「マスコミ」tommyのつぶやき2000年以前

 町村文相は、民間放送連盟の氏家会長に対し、青少年に悪影響を与える番組の改善など、有害情報に関する自主規制を徹底するよう要請した、と新聞にありました。
 確かに民放のテレビ番組は、青少年に対する配慮が欠けている番組が多いと思いますし、視聴率が命の番組作りではなりふりかまわずになるところも多いと思います。既にNHKと民放連で作る「放送と青少年に関する委員会」によって番組の改善が図られようとしているので、当面その結果待ちということになりそうですが、町村文相の「自主規制だけでは青少年の環境が良くなるとは限らないので、規制も考えなければならない」という意味の発言があったとすると、また“言論の自由”束縛論議がむしかえされそうですね。そんなことにならない様、テレビも早く大人の見識を持つようになって欲しいですね。( Dec. 16. 2000 )


 日経新聞によると、NHKと民放連で作る「放送と青少年に関する委員会」が、民放の2つの番組、フジテレビ系の「めちゃ2イケてるッ!」とテレビ朝日系の「おネプ!」について、“暴力・性表現に問題がある”との見解を発表し、それに対し、当該民放側は番組の内容を見直すことを決めたと有ります。その上、原委員長は、“これらの番組だけの問題ではない”と釘をさしています。

 先に日本新聞協会が、総会で新たな「新聞倫理綱領」を制定して襟を正したことについて、テレビや週刊誌等も同じように報道倫理を確立して欲しいと望んでいましたが、この報道に接して、以前、日経の文化欄に「進むTV局の自主規制」の記事がありましたが、日本のマスコミ自身が、積極的に自浄能力を発揮させるべく方向に歩み出したことを知り、とてもうれしく思いました。特にテレビは眼から入る情報であるため、青少年への影響も無視できません。残るは週刊誌等の自覚を望むことでしょうか? ( Nov. 30. 2000 )


 BSデジタル放送が、いよいよ12月1日から始まります。インターネットを利用している貴方は良くお分かりでしょうが、デジタル化によって、従来のアナログによる放送より色々な利点があるので(無論利点だけではありませんが)その利用の仕方次第で、私達の生活が良くも悪くもなります。
 先ず、アナログでは、放送が雑音に左右され易く、画像が乱れたり、建物の反射によってゴーストが発生したりしましたが、デジタル化によってそれらは容易に解決できます。また、デジタル化によって双方向な情報のやり取りや、マルチチャンネルな利用の仕方、例えば映画を見ながら天気予報や別の情報を取り込んで見ると言うようなことが容易にできるようになりますし、カタログを見ながら商品を注文したりすることも容易になるでしょう。

 アナログは帯域幅(電波の必要な周波数の範囲)が広く必要な為に、チャンネルの数を多く出来ませんでしたが、デジタル化によって、一挙に300チャンネルにも増やすことが可能になりました。しかし、単に、多チャンネル化が良いかと言うと必ずしもそうは言えません。インターネットでご存知のように、情報量の多さが必ずしも良いことばかりとは限りません。それよりも良質の情報をいかに多く受け取れるかがカギとなるでしょう。

 デジタル放送は、既にCSテレビ(スカイパーフェクTV)が先行していますが、これからは全ての放送がデジタル化されていきますので、2010年にはアナログ放送はなくなる予定だそうです。デジタル化が私達の生活にプラスになれば良いのですが…。( Nov. 29. 2000 )


 今日から新聞週間ですが、政府が検討している「個人情報保護基本法」の遵守義務において、報道分野では「報道の自由が実質的に制限される」として、日本新聞協会が反対し、報道分野を適用除外するよう求めているとあります。私も情報源としての新聞やテレビ報道を高く評価し、報道の信憑性や正義をこれらのメディアに期待していますし、実際、最近の新聞報道やテレビ報道(民放のオチャラケ番組を除いて)は、内容が著しく向上し、かつ信頼できるものとして、安心して受け入れています。

 しかし、その反面、事件報道などにおいては、正確さを期するあまりか、必要以上の内容や反復を含めた過剰報道としての批判も無きにしもあらずで、報道の自由についても充分な見直しが必要だと考えています。特に個人の人権については、十分な配慮が必要なのは当然であります。それらが守られてこそ、はじめて安心してこれらの報道を受け入れられるのです。

 新聞はともかく、テレビ報道では画像が有るために、その現実性、信憑性などが映像によって著しく左右されるため、そのまま受け入れるには注意を要し、新聞報道や雑誌などの情報と合わせて検証する必要を感じています。それゆえ、これらマスメディアの報道の質は、今後とも一層向上させていかなければ、真に、私達市民のための正義の味方とはならないでしょう。(Oct. 8. 2000 )


 日経新聞によりますと、日本教育文化財団は“教育に新聞を”活動の一環として、小学校の高学年以上を対象として、新聞を分かり易く紹介した補助教材「わくわくNIE第4号」を発行して、全国の小・中・高校に配布するとありました。毎年秋に発行しているもので、今回は「新聞の今と昔」をテーマにしているとのことです。

