ディジタルの世界はそれだけではありません。インターネットの世界で既によく知られているように、ディジタル・コンテンツそのものは容易に書き換えが可能なものであり、変容するもの、加工されやすい変化する、悪く言えば、化けてしまう実態があるのです。これは、従来の写真フィルムを用いた写真が、デジタルカメラを用いて撮影した写真になると、撮影した実体と異なる写真に加工することが容易となり、偽物の写真が出来ることになるのです。お見合い写真を撮ったとしましょう。出来あがった写真が気に入らなければ、相手の好みに応じて、容姿を自在に変更したり、場合によっては他人の顔を拝借する事だってできてしまうのです。ですから、ディジタルの世界は、他人にも成りすますことの出来るバーチャル(仮想)の世界でもあるのです。その使い方によっては安全性(セキュリティ)が脅かされ危険性が増す可能性があります。インターネットや携帯電話で犯罪が多発しているのも、現実と仮想を取り違え易いことを逆に利用されているのではないかと考えます。
実際にデジタルテレビを視聴してみるとお分かりのように、現実にはありえない場面に、アナウンサーやゲストが立っている場面に出くわすこともありますし、天気予報などでも、実際には目の前に無い画面を気象予報士が指差していることが多々あります。これは合成された画面なのです。現実の世界ではなく、ウソの世界が日常に展開されるようになってきています。いわゆるゲームの世界が日常になりつつあるのです。
言い換えれば、ディジタル技術を応用すれば、現実には困難な場合でも、コストを掛けずに安全に、安価に制作ができるようになります。テレビがディジタル化されるのもその価値が認められたからなのです。しかし私たちは、電子新聞や電子書籍で一日中モニタ画面とにらめっこして、利便性を享受することが幸せだと感じられるでしょうか?
やっぱり、弁当は新聞紙で包み、お掃除にも窓拭きにも新聞紙、畳の下や戸棚の下敷きにも新聞紙、ちょっとした汚れ作業も新聞紙の上で、読書に飽きたら雑誌や書籍を重ねて枕に昼寝。ヘソクリをちょっと本の間に隠して、素知らぬ顔。などという生活も昔の夢となるのでしょうか?
やがては、図書館などもディジタル書籍で電子化されれば、本を書棚に収納することも不必要となって、全てインターネットで調べたり、読書したりする便利な(?)時代になってしまうでしょう。何だか空恐ろしい気がしてきました。人と人との接点がなくなってきて、無味乾燥な情報化社会になってしまいそうですねぇ! みんなで話に花を咲かせる長屋の花見や井戸端会議は死語になってしまうでしょうね。
バーチャルついでに、美術館や博物館だって作品のディジタル化が進められていますから、これから主流となる3D(三次元立体)テレビの技術が導入されれば、居ながらにして、現場で実物を鑑賞しているような感覚になって、わざわざ美術館へ行く必要も無く、外国旅行も色あせてしまって、まるで引きこもり人間ばかりになってしまうでしょうね。買い物だってインターネット・ストアで、配達だからねぇ。(そうなると、ルームランナーとデラックス・もみもみチェアを購入しとかなきゃ!/運動不足と肩こり防止だねぇ?/何処へも出掛けなくていいから、自動車も高速道路もいらないねぇ、鳩山さん!?)(Mar 26. 2010)
これは光ファイバーを用いたインターネット回線のBフレッツに相当するもので、光ファイバーの高速性を利用してIP電話、テレビ電話あるいは動画など魅力有るコンテンツ等を配信できる次世代のネットワークを構築できる期待が持たれています。
このような事が可能になると、現行のテレビ放送や通信網ばかりでなく、社会全体の構造自体が大きな変革に直面する事が予測されます。現在の社会が、IT社会と呼ばれるインターネットやケイタイ電話を中心としたネットワーク社会に大きな変容を遂げたように、TV放送のディジタル化が電波という一世代前のシステムから、光ケーブルを用いて、光電話と同様の回線を通して各戸に配信される画期的なネットワークが、想像を超えた新しいコミュニケーション社会が実現されるかも知れません。
先日、H2Aロケットによって打上げが成功した高速通信衛星も、この光ファイバーによるネットワークが実現すれば、電波による通信(電波より光の速さの方が速いことは自明の事実です)ということから、全く優位性はなくなり、衛星の利用目的の再検討を余儀なくされる事態に陥る可能性に直面していると言われる。
