マスコミの責任と義務

  1. テレビ映像は真実を伝えているか

  2. 競合する週刊誌と企業倫理

  3. マンガが未成年者に与えるもの

  4. 不良出版物も言論の自由か

  5. インターネットの功罪


[ホームページのはじめに戻る]



  1. テレビ映像は真実を伝えているか

    テレビの報道について、いろんな問題点が指摘されていますが、それではテレビによる報道の問題点は何なんでしょうか? テレビというメディアに問題があるのでしょうか? それとも報道のやり方、姿勢に問題があるのでしょうか? ラジオあるいは新聞の報道と比べてテレビによる報道は何が違うのでしょうか?

     一番大きな違いは情報量の大きさと臨場感でしょう。映像は多面的にとらえることが可能ですし、立体的な動画で視聴者に見せることができます。そして視聴者にあたかも自分自身がその現場にいるような錯覚を起こさせる臨場感が得られます。
     それに加えて話しかける口調での報道は、更に説得力が高まります。それ故報道されている中身が真実と違っていた場合、あるいは誤解される可能性がある場合は非常に問題です。視聴者には事実がどうなのかは知る由もありません。もしも事実が曲げられていたり、誇張されていても、視聴者はそのまま事実として受け止めてしまいます。この点が今問題になっていることに関係があります。

     湾岸戦争のテレビ報道はまだ記憶に新しいと思います。この報道を見て第2次世界大戦(太平洋戦)の時の、日本のニュース映画での戦勝報道を改めて思い出した人も多いことでしょう。若い世代の人たちは、きっとゲーム感覚で戦争の爽快さを味わったのではないでしょうか。
     何故? 湾岸戦争があれほどまで詳細に多国籍軍(本当はアメリカ軍か?)の空爆の映像を報道させたのでしょうか? 報道の意図を私達は見抜かねばなりません。戦争で被害を受けるのは、罪のない私達と同じ一般市民なのです。利益を得るのは、報道をプロパガンダ(宣伝)として利用する一部の人たちと武器・弾薬や戦略物資を供給する企業だけなのです。( May. 8. '97 )

     報道が視聴者にインパクトを与えたいがためにズームアップされ、誇張して見せたり、時系列を変えてみせたり、直接関係のない補足的な映像を加えることで強調することができます。テレビでニュースを見たり、ドキュメンタリー番組を見たりしている時、よく考えてみるとその状況の画面にカメラがいて、しかも対象人物をズームアップできるはずがないことに気が付くことがままあります。これは一体何なんでしょうか?

     例えば、社外秘と思われる重要な会議にテレビカメラが入っているのを考えてみましょう。当然そのような重要な会議を撮影させる事はありません。これは明らかにヤラセであり、その時の台詞も作られたものに違いありません。
     また特殊な家庭での出来事を取材している場面でも、同じようなことがあります。四六時中カメラが待機していて、対象人物の顔をテーブルの下からアップで撮ることなど不可能に思われます。
     その上、普段の生活だというのにお化粧やネックレスをして台所で調理をしていたり、貧しいはずなのに良い服装をしていたり、贅沢と思われる食事が並べられたりしているのを見ると、とても不自然に思えます。そこまで注意して見ていないと全てが実際の現場取材だと信じてしまいます。

     映像は説得力を持つ代わりにウソの報道までも真実に変えてしまう危険性があります。商業テレビである場合には何らかの味付けはされる可能性はありそうな気がします。他局とは違ったスクープに仕立て上げる事もあるでしょうが、これが行き過ぎると報道の中立性、信憑性が損なわれてきます。
    現在問題になっている報道の多くはこれに似たり寄ったりなのではないでしょうか。ここにジャーナリズムとは何なのか? マスコミの義務と責任はどうなのか? を改めて問い質したいところです。

     そのほかにも人権侵害に関する問題もあり、事実なら何を報道してもよいと言うことでもありません。これが報道倫理ということだと思います。視聴者として報道の真実を見極めることが必要になってきていますし、取材される立場になった時に、人権を無視した取材にははっきりと拒否する、あるいは訴える勇気を持つことが大切ですし、不当な報道に関しては断固として抗議行動を起こさなければ、現在問題になっている不当な報道を正すことができないのではないでしょうか?