 私達は、現代の情報化社会の中にあって、多くの情報の波に翻弄され、その中から正しい情報を選択することが大変困難になってきています。ましてインターネットの中では、情報の量は多くても必ずしも質が伴っているとは言えない情報さえ無数に存在しており、いかがわしい情報や危険を伴う情報さえも混在しています。私達には、その中から正しい情報を選択する判断力が要求されます。
 その中でも容易に正しい質の情報源として、安心して利用できるのが新聞でしょう。それゆえ、新聞は読者一人一人だけでなく、社会全体に大きな影響を及ぼしますので、マスメデイアの中でも重要な位置を占めています。

 このような新聞による学校教育への参加は重要であり、また大きな責任でもあります。学校教育の中でのメディア・リテラシイ教育において、新聞が益々重要な役割を果たすことを期待しています。
 詳しいことは、新聞協会のホームページか、同財団NIE部( TEL.045-661-2031 )に問い合わせて下さい。( Sept. 27. 2000 )


 写真誌の草分け的存在の「アサヒグラフ」が、この10月で休刊となるそうです。創刊が大正12年とのことですから、随分長い間親しまれてきたのですね。
 世の中の出来事や事件を写真誌で報道することは、当時画期的なメディアだったに違いありません。しかし、テレビ放送が昭和29年に開始され、更に写真週刊誌などの発刊が続いて、写真や映像を主体とするメディアが一般的になり、インターネットなどの普及もあって、写真誌のあり方も変わらざるを得ないことでしょう。

 私も、東京オリンピック特集の「アサヒグラフ」や“中国大恐竜展”、関西大震災(阪神・神戸大震災)などの特集号は、今でも大切に保存していますが、これも懐かしい思い出として残ることになってしまいました。しかし、写真や映像による報道は、これからも大変重要なものですから、また形を変えて「アサヒグラフ CD-ROM」、「アサヒグラフ・IT」などとして、私達に有益な情報誌として復活して欲しいものですね。( Sept. 3. 2000 )


 新聞協会(社団法人日本新聞協会)が21日の総会で、新たな新聞倫理綱領を制定したそうです。
 日経新聞によると、「新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によって、現代の情報化社会にあって何が真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が求められ、このような要望にこたえて、公共的、文化的使命を果たす事であり、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを律し、品格を重んじなければならない」と言うようなことが述べられている。
 綱領の主たる項目としては、「自由と責任」、「正確と公正」、「独立と寛容」、「人権の尊重」や「品格と節度」などが掲げられている。当たり前の事が、当たり前でなかった反省が是にあると言っても過言ではないだろう。これは、単に新聞だけに止まらず、全てのマスコミに当てはまる事で、やっと新聞協会がそれに気づいて制定した事は、大変な進歩であり、歓迎すべき事である。TVや週刊誌(雑誌も含む)等も、是非とも同様な宣言をしてもらいたいものだが…。( Jun. 22. 2000 )


 また、やらせ番組が問題になっているようです。テレビ大阪で、暴走族グループに暴走行為を依頼した疑いだと言う。テレビ・ルポルタージュなどと言う番組では、“やらせ”によらない番組構成はあり得ないと思っている。従来から、この種の番組は問題が多いので、見る方もかなり割り引いて見るとか、番組の意図まで考えて見ていないと、うっかりハマッてしまうことに成りかねない。

 私は、妻と一緒に番組を見ながら「この画面は何のためにあるのかな?」、「このような所に、よくまあテレビが入っているよね」とか言いながら、番組の組立て方を検証しています。もちろん、民放だけでなく、NHKでさえもそんな場面にたびたび遭遇します。しかし、これは何も一方的に批判することではなく、番組の構成上“お芝居”が必要になってくるためなのです。もし、そう言う画面を挿入しなければ、番組の主張が弱まるとでもいうことでしょうか。もし、そこにウソが入ると大変な事になるし、また、誤解を招くようだと報道の信頼性が損なわれるので大きな問題なわけです。

 しかし、情報化の波が押し寄せてきている現代では、受け手側で情報の選別が出来るような体質を造らないと、善悪の判断ができなくなってきます。そこで、今、重要視されているのが、メディア・リテラシー教育です。送り手側、受けて側の両方に立ってメディアを検証して、正しい判断が出来るようにするというものです。
 最近の新聞報道で明らかな通り、不正義がまかり通っています。私達一人ひとりが、正しい判断と、正義を主張する勇気が必要な時代なのではないでしょうか? ( Apr. 28. 2000 )