急速な科学の進歩と技術革新によって、技術の陳腐化のスピードが早まり、下手をすると開発と実用化が追いつかなくなり、取り残されてしまう心配が出てきて、私達自身も新しい技術に取り残されるのではないかという杞憂さえ持たれています。
科学の進歩は人々の生活に大きな恩恵を与えてきましたが、人間にとって、利便性や高速化がどれだけ重要なのかを、もう一度、ゆっくり考えてみる必要があるのではないかと、改めて痛切に感じています。( Feb. 26. 2008 )
毎朝、民放での各社新聞記事を比較するニユース番組が賑わっていますから、大手三社の新聞報道を自分の眼で読み頭で考え、比較できることは大変意義深いものがあります。これはメディアの新しい試みの1つと言えるでしょう。この“tommyのつぶやき”にしても、元を質せば、各種のメティアの情報(新聞、単行本、雑誌、TV報道等)を元にして検証し、その上に拙いtommyさんの見解を述べているわけですから、従来新聞としては、ほとんど日経新聞社の記事を主体としていましたが、更に朝日新聞、読売新聞との比較が容易となれば、もっと内容が充実される期待もあります。(あくまで期待ですからねぇ!/期待しない方が良いのでは?/勝手にしろッ!)
何にしても、新聞と言うもっとも信頼すべきメディアの、それも大手三社がその社の威信を掛けて読者の批判に答えようというウエブサイト“あらたにす”は画期的な試みであり、今後の進展を期待しましょう。( Feb. 3. 2008 )
NHKの橋本会長は、その責任を取って辞任を申し出ましたが、丁度、新会長と交代の時期であって、“飛ぶ鳥跡を濁す”事になって、「責任を取る」意味が無くなってしまいました。前回の会長交代も、経営に問題が多くて更迭され、橋本氏に改善の期待が大きかったのですが、その責を果たせず辞任の事態となってしまいましたねぇ。
最近のNHKの番組を見ていても、とても国民の教養を向上させるとか、公共放送としての凛とした報道姿勢が見えてこないのです。ともすると視聴者に媚びた、視聴率稼ぎの民放(民間商業放送)に擦り寄った番組作りや、宣伝・予告放送が間に挟まったり、情報伝達が主である天気予報や気象状況の放送番組に、どうでも良いような、屋外に表示板を立てて、わざわざコートを羽織った女性アナが、手書きで説明したり、お天気マークを貼り付けたりするのは、不必要なムダな操作と感じるし(もっとコスト意識が必要では?)、最も重要な、ニュース番組などは、時間に追われるような早口で、次々と間無しに場面を切り替えるのではなく、視聴者がじっくり考える余裕のある報道にすべきではないかと考えています。
また事件報道では、犯罪の手口を、事細かに解説する必要もありませんし、繰り返し繰り返し報道することでもありません。テレビ報道は、そうでなくても映像が加わるわけですから、それをみて悪い影響を及ぼさないように報道すべきではないか思います。どこかの週刊誌などとは違うのですから…。唯一、視聴料を徴集している公共放送だからこそ、もっと真剣に放送・報道というメディアの役割を認識して、その影響や、効果を考えて報道に関わって欲しいのです。コマーシャルの合間に番組を放送している民間放送と同じでは、視聴料を払って見る価値はありませんし、まして、今回のような報道の倫理規定に反するような、インサイダー取引に拘る事態を引き起こすような堕落した精神を払拭してほしいものです。
度々問題にしていますが、視聴率を問題にするよりも、番組の質の向上(つまらないテクニックに溺れることなく)に全てを掛けて欲しいと思っています。NHKの放送番組には多くの立派な報道番組や教養番組があって、民放とは一線を隔している格式の高さが有るわけですから、それらに関しては視聴料は決して無駄になってはいません。自信を持って、政治や権力による圧力に屈することなく、公正・公平な良い報道を国民のために届けて欲しいと思います。どうか新会長を支えてガンバって下さい。( Jan. 28. 2008 )
相変わらず、豪華キャストを次々と投入するNHKならではの朝ドラですが、目先だけの人気取り番組で視聴料を払わされているNHKの制作意図が良くわかりません。もっとまともなドラマで、内容には健康で明るいものを、特に出勤前に見る朝ドラにして、毎日奮闘しているサラリーマンの明日の希望となるように、また、子どもの躾に失敗したオバサン連中の反省と教養のためになるように、よく検討して制作し、放映して欲しいものですねぇ!
