天地創成と宗教について(tommyのつぶやき)

      
  1. 宇宙観と科学について
  2. 信仰について
  3. 神と人間のはざま
  4. 生と死について
  5. 意識と「気」について


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  • tommyのつぶやき

     NHKの番組「サイエンス ZERO」で、宇宙を支配している“暗黒エネルギー”についての解説がありました。これは正に、科学が神の領域を侵しつつあるのではないかと思われます。

     私たちの知る宇宙には、私たちの属する太陽系を含む銀河や他の多くの銀河系と恒星が存在し、その真空と考えられている宇宙空間には、眼に見えない“ダークマター”と呼ばれるエネルギー物質が満たされていると言われていました。ところが最近、更にダークマターとは異なる“暗黒エネルギー”なる塊があちこちに分布していて、これらが星の生成や破壊に関わっているらしいことが、ハッブル宇宙望遠鏡やハワイにある日本のスバル天文台などの観測によって、次第に明らかになってきたといいます。(詳しくは別冊日経サイエンス136「宇宙論の新次元」参照)

     “暗黒エネルギー”の存在する部分は宇宙全体の72.6%を占めており、“ダークマター”が占める約23%に比べて三倍以上も大きい存在だというのです。どちらも肉眼では見ることは出来ませんが、光や電波の進行を変位させるため、それらを観測することによってその存在を知ることが出来ます。

     強大なエネルギーの塊である暗黒エネルギーは、その力によって宇宙空間にある星の集団である銀河やその中にある星自体を容易に破壊して消滅させてしまうことがあるといいますので、それによって、私たちのすんでいる宇宙自体までも消滅してしまうのではないかと考えられています。また、この“暗黒エネルギー”が生命の誕生にも関わっているのではないかとも考えられています。

     私たちは、この宇宙は神の創造物であり、私たち人間もまた神の創造物だと信じていますが、私たちの宇宙以外にも多くの宇宙が存在するとも言われ、宇宙そのものは、発生したり、消滅したりする存在なのではないかと思われます。私たちの世界は三次元ですが、更に高次元の世界の存在も示唆されており、更に一定速度で経過する時間という概念についても、広い宇宙の中では、時間の存在が私たちの認識とは異なるものだという指摘もされているので、改めて宇宙論というものに注目する必要があるのではないかと考えています。( Sept. 8. 2010 )


       2003年に打ち上げられた小惑星「いとかわ」探査機の「はやぶさ」(詳しくは、参考文献「はやぶさ」 吉田 武著 幻冬舎新書、を参照下さい)が奇跡的にも60億kmもの長旅から生還を果たして2010年6月14日オーストラリアの砂漠の真ん中に予測どおり正確に「いとかわ」の粉塵を収容したカプセルを着地させた。

     その後回収されたカプセルの試料を慎重に調査していた宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、カプセルの中に「いとかわ」の粉塵と考えられる微粒子を十数個確認した、と発表した。それらの微粒子が「いとかわ」のものであれば、太陽系の誕生の謎が解明できる可能性があり、われわれ人類の発生のメカニズムが明らかになるかもしれないのだ。そのための「はやぶさ」の使命ではあったが、科学が神の領域にまで踏み込んだ瞬間であった。

     また、この試みに使用された数々の技術は、未知の領域でもあり、特に7年もの永い航行に耐える推進エンジンは、従来の燃料を用いるものでは果たせず、イオンエンジンと呼ばれる新たに開発された夢のエンジンで、この成功は、今後の惑星間、恒星間航行実現に向けて大きな希望が拓けたことになる。この成功によって、地球から発進した宇宙船が、また地球へ戻ってくることが可能になることを意味し、惑星間、恒星間旅行が実現できることになる。

     先ごろ打ち上げられた実験衛星IKAROSは、ソーラーセイルと呼ばれる太陽光の粒子(光は波動と粒子の両方の性質を持つ)を衛星が広げた帆に当てて、光の圧力によって推進する宇宙帆船の実験機であるが、これもまた実証されれば、エンジンを持たないで推力を得る新しい夢の技術となるだろう。(詳しくは、雑誌「Newton」2010/6月号を参照されたい)

     「はやぶさ」の持ち帰った小惑星「いとかわ」の試料の解析には更に数ヶ月かかると言われるので、“われわれは何処から来たのか?”が解明されるのは、もう少し待たねばならないだろう。( Jul. 7. 2010 )


       マヤ暦まつわる2012年終末の思想と呼ばれる謎についてBS−TBSで2日間にわたって放映されましたので大変興味をもって見ました。マヤ文明はメキシコ、ユカタン半島のグァテマラを中心に発展した古代文明(参考文献参照)で、チチェン・イツァの遺跡などとして誰もが良く知ってはいますが、マヤ暦については今回初めて詳しく解説されたのではないでしょうか? 人類の終末については、明確ではありませんがキリスト教の聖書でもそれらしい記述も見られますし、仏教でも末法思想をブッダが予言されています。近いところでは、ノストラダムスの大予言がありました。彼の予言は、四行詩という形で残されており、この予言は、過去に起こった事実と照らし合わせて証明できるものとされていますが、詩は難解で、その意味を読み取るのはなかなか難しいもののようです。そこに書かれた終末が1999年末とされていたために、大変騒がれたものでしたが、既に2010年を迎えている現在では、その予言にも興味が薄れてしまっているようです。しかし、果たして無意味だったのでしょうか?

     しかし、マヤ暦による2012年末という終末説にしても、その時期が迫ってきているために、この世の終わりが近いのではないかと心配する向きが多いのではないかと思います。しかし、この番組では、マヤ暦がどんなものかという解説が重要になっています。マヤ遺跡が示すように(あるいは他の古代遺跡でも示されているように)、それらの文明では精密な天体観測の技術が発達していたらしく、人間の生活や近い未来に起こる事象等がかなり正確に推測されていたものと思われます。

     マヤ暦は、一周期が5200年という長い周期で、その周期の終末が2012年末に当たるのだそうです。ところが、私たちの使用している太陽暦とマヤ暦とは全く異なっており、マヤ暦の5200年の終末が、西暦の2012年に当たるかどうかは明確ではないと言うのです。しかし、マヤ暦での5200年の終末は間違いなく近未来に存在することは疑いないそうです。しかし、その終末が来たからといって人類が滅亡するとか、地球が消滅するとか、恐ろしい結末が予言されているわけでも無いというのです。その終末が来れば、マヤ暦は一周期を終了し、次の新しい5200年の周期が始まるだけなのです。しかしながら次の周期が、前の周期よりも人類にとって満足できる生存環境になるかどうかは、前周期でより良い次の周期を迎えるための人類の努力が問われるのだと言います。ですから、既に現代では、人類の活動によって地球環境は著しく破壊されてきており、次の周期に人類のみならず生物全てに満足な環境を残すことが困難で、終末が近いと予言されるのでしょうか?

     マヤの遺跡には、多くのマヤの文字が残されていますが、それを解読できれば、マヤ暦についてより一層詳しく知ることが出来るかもしれません。最近、また新しい1200もの文字が発見されていますので、それらを解読する手がかりになるかもしれませんねぇ。

     現在の5200年間で予言されていた事象で、まだその事実が確認されていない事象は次の2つだそうです。

       1.宇宙に浮かぶ住居があって、それらが次々と落下して爆発(破壊)を起こす。
       2.青い星が出現する。これが何を引き起こすのかは何も分っていない。
    ということで、@については宇宙ステーションとか人工衛星が考えられるし、Aについては、小惑星か彗星(氷か水の星)の類、あるいは大洪水で覆われた地球の姿ではないかとも考えられます。それらがどういう状況を引き起こすのかは、実際に事象が実現されなければ分りません。マヤ文明で予言されたこの2つの事象が現実になるのかどうか、その時を待つしかないし、それらが地球および人類の未来に悪い影響を及ぼさないことを願うのみである。

     残念ながら、この番組はBSデジタル放送のため、我が家では録画できなかったため、マヤ暦とはどんなものか、マヤ遺跡の成り立ちや文明とは何を言うのかなど、貴重な映像やお話を記録できなかった。それによって、私たちが現代をどう生きなければならないか、未来に何を遺さなければならないかを、真剣に考えなければならない。マヤ暦の予言は現代の私たちへの警告かもしれない。( Mar. 25. 2010 )


     この7月14日から3日間、スペインのマドリードで「世界宗教会議」が開かれる。と日経新聞にありましたが、すでに2006年6月に京都で開催されたはずですが、現在の状況を見てますと、宗教間対立というのはなかなか微妙で難しく、宗教間対立を無くして世界平和の構築を目指すのは、なかなか容易な事ではありません。

     イラクやアフガニスタン、イスラエルとパレスチナの紛争にしても、宗教間対立に政治が絡んで、未だに対立や抗争が続いており、解決を見るに到っておりません。
    “政教分離”を原則として、政治に宗教が関わる事を極力排除しようとしていますが、元々各国間の紛争の火種の底流には宗教の対立があったようで、日本国内の騒乱においても、武士と僧兵の戦いや、社寺の焼き討ちなどが多く見られるし、キリスト教徒の迫害などでも明らかです。まして、ヨーロッパや中東の紛争では、資源争奪戦争もありますが、宗教間対立が如実に顕われています。

     宗教というものは、人間の精神の根源にあるもので、更にそれが国家対国家ともなれば、お互いに容易に譲歩したり、受け入れたり出来るものではありません。ほとんどの宗教では紛争や対立よりも“(相手を)赦す”という“愛の心”が経典に取り入れられていますが、イスラム教の“ジハード(聖戦)”のように、神(信仰)のためには自らの命を奉げるのを潔しとしており、それが政治的に利用されたり、戦争の正当性に置き換えられたりしている最大の原因であるように思われます。宗教に名を借りて、民衆の無知を巧みに利用しているのではないかと考えられます。これは、何も宗教だけでなく、政治においても巧みに用いられる手段ではないでしょうか?