 手話の講座がやっと終わりました。福祉活動の一環として、市の社会福祉協議会で毎年募集している全8回の入門講座です。
 これだけでは、とても手話が自由に使えるようには成りませんでしたが、コミニュケーションと言うものがどんなものか良く分かりました。最初に講師の先生がおっしゃったように、意思を伝えると言うのは、手話を使う上でジェスチャーや表情が大変重要な役割を果たすのです。ただ単に手と指で意思が伝わるわけではないのです。だから最初は手話を教わる前にジェスチャーで表現する訓練でした。県の聾唖協会から聴覚障害者の方が2名出席されて指導してもらいましたが、なかなか意思が伝わらなくて苦労しました。

 手話にしても、“好き”と言うことを表すには、親指と人差し指で、あごのところから前にVの形を描きますが、単に“好き”と言うのと、“ちょっと好き”と言うのと“大好き”と言うのとでは、形は同じですが、表情やジェスチャーによって区別しなければなりません。また人によっては多少表現が異なることもあるので、相手の気持ちになって心で聞き取り、心で伝える努力が必要なことを痛感しました。コミニュケーションの基本を教えられた気がしました。インターネットや携帯電話でバーチャル・コミニュケーションを本当にコミニュケートしていると勘違いしている私達への警鐘でしょうか?

 しかし、基本的な50音(アイウエオ)は、覚えなければ何も言い表せません。こればかりは丸暗記する以外ありません。貰った資料の指表示の絵を2倍の大きさにコピーして、切りぬいて古い名刺に貼り付けて、英単語カードよろしく一生懸命指を動かして暗記することにしました。なにしろ講座の期間内に覚えなければ意味がありません。しかし、その甲斐あって3日間でほとんど覚えることが出来ました。40人程の受講者の内、男は私一人ですし、若い人がほとんどですから、置いてけぼりをくうと恥ずかしいし、男の沽券(?)にかかわりますからね。でも楽しい7日間でした。(最後の1日は仕事の都合で出席できませんでしたが…)皆さんも機会があれば参加して、本当のコミュニケーションには何が大切かを、経験してみてください。(美人の女性がお目当てではいけませんょ)五体満足な私達に欠けているものが発見できるかも知れません。( Mar. 19. 2000 )


 新潮社の犯罪少年の実名、顔写真報道に対する容疑者の少年からの人権侵害に対する賠償請求訴訟に対して、新潮社に一部賠償を命じる地裁の判決を覆して、大阪高裁は少年側の請求を棄却したとある。
 少年法では、未成年者の犯罪に対して少年を保護すると言う立場から、犯罪を犯した少年の実名や顔写真の報道を禁じている。しかし、少年法には罰則が無く、強制力も無いため、どちらが正しいかは判断する側の倫理観による。少年法によれば、犯した罪に対して、保護観察にするか、刑事事件として取り扱うかは、その犯罪の内容によって審議されるようになっている。罪を憎んで人を憎まずと言う精神が活かされている。

 今回の大阪高裁の判決は、少年法の主旨からはずれ、例え、少年と言えども凶悪な犯罪に対しては実名や顔写真の報道も正当性があるものと認めたことになる。即ち、少年の保護が必ずしも優先しないことを意味するものである。新潮社の言い分をそのまま認めたことになり、今後の少年犯罪の報道に大きな影響を与えるであろうし、現少年法の改正を余儀無くさせることとなろう。
 少年犯罪において、犯罪の原因は、必ずしもその罪が全て少年にあるわけではなく、その生育環境や両親の倫理観や社会構造にも問題があり、やはり、その中で犯した罪を償って社会復帰させるのが、大人社会の役割なのではなかろうか? 凶悪犯罪だからといっても、実名や顔写真の報道は見せしめ的なものであり、少年の改悟や類似犯罪の再発防止に重要な役割を果たすものだとは、とても考えられない。
 今回の大阪高裁の判決は、少年の人権よりも、報道が優先するものとして、今後大きな反響を呼ぶことになろう。( Mar. 2. 2000 )


 インターネットによる商品販売について、アメリカでの当該売上に対する税収が20%しか行われず、逸失税収が5億ドル超に達していて問題になっていることが報道されている。この問題は、インターネット・ビジネスが始まる以前から予測されたことで、インターネット上のセキュリティやハッカーの問題などを含めて、当然解決しなければならない問題であろう。
 単に時代の流れに浮かれて、インターネットの問題点を無視して何でもかんでもインターネット流行りで、インターネットが出来なければ現代人ではない、などと考えて深い思慮無くインターネット礼讃を打ち上げているお役所の無能をさらけ出したに過ぎない。同じことがディジタルTVへの移行、DVDなどの普及についても言えることではなかろうか? 利便性を追求すればするほど、その裏に隠されている問題を十分見極め、対策を講じておかないと問題が起こったときに収拾困難となるに違いない。

 だから、新しいシステムを取りいれることに問題があるということではない。科学技術の進歩は止めようが無いし、又それによって利便性の恩恵も蒙るわけであるが、ただ単に、新しいものに飛びつくだけではなく、システムの運用について、事前に十分な検討が必要であろう。( Feb. 28. 2000 )