昔は、NHKのニュースや報道番組などでは、企業名は宣伝になるとして削除されて、画面に現れる看板などもマスクされて報道されたものですが、最近は、堂々と企業名を前に出して報道されています。企業から多額の献金を受けているのかもしれませんが、商業放送顔負けですねぇ! それに、番組の切替時間には、親切の押し売りのように、NHKのコマーシャル(?)がこまめに挿入されますねぇ! それに、アナウンサーや気象予報士、鉄道・交通関係の女性までも氏名が大きく画面に出されるようになりました。私たち視聴者はニュースの内容や明日の天気の状況が知りたいだけで、アナウンサーの氏名などは、どうでも良いのですがねぇ?(年寄りはうるさいねぇ!/毎日が日曜日で、ヒマだからねぇ!)
NHKの番組制作者にこそ、公共性と視聴者のことを良く考えたメディアリテラシイ教育がもっと必要ではないかと思うのですが…。貴方はそう思いません?( Jun. 16. 2007 )
ラジオといえば、環境問題で地球温暖化防止のためにTVも消費電力が210Wも必要な28インチのブラウン管式のテレビの代わりに、わざわざ70Wの液晶テレビに買い替えて消費電力の削減を図りましたが、それに厭き足らず、故障品の消費電力7Wのラジカセを修理して古物のスピーカ(お蔵入りだったコーラルの2wayHi-Fiスピーカ)をつないで、テレビの代わりにFM放送やオーデオテープの音楽を聴くことにして、更に電力消費の削減を図ったことをお話しましたが、ここでは、消費電力の削減など問題ではないと、若者のラジオの深夜放送離れがゲームやケイタイ電話に取って代わられ、これからのトレンドのデジタルラジオで、CD波の音質で文字情報や画像情報も流すワンセグのラジオ版だそうです。
また、ポットキャスティングとかいって、インターネットでラジオ番組を配信することで、好きな番組や音楽を好きな時に好きなところで聴くというものです。たかがラジオというものが、何時の間にやらワケのわからない電波のバケモノに乗っ取られてしまうわけですが、私の言いたかったのは、そんなことではなく純粋なラジオ、即ち、テレビ放送時代になって、何時の間にか受験生に独占された、深夜放送として生き残って来たラジオ放送を、新に見直そうと思ったわけです。
テレビ放送が始まったのは昭和28年頃だったのですが、私が就職してから暫くは独身寮で自作の鉱石ラジオを経て、これも自作の無限インピーダンス検波のラジオを手作りしたり、更にステレオアンプを自作して、2チャンネルから独自の4チャンネルへとレコードを聴くオーディオマニアへと進化してきました。この聴くという作業は、映像のない世界で想像を働かすという自分だけの夢の世界を実現する事だったわけで、TVの映像が加わると、画像というものが否応無しに想像の世界をぶっ壊して、全ての視聴者に全く同じの世界を押し付ける形になってしまい、頭の中で空想を膨らますゆとりを無くしてしまったのです。
それだけではありません、私が父のために秋葉原で3万円のキットを買ってきて、初めて組み立てた白黒テレビの時は「銭形平次」の番組も想像豊かな世界でした。 ところが、結婚した後、これがカラーテレビに変わった時、銭形平次の相手役、万七親分の羽織が、何と! 紫がかった茶色だったのに仰天したのを今でもハッキリ思い出します。羽織は全て黒いものと思いこんでいたからです。まさか羽織に色が付いていたなんて想像もしなかったわけです。この時よりテレビの番組は、私より自由な発想や想像の力を奪って行ってしまいました。もう物語では無く、絵本や紙芝居の世界となってしまったのです。
慣れとは恐ろしいものです。今では、カラーの映像が当たり前で、白黒の映像になると何だか物足りなく、物語自身が変化してしまうことです。だから、現在のカラーテレビやパソコン、ケイタイ電話の世界にはまり込んでいる子ども達は、もう想像力はありません。与えられた映像の世界を、みんなで同じように共有するだけなんです。単なる話題の共有でしかありません。本当にそれでいいのでしょうか?(ダメだって言ったってしょうがねぇだろ、昭和28年の世界に戻ろうったって、そうはいかねぇんだょ!/そりゃあ、そうだけどさぁ!)