     いずれにしても、世界平和のためには、全世界の“宗教指導者”や“政治指導者”の相互理解が必要な事は言うまでもありません。また、そけは、私達一人一人の“愛の心”が、地球上から対立や紛争を無くし、飢餓や貧困を無くして、平和な世界を実現する事になるのでしょう。( July 14. 2008 )


     毎週、聖書の小冊子を届けて下さる「ものみの塔」の方たちですが、ここのところ冊子の内容は“宗教の対立”や“残虐な行為”、“道徳の崩壊”などが続いています。言われずとも、現代の不穏な世の中の状態は誰もが心配をしていますし、その原因は何なのか、どうすれば改善できるのだろうかと心を痛めているところです。

     聖書の予言を見れば明らかで、こういう時代が到来し、それを収めるために主の再来があると予言されていて、過去にもノアの箱舟の故事があって、地球上の全ての種の代表と人類の選ばれた人々だけが箱舟に乗せられて、大洪水から脱出し、全ての悪は大洪水に流されて消滅するとなっていますが、何故、選ばれた民だけが生き残れるのでしょうか? 世の善悪は誰が判定するのでしょうか? この世での善悪の判定規準は法律なのでしょうか? それとも絶対神(エホバでしょうか? 神の子キリストでしょうか?)のご判断でしょうか?

     いずれにしても、この地球上に蔓延する退廃の原因は何でしょうか? 人類が引き起こしているものでしょうか? 神が人類の暴虐を停止させる事が出来ないのでしょうか? それとも、サタンが人類を誘惑して、世の退廃を巻き起こしているのでしょうか?
     確かに道徳の崩壊は、少なくとも過去の世界戦争(第1次、第2次世界大戦)によって引き起こされたものに違いありません。人種による対立、宗教による対立は本来あり得ない事です。この対立こそ世界の指導者の利害の対立がもたらしたものに相違ありません。紛争解決という大義で多くの人々を戦争に駆りたて、正義という名において殺戮を正当化して来たのです。戦争に参加した人達は、国の意思に背く事を許されなかったのです。命令に背いたものは売国奴として粛清されたのです。

     戦争ほど理不尽な事はありません。それでも夫々の国の政治家は、その行為を正当化する事に専念してきました。延々と現在もそれが行われています。国益が優先で反対を認めないというのがそれです。世の中には色んな考え方があります。どれが正しいかではなく、どれもが正しくて、どうすれば全ての人に平等な権利と利益が得られるか、なのです。道徳の退廃は、価値観と言う名において、平等な権利を認めないことから生じたものと考えられます。即ち、一方的な価値観の押し付けです。
     冊子「目覚めよ」によりますと、道徳とは「正直さ、忠節さ、貞潔さ、高潔さ」を備えているかどうかで、それに対して、価値観というのは「信条、見解、態度、感情、習慣、しきたり、好み、偏見、さらには特異な性格によって形成され個人や集団や社会が、たまたまある時に、ある理由で形造ったもの」といいます。
    真の徳と倫理は、価値観と同じではありません。

     戦争は、全ての規範となる徳や倫理を否定して(戦争をする者に不都合なものとして)都合の良い価値観として指導者が掲げたものです。
    また、宗教上の戒律なども、戦争の指導者には不都合なものですから、当然認めなかったものです。例えば、人を殺す、破壊する、盗む、犯す、騙す、暴力を働くなども倫理に反する事でしょう。特定の宗教も認めず、戒律も無視してきました。その結果、戦後の社会には、従来の不変な倫理や徳などの規範全体が損なわれ、歪曲された価値観が勃興して来たのです。

     近来の10年間には、女性解放運動と、新しい道徳を標榜する性革命がほぼ同時に生じています。またそれと同時に、新聞、雑誌、映画、テレビなども、報道の権利のみが主張されて、著しく倫理規定が緩められてきました。(経営者の倫理感覚の凋落も目に余りますねぇ…)性と暴力による退廃はここから来ているといっても過言ではないでしょう。更には、インターネットや携帯電話の発達は、無節操な情報の交換と不特定多数とのコミュニケーションによる犯罪を増加させました。

     戦後教育についても、人格形成に必要な徳目(仁・義・孝など)教育を阻害し、間違った平等主義を主張し、間違った能力主義や競争社会を形成させて来たのではないでしょうか? それに女性の社会進出は、家庭への束縛を解放すると同時に、子どもの教育や躾まで自分の手から放ち、他人の手に委ねて(益々、託児所や学童保育所の増設要求が強くなっているようだし…)、金銭至上主義を蔓延させてきているように感じています。既に、親子(母子か?)の会話が減少し、我が子への愛情さえも衰退してきているのではないかと、非常に案じています。

     また、世界における宗教の衰退も著しいようで、1971年の時点で、英国での宗教的な結婚式は60%に減少し、2000年にはわずか31%になっているそうです。(日本では逆に、カッコイイだけでの教会結婚式が幅を利かしているのかも?)ある報告によれば、日曜日の礼拝の出席者が、2040年までには人口のわずか2%となるだろうと言われています。オランダでも、2020年には国民の72%がどの宗教団体にも属さなくなるだろうと予想されるといいます。

     仏教でも“末法思想”と呼ばれて、お釈迦様が入滅後、2000年を経た後の10000年では、仏法の“教え”だけが残り、“悟り”に到れず、仏法は衰退するだろうと予言されていました。だから、宗教と密接に関わる道徳が衰退するのも当然なのかもしれません。しかし、私達人類が、徳や倫理を疎かにした社会から脱却しなければ、世界平和や地球環境は保たれなくなるだろうと心配しています。
     しかし、一概に宗教と言っても、現代に存在する宗教の中には、政治権力や名声を得るため、あるいは人の歓心を買うために生まれたものや、人の弱みに付け込んで暴利を貪るものまであって、本当の宗教と言われるものを見分ける事は難しくなっています。

     例え、在来の仏教を考えてみても、お釈迦様の教えが根本的に正しくても、諸派仏教に到っては必ずしも教理が一致しているとはいえず、どれが正しいのかは判断がつきにくいのも事実であろう。しかし、根本的には“愛”が基本である事は、キリスト教やイスラム教でも変わる事はないのではないだろうか? そう考えれば、現代は“愛”が失われた時代ではないかと考えられるし、“愛”と呼ばれているものの実態は見せ掛けだけの愛で、ケイタイのメールやインターネット上で語られる仮想“愛”(バーチャル)なのかも知れない。“実体のない愛”を求めて、人類の行きつく先は何処であろうか?( Mar. 12. 2007 )


     “忙”しいということは、“心を無くする”ことでもありますが、昨年暮れから新年にかけて仕事が立て込んで大変忙しい思いをしていました。身の回りが片付かず、やることなすこと忘却し、何が何処にあるやら、ゴミの山に埋もれたような生活に汲々としていました。

     例年の如く、老人会の念仏講である「阿弥陀」さまの鏡開きがありましたので、忙しい間を押して参加しました。いつものように浄土真宗のご住職と一緒に“正信偈”を唱和します。そのあと法話がありますが、今回は「少欲知足」です。
    法話に先だって「お経」が何故漢字なのかという話がありました。ここでは日本語訳にしないかということですが、もともと、お経と言うものは紙に書かれたものを読むと言う習慣ではなく、お坊さんと一緒に唱和して、お釈迦様の教えを常に心の中に思い起こすという意味があるというのです。漢字の経文を用いるのは、日本人が漢文に親しんできたからではないか、と言うことです。

     しかし、経典そのものは、お釈迦様の入滅後、第一回の結集(けつじゅう)会議以降にお釈迦様の高弟たちが、お釈迦様の教えを忘れないように短い文章(偈)の形にして残したもので、玄奘三蔵法師が、その原語(パーリ語やサンスクリット語)を漢字で音訳したものが、経典として日本に伝わったものです。元々唄いやすい形(偈)になっているし、原語の音にも近いので、そのまま読み上げた方がお釈迦様の言葉として心に触れられるのではないかと思います。