 日経の文化欄に「進むTV局の自主規制」としてテレビ番組が子ども達に与える影響のある性・暴力表現に対する自主規制の検討を始めたとある。
 しかし、自主規制とは言っても、それがどのように有効なのかを評価できないと役に立たないような気がする。なにしろ民間企業である限り視聴率を稼ぐことが第一となってしまいやすい。自主規制というとかっこいいが、それよりも積極的に優良番組を認めて表彰し、それによって当該TV局や番組制作者が報われ、更に他局との切磋琢磨となるようなシステム(その意味ではNHKの「日本賞」があるが、専門的に偏っているように思う)こそが必要なのではなかろうか。それも中途半端なものでなく権威付けられるものでなければならないだろう。それによって、世の親や大人達が啓蒙されていってはじめて優良なメディアの存在効果が現れるのだと思う。

 何はともあれ、メディア側が青少年の視聴者を意識して、良い番組を提供するために自主規制を検討し始めたことは大変喜ばしいことである。( Feb. 13. 2000 )


 インターネットで科学技術庁総務庁運輸省など中央省庁のホームページが何者かに書替えられたり、不正にアクセスされて大騒ぎをしている内に、今度は、総理府の関係団体である政府資料等普及協会のホームページに侵入し書替えると言う事件が発生した。これらに共通して言えることは、中国語や韓国語を用いていることで、日本と当該国との関係を悪くしようとする意思があるのか、あるいは他国語を用いることによって正体を隠そうとしているかとも考えられるが、どちらにしてもインターネットのセキュリティの不完全性や世界を容易に転覆できることの危険性を指摘しているものと言える。

 世を挙げてインターネット万能を喧伝し、猫も杓子もインターネット熱に浮かされ、はたまたインターネットでの取引をによるビジネス拡大のチャンスとばかりベンチャー企業が氾濫しているが、今回の事件を一つの警鐘として、インターネットというシステムの有用性と危険性について十分考えて、徒にインターネットを過剰評価しないようにしてほしいものだ。( Jan. 29. 2000 )


 NHK教育テレビ放送が、4月から24時間放送になるそうです。
テレビの深夜放送や24時間放送には、生活の不摂生の助長とエネルギーの浪費だと反対していますが、教育関係やドキュメンタリー番組の再放送が充実されるなら、以前から見逃した良い番組放送を再放送して欲しいと、NHKに要望していたので大賛成だ!
 それより現状の民放の放送番組(むろん良い番組やドキュメンタリーもありますが)やコマーシャルの質、もう少し何とかならないものかねぇ! 聖人君子ぶるわけでもないが、子供達が見ていても安心できるような程よい健全さが欲しいように思いますがねぇ。( Jan. 14. 2000 )


 またもや、新潮社の少年実名報道で法務省と東京法務局から「週刊新潮」発行元の新潮社に対して、謝罪と被害回復措置を取るよう勧告が出されたようだ。
 これも一度や二度の事ではない。それに当事者である編集長は、前回も報道の正当性を主張していて、現行の少年法による犯罪少年に対する保護は適当ではないとのことらしいが、何故、現行の法律を無視してまでも、犯罪を犯した少年の実名報道に固執するのか大変理解に苦しむのである。少年でなくても実名報道が必要なことは、ほとんど無いのではないかと考えている。実名を報道したからと言って犯罪が減るわけでもないし、かえって罪も無い家族などの関係者を窮地に陥れてしまう事が多いのではないかと思う。

 犯罪のバックグラウンドを明らかにして、同様な犯罪の再発を防止する事は必要であるが、実名報道がそのためにどうしても必要だとは到底考えられない。実名報道は、見せしめ的な性格が多分にあって、読者の気を引くのには大変効果的だと言うのではあるまいか? ここにも儲け第1主義の企業論理がまかり通っているのであろうか? 報道倫理委員会の見解や如何に? ( Dec. 9. 1999 )


 フジテレビの番組「愛する二人別れる二人」が、やらせの範囲を逸脱した作り物の嘘っぱち番組だとして問題になっている。題名から推して本当とは思えないと考えるのが普通ではあろうが、そうした番組を作り、視聴者を小ばかにしたプロジューサーやディレクターを容認してきたフジテレビの経営者の感覚たるや理解しがたい。
 これは何もフジテレビだけの問題でも無いし、番組の内容の低俗さや欺瞞だけの問題でもないのかも知れない。この番組の視聴率が非常に高いところから見て、視聴者のテレビ放送の内容に対する価値観が既に常識を逸脱しているのではないか?
 ジャーナリズムも地に落ちたが、人心も地に落ちた感じが強い。公共放送としてのテレビを、国民の教養を高めるものにするには、どうすれば良いのだろうか? ( Nov. 25. 1999 )