だから、改めて白黒の世界であるラジオ番組や読書の物語の世界が重要になってくると考えるのです。それに、テレビのアナウンサーの早口言葉とニュース画面での切れ目のわからない画面切替えや、スポーツ番組でのライブとリプレー画面、ニュースや番組中の紛らわしいコマーシャル画面の視聴者を無視した割り込み等は、思考中の私達の頭を混乱におとしめ、思考能力を減退せしめているような気がしてなりません。子ども達の創造能力の低下までが心配でならないのです。杞憂であれば良いのですが? だから、メディア・リテラシイ教育がどうしても必要なのでしょうか? ( Mar. 19. 2007 )
これらの人気取り(視聴率優先の誇張番組)は今に始まった事ではなく、古くは、みのもんたのバナナの売り切れ騒動など、放送番組のデータの信憑性に疑問を呈する番組や“やらせ”番組は後を絶たない。むろん、スポンサーのつく商業放送である民間放送だけでなく、視聴料をとるNHKの放送でさえも、必ずしもデータの裏付けとなる測定条件などの明確な提示は少ない。いずれも視聴率で成り立つ番組の構成上、都合の悪いデータや比較条件などの提示は省略されて、都合の良いデータが提示される。
そのために「メディア・リテラシイ教育」が必要になってきていることでもあり、内閣支持率の世論調査や犯罪・事件などの被害者・加害者の身辺聞き取り調査なども信頼性は必ずしも十分とは言えないし、同時にバックグラウンドに流される映像によっても、視聴者の判断は容易に左右される。特に、物的証拠の無い場合の風景や現場界隈の無意味と思われる映像は、判断を左右される場合が多い。我が家では、常に報道番組の背景映像について報道内容との関連を、妻と共に議論をしているが、真実の判定に確証はない。
報道の真実については、“アルジャジーラ 報道の戦争”で既に述べているが、番組の信頼性は放送番組を提供するメディアの報道倫理に関わる問題で、メディアを代表する経営者の倫理感覚によるのである。いくら外部監査を強化しても、メディア自身、コマーシャルのコピーや映像については、各企業の倫理体質が改善されない限り、視聴率に都合の良い誇張や“やらせ”、データの捏造が横行する。まして、放送がデイシタル化されれば、尚更、CG(コンピュータ・グラフィックス)の多用やコラージュ(写真の加工)が容易になり、視聴者である私たちは容易に欺かれる。
これらの欺瞞を放送法による規制や摘発による厳罰化によっては駆逐する事は難しいのではないか? 雪印や不二家、パロマや三菱自動車事件などと同根の事象であり、公務員や政治家の不祥事などとも共通する問題ではなかろうか? イジメや虐待が教育基本法の改正で解決できないと同様、経営者や政治家の倫理を教育する手立てはない。( Feb. 5. 2007 )
言うまでもなく、最も信頼しているメディアとして、既に私も同様に“新聞”と“NHKテレビ”を挙げており、それ故に、これらのメディアにに携わるジャーナリストの報道倫理に対し厳しい注文をつけているのである。しかしながら、そのどちらにおいても、未だに不信感を拭えない行状や事件が後を絶たない。それらがNHKの受信料不払いにもつながってもいよう。
これらは、一に記者などジャーナリストだけの問題だけではないと考える。全ての管理責任はそれらの組織や上司の権限にあり、翻っては経営者に全ての責任がある。このコンテンツの中でも、テレビ映像による報道について、イギリス放送基準評議会のスティーブ・ウィットル氏やロンドン大学のエリック・バレント氏の発言を取り上げて“マスコミの責任と義務”について明確にしているが、日本の新聞やテレビ放送に関しては、相変わらず、一向に改善される様子は見られない。
テレビ報道については、イラクでの邦人拘束事件が発生した際に、彼らの開放に活躍したメディア“アルジャジーラ”が記憶に新しい。“アルジャジーラ”は中東のカタールに拠点を置くテレビ放送局で、アフガニスタン紛争の際に、政治に偏向の無い、信頼性の高い、リアルタイムな戦争報道として一躍有名になったアラブ系のメディアである。これらの報道に携わる人達の多くが、元BBCで活躍していたアラブ系のジャーナリストだと聞けば、その報道姿勢もなるほどとうなずけるのではなかろうか?