     ところで「少欲知足」についてですが、読んで字の如く「我欲を出来るだけ少なく、それで満足する」ことを意味するわけで、現代のように金と欲にまみれた私達に対するお釈迦様のお諭しであります。
    お釈迦様がブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開かれて間もなく、お釈迦様自身の心の思いを述べられたもので、

      足ることを知り、真理(法)を聞き、真理を見る者の独居は楽しい。
      世の人々に対し、怒り憎むことなく、生きとし生けるすべての生き物に対して、
      自制(セルフ・コントロール)することは楽しい。
      世間に対する貪り・欲望を離れ、
      もろもろの欲望を超えることは楽しい。
      「われが」、「われが」という慢心に打ち克つことは、
      けだし最上の楽しみである。
    と述べられています。(原始仏典「スッタニパータ」を読む…雲井昭善師の解説による)

     しかし、煩悩具足の私たちでは、なかなかそれを楽しみと悟るまでにはいきませんが、現在、ライブドアが証券取引法違反で問題になっていますが、ライブドアだけの問題ではなく、世の中全て金が支配しているんだという、我欲に満ちた考え方が蔓延しているような気がして、お釈迦様の教えの一端なりとも理解したいと思う今日この頃です。( Jan. 20 2006 )


     愛知万博のパキスタン館に展示されていた「釈迦苦行像」のレプリカが、鎌倉の建長寺に寄贈されたそうで、本日10月25日にこの像の奉安の式が建長寺で行われるそうである。

     この「釈迦苦行像」は、お釈迦様が悟りを開く前に、六年間の苦行を行ったが、苦行のみでは悟りを得られなかったわけで、その苦行の果ての肉体的な苦しみと骨と皮だけになった姿を表したもので、この彫像は世界的な至宝といわれ、その姿には神々しいまでの気高さが漂っている。釈迦の物語には、必ずといって、この像が示されているのはご存知であろう。

     この「釈迦苦行像」のレプリカの寄贈の経緯については、日経新聞の文化欄に駐日パキスタン大使のカムラン・ニアズ氏が記述されている。日本が仏教の国として、お釈迦様の教えがインドから伝来した時に、玄奘三蔵法師が経典を持ちかえり、漢訳されたものが日本へ渡来したことを知ってはいても、それがイスラム教の地、パキスタンの北方ガンダーラを経由していることにまで考えは及ばない。たまたま今回のパキスタンの大地震による被害への日本の支援(ささやかながら、私も協力をした)に、それを契機として、奇しくも愛知万博のパキスタン館に展示された「釈迦苦行像」が、日本とパキスタンの友好を結ぶ使者となったということは大変意義深い。

     お釈迦様は、仏教としてお釈迦様自身が悟られたことを広められたが、信仰としての偶像崇拝は戒められたと聞くし、イスラム教も偶像崇拝を否定しながらも、その彫像を作り上げ、その「釈迦苦行像」の唯一のレプリカでもって、パキスタンと日本が結ばれるというのも奇しき縁ではなかろうか?

     昨夜、小泉首相も首相官邸で、イスラム諸国40カ国の駐日大使らを招いて、ラマダン(断食月)の期間中、日没後に食事をとる「イフタール」にちなんだ夕食会を主催して友好を深められたそうですから、日本が率先してイスラム教と仏教の融和を図り(靖国神社に拘っている間はダメか?)世界平和の為に積極的に貢献して、イラクをはじめとする中東でのイスラム原理主義者との対立が深まる中で、宗教紛争のない平和な社会を一日も早く実現させることを、切に望みたい。( Oct. 25. 2005 )


     七人サミット(毎年、友人7人で一泊の元気会をやっているのです)で2年ぶりに会った友人に、“これ読んでみないか?”と差し出されたのが「神、この人間的なもの −宗教をめぐる精神科医の対話− 」(なだいなだ著 岩波新書)です。もちろん喜んで借用しました。

     ちょうど9年前、このホームページを立ち上げた頃でした。“宗教とは?”と突然難しい命題を突きつけてきたのがこの友人でしたから。それをきっかけに、このホームページに怪しげな「宗教」のコンテンツが登場したのです。今では人間が生きていく上で重要なことがこの『宗教』ではないかと思うようになって来ています。持つべきものは友ですねぇ! お陰で四苦八苦しながらも、どうにかこのコンテンツも充実してきているのではないかと自画自賛しているのです。

     精神科医で、作家でもある“なだいなだ”氏が、お互いに70歳を越えた友人の精神科医のT氏から、突然電話で呼び出され、宗教と医者、特に精神科医としての関係を論じるという形になっています。この論争はきわめて興味深いものです。人間にとって「宗教とはなにか?」と言うことと、「精神科医は精神病者を治す権利があるのか?」という2つの命題を突きつけているように感じられるのです。

     三大宗教の始祖である“キリスト”、“ムハンマド(マホメッド)”、“ブッダ(釈迦)”を中心に、これらの宗教の始祖と考えられる人達の歩んできた道程をふりかえって、宗教の原点に立ち戻ってみると、現在我々が“宗教”に対して感じているものと、宗教の始祖たちが一般大衆に何を提供しようとしていたのかについて、漠然とした疑問がわいてくる。そのなかでも、宗教が人々を救うための行いと、精神科医が精神病患者を救うためにしてきた医療行為への矛盾があぶりだされてくる。

     なだいなだ氏の思惑や論点は、本文を熟読玩味してもらうより他無いが、私がこのコンテンツで度々論じている“釈迦”の生まれ育った時代背景がどうだったのか、釈迦の悟りと考えられている“仏教(経典)”というが、はたして全く同じ思想で述べられているのかという疑問がぬぐえないで残るし、また、人生において悩めるものを救い、幸せにするということは何なのか? 世の中に“正しい宗教”、“インチキ宗教”、“人を騙す宗教”と云われるものが本当に存在しているのだろうか? という議論も重要な争点になってくる。

     既に、「神との対話」で、ニール・ドナルド・ウオルシュに“この世の中には、善と悪の区別は無い。人の行いを判断するとしたら、その行いが愛といえるかどうかである”と神が答えるくだりがある。人を救うという行為が、世の中の規範に対して、何を基準にして判断を下すのかという点に集約される。ちょうど親鸞の歎異抄にある“善人なおもて往生をとぐ、まして悪人をや”という解説にも当てはまるのではなかろうか?

     “宗教”の問題は奥が深い。まだまだ我々凡人には理解が難しい部分が多いと思えるし、それだけ“人間というもの”に対する理解の難しさがあるということなのだろうか?( July. 23. 2005 )


     岡山のカトリック教会で、岡山で活動する7宗派、イスラム教、キリスト教、仏教の真言宗と天台宗、そして神道の黒住教、金光教が、超宗派・教団の「RNN人道援助宗教ネットワーク」が無料の「第一回ヒーリング・コンサート」を開催したと、日経新聞の“文化往来”欄にありました。

     世界には、宗教の対立による紛争や戦争が絶えません。元来、宗教は対立を生むものではなく、世界の人々が同朋であり、お互いが助け合って生きる存在であることを認め合うためにあるのではないかと思いますが、残念ながら、一部の宗教間では、宗派創設以来、対立する因縁を持つものがあるようで、なかなか宗教を超えて世界平和を実現するには時間がかかるように思われます。

     しかし、バチカンの前法王パウロ二世も、世界平和実現の為に世界を駆け巡られていましたし、現法王のベネディクト16世も世界平和を阻むテロ活動に強い遺憾を表明されています。また、2006年6月には「第六回世界宗教者平和会議」が京都で開催される予定ですが、問題は宗教間の対立ではなく、宗教間の対立と見せかけた大国の政治的な対立や国益ではないかと思います。政治が正されない限り、紛争や戦争とそれに伴うテロ活動は絶えることなく続くだろうと考えます。

    そして政治を正すのは、私たち市民1人1人の相手に対する思いやりと平和に対する熱い思いではないかと思っています。私たち1人1人の意識が変わらない限り、世界中の人が平和で幸せに暮らせるような世界は実現できないかも知れません。

     私はむろん、貴方自身も、世界中から貧困と虐待がなくなり、自然の破壊もなくなって、全ての人々が差別無く、平等で、安心して暮らせるような日が、1日も早く実現するよう、心から祈ろうではありませんか?( July. 11. 2005 )


     第246代ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が4月2日(日本時間3日未明)に亡くなられました。十億人を超えるカトリック教徒の最高指導者として、東西冷戦の陰の立役者となったり、中東和平や宗教間の対話など、世界を飛びまわって“空飛ぶ聖座”とも呼ばれるほど法王外交に精力を注がれ、世界の平和へ幅広い活躍をされておりました。