 バイクでパトロール中のお巡りさんの熊谷巡査さんと近くの中・高生の行状について話をしました。このお巡りさんは熱心にパトロールして、不行跡な中・高生を何時も監督して注意しています。警察官の不祥事が多い中、わが地区のこのお巡りさんほど正義感のあるお巡りさんは見たことがありません。
 我が家は、近くに中学校と高等学校があるため、近くの広場や物陰でタバコを吸ったり、近くのセブンイレブンで食べ物や飲み物を買っては、食べ散らかしていく学生が多く、大変迷惑しているのです。私が在宅の時に見つければ注意しますが、なかなか行き届かないのが実情です。お巡りさんもそれを知っていて、しょっちゅうパトロールしてくれています。

 「だけど、その子の親たちも悪いが、何と言っても民放の放送番組の低俗なのにも困ったものだね。ろくな番組を作らないし、夜遅くの番組は特にひどいよね。気が付いたら放送局へ電話をして注意してよね。」お巡りさんはマスコミの無責任さにも業を煮やしている様です。
私は、ほとんど民放の番組は見ていません。番組表を見れば内容の想像がつきます。政府も文部省も学校教育の中身は検討しても、子供たちに影響の大きいマスコミの報道内容については何も言いません。子供の非行や暴力は、親や学校の管理の問題だとしか認識していないのでしょうか?
 だから、マスコミ自体も何の反省や改革も行われないままなのです。きっと“悪けりゃ見なければいいんじゃないの!”と開き直るんでしょうね。日本の将来は、この子供達にかかっているという考え方や認識は出来ないんでしょうね。“テレビ番組も商品です。売れれば良いのです。”って事でしょうか? どうすりゃいいんでしょうかね? ( Oct. 17. 1999 )


 東ティモールの紛争の状況が深刻になってきていますが、日本テレビが高村外務大臣にテレビ・インタビューを行っている番組を興味を持って視聴していましたところ、キャスターは「日本は資金援助だけで自衛隊を派遣しないのは何故か? アジア圏の紛争、防衛の主体に、日本の行動が重要ではないのか? 憲法の解釈を拡大してでも、自衛隊(軍隊として)の参加が必要ではないか?」と言うような発言を執拗に繰り返していたが、高村外相が言うまでもなく、どんな理由であれ戦争に加担する事は正しい道ではない。
まして、資金援助だけでは後ろめたい事など無い。それだけ他国より多額の援助をしているわけで、破壊、殺戮を起こす可能性のある軍隊の派遣は、国連が決議したとはいえ、世界平和を目指す国連の正しい運営では在るまい。

 問題はそのことではなく、マスコミとして、いかにも東ティモールの紛争に、自衛隊を派遣する事が正しい事のように、視聴者にほのめかすような報道のやり方に問題がある。それでなくても政府は、時あらば憲法を改正して、自衛隊を防衛隊として軍隊化しようとしている時であるから、言葉を選んで報道すべきであろう。
 みのもんたが、TVで「バナナは身体に良い!」と言っただけで、スーパーのバナナ売り場は売り切れになるという、TV報道の影響の大きさを十分認識してほしいものだ。パネリストは何を言っても良いが、TV側は正しい認識と中立性を維持してほしいものだ。( Sept. 18. 1999 )


 報道によれば、ある男性がT社のビデオデッキのトラブルについて、クレーム交渉のやり取りの会話の中で、T社の担当者から罵詈雑言をあびせられたとして、会話の録音をインターネットの個人のホームページ上で公開したとあった。
 確かに個人的には憤懣やる方ない事なのかもしれないが、これはあくまで個人の利害関係だと思えるし、T社のクレーム窓口やお客様相談室とで解決するか、さもなくば消費者センター等に苦情を持ち込んで解決するべき問題だと思う。これを見せしめ的にインターネット上の個人のホームページで公開するのはどうかと思われる。わざわざ会話の内容を録音に取ってまで音声ファイルで公開するなどは、多分に意図的な中傷に属すると考える。

 これと同様の商品のクレーム時の応対の不満は、日常茶飯事であり(私の場合は、この次からはその会社の製品は買わないことにしているが)、個人の利害の問題をホームページを通じて行うのは、行き過ぎだと思うし、逆に相手から当社の販売に大きな影響を及ぼしたとして営業妨害だと訴えられたり、相手の担当者から名誉毀損や人権侵害だと言われても不思議でないような気がする。

 インターネットが双方向性で自由に意見を述べられるようになったからと言って、何でも自由に発言することではなく、自ずと内容を吟味し、出来る限り中傷、誹謗とならないよう、インターネット人としてのエチケットを心掛けたいものだ。( July. 11. 1999 )


 デジタルカメラの普及によって速報性を身上とするマスコミの間で新しい問題が浮上してきている。画像のデジタル化は、通信による速報性を可能にした反面、デジタル画像の修正はレタッチソフトによって、いともたやすく修正、変更できるため、画像の信憑性に問題が生じる危険性が大きくなった。
 既に、AV女優などのH画像が、別の人気女優の顔と置き換わって、週刊誌沙汰になるという問題もあって、何が本物なのか判別がつかなくなっているのが現状らしい。インターネット上でも被害が発生しているらしい。