     テレビ放送が一方通行である現在、私達は将来インターネットのような双方向性を持たせた報道メディアの出現を期待しています。( Apr. 6. '97 )

     4月18日のNHK教育テレビで「デジタル時代の制度・倫理・報道、いま、放送の未来を考える」をみました。内容は、放送の公共性・放送の自由と倫理についてと言えようか。別に分科会でいろいろな面のディスカッションが行われたらしいが、イギリスのパネリスト達の発言にとても共感をおぼえました。

     まずイギリス放送基準評議会委員長のスティーブ・ウィットル氏の「公共放送の役割は、情報・教育・娯楽の分野にあって、重要な原則として情報真実を伝えていると視聴者に認められること。
     それには、公平・正確・公正で偏見にとらわれていないものでなくてはならない。娯楽については、コメディ、音楽、ドラマ、討論などについて、最良(Best)のものを提供する。教育面では、視聴者のレベルをあげて、可能性を高めるものでなくてはならない。
     イギリスでは、その分野で最高のものに人気がある。苦情処理については、(放送関係機関ではなく)独立した機関で行い、社会についての真実を伝えることであるとの認識が必要である。」

     またロンドン大学教授のエリック・バレント氏は、報道の自由について
    「メディアには、人権を与えられていない。放送の自由についての権限は、ごく限られた人達、すなわち編集者を雇ったり、解雇したりすることのできるオーナー達。何を放送するかを最終的に決定するBBCのごく少数の人達、そして民間テレビ局の親玉達である。
     メディアと自由の主張を考える時、大事なのは、社会全般の益になるよう多岐にわたる考え方、多くの情報を伝える役目、責任を念頭に置かなければなりません。」

     私には実に明快な考え方と感じましたが、多分、日本のいわゆる識者の中には、それでも報道の自由を尊重しなければ云々のつぶやきが聞こえてきそうな気がしますが、いかがなものでしょうか?( Apr. 21. '97 更新 )

  2. 競合する週刊誌と企業倫理

     ここでは報道の正義と真実について考えようと思うので、週刊誌の中でも一部のビジネスや趣味関係の週刊誌は除外したいと思います。
     問題となるのは、スクープやゴシップあるいは裸と不倫を売り物にする週刊誌類を対象としています。スクープやゴシップではたとえ事実であったとしても、人権を侵してはならないという基本的な考え方を取りますし、裸と不倫については世の道徳上の配慮とマスコミという公共の情報の媒体で有る限り、報道の自由(勝手気ままという)は有り得ないと考えるからです。

     確かに、これらの出版社も企業活動として、利潤を上げ、競争に生き残らなければならないが、だからといって、何でも自由に報道していいという権利はないと思います。
     良い報道を行ってこそ認められ、読者もついてくるのではないでしょうか? 読者を馬鹿にしているからこそ、報道の質を落とし、それによって際物の記事で読者を釣ることになり、更に競争が激化するのではないでしょうか。「世の中、商売はそんな甘いものではないよ」と言う声が聞こえてきそうですが、しかし、そこには、儲け第一、売上げ第一主義で、もはや企業倫理は存在しないのではないかと思えてきます。

     前章でも述べた通り、報道の倫理觀は、経営者そのものなのです。単に出版界だけではなく、どの企業でも、年々経営者(トップ)の質(人格)の低下が云々されており、最近の新聞の社会面を見るとおりでしょう。また、マンガ週刊誌についても同じことが言えますが、これについては別に論じてみるつもりです。

     いつも思うことですが、これらの明らかに中身を想像できるタイトルを掲げた俗悪週刊誌(失礼!)の新聞広告が必ず見られますが、これらを掲載する新聞自身も同罪で、儲けるためならの企業同志の仲よしクラブ、傷の嘗め合いではないかと思います。
     正義という言葉が生きているなら、俗悪な広告は受付けないという毅然とした態度で臨むべきではないでしょうか? 列車内の中吊り広告なども同じだと思います。
     更に難しいことだとは思いますが、それらの週刊誌を販売する書店なども、そういう俗悪週刊誌類を置かないという態度で臨めば、自ずと淘汰されてくるのではないでしょうか。ただ、それら俗悪週刊誌を容易に受け入れている、いや好んで購入する私達自身が変わらなければ、やはり世の中は変わらないのかも知れません。( July. 3. '97 更新 )

  3. マンガが未成年者に与えるもの

     私達の世代でのマンガと言えば、田河水泡の「のらくろ」シリーズと横山隆一の「フクチャン」からスタートしていると思います。
     太平洋戦争によって戦場に出征した「のらくろ」二等兵は、戦争の中にも平和の思想をもりこんで戦術にも独創的な工夫を凝らせて笑わせます。2枚の鏡を向かい合わせて限りなく兵隊を見せて脅かそうとしたり、破れたゴムボールを利用してそれを踏んだ敵の兵隊がゴムボールの中から噴出された水で目くらましをされるように工夫するのですが、どれも成功せず笑ってしまいます。ここでは戦争の悲惨さはありません。
     実際にはマンガにも憲兵の検閲があって、戦意を鼓舞するようなものでないと許可が出なかったようです。その中で平和の思想を表すことは大変勇気がいったと思うし、検閲をパスするための工夫にも大変苦労されたのではないでしょうか? 私はこの「のらくろ」の創意工夫に大変感化を受けて、学生時代にはいろいろな工夫をして高校時代に3年連続で全日本学生児童発明工夫展に(内容も、のらくろ的で)入選し、卒業の時に特別表彰を受けることになりました。