     後任の法王選びはコンクラーベと呼ばれ、バチカン市国のシスティナ礼拝堂で、世界中の枢機卿115人の投票によって行われましたが、ドイツ出身のベネディクト16世が新法王として選ばれました。
    その就任のミサにおいて、まずユダヤ教徒との共存を強調し、異なる宗教間の対話を進めたいという姿勢を示し、前法王ヨハネ・パウロ2世の意思を継承することを明らかにしました。さらに世界中の人々、特に若者に対して、世界は今、自由という名の下に倫理が退廃していると指摘した上で、悩みを持つ若者たちに神の言葉をそのまま伝え、生きるための道しるべを示していきたいと述べました。

     バチカン宮殿はローマにありますが、バチカン(市国)が、れっきとした国でありローマとは独立した存在であることを初めて知りました。面積は0.44平方キロメートルという世界一小さい国ですが、そこには一般に公開されているサン・ピエトロ大聖堂、同広場、バチカン美術館、イタリア国内に散在するいくつかの主要教会など、イタリアを代表する文化遺産としての建造物が多くあります。在バチカン日本大使館も在るそうですよ。

     むろん、バチカンはカトリック教会の総本山ですから、世界のキリスト教の中心として、世界の中に在って政治的・文化的に大きな影響力を持っているので、全人類のために、世界平和に益々貢献して欲しいと願っています。( Apr. 26. 2005 )


     松原哲明師の「般若心経をかたる」がNHK教育テレビの“こころの時代 宗教・人生”で始まりました。放送時間が第3日曜日の5:00〜6:00と早いので大変ですが、再放送が第4日曜日の午後2:00〜3:00にありますので見逃したとしても大丈夫です。また、例え見忘れたとしても、テキストをよく読んでいれば十分理解できるので安心です。

     この2月に、松原哲明師の「玄奘のシルクロード …心を求めて仏を求めず…」を、偶然書店で見つけて何となく入手しました。これは標題のように、玄奘三蔵法師がお釈迦様の悟りである仏教の原典を求めて、インドまで出かけられた“求法(ぐほう)の旅”を、松原哲明師自身も、25年間かけて実際にその足跡を辿られて得られた体験をもとに、お釈迦様の根本思想である「悉有仏性(しつうぶっしょう…ことごとくみな、仏性を持つ)」を解説されています。先日やっと読み終えたところなのです。今回のNHKテレビのテキストも、昨日、同窓会の会場探しで小田原に行った際、偶然入った平井書店で手に取ったわけですので、これは正にお釈迦様のお引き合わせではないかと不思議に感じています。

     テキストを開いて見ますと、“心を求めよ、仏を求めるな”ということが述べられています。むろん、お釈迦様の悟りを求めて仏になることが目的ですが、実は心が全ての根本に有るわけで、心に思い浮かべることによって、全ての煩悩が生じ、心が無であれば、煩悩は生じない。お釈迦様が悟りを開かれた禅定がそれで、身の回りに生じる現象全てを素直に受け入れる心が大切で、心をそこに置かない(執着しない)ことが重要なのではないでしょうか? それが即ち「悉有仏性」と言うことではないかと思います。

     まあ素人の私の考えは別として、これからじっくり、松原哲明師の「般若心経をかたる」によって勉強したいと考えています。仏教伝来の玄奘三蔵法師の国、中国で、過去に拘って反日運動が過激化していますが、正に“末法の世”を顕わしています。玄奘法師が見られたら、何と思われるでしょうか?( Apr. 17. 2005 )


     私の青春のともし火がまた一つ消えました。先日1月26日に、歌手の北原謙二さんが亡くなりました。享年65歳でした。私の青春時代は、まさに北原謙二さんの「若い二人」でした。独特のビブラートのある歌声は、私の胸に青春のともし火を灯してくれました。結婚して長男が生まれた時、彼の名前をもらって長男なのに“謙二”と名付けました。

     今日、FM放送で北原さんの追悼歌謡特集が流されました。どの歌もみんな懐かしい青春の歌でした。元気だった時の北原さんの顔を思い浮かべて、目頭が熱くなりました。

     北原さんを見た最後の舞台は、確かNHKで、脳出血の後遺症で口にも肢体にも麻痺が残っていて、それでも一生懸命唄う姿に感動しました。北原さんは、91年に倒れ、歌を唄えなくなってしまいました。でも一生懸命リハビリに努め、96年には唄えるまでになりました。生きていることがどんなに幸せなことか、心から感謝したそうです。生かされた以上、自分がやらなければならない使命があるのではないかと考えたそうです。闘病とリハビリに耐えて、命の尊さ、有り難さを、同じように病に苦しむ人達に、闘病生活の苦しみを乗り越え、生きることの喜びを伝えたいと、各地の福祉施設の慰問で無様な体をも厭わず懸命に唄ってきたそうです。NHKでもそのように聞きました。“何もそんなにしてまで…”と思われた方も居られたかもしれません。しかし、歌手とは思えない節まわしでも懸命に唄う北原さんを見て、頭が下がりました。

     私が北原さんと青春を共に過ごせた喜びと、長男に、北原さんの名前をいただいたことに誇りに感じますし、長男にも、北原さんのように、人生のどんな苦しみにも耐えて、強く乗り越えて行ってほしいと願っています。また、生きる喜びと奉仕の精神を身をもって教えて下さった北原さんに心から感謝します。

     北原さんのご冥福を心からお祈り致します。( Jan. 31. 2005 )


     今年も阿弥陀さまの鏡開きに参加しました。
    ご存知とは思いますが、鏡開きは、お正月供えた鏡餅を下げて食べる儀礼ですが、今では武道始めに寒稽古を終えた後、鏡餅でお汁粉を作って食べる習慣になっていることが多いのですが、阿弥陀様の鏡開きと言うのは、老人会で“お念仏会”というのがあって、毎月、公民館に安置された阿弥陀仏を拝んで念仏法要をする習慣ですが、阿弥陀様と念仏法要は、もともと仏教の浄土真宗の旨とするところです。

     無論、在所の浄土真宗本願寺派のご住職に来ていただいて法要をし、正信偈の経文を唱和するのです。浄土真宗は我が家の宗派(真宗高田派ですが…)ですし、正信偈は父が朝晩唱えていましたので、“習わぬ経を読み”で、私にとっては違和感はありません。それと一緒に読経の作法も教わります。法要の後の説法も楽しみの一つです。

     今年のお話は、「無感不応」についてでした。私達はお経を挙げる、念仏を唱えると言いますが、元はといえば仏様や神様に“家内安全”や“商売繁盛”、あるいは宝くじで“100万円が当りますように”とか、“競輪で大穴を当てるように”とか、自分に都合の良いようなことを「お願い」し、「ご利益(りやく)」や「功徳(くどく)」にあやかろうとするのではないでしょうか?(そんなことは無いって?/世界の平和と全人類の幸せを祈るのだ!/そりゃぁ、ウソも方便といいますからねぇ)

     まあ、いずれにしてもお寺へお参りする、神社へお参りする場合は、僅かな賽銭を挙げて、自分の願い事を頼むのが普通です。そして、その願い事を叶えて下さるという淡い期待があるわけですが、果たして神様や仏様、ここでは阿弥陀様は、私達の願い事を叶えて下さるのでしょうか?

     その答えが「無感不応」なのです。“無感”とは「何も聴くことはなさらない」し、“不応”すなわち「何も答えては下さらない」のです。そんなバカなッ、こんなに信心しているのに! とおっしゃるかもしれませんが、元々、阿弥陀様は、宝蔵菩薩として、私達の苦しみを無くし、善人悪人にかかわらず、全ての人が極楽浄土に行けるように大悲請願を興し、私達に代わって永劫の苦行をされて阿弥陀仏に成られたわけですから、私達は既にその願いが叶えられているわけで、“南無阿弥陀仏”という6字の『名号(みょうごう)』を唱えることによって、わが身に阿弥陀如来を呼び起こし、その“功徳”を受けることが出来るのです。

     お正月に、今年高校受験の孫を連れて最乗寺の道了尊に受験合格祈願を兼ねてお参りに出掛けました。裏参道にある受験の合格を叶えて下さるという“慧春尼堂”にお参りしましたが、神妙にお祈りしていた孫に言いました。
    「慧春尼さまのお声が聞こえましたよ。“しっかり勉強しなさい”って」( Jan. 18. 2005)


     黒田和雄師の著作「日本人は無宗教か」を読み終えました。これは“踊り念仏”で知られた一遍上人の“踊り”に拘った信仰の核心に迫る真理の追究でもあるが、また黒田氏の宗教感、哲学でもあり、世界平和への強い願望であるとも感じました。その宗教観の広さと洞察に深い感銘を受けました。

     これは阿弥陀仏信仰である天台宗の修行である座禅法華経の唱題、念仏のそれぞれ一つを取り出して専修することを勧めた栄西、日蓮、法然に端を発しているが、すなわち“南無阿弥陀仏”と唱える「名号(みょうごう)」の“阿弥陀仏”4文字が本願ではなく、“南無”すなわち帰依、帰命、確信こそが救いであると言う。人生の苦しみを忘れるために名号を唱えながら一心不乱に踊り狂うことしか救われる手段が無い。一途に阿弥陀仏の本願を信じることしかないのではなかろうか? 