 私とても、デジタルカメラを愛用し、レタッチソフトによる修正の恩恵を被っているが、まかり間違えば真実の場面とは違った画像を真実らしく見せていることは否めない。これが度を過ぎれば、真実が全く改ざんされて提供される可能性も無いとは言い切れない。冗談のつもりのコラージュ写真が、世の中を間違った方向に進めていく危険性を再認識することが重要であろう。

 世の中、デジタル、デジタルで浮かれているが、冗談では済まされなくなる危険を含んでいることに、特にマスコミ関係者は留意し、今まで以上に襟を正さねばならないだろう。( July. 10. 1999 )


 芥川賞作家 柳美里さんの「石に泳ぐ魚」で、小説のモデルとなった女性がプライバシーを侵害されたとして出版の差し止めと損害賠償の訴訟を起こし、東京地裁で認められた判決がでた。
 これは私小説には付きものの問題で今後に波紋を広げそうだ。登場人物の特定ができない場合は問題無いし、特定できたとしても本人の承諾があれば特に問題にはならないが、そうでない場合、例え主人公と限らずとも、描写されている人物の性格から本人が推定できる場合は問題になる。むろん、プライバシーの保護が優先されるだろうが、作家の狙いがそこにあるとしたら、大変難しい問題であろう。

 今回の問題は、単行本化の計画の段階で原告の女性から出版差し止めの仮処分申請が出されているようなので、その時点で原告と十分な話し合いを持って同意が得られなければ、出版を見合わせるしか無かったのではないかと推定する。
 しかし、新聞の報道によると柳さんは「この小説はあくまでフィクションであって事実を書いたものではない」と主張し、(これが受け入れられなければ)全ての私小説が訴えられ、表現の自由が得られないのではないかと述べている。

 しかし、ここで問題なのは、何が優先するかであって、作家の表現の自由が、本人の私生活を公表され人権を侵害されることよりも優先するとは思えない。
 例え、それがマスコミで支えられている芸能人だとしても、決して人権を侵すような報道や私小説を公表してはならないと考える。マスメディアにおける表現の自由と言う「自由」は無い! 現代社会は、あまりにも自己中心的で、名誉欲、金銭欲のために、他人に対する気遣い、気配りに欠けているのではないだろうか? ( Jun. 25. 1999 )


 所沢市の野菜のダイオキシンについてのニュースステーションの報道が、所沢市の農家に与えた影響が報道内容の不適切さにあるとして、テレビ朝日に対して郵政省から厳重注意の行政指導があったそうである。
確かに茶の葉のダイオキシンの測定値を野菜のダイオキシン値として報道したことは、正確さを欠き、いたずらに所沢産の野菜市場に大きな影響を及ぼしたことについては、テレビと言うメディアのもつ責任の重大さを改めて認識させた。そう言う意味では、誤報道にも大きな意義があったと思う。
 しかし、報道が常に正確であるとは限らないことを私達も良く知っているはずだし、誇張と誹謗の俗悪番組に麻痺している多くの民放テレビ局の問題もある。ここでは、訂正するタイミングを逸したのか、訂正する必要を感じなかったのか解らないが、テレビというメデイアの影響力の大きさを過小評価していたテレビ関係者の責任も大きい。

 しかし、幸か不幸かこのダイオキシン誤報事件は、はからずも埼玉県の焼却施設の排出するダイオキシン問題をクローズアップし、更には厚生省環境庁のダイオキシン摂取量の安全基準についての不一致をさらけだし、ついには統一基準を、WHOで定める体重1Kg当たり4ピコグラムに制定する方向に寄与した点では、非常に効果的な報道であったと考える。それゆえ、正確さにばかり拘って、問題を指摘する報道に及び腰にならないように願うものである。( Jun. 25. 1999 )


 海外ドキュメンタリー「暴力シーンの衝撃 検証・テレビと子供たち」を見ました。アメリカで立て続けに発生した学校での銃乱射事件で、未成年者の暴走と暴力は深刻な問題になってきている。これは、今に始まったことではなく、既に以前から社会問題化している問題で、必ずしも銃社会であるアメリカだけの問題だけとは思えない。

 原因(遠因)の一つには、テレビの普及と、次第にエスカレートしてきている暴力、不倫、レイプ、麻薬などのシーンの放送番組が、子供たちに与えている影響を無視できないとする声も少なくない。
テレビ会社や番組制作者、あるいは心理学者の一部にもテレビ番組が子供たちの犯罪に直接影響はないとする意見も多いが、テレビ番組を評価し、事件との関わり合いを証明することは困難だし、仮に証明したとしても無意味であろう。いわゆる人の心の中の問題、いや潜在意識について科学的に因果関係を証明することに無理があると思うからである。
 テレビが生活必需品となって、テレビを視聴する時間が増加している現在の生活環境において、テレビの放送内容が影響を与えないとは考えられない。それゆえ、テレビ放送番組をランク付けすることよりも、放送内容を良くすることが必要不可欠で、良質のプログラムを提供するためにはどうするかを検討することこそ、現在もっとも必要とすることではないだろうか? 