“アルジャジーラ”についての詳細は、「アルジャジーラ 報道の戦争」(ヒュー・マイルズ著 河野順治訳 光文社刊)を参照していただくとして、報道の信頼性は何か? 報道の信頼性を維持するためには何が必要かを十分議論する必要がある。真実の情報をリアルタイムで入手するために、インターネットの有用性・将来性を既に述べたが、インターネットの現状を考えると信頼性においては十分である確証は得られない。それ故、現在存在する“一般の新聞”や“公共テレビ放送”に頼らざるを得ない。だから、その“一般の新聞”や“公共テレビ放送”への信頼が揺らいだとしたら、頼りとするもの、拠り所は無くなり、私たちの生活において安心・安全は得られなくなるに違いない。
特に、最近のNHKのテレビ放送においては、その報道に十分な信頼性に確証が持てなくなりつつある。以前には、毎朝、放送番組をチェックして、信頼性のある番組にマーカーを引いて、楽しみにしていたが、最近の番組チェックでは、ほとんどマーカーがつかないのである。それだけ放送番組の内容や質が低下したとは考えられないだろうか? ニュース報道にしても、必ずしもNHKでなければならない必要性もなくなってきている。だから、NHKの視聴料不払いも発生するだろうし、視聴率の低下(視聴率の持つ意味をも良く考えるべきであるが…)も避けられないのではなかろうか? また、報道の質が民放と同一、同質ならば、わざわざ視聴料を払ってNHK放送を受信する必要も無いし、公共放送としての存在の意味も無い。それ故、公共放送としてのニュース報道とはどうあるべきか? 公共放送の使命は何なのかを、真剣に議論しなければならないだろう。( Apr. 3. 2006 )
朝日新聞の報道の虚偽問題は、先般、NHKでの放送に対する政治家の圧力の問題のこともあり、「朝日新聞社の組織に構造的な問題がある」との認識を示したとありますが、この問題はもっと根深いものがあるような気がします。私がこのホームページに“マスコミの責任と義務”のコンテンツを取り上げたのも、元はといえば朝日新聞の報道記事の信憑性に疑いを持った事から始まっています。既にその頃から報道姿勢に問題が見られたのではないかと考えています。
問題が発生すると、直ちに当事者である記者の責任が指摘されますが、根本的には経営者の姿勢がそれに反映されているのではないでしょうか? 新聞にしろ、テレビにしろ、あるいは雑誌、週刊誌においてもこれら類似の問題が頻発しています。それは、何も報道記者の資質や倫理の問題だけではないような気がします。新聞協会では、既に「新聞倫理綱領」が制定されていますし、テレビ放送についてもNHKと民放で自主規制が行われているようですので(週刊誌などでの自主規制は分かりませんが…)、倫理規定を定めたからと言ってこれらの問題が防止できているとはとても考えられません。
ジャーナリスト全てにジャーナリズムの欠如があるとは考えられませんので、メディアを規制しているのは、それらの経営者の倫理感覚ではないかと思います。
同じように、フジテレビの情報番組「めざましテレビ」でも3件の“やらせ行為”があって、責任者の処分が発表されていますが、マスコミに限らず、内閣府の世論調査でも、委託先でデータ捏造などの不正処理が行われていたことが判明した、と今日の日経新聞にありますが、これなどはゆゆしき問題で、仮に現在行われている衆院選の政党の支持率や得票予測などに使われでもしたら大変な混乱が起こるのではないでしょうか? “厳しい処分で臨んだ”で済まされる問題ではありません。
私たちは、新聞やテレビの報道は正しいものだとして受け止めて判断しているわけですから、これが正しくないとなったら何を信じて判断すれば良いのでしょうか? 報道に携わる人達の“責任と義務”をシッカリと反省して欲しいですねぇ! ( Sept. 9. 2005 )
新聞によりますと、中国や韓国のインターネット上で不正アクセス用のプログラムを容易に入手できると言うことですので、その気になれば、この種の犯罪が誰にでも容易に実行できるのです。それだけでなく、爆弾の造り方、自殺や殺人のやり方、誘拐や猥褻行為の手段、わいせつ図書などの有害情報が氾濫しており、警察庁でもその対策に本腰を入れるべく「総合セキュリティ対策会議」を開いたとあります。