     名号を唱えることで、はたして往生(極楽往生)が得られるのであろうか? これは何も確信がないわけで、その証拠として“念仏札”を受ける。このことによって往生が約束されると言う“賦算(ふさん)”という念仏札を配るということを一遍上人が考え出したのである。
    この念仏札には“南無阿弥陀仏――決定往生 六十万人”と印字されていたそうで、六十万人とは、“六”は名号の6字、“十”は十界、万は万善万行、すなわち一切衆生を表したものである。

     一遍上人の信仰観については、黒田氏の研究を知っていただくしかないが、黒田氏が単に一遍上人の“踊り念仏”の由来を説明されているだけでなく、それを通して現代の混沌とした世相の中で宗教の役割を強調されているわけであり、世界三大宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教を併せて考察されているものであって、是非とも熟読玩味をお薦めしたい著作の一冊である。

     凶悪犯罪、無差別暴力・殺傷、児童虐待、詐欺・横領・不正、全てが宗教・倫理の本質から逸脱していることに無感覚、無関心になっている政治家を含めた私達すべてが、改めて内なる神(仏)の声を聞かなければならないのではなかろうか?( Dec. 18. 2004 )


     京セラ名誉会長の稲盛和夫さんが、「生き方」(サンマーク出版刊)という本を出されましたが、稲盛さんのおっしゃるように、現在の世の中は昔に比べると非常に豊かで“衣食足りて礼節を知る”はずなのに、礼節どころか人々の間で信頼関係が失われて、親と子、兄弟、友人・知人、経営者と雇人、政治家と国民との間でさえも根強い不信感が渦巻いており、時として諍いや傷害事件、更には殺人までもが容易に発生する状態にあります。

     これらは、お互いの信頼感もさりながら、人々が人生をどう生きるかと言う「理念」あるいは「哲学」を失って、人生の指針となるものが見つからなくなっているのではないかと思われます。特に生活が豊かになって、何不自由無く暮らせるようになると、必至に生きるための手段を見つける、という必要もなくなって、自分のやりたいことだけを求める努力だけで済むようになります。相手に気遣いする必要も無く、自分の意志だけで判断し、何時でもやり直せば、自由で良い世界を手に入れられると思うようになります。

     就職にしても、自分の好きな仕事が無ければ、それが見つかるまでフリーターでいたとしても、生活にはそれほど不自由しない収入も得られます。うるさい親・兄弟と同居しなくても、自分の住まいは何処にでも見付けられます。他人の干渉もない気楽な生活ができます。それゆえ、自分一人の力で生きているのだと言う過信が生まれるのではないでしょうか?

     「生きる」ということは、お釈迦様などが説かれているように、この世に生を受けたのは、世の中のために、自分の全てを与えて他人のために働くことで、それによって自分の霊性が高まり、死を迎えた時に「仏」となり、次のより高い世界へ「輪廻転生」することになるのではなかろうか? これが仏教で言う「自利・利他」で、自分のために生きるのであるけれども、自分一人では生きられないわけで、常に他人に支えられて生きている。それゆえ、自分はその他人の「お陰さまで」を、他人や世の中の全てに感謝して尽くすのが人生である、ということではなかろうか?

     過ぎ去った過去に執着せず、海のものとも山のものともわからない未来のことに期待せず、常に、現在を精一杯生きること。世の中は「無常」。常に変化していて止まっている時は無い。現在も、時々刻々と変化しているので、過去と未来の狭間の、今の時点にしか生きていないわけで、この一点を疎かにしないで一生懸命生きていくことが大切です。
    1秒前の過去は戻ってこないし、1秒後の未来は何が起こるか分からない。しかし、良い未来を引き寄せるのも、今の自分の努力や選択の結果であるので、今を真剣に生きること(自利)が大切で、自分のことに拘らず、他人のために努力すること(利他)が未来に良い結果を及ぼすことになると考える(因果応報)わけです。

     現在の混迷している世情を思う時、今一度、私たちの「生き方」を真剣に見直す必要があるのではないでしょうか?( Sept. 20. 2004 )


     “宗教とは何か?”これは8年前、私がこのホームページを立ち上げた時、私の友人が、私に投げかけた問いですが、「大法輪」7月号(大法輪閣発行)の特集が「宗教とは何か」です。この特集の中には“日本人は無宗教か”とか“なぜ宗教戦争が起きるのか”など、興味深いものが沢山掲載されています。

     今、何故宗教の議論が高まっているのでしょうか? お分かりでしょうが、アメリカのイラクへの武力行使やイスラエルとパレスチナ、インドとパキスタンの紛争などで、本来、平和主義であるはずの宗教が紛争や戦争に重大な関わりがあるからではないでしょうか? ここでは、「宗教とは何かQ&A」で世界の三大宗教である“仏教”、“キリスト教”、“イスラーム教”が取り上げられています。また別に「パレスチナの壁がなくなる日」と題して、手島佑郎氏がイスラエルとパレスチナについて述べられています。

     仏教は、むろん私たち日本人の信仰として、このホームページでも中心的に取り上げていますが、キリスト教についても、日曜日毎に訪問をうける“ものみの塔”の教宣活動の方達との会話を通してつぶやいています。しかし、イスラーム教については、今まで全くその知識はありませんでした。それが、アメリカにブッシュ政権が誕生して(と言うか、9.11の同時テロの発生で)イラク武力行使によって、一躍イスラーム教の存在がクローズ・アップされてきました。

     私たちの知るイスラーム教とは、ジハード(聖戦)に自分の命さえ掛ける自爆テロという恐ろしい信念に思わずたじろぎますし、ラマダーンという断食月を平然と実行し、毎日5回のお祈りを欠かさない真摯な信仰心に、無宗教とさえ云える日本人の仏教感と比較して、大きな驚きを感じます。しかし、逆に戒律の厳しさは他人に対する優しさに通じ、他教徒に対してもイスラームの教えを強要するのではなく、イスラームも共に手を携えて行こうといいます。

     イスラームの目指すところは、異なる価値観を持っている人達とも共生して生きていこうとするもので、宣教師も無ければ教宣という言葉も無い理想的な信仰をもつ宗教と聞いて、更に驚かされる。教宣を建前とするアメリカのキリスト教主義が、ブッシュ政権のように一方的にイスラエルに荷担したり、丸腰のイラクに、大量破壊兵器を所有するという疑惑だけで、有無を言わさず武力行使に臨む真意は量り兼ねます。アメリカこそテロ集団と言っても不思議ではないような気がします。

     仏教には、厳しい戒律が無く信仰の自由が有るように見えますが、実際には上座部仏教として、僧侶達の厳しい日常の信仰における修行があるわけで、一般大衆の信仰としての檀家としての信仰には、先祖を祭るだけの形骸化した信仰としての仏教が形をとどめるだけになっています。世界的なイスラーム学者の井筒氏が“カルマの思想以外の仏教思想は、すべてイスラーム教の中に抱合されている”と述べられているように、仏教とイスラーム教の思想は似通ったところが多く、「日本人はイスラーム的だ」とも云われているようです。

     ところで、日本人は無宗教か? という議論については、駒澤大学の佐々木名誉教授が、
    「これは、NHKの世論調査でのデータが、“宗教を信じている 25〜50%”、“宗教を信じていない 70〜75%”と言う結果から“日本人は無宗教(的)”という評価が一人歩きしてしまった」と言われる。しかし、
    「日本のような多神教的な宗教風土においては、神道の八百万の神の伝統と仏教の諸仏・諸菩薩、諸天・全神などが習合して“神仏文化”を構成し、宗教集団も多種多様に分かれているため、“宗教”の概念が分かりにくい…」と述べられている。

     そう云えば、私の父の信仰対象も先祖代々であり、阿弥陀如来(仏)であり、不動明王であって、経文も正信偈であり、般若心経であって、必ずしも仏教とも云いきれない。“イワシの頭も信心から”とよく云われるが、要は心のよりどころとしているものであって、宗教や信仰と言い切るには根拠がハッキリしないのが実情といわざるを得ない。
    このことが、日本人の信念が曖昧模糊として、現在の不安定な世相に反映されているもので、イスラーム教のように厳しい戒律が日常化して、宗教の世界に日常生活があるようになれば、日本の日常生活の混乱や不安も無くなるし、アメリカ一辺倒(従属)から脱却して、正真正銘の世界平和に貢献できるようになるのではなかろうか?