     社会人になってからもマンガは私の友であったし、「赤胴鈴之助」、「鉄腕アトム」と続きますが、何といっても「鉄腕アトム」は類を見ない最高のマンガとなりましたね。この漫画は、手塚治虫の人生観そのものなのです。これほどの人生哲学をマンガに表せる人は前にも後にもいないのではないでしょうか。これ以上のマンガには、なかなかめぐり合えませんが、その後の私は「星飛雄馬」、「俺は鉄兵」、「タッチ」と「みゆき」の“あだち充” の作品へと変わってきます。
     しかし、いずれにしても私の人生にはマンガが欠かすことは出来なかったことは確かです。また、私の人生観にも少なからず影響を与えました。

     またマンガやイラストあるいはアニメは難しい事柄をわかり易く、理解し易い形で学習の手助けに大変有効なことは、誰でも認めることでしょう。
     しかし、先に述べたようにマンガによって読者の人生観にも影響を与えることは容易に考えられますので、たかがマンガされどマンガといえましょう。最近はマンガが氾濫し、その質も低下して見るに耐えないものが多くなっていますし、読者もマンガは低俗なものと決めてかかっているようにも思えます。

     現代こそ、青少年の多くに感動と共感を呼び覚ますマンガが必要に思えます。青少年の暴力、強盗殺人、性犯罪など人の命の大切さ、他人に対する優しさなどが失われてきているのも、あながちマンガの質の低下と無関係ではないのかもしれません。
     これもマンガで儲けるための出版社である企業の、粗製濫造するだけで、文学としての価値を認めない企業倫理の欠如がそうさせるのでしょうか? 「少年○○○○」といったマンガ雑誌が、中身は大人相手のエロ・グロ・セックス主体のマンガが多いのは非常に問題だと思います。小中学生のお母さん方がその排除を懸命に訴えてみても、マスコミも行政も、むろん出版界も何もする気配はありません。あとは子供自身が良いものを良いと判断できるような教育を期待するしかありません。

     現在の状況では、ますますメディアの発達によって、インターネット等のオープンネットワークによる規制されない情報の発信により、良質でない情報がますます氾濫し、それが年令に関係なく誰にでも受信できることによって、マンガがゲームやアニメーションとなって青少年に大きな影響を及ぼし、ますます絶望的な状況になってきています。

  4. 不良出版物も言論の自由か

     コンビニエンスストア12社が、ポルノ写真などの掲載されている週刊誌や雑誌等で、青少年に対して有害と思われるものに対して自主的にある基準を設けて販売を自粛するよう検討を始めたとあった。

     遅きに失すると思われるが、現代の青少年非行の原因の一部であると思われるし、青少年を健全に育成する上で障害となるものに対して、何らかの形で対応を取ることは望ましいことであろう。

     しかし、また作家や出版社がそれに対して、言論の自由を束縛するものだとして反対しかねないのが日本の実情であろう。
     わたしたち大人が、青少年に対して保護してやることは何かと言うことと、言論の自由を振り回す前に、健全な社会を作るためにはマスコミとしてどうあらねばならないかを、マスコミに携わる人たちが十分認識することだと思う。いくら規制をしたからといって、不健全な雑誌や書籍が堂々と出版されては、結局いたちごっことなって解決にはならないのではなかろうか。

     最終的には、経営者あるいは企業人の倫理感覚の問題なのであろう。
    「売れるものを作って何が悪い!」と開き直られては話にならない。元を正せば、人格形成のための教育を怠って、点数至上主義教育を実践してきた日本の教育の歪そのものなのかもしれない。( Dec. 28. '97 )

  5. インターネットの功罪

     世の中インターネットで夜も日も明けない。誰もがマスコミの宣伝につられて、今やパソコンなしでは遅れを取るとばかりに、猫も杓子もパソコンを買って有頂天と思いきや、インターネット犯罪の兆しがあり、自由に情報発信ができると思ったインターネットを、どこかで管理しようとする動きが見えてきた。

     12/20( 1997 )のNHKのTV番組「特集・インターネットの中の人権」を見た。その中で若い女の人がホームページに自分の日記を書いていると言う。それが不特定多数の男性に読まれて、電話や誘惑が頻繁になり困っていると言う。自分の住所や電話番号、氏名も載せていると言うから、常識的に考えれば、当然そういうことが起こり得ると思う。
     一般的には、日記というものは、他人に公開するものではないのではないかと思うが、コンピュータの向こう側が見えないと、こんなにも無防備になるものなのだろうか?