また、それとは別に、インターネット上でファイル交換ソフト(P2Pあるいはウイニーなど)を利用して音楽ファイルを不正に公開していたとして、著作権侵害で個人ユーザー5人が摘発され、レコード会社に50万円程の損害賠償金の支払を請求されたということです。これらも、やっても良いことと、いけないことの区別がつかないという倫理不在の問題もありますが、それが容易に出来る環境にあることも問題です。
また、既にアメリカでも問題になっているインターネット上の商取引と税収の問題にしても、ネットオークションなどにしても、素人が容易に利用できる手軽さもあり、法律を意識しないで犯罪を犯す危険性もあり、大きな問題であろう。
これらインターネットにおける問題点は、既に「市民力としてのインターネット」(牧野二郎著 岩波書店刊)に詳しいが、政府がインターネットを公の情報管理に手放しで宣伝しておいて、それらの問題点の検討を怠ってきた責任も重い。これ以上の混乱や犯罪を防止するためにも、早急に法律の整備など対策を講じなければならない。
また我々インターネットの利用者も、インターネットを利用する上でこれらの問題点の存在を十分認識して、被害を最小限に予防しなければならない。( July. 12. 2005 )
例え、ド素人のtommyさんでも、それぐらいのことは承知していて、自分のホームページに記載する場合は、それが一部分であろうともその出典を明らかにし、その理由を記述しているし、転載が禁じられている記事は転用しない。
それを業(なりわい)とするメディアの編集長が、いかなる理由があるにしろ、他社の記事を無断で転用することは許されることではない。最近このような盗用記事のトラブルが多くなってきているような気がするし、ジャーナリストの資質の如何や責任感の自覚の欠落が問われているのではないか?
我々一般人は、全面的にジャーナリストを信頼しており、新聞、雑誌、テレビでの報道が客観的で正しいものとして受け止めていて、特に論説やコラム記事は、そのマスコミを代表する編集責任者と考え、メディアを代表する意見だと考えているので、その前提が崩れたとなると大問題だ! TBSに限らず、全てのメディアがこの機会を捉えて、マスコミとしての報道倫理の確立を図って欲しい。( May. 14. 2005 )
報道に対する政治の介入は今に始まったことではないが、テレビや新聞、雑誌などの報道を正しいものとして信じている私達一般市民にとっては重大問題である。
無論、アメリカのアフガニスタンやイラクでの戦争報道等では、報道規制が強く、政治に都合の良いようなプロパガンダとしての報道がなされたことも多いが、それ以外でも、報道の内容によっては、少なからず政治上の規制が入り込む可能性が有り、またその必要がある場合も起こりうる。しかし、規制がなくても当然政治家は権力者として見られており、政治家の意見や見解はそれが高圧的でなくても、政治的圧力と感じられる場合もあることは否めない。
しかしながら、過去にも朝日新聞の報道が問題にされたことが少なくないので、ここは、何が正しかったのかを明らかにして、報道の中立性を実証しなければならないだろう。
NHKの報道番組の討論会等では、先に結論有りきの誘導番組もあるような感じはするが、ここまで思いきってよくやるなあと感じるスペシャル番組もあって、かなりの信頼を置いて私のホームページでも引用させていただいている。もしそれが正しくないものだとしたら大変なことになる。これが、「マスコミの責任と義務」なる所以だ。
今回の問題は、それらの真実を明らかにすることによって、ジャーナリズムと政治家との関係について改めて我々国民の前に問題提起されることになるだろう。大いに期待を持って、この問題の行方を静観したい。( Jan. 22. 2005 )
こう言う私めも、おれおれ詐欺まがいの脅迫電話が掛かって来ました。身に覚えのない借金の返済をしろと言うのです。むろん、電話を切ってしまいましたが、相手はしつこく電話を掛けてくるのです。警察署に連絡しましたが「そんな電話には出ないで切ってしまえ!」と言うのです。切っても再度掛かってくるものを、どうすりゃいいの? 警察へ回送しろとでも? 相手の名前と住所、電話番号を調べろと言うのです。相手がそれを言うくらいなら詐欺ではありませんよねぇ!