     それでも、新聞報道によれば、「世界宗教者平和会議(WCRP)」日本委員会の招きで、イラクの平和実現のためにイラクの諸宗教指導者6人が参加して「イラクにおける平和構築」シンポジウムが京都で開催され、バグダッドで12月に諸宗教者会議を開くことなどの共同声明を発表し、平和構築のために諸宗教の協力を訴えたとあります。
    このシンポジウムに参加したのは、バグダッド大学のアブドル・サラーム・アルコバイシ師らイスラーム教スンニ派やシーア派、キリスト教、クルド人の宗教指導者らだそうですが、イラクの平和はもとより、地球上の全ての地域から戦争や紛争がなくなるよう、世界中の政治家や市民も参画して、世界の宗教指導者と共に、世界平和のために一致して協力しなければならないのではないかと考えます。( July 25. 2004 )


     第六回世界宗教者平和会議(WCRP)が2006年6月に京都で開催されます。京都で開催されるのは、1970年の第1回世界大会に次いで2回目だそうですが、2000年の11月に創設三十周年記念式典とシンポジウムが開催されています。

     この会議は、キリスト教、イスラム教、仏教などの宗教指導者が一堂に会し、宗教が絡む紛争の解決策などについて話し合うもので、ほぼ5年毎に各地で開催されているそうですが、新聞によれば、次回の京都会議では、米同時テロ後の世界における宗教者の役割について討議することになっているようです。アメリカのイラクへの武力行使によってテロを封じ込めることができないばかりか、反って多くのテロを誘発し、戦闘が長引いて民間人のおおくが巻き込まれて犠牲者が増えています。
     また、イスラエルとパレスチナの対立が激化し、パレスチナの最高指導者でイスラム原理主義組織ハマスの創始者アハマド・ヤシン師が、イスラエル軍のヘリコプタからのミサイル攻撃によって殺害されるに及び、益々両国の対立と混迷を深めてきており、1日も早く世界宗教者平和会議による紛争の解決策を話し合って成果を挙げてほしいものだ。

     私たちの一般常識では、宗教は人間の生き方そのものであり、世界の平和と幸福を目指すものだと思っているが、宗教の対立が紛争の火種となるようでは世界平和は程遠い。それ以外にも貧困、飢餓、人種差別など紛争の元となるものは多いが、ブッシュ政権のように、一国の国益や政治家の野望だけで武力が行使される危険性も無視できないので、世界平和のためにも、ネットワーク『地球村』の提唱する『地球市民国連』の早期成立を期待したい。( Apr. 1. 2004 )


     今年第一回の老人大学に出かけました。講師は昨年のミニコミ紙に「放てば手に満てり」を寄稿された、大雄山最乗寺山主の石附周行師です。演題は「縁」ということで、この世のすべては自然の法則にしたがって起こり、私たちが関わるのは「縁」であり、その関わりには全て縁の元となる「因」があり、仏教では、それを「因縁」(縁起の法)といっている。またその「因縁」によって、結果が生じるわけですが、その関わり方によって良い結果が生じたり、よくない結果が生じたりするわけで、それを「因果」といい、「縁」を結ぶことは、その人の人生にとってとても大切なことであるのです。と言う意味の話をされました。

     「因果応報」とも言いますが、善いことをすれば善い結果を結び、悪いことをすれば悪い結果を招くわけですが、悪いことを重ねていると最期には「地獄」に落ちると言います。
    死後の世界には「極楽界」と「地獄界」があって、善行を積めば「極楽界」へ、悪行を重ねた者は「地獄界」で責め苦を受けなければなりません。しかし、責め苦を受けることによって生前の悪行を清算して転生できるのです。仏法では、私たちの住む世界には「十界(じっかい)」と言って、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩・仏の十種類の世界があって、「地獄」はその最下層なわけです。

     「十界」のうち、地獄・餓鬼・畜生を三悪道といい、阿修羅・人間・天上を三善道と言って、悟りを得ていない者はこの六道を輪廻するのだと言います。釈迦の滅後、56億7千万年経つと、現在は修行中の弥勒菩薩が出現して仏となり、これらの衆生を救済されるとしています。私たちの生きている間には弥勒菩薩は出現されませんので、京都に出かけて、広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟(はんかしゆい)像でも拝観して極楽往生をお願いするしかありません。(一日一善を心がけてないとだめですよ!/一日一膳では駄目かな?/三膳も食べているくせに!!)

     「地獄」と「極楽」については、石附師は面白いお話をして下さいました。
    ある人が、死んでしまえば分からないので、生きている内に「地獄」と「極楽」を見学して、よく知って覚悟を決めておきたいと「地獄」と「極楽」行きのキップを手に入れて飛行機に乗ったのだそうです。

     先ず、「地獄行き」に乗って出かけました。
    十万億土ですから大変長い時間乗っていたのでしょうが、「地獄」に近づいて上から見ますと、中央には大きな広場があり、地面にはきれいな花が咲き、立派な家々が沢山並んでいます。着陸してみると、ちょうど昼時で、広場の中央にある食堂へ人々が急ぐ姿が見えましたが、それらの立派な家から出てくる人たちが、皆、痩せこけて骨と皮ばかりで、顔も表情も暗くて陰気で声もありません。それではきっと食事はまずくて少ししかないのだろうと食堂へ入って見ると、これは意外、おいしそうな食べ物が沢山並んでいるではありませんか。ただ、食卓には、とても長い箸が用意されていて、お腹をすかした人たちが急いで食べようと箸でつまんだご馳走も、口には入らず、辺り一面にこぼれ落ちてしまいます。食事の時間が終わる時間までには、ほとんど食べることができないのです。

     次に、「極楽行き」の飛行機に乗りました。
    やはり長い時間乗った後、「極楽」が近づいたので窓から見下ろすと、同じように広場があり、きれいな花が咲き乱れ、立派な家が沢山並んでいます。これは行き先を間違えて、また「地獄」へ戻ったのではないかと尋ねますと、そうではない、やはり「極楽」なのだと言います。こちらも、ちょうどお昼時で、人々が家々から広場の食堂に集まってきますが、みんなとても肥えていて血色も良く、明るい表情でお互い楽しそうに話をしながらやってきます。食堂に入ってみると、テーブルには「地獄」の時と同じで、おいしそうな食べ物と、とても長い箸が並んでいます。
    ところが、食事が始まると、人々は先ず自分の長い箸で向かい側の相手の人に食べ物を与えます。相手の人は自分が食べ終わると今度はこちらの相手の人に食べ物を与えます。誰も、急いで自分だけで食べようとしては居ません。食事の時間は十分ありますので、みんな十分食事を楽しんでいます。

     なるほど、「極楽」と「地獄」の違いは、自分のことだけを考えているか、相手のことを先ず考えて行動しているかの違いだと分かりました。心がけの違いが「地獄」と「極楽」を分けるのだと気がつきました。

     仏教では、「利己」、「利他」と言う言葉を使いますが、そのほか「布施」と言う言葉がありますが、他人のために施すと言うことですが、また、この言葉は、真理を知るために、あるいは他の生き物を救うために、自分の身を犠牲にすることも「布施行」と言われています。石附師は、現代を生きるために、これらと一緒に「愛語」、「利行」、「同事」などを話されました。
     最後に、むすびとして「報恩の行」についてお話され、私たちは周りの全ての人たちのお陰で生かしてもらっているわけですから(自分一人では生きていられない)、その恩に報いなければなりません。心の中から「お陰様で」と感謝しながら一日一日を勤めなければなりません。

     最近特に、虐待や傷害、殺人、強盗・詐欺事件などが多発していますが、いつも相手の気持ちになって、報恩の心で接したいものですね。師のお話の中で“毎日自分がすることを決めて、必ず実行する心がけが大切で、大きな仕事や小さい仕事と言う区別ではなく、些かでも自分のためになる(それが結局皆さんのお役に立てる…自利/利他)ことを自覚しながら勤めること”が大事なのではないでしょうか?

     私も、玄関に「日に一つよいことを」という倫理研究所20周年記念の標語を掛けていますが、くる人毎に“いいことですね”と言われ、何もできない自分に面映い気がしますが、標語を見るたびに自分に言い聞かせることで、次の日につなげていこうと思っています。「お陰様で」生かされている自分を自覚して、小さな事でも他人のお役に立つことに努めたいと自分を励ましているところです。( Feb. 1. 2004 )


     「般若心経」が23の言語で翻訳されているそうです。元はサンスクリット語で書かれたものですが、それを三蔵法師玄奘が持ちかえって漢訳したもので、日本語訳もありますから、合わせて25言語になるわけですねぇ。

     これは、フランス人の言語学者であるジャリ・ジャク氏が「色即是空 空即是色」という仏教の無常感に心を揺さぶられて、この「般若心経」を様々な言語に翻訳しようと思い立ったのだそうです。現代語の他にも、ラテン語や古代ギリシャ語、ヒエログリフ(象形文字)にも翻訳して絵文字が持つ表現力を確かめたかったそうです。
    これは、日経新聞の文化欄に寄稿されたものですが、翻訳に当たって「空」の表現が非常に難しかったそうです。西洋には、精神的な無の思想がないそうで、“形有るものは形が無く、形の無いものも形有るものと同じ”などという理屈に合わない仏教の考え方は、論理的なキリスト教などでは理解に苦しむものだろう。また「不増不減」と言う言葉が好きで、本当の心の豊かさを求めていることに心を動かされるらしい。

     「般若心経」は、お釈迦様が書かれたものでもないし、直接説法された言葉でもない。後世に、沢山有る経典の中から選りすぐって創られた仏教のエッセンスだから、逆にお釈迦様の悟りの内容を端的に現しているものに違いないと思うのです。

     以前から、何時も日曜日に伝道に歩かれている「ものみの塔」の信者の方と言葉を交わし、聖書を基に解説された冊子を頂いて読みますが、仏教と根本的に違う点は、キリスト教を信じるものは救われ、信じないものは破滅すると言う論理です。だから、何時かは来る世紀末に際して、この地球に生き残るためには、キリスト教だけを信じなければならないのです。
    ですから、親鸞上人の説かれたものである「歎異抄」に書かれている“善人なおもて往生をとぐ、まして悪人をや”などと言う「善人が往生できるのだから、まして仏にすがれない悪人は当然救われるのだ」という思想は、理解の外ではないだろうか?