     インターネットを手放しで、良い事づくめの宣伝をするマスコミもよくないが、インターネットを使う側も、もっとよく考えないといけない。
     番組では、そもそも自由であるべきインターネットを管理すべきでないと言う意見が多かったが、インターネットの利用者は、善人ばかりではないし、子供だって年寄りだっている。テロリストだって、犯罪者だって自由に利用できるのである。罷り間違えば、世界を転覆させる事だって容易であろう。やはり何らかの形で管理することが必要になってくるのではないだろうか? 電子メールのいたずらや、H画像のホームページ位ならまだいいが、犯罪が発生する危険が考えられるなら、そのまえに対策を考えておかないととんでもない事になろう。( Dec. 23. '97 )

     確かにインターネットは情報を得るという点では、グローバルであるし即時性という点でも優れている。しかし、情報の信憑性においては何とも言えない。これは自分自身で判断するよりほかない。
     また、情報を求める際にもあらゆるホームページにアクセスするためには多大の時間を要するし、検索するにおいてもそれ程簡単ではない。ネットサーフィンするといっても、主なホームページ10万件を逐次アクセスしていたら1件当たり5分としても、ざっと1年かかることになって1日6時間フルに使っても4年間かかることになるので、暇と金をもてあましている人に限られる。退屈しのぎにネットフレンドでもという人には良いかもしれないが、これまた本物の顔が見えない E-mailでは、必ずしも安全ではない。ここがコミュニケーションの難しさでもある。

     私は、このホームページについて、友人と E-mail によるディベートを交わしているが、友人とでさえも必ずしもコミュニケーションが正しく行われないことを痛感している。
     私自身は、ディベートとはお互いの考えを主張しあって、相手の考えを納得するための手段と考えていたが、友人の方は、相手の隙をつき、揚げ足を取ってやり込めて勝つことが目的のように思われる。これでは論争にはなっても対話にはならない。
     これが、お互い顔を合わせて討論する場合は、相手の感情が読み取れるので意思疎通が行われてうまくいくが、 E-mail では、言いたいことをはっきり文字で表せる利点はあるが、感情が伴わないので誤解を招くことも多い。電話などはその中間で、言葉の中での感情は幾分伝わるが身体全体の表情は伝わらないため、必ずしも正しい意思伝達になるとは限らない。

     ディベートついては、NHKテレビで放送された柳沢賢一郎氏の「日本式ディベートのすすめ」に共感するところがあり、その要点は、次のようなものであつた。

      1.相手と共に勝つ
      2.相手を身内にする
      3.相手に信頼感を与える
      4.感情を表す
      5.情報よりも知恵
      6.情報は原典にあたる

     また別に、関西ディベート交流協会(代表者 撫佐郁夫)が活動されている。そこでは、立論に4分、反対尋問および反駁に各2分、作戦タイムを2分認めてチームで試合をする。
     しかし、日本ではこういうやり方は、実務的には歓迎されないし、賢明なやり方でないとも言う。これで培ったスキルのうち最も大切なのは「聴く力」だと言う。ディベートをはじめて「性格が丸くなった」と言われることがあり「相手の主張をじっくり聴く」という精神が身についたようだと言う。

     コミュニケーションの基本は、相手の意見を心を傾けて良く聴くことにほかならない。
     コミュニケーション(対話)は、自分のことだけ考えて、相手に一方的に意見を押し付けたり、反対するのでは成り立たない。ディベートもそのための訓練に違いない。殊にインターネットなどの顔の見えない相手とのコミュニケーションこそ、十分な注意と配慮が必要だろう。( Apr. 10. 1999 )

     最近インターネットでの詐欺行為が多発して、通産省はネット上での広告表示について省令の改正を行おうとしているし、ダイレクトメール( E-mail )の被害についても何らかの対策の必要を認めている。
     これがインターネットの管理規制となって、もともとオープンであったインターネットの利点が失われかねない懸念さえ出てきているのが現実であろう。最初に述べたようにオープンネットワークであるからこそ、そこには落とし穴が存在することを利用者は知っていなければならない。

     また、インターネットは無管理であるが故に、自由に商取引が行えるため取り引きに科する税の徴収が容易でないため、脱税が容易に行えることにもなり、インターネット商取引に関する法の整備も急務であろう。また、最近問題になっているセックス画像や音楽の無許可販売の防止についても困難な問題が生じている。
     しかし、それ以上に多くの利点を持っているし、利用する私達自身がインターネット上の倫理を確立する必要があろうし、また、不正利用に対するハードおよびソフトあるいはシステム上での防護処置をも確立する必要があろう。( May. 23. '98 )


    [ホームページのはじめに戻る]