電話を切ってすぐに「136」をダイヤルすると、掛けてきた先の電話番号を教えてくれるサービスがあります。もちろん、それを知っていて確かめてはいますが、押し売り、脅迫、いやがらせ等の電話では、電話番号の登録が不要のプリペイド式の携帯電話を使用していて、相手の電話番号は判らないのです。この借金取立ての強面の脅迫電話もそうでした。「136」では「この電話は番号が登録されていません」でした。
直ちにNTTに電話して、「ナンバーディスプレー(掛かってきた電話のナンバーを表示する)を可能にする」と、「電話番号登録の無い電話は取り次がない」ように依頼しました。取り次がないことは出来ないので、多分NTTへ回送して処理するのでしょう。その工事のために4,000円掛かりましたし、ナンバーディスプレー表示の使用は、月々400円支払わなければなりません。しかし金銭には代えられません。この対策は直ちに効を奏しました。電話番号無登録、あるいは非通知の電話は一切掛かってこなくなりました。押し売りや、怪しい宣伝、勧誘の電話も一切来なくなりました。バンザ〜イ!!!
インターネットも同じです。ウイルスや詐欺まがいのメールが沢山送り付けられます。これは対策が非常に難しいのですが、とりあえずは、セキュリティ・プログラムを導入することにしました。プロバイダにも相談して従来のメールアドレスの受付方法を無効にしてもらいました。相手も手を変え品を変えしてきますので、完全には防護出来ませんが、かなり有効に働くようにはなりました。常に、最新のプログラムにアップデートする手間は省けませんが…。
ところが最近、フィッシング詐欺と言う新たな詐欺が流行ってきて、表面は如何にも安全で著名なホームページのように偽装し、入力した個人情報をそっくり頂戴するという手口です。これは見分けることは困難です。
一度それと思われるサイトに騙されそうになりました。まだフィッシング詐欺のことをよく知らない時でした。相手が指定するサイトにログインしようとしてパスワードを入力した時、セキュリティ・プログラムから“危険です。『トロイの木馬』(ウイルス)が侵入しようとしています”と警告が表示されました。著名な公式サイトで、いつもログインしていて不都合が無かったので、警告を無視して継続しました。セキュリティ・プログラムからは“あなたのコンピュータの保護はされていますが、継続しますか?”と再度警告を受けましたので、これ以上は危険だと判断して接続を解除しました。もし継続していたらどうなったか分かりません。
インターネットも安全では無くなりました。公式サイトだと思っても表面からは判断できなくなっています。益々巧妙な犯罪が増加してきています。政府は「IT、IT」と改革の旗印にしているようですが、不特定多数が使用できる便利なインターネットは危険が一杯です! 利用者が気をつけなければ、知らない内に、それらの犯罪に巻きこまれてしまいます。
無管理であったインターネットが管理でがんじがらめになるのも遠いことではないでしょう。便利さは、何時かはそれを放棄せざるを得なくなるのかも知れません。バーチャルな世界はあくまで幻想の世界なのです。本当のコミュニケーションは“インターネツト”や“ケイタイ”では、所詮創れないのでしょうね。( Dec. 28. 2004 )
日経新聞によれば、今回の決定に対し「文春」側は、仮処分送達前に出荷した74万部については「命令は小売店を拘束するものではない」として回収せず、小売店の判断に任すとした。また出版予定である残り2万部については出荷を保留しているという。同地裁の決定は“記事を切除または抹消しなければ、販売や無償配布、また第三者に引き渡してはならない”という事前差し止めとなっているため問題になっている。