     現代の世相も、悪人を罰することばかりに夢中になって、悪人を生み出す原因を無くすことを疎かにしているような気がするのだが…。 ( Jan. 24. 2004 )


     日本テレビのテレビ50年大型企画、生命38億年スペシャル“生命とは何だ!? W”をご覧になりましたでしょうか? 人間の心と脳との関係を追及して、人の意識と行動から人間の本質に迫ろうという興味深い番組です。

     今回は、脳に障害を持ちながら一般の人より高度な知能を発揮する「サバン症候群」や「ウイリアムス症候群」の人達を分析して、脳の機能の神秘に迫ります。また、13年間監禁されていて文字も言葉も話せない少女が、人間の感情と行動を取り戻すまでの観察記録が紹介される。ここでは人間の成長に人の愛情の重要さがひしひしと感じられて、現代の幼児・児童虐待の異常さがまざまざと浮かび上がってくる。

     特に自閉症と呼ばれる「サバン症候群」の特異な能力や、特に音楽にのみ異常な愛着と能力を発揮する「ウイリアムス症候群」の人達をみると、私たちの脳力や記憶は、何億年も受け継がれてきた人間の遺伝子に刻まれた記憶の発現ではないかと、キャスターの古館伊知郎さんと養老孟司さんの対話で何となく納得させられる。では、なぜ普通、人はそれらの記憶を取り出せないし、驚くべき計算力を発揮できないのだろうか? それは、人間がそのような能力を必要としなくなったために、意識の奥底に格納されてしまったのでしょうか? 真実はわからないが、人の脳にはそれらの能力が備わっているということと、脳のある部分が障害を受けることによって、それらのバリアが解放され、驚異的な能力が発揮されるということは確かである。

     この番組をみていて、人間の“脳力”の不思議さと同時に、人間以外の動物の“脳力”はどうなのだろうかと思いを巡らした。私たちは、この地球上の動物の中で、霊長類として全ての動物の頂点に立って支配してきたが、はたして人間だけが持つ知能なのだろうか? 何らかの異変によって地球上の動物の脳のバリヤが解かれたら、人間以外の動物もその“脳力”が開眼して、人間を支配することにならないか? それを杞憂だと言いきれるのだろうか? 一体“人間とは何だ!!??” 貴方はどう考えますか?( Nov. 30. 2003 )


     芸術家の横尾忠則氏が「意識と肉体と」という一文を、日経新聞の文化欄に寄せておられますが、なるほど横尾氏ほどの人になると肉体と意識との関係についても、日常の出来事からここまで“意識”されるものと感じ入りました。

     “意識と気について”は、このコンテンツでいろいろと検証してはいますが、横尾氏によれば、旅先の公衆便所で、自分の尿意と放尿との時間的な差が、意識のコントロールによって、必ず便器で放尿するまでズボンの中で放尿することはないと感動されている。誰もが当たり前のことと思っていることを、意識が肉体に命令するようにコントロールされていることに感動を覚えたと言われています。
    それだけではないのです。階段を踏み外して痛めた足が、3ヶ月たっても痛みが治らず、大病院でも治療は必要がないと判断されたらしく、あとは患者である自分が、一生このまま足を引きずるか、あるいは“治っている”と判断するしかない。そこで、“治っている”と判断した。すると、先っきの先っきまで痛くて仕方のなかった足が、スタスタと歩けるようになった。すると、ぼくの足は、ぼくにウソをついていたことになる。それとも「俺の足は病気なんだぞ」と、ぼくにウソをつかれた足は、僕の命令(意識)に忠実に、ずーっと病気のふりをしていたかのどちらかだ。…と断定されている。

     こんな風に考える人がいるなんて、今まで出会ったことが無いし、ほとんどが “意識”のことを私が言うと、白い目で見られていましたから、とても信じがたいうれしい驚きです。
     横尾氏は、このようにして、それ以外についても色々意識と肉体との関連による不思議な現象を検証されていますが、おしまいに「病は気からというが、われわれは意識によって肉体を左右させていることには間違いなさそうだ。でもそれだけではいけない。肉体自身が発する情報にも耳を傾ける意識も必要だと思う」と結ばれている。

     全くその通りで、自分の身体は全て自分の意識がコントロールしているわけで、意識は自分の感覚を通して判断しているわけですから、どんな微かな信号でも自分の意識が知覚できることが、健康な身体であり、それが生来の動物としての人間の感覚であると思うし、それが自然体であり、自然体の持つ“自然治癒力”というものではないかと考えています。

     貴方は、自分の“意識と肉体”の関係をどう考えていますか? そんなこと“意識”したことないって? なるほど、ごもっとも!! ( Oct. 20. 2003 )


     阿弥陀如来の功徳を信じ、“南無阿弥陀仏”と念仏を唱えれば、全ての人は救われて浄土に往生することが叶えられる。これは法然上人の教えを学び、家庭を持った在家の僧侶のまま親鸞上人が開いた、念仏を中心とした浄土真宗ですが、他の多くの宗派の僧侶が、独身のまま修行をする出家主義を貫いていることと大きく違います。とはいっても、現代の僧侶の多くが、必ずしも出家主義であるとは断言できません。しかし、何しろ家庭を持って在家のまま仏に仕えるようになったのは親鸞上人が最初ではないかと思います。

     「大法輪」(大法輪閣発行)の5月号には、“親鸞と浄土真宗”が特集となっていて、以前お話しましたが、我が家が浄土真宗高田派であることを再認識して、改めて我が家の宗派、浄土真宗について知ろうと思い立ったのです。これも今は亡き父の導きでしょうか?
    なぜ念仏さえ唱えていれば浄土へ往生できるかと言うのは、遥か昔、宝蔵菩薩と言う修行者がこの世に現れ、人々を救うために大悲誓願を起こし、人々に成り代わって永劫の修行を行い、ついに阿弥陀仏となられた。阿弥陀仏は、本願の通りに生きとし生ける全てのものを、本願を信じ念仏するものに育て上げて、浄土へ生まれさせる如来なのです。ただ如来の誓願を信じ、念仏することによって、誰もが浄土へ往生できるというのが、浄土真宗の教えなのです。

     では、なぜ“南無阿弥陀仏”『名号(みょうごう)』という念仏を唱えるのかということですが、詳しくは本誌で、梯(かけはし)實圓師の「教えを知るキーワード」を参照していただくとして、“南無阿弥陀仏”は如来そのものであり、唱える(声に出す)ことによって己自身に如来を呼び起こし、如来の功徳を受けることができるのです。私たちは、もともと如来に背き、空しい迷いを繰り返してきた浅ましい煩悩具足の凡夫であって、真実の仏法を聞こうとする心も無く、念仏しようとする心さえおこらないものである。それを仏法を聞くようになったのも、念仏を唱えるようになったのも、すべて如来のお力、本願他力のはたらきである。その本願他力が私を浄土へ生まれさせるのですから、本願を信じ、念仏を唱えるものは、既に如来の救いを受けているものなのです。

     浄土真宗にも拠り所としている経典がありますが、それを浄土三部経と言い、“無量寿経”、“観無量寿経”、“阿弥陀経”です。それに親鸞上人が念仏に関する証言をまとめられた「教行信証」(顕浄土真実教行信証文類)、「三帖和讃」などがあります。また親鸞上人の言葉をまとめた「歎異抄」等も良く知られています。
     浄土真宗の教えは、他の宗派と比べて非常にシンプルです。念仏なども何度も繰り返し唱えなくても功徳に変わりは無いと言いますから、私などのように、怠け者の信者にはもってこいですねぇ。また、浄土真宗の教え(考え方)は大乗仏教の至極だとも言われています。