 このドキュメンタリー番組の中でも述べられているが、大人は現実と作られた映像とを区別できるが(実際には容易ではないが)、子どもには、そのまま区別無く潜在意識に埋め込まれる危険性が考えられる。テレビでは画像とともに常に語り掛けや音楽が付加されていて、考えたり想像したりする必要が無く、またそうする空白の時間も設けられていないので、必然的に子供たち(視聴者)の想像力を奪っていることは否めない事実であろう。

 根本的には、殺伐とした大人社会の「ゆとり」の無さが、そのまま子供たちの心に「ゆとり」を与えず、そのリアクションとして子供たちの非行、犯罪となって大人社会に対して警告を発しているとみるべきだろう。(教育問題と同根) メディアに係わる大人達一人一人が真剣に子供たちの将来を見据えて、行動を起こさなければ子供たちに未来はない。( Jun. 13. 1999 )


 NHKテレビの「教育トゥデイ メディアと教育 〜始まったメデイアリテラシー教育〜 」を見ました。これはテレビ等のメディアが伝えようとしているものを正しく理解して、映像のウソにだまされない様に、学校教育の中で映像による表現が、照明や撮影する角度、バックに流される音楽によって如何に変化するか確かめたり、自分達の手で表現したり演ずることで、送り手側に立ってメディアを検証しようというものです。

 リテラシーとは、読み書きすることの意味だそうですが、ここでは、メディアの特性を知り、情報を理解・判断する力を身につけるとともに、メディアを活用して、表現・発信する能力を養うと言うことが、メディアリテラシー教育のねらいのようです。

 今まで私が主張してきたメディア側の倫理観についてのみでなく、受け手側の判断力を学校教育の中で行うことは大変重要なことであり、あえてメディア側にあるNHKが、このような問題を取り上げたことは、大きな進歩であるし、今後とも報道の正確さやメデイア側の倫理の確立についても、一層の努力をのぞみたいと思う。
 まだまだニュース報道を見ていても、このような報道が本当に必要なのか? 視聴者が知らなければならない情報なのか? 犯罪の報道が、逆に犯罪の手口を教えるものではないかと疑問に思うほど、必要以上の過剰な報道が行われていると感じている。( Apr. 10. 1999 )


 テレビのニュースは、明けても暮れても「脳死と臓器移植」ばっかり。うんざりしています。新聞なら斜めに読み飛ばすって手も有りますが、テレビはそうはいきません。
要点良く報道されるならいいのですが、必要でもない手術場面(本当に臓器移植の手術なの?)、相も変わらずベッドでの患者の輸送場面やら、病院の建物外観を長々と写して、どうです、立派な病院でしょうと言いたげですね。いくら個人のプライバシー保護を言ってみても、こんなに多くの報道陣に,事細かに取材(放映)されては、プライバシーは守れませんよ。手術担当の医師達だって、記者会見攻めでは、それでなくても大変な手術なのに、身体が休まりませんよ。報道もいいかげんにしてよ!!( Mar. 2. 1999 )


 テレビ朝日の埼玉県所沢市の野菜のダイオキシンの報道が、またもや大問題を巻き起こした。問題は、所沢市に無数に存在する焼却施設から排出されるダイオキシンの問題で、高濃度のダイオキシンが指摘されながら、行政が何も改善,対策の手を打ってこなかったことと、ダイオキシンの測定値の公表を避けてきたことにある。

 報道は、埼玉県産の野菜がダイオキシンに汚染されているので、各地のスーパーなどが,埼玉県産の野菜の仕入れ・販売を自粛したという。この報道によって、埼玉県の野菜生産者が大打撃を受けたとして、テレビ朝日に対し厳重抗議したとある。生産者には何の責任も無いし、生産者の死活問題でもある。
 テレビ朝日の報道の意図が、野菜生産者ではなく、埼玉県の環境行政を批判する目的であったにせよ、現実的にはダイオキシン野菜がズームアップされる結果になったことは確かだ。この報道では、ダイオキシンの測定結果は明確になっていないし、人体に対する影響の程度についても論じてはいなかった。たかがテレビ、されどテレビ。テレビ報道の影響力をまざまざと思い知らされた事件だ。

 これだけの報道に終わらず、全市町村の焼却施設の排出するダイオキシンの測定値の公表と焼却灰の処理について情報公開をすべきだという問題提起にしてもらいたかった。( Feb. 9. 1999 )


 インターネツトによる不正アクセス(企業、官庁などのコンピュータに侵入して情報を盗んだり、破壊する)に対する規制法案が、警察庁や郵政省で検討されて国会に提出される。
 もともとオープンなインターネットに規制を掛けることは望ましくないし、インターネットに接続することは、当然犯罪者などが、接続しているコンピュータに侵入することを予め想定して、利用者側で防護措置を講じて運用しなければならないのではないか。
何でもかんでも法律によって規制するという考え方は,今後歯止めがかからなくなる心配もある。もっとも一般人が犯罪に巻き込まれないように、接続業者であるプロバイダと利用者との間での自主的な管理を望みたい。

