハンドルが欠けても自動車だ)。分業して成り立っているものは、すべて互いに補完し合っている。大きさに関係なく対等なのだ。

ここで唐突に数学の話題に入る。数学にも分業があると自信を持って言えないものの、見方によっては分業と思える部分がある。新しい考えを理論的に体系化する部分と、理論をもとに実践する部分だ。数学者はzero-one家だ。そして、企業人や実務家はone-ten家だろう。もちろん、理論を体系化し起業するzero-ten家もいるわけだが、ではどっちが世の中のためになっているの? ここまで読み進めば結論は明らかだ。両方である。

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