     大乗仏教というのは、一般大衆、在家を対象にしたもので、“大乗”というのは、大きな乗り物と言う意味です。それに対し、出家僧侶を対象としたものに対して、小乗と呼ぶ場合がありますが、本来は、出家者を対象にしたものを上座部、一般大衆の在家信者を中心としたものは大衆部と呼ばれていました。そして仏教の伝来において、上座部仏教はセイロンを経てタイ、ビルマなどの東南アジア各地に伝わり、大乗仏教の思想は、膨大な経典と共にインドから中国(三蔵玄奘によって漢訳され)に伝えられ、朝鮮を経て日本にも伝えられました。日本の諸宗派はほとんどが大乗仏教です。( May. 15. 2003 )


     “スッタニパータを読む”も最終講になりました。“万人に語りかけるブッダのことば”としてバラモンの学生がブッダに問いかけて、ブッダがそれに応答する部分があります。
    「わたしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。―どうしたら、この世において生と老衰とを捨て去ることができるか、そのことわりを説いてください。それを私は知りたいのです。」

    それに対してブッダは
    「ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、そなたは怠ることなく励み、妄執を捨てて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ」
    と述べられています。

     このことは、既に何度も述べられているように、私たちは日常の生活において、物、金、世間体、地位、名誉、学歴、過去の栄誉やもろもろの事柄や明日のこと、将来のことなどに心を煩わしています。これらを煩悩と言っていますが、煩悩は無明(無知)によって生じてきます。それを修行により法(真理)を知り、心を無にすることによって、全ての煩悩を捨て去ることが出来るのでしょう。また、それを捨て去ることが出来ないからこそ、その事実を肯定し、仏に救いを求めるのかも知れません。

     “真理は一つであって、第二のものは存在しない。その[真理]を知った人は、争うことがない。彼らはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。”(スッタニパータ第884偈)

     「世の中が多様化すれば、価値観も多様化するでしょう。その場合大切なことは、自説にこだわったり、他者に自説を押しつけたりしないことです。相手の考え方に耳を傾ける柔軟さが大切です。いま世界の諸宗教間において、相互理解、相互対話の重要性が叫ばれております。それぞれの宗教を認めつつ、お互いの立場を尊重し、理解しあう場がこれまで以上に設定されようとしています。」と雲井昭善師は述べられています。

     まさにアメリカとイラクの問題や、イスラエルとパレスチナ、インドとパキスタンの間の紛争なども同様ではないでしょうか? 無宗教化したわが国では、倫理観の欠如や、愛情の欠落が原因と思われる多くの犯罪が顕在化しております。今こそ、お釈迦様の教えを正しく理解して、犯罪や紛争のない社会を醸成していかなければならないのではないでしょうか?

     原始仏典“スッタニパータを読む”の講座は終わりましたが、教わったことを大切にして、更に、自分自身がより深めて、自ずから実践してこそ活かされてくるのだと考えています。私の拙い理解と解説が、貴方にもお釈迦様の教えの理解の一助となれば、望外の喜びです。( Mar. 12. 2003 )


     “スッタニパータを読む”も第11講となり、あと一講を残すだけとなりました。第10講では、“仏教の原点をみつめて”ということで、仏教が何を説く宗教かということを明らかにしようとしていました。これはとりもなおさず、お釈迦様の悟りを明らかにすると言うことになるかと思いますが、一般的には、三つの法印(“法”=真理)として、
       1.諸行無常[因縁によって形づくられた全てのものは無常(常に変化している)である、という法印]
       2.諸法無我[現象界の全ての事物(諸法)には永遠不変の実体というものはない、という法印]
       3.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)[全ての迷いが消え去った悟りの境地は静かで安らぎの世界である、という法印]
    で、更に「一切皆苦」を加えて、四法印とする場合があります。

    そして、原始宗教の思想の特徴を、四聖諦(ししょうたい)、八正道(はっしょうどう)、十二支縁起=十二因縁(いんねん)を代表的だとしています。 十二支縁起を簡潔に言うと、「無明(無知)によって老死苦があり、無明の滅によって老苦死の滅がある」ということになります。即ち、苦しみを作っているのは結局自分自身の無知の業である、と言えるでしょうか? これらについては、既に述べているので、夫々を参照してください。

     さて私たちは、人生を生きるうえで“幸せ”を常に求めているのではないでしょうか? そして常に他人と比較し、自分が相手よりも何時も不幸で、何故自分だけ不幸なのかと嘆いているのではないでしょうか? この世に神や仏はないものか、と恨むことがありはしませんか?
     この世のことを“娑婆”と呼びますが、“娑婆”とは、サンスクリットの“サハー”の音写で“大地”と言う意味ですが、仏教では人間の住む世界、現世、俗界を意味するようになったと言います。また“サハー”には、「抑制する、克服する、こらえる、耐え忍ぶ」などの意味があり、漢訳では「忍界」、「忍土」と訳されているそうです。

     スッタニパータ第268偈によれば、

    “世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れ(けがれ)を離れ、安穏であること、…これがこよなき幸せである”

    と述べられていて、健康で少欲知足であり、心の平安が最上の幸せである、と教えています。また、別に、第265偈では、

    “尊敬と謙遜と満足と感謝(=知恩)と(適当な)時に教えを聞くこと、…これがこよなき幸せである”

    と述べられています。そして第262偈では、親に対する子の努めとして、

    “父母に仕えること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、…これがこよなき幸せである”

    と述べられています。即ち、私たち一人ひとりの存在は、自分を取り巻く大地・自然、国土・環境、そして多くの人々の無限・無尽の因縁によって生かされていることを常に心にとどめる、すなわち心が因に従う(恩)ということを意味していると思います。
    ここでは、どこにも“私”とか“己”はありません。“無我”の世界であり、すべてに感謝し、尽くすことが“幸せ”につながるのではないでしょうか?“利己”ではなく、“利他”であるのが、お釈迦様の悟りではないかと思います。( Feb. 10. 2003 )


     「合気道で悟る」。捜し求めていた武道の奥義を見つけました。

     この著作は、合気道創始者の植芝盛平翁の内弟子で、翁の逝去後にその元を離れて、熊本に合気万生館道場を開いた砂泊(すなどまり)かん秀氏の最新刊ですが、氏は植芝盛平翁に心酔されて、翁より合気道の本質を受け継ぎ、その奥義を会得するまで精進されたもので、そのことが余すところ無く述べられている貴重な一冊です。

     いつもの本屋で宗教・哲学関係の書籍を探していましたら、偶然それらの中に、宗教とは縁遠いと思われる武道、合気道の書籍、「合気道で悟る」が目に付きました。当然の如く手に取った私(合気道二段なのです)は、ペラペラとめくった頁に、

    「この武道は武道であって、宗教である。合気は和合の道、全人類、全宇宙が大きく和して一体となすべき万物本来の姿の現れである…。全大宇宙は皆同じ家族であり、世界から喧嘩、争い、戦争をなくす、この世界は美しき愛の世界…、愛がなければ国が、世界が、宇宙が亡びる。愛より熱も光も生じ、それを実在の精神において行うのが合気道である」

    という開祖植芝盛平翁の遺訓を心に収め、以来38年、紆余曲折の長い道のりを経て、“合気は愛なり、を実感するところまで、技が辿り着いたように思います”と砂泊氏は述べられています。まさしく、これこそ合気道の奥義、宗教の根源にまで遡って追及された植芝盛平翁の合気道の本髄ではないかと感じ、躊躇無くこの本を手に入れました。

     以前にも言いましたが、私は高校時代には強くなりたくて柔道に精進しましたが、強くなるということは、試合で勝つことなのか疑問をいだきました。その後、試合の無い合気道にめぐり合って、これこそ本当の武道だと喜んで精進しましたが、年を経るにしたがって、何か物足りないものを感じるようになりました。何かが欠けているのです。それが何かわかりません。それを言葉で言えば、“自然体”というようなことではないかと思います。

     この著作には、合気道とは何か? 強いとは何か? が余すところ無く述べられています。氏も、「(技で)相手に負かされないようにするためにはどうすれば良いのか、長い間、試行錯誤を繰り返してきたが解決がつく問題ではなかった。それは心の問題で、心を技に体現することは、また至難なことであった」と述べられています。
    「合気道に、呼吸力というのがあるが、呼吸とは生命の根源である。生命の元であるその力の出し方を養成する業であるから、その養成こそが人間完成への道のりであるといえよう…。体力で相手に接すると、体力の勝っているものには適わない。相手に手を取らせたときに、相手に任せる気持ちで相手と結ぶ…。お互いに手を取り、取られたときに、相手に強い抵抗を感じさせることは、体力であると思うのである。呼吸力は、一生を通して修行する霊肉一体の至上境であろう。体力が落ちた老人でも出る力である」

     即ち、争わない心、共に結ぶ心こそが合気道の精神であり、強さの(相手に勝とうという心ではない)根源である、と感じました。これを体得することは至難の業ですが、その精神は容易に理解することが出来ました。正に、これは仏の心ではないかと思います。貴方はどう感じられましたか? 屁理屈だと思われますか? ( Jan. 15. 2003 )



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