これに対し、日本雑誌協会(浅野純次理事長)は「出版・報道の自由を圧殺する事前規制で、事実上の検閲である」として抗議声明を発表した、とありますが、最近連続して問題となっている週刊誌のプライバシー侵害記事の裁判報道は、出版社の倫理問題とプライバシーに対する被害者との見解の隔たりが大きい。
これは裁判に持ち込んで判定を仰ぐ前に、被害者と出版社、雑誌業界の3社が協議して決める審査システムを作り、第三者の判定を仰ぎ、それでも尚不服ならば裁判で決めるというように、まず出版社、出版業界の自浄努力が必要なのではないだろうか? 弱者は、被害者である個人であるから、それに対し、権力者に対するような「言論の自由」、「報道の権利」などを盾にして、プライバシーを無視した主張は当を得ない。
既にメディアと人権については、「潮」1月号(潮出版社発行)の特集記事「メディアと人権 報道される側の「人権」をどう守るか」で述べられているように、英国の自主規制機関を参考にして、業界が率先して、取材・報道される市民の利益になるような制度をつくることだと思うのだが…。( Mar. 20. 2004 )
昔は、正月に入ってから、久々にのんびりコタツに入って、書初めを兼ねて年賀状をしたためたものでした。しかし、お年玉つき年賀ハガキの配送の都合から、年々郵便局での差出日の締切りが早くなって、遅くとも正月前の12月24日までに投函することになってしまった。そのために、1枚1枚手書きの年賀状を書いていた私は、新年になってもいないのに“明けましておめでとう御座います。今年もよろしくお願い申し上げます”と書くことに大変抵抗感を覚えます。それでいて、元旦に届いた年賀状に、何時も届く相手の年賀状が無いと、“どうしたのかな?”と心配しているのです。
私の年賀状は直筆はむろんですが、その年(前年度)トピックスを図案にします。構想に3ヶ月位かかりますし、図案化するのに2,3日かかります。結局10月くらいから考え始めて、図案ができるのが12月の後半になってしまいますので、宛名書きやらコメントの記入にも2,3日掛かって、大抵、最終投函締切りの12月24日には残念ながら間に合いません。
最初は図案を葉書大にコピーしてプリントゴッコで印刷していましたが、色が混じるため多色印刷にしましたが、色と図案の見当合わせが意外と難しく、その後、白黒の線画にして後から手書きで彩色することにしました。彩色の手間は掛かりますが、綺麗に仕上がるようにはなりました。更に迅速化するために、最近は彩色した図案をデジカメで撮影し、パソコンで修正、トリミングして、ハガキに合わせて縮小して印刷するように合理化しました。これによって、図案の校正から印刷までが短縮され、スピードが上がりましたが、手書き部分は重要なので合理化できません。コメントも相手に応じて必ず書き込むことにしています。
現代は、年賀の挨拶さえもパソコンや携帯メールなどを使って合理性を重視していますが、肝心の心と感情を置き忘れて、義理、義務的、事務的に“年賀状を造ること”が仕事になってしまっているのではないでしょうか? 毎年頂戴する年賀状の中でも、手間ひま掛けて書いていただいた心のこもった年賀状は、相手の顔やご家族の表情が目に浮かんできて、とても嬉しいものです。
時宜を得た特集“手紙のすすめ”が「新世」(倫理研究所刊)の2月号に掲載されています。“コミュニケーションの手段は数あれども、手紙ならではの楽しみ、手紙だから(手書きだから?)こそ伝えられる思いがあります。”
活字やコンピュータの文字には感情がありません。恥ずかしいことや言いにくいこと、ウソでも簡単に文字に出来ます。若い人達がメールで愛を語る時代ですが、機械でのコミュニケーションは、感情が無いだけに危ういと感じる、のは時代遅れでしょうか? 利便性にドップリ浸かって礼節が忘れられ、良識が失われつつある現代を憂いている私です。
貴方は、やはり現代的合理派ですか?( Jan. 12. 2004 )