 一方、NTTが開発したMAPOSと呼ばれるプロトコル(通信手順)を用いて、従来の150倍の速さの光ネットワークの実験が行われるそうだ。多くの情報量が瞬時に伝送可能となり、映像,音声などを含んだ通信がより一層容易になって、インターネットの有用性が益々高まることになるので、法規制の問題も将来を良く見据えて考えてほしいものだ。( Jan. 27. 1999 )


 アメリカのカリフォルニア州で邦人の夫と子供が射殺された事件で嫌疑をかけられた夫人が、間違った報道に対し名誉毀損の訴訟を起こしていたが、先日、日本新聞協会に報道被害者を守るための「プレスオンブズマン制度」等の設置を要望したとある。
 従来からこの種の被害者は多く、ほとんどは泣き寝入りしていると聞く。新聞報道だけでなく週刊誌等による人権侵害の被害も多いと思われるので、報道倫理が確立できないなら、一日も早く弱者救済を目的としてこの種の「オンブズマン制度」を設置してほしいものだ。( Dec. 13. '98 )


 NHKの「決定! 世界の教育番組グランプリ 第26回日本賞授賞式」を見ました。1948年、国連人権宣言が行われ、その第26条 教育 には、だれにでも教育を受ける権利があります。教育は人がその能力をのばすこと、そして人としての権利と自由を大切にすることを目的とします。人はまた教育を通して世界中の人とともに平和に生きることを学ばねばなりません。

 世界の多くの人々が、映像を通して教育的な立派な仕事をしておられることを、この番組を通してよくわかりました。と同時に必ずしも日の当たるところにいないこれらの番組制作者に対し、NHKが、その業績を評価し「日本賞」を設けていることを、日本人として誇らしく思えました。振り返って日本の番組制作の実態はどうでしょうか?

 何もNHKをよいしょするわけではありませんが、現在の民放各社のTV番組を見てみると、教育はおろか世の中に罪悪をばらまいているとしか思えないような低俗な、単に視聴者に媚びるような番組が多いように思えます。
 何時も強調するようですが、TV報道は、子どもから老人まで視聴していると言うことを念頭において番組が作られなければなりません。公共のメディアを、一人よがりの番組で使われてはなりません。これが報道の倫理だと思います。現在の社会の罪悪の一端の責任がTVなどの報道のメディアにもあると考えて不思議ではないのではないでしょうか? ( Nov. 28. '98 )


 NHKの報道カメラ100年「歴史の目撃者テレビの課題」を見た。
 政治家や権力者が彼らのプロパガンダ(宣伝)にマスメディアをうまく利用するために報道管制をしき、そのために真実でもない報道に如何に甘んじてきたかが語られている。それらの中でも、権力に立ち向かい真実の報道のために命をかけて戦ってきた外国の名もない報道家達と彼らを妨害するための権力者のすさまじい弾圧行為の事実が明らかにされている。いま、ここにマスコミ自身が自分達の過去の忌まわしい行為を公にするようになった。そのままに受け取れば、こんなうれしいことはない。
しかし、日本のジャーナリズムは本当に正義を取り戻すだろうか?

 でも、満更捨てたもんでもない。いますぐでないにしても、いつの日にかジャーナリストが正義に目覚める日を期待しよう!( May. 6. '98 )


 新潮社の少年犯罪者の実名と顔写真の掲載は、前回の写真週刊誌に次ぐ再度の違法報道である。少年法第61条により未成年の人権が擁護されているにもかかわらず、まして法務省の勧告に対しても、今後とも報道姿勢を変えるつもりはないという強硬な発言は、ジャーナリズムをも侮蔑したものと言えよう。それにしても法務省もなめられたものだ。

 もしも、本当に少年犯罪の防止のため犯罪の背景を分析するに必要なものなら、あるいは、読者に訴えたいとしたら、実名や顔写真は必要とも思えないし、もっと慎重に報道すべきだと思われる。単に読者に媚びてゴシップとして売り上げを伸ばすために、ただ儲けるためにだけと思われても仕方のない違法な報道としか思えない。
 それにつけても、他の報道機関のこれに対する反応も当たらず触らずで、重大問題ではないのか? と思えるほどで、やはり傷の舐め合いの仲良しクラブなのか? これこそ人権に関わること、次の世代の育成に関わる重要なことなのではないのだろうか?

 「罪を憎んで人を憎まず」ではなく、「金儲けなら、なりふりかまわず、人の迷惑考えず」という現代社会の悪の権化か?
 現代に生を受けた子供たちは、親の出世、金儲けのために、愛情という言葉を教わらずに育てられている。マスコミの、裸、セックス、不倫、暴力、権力者の違法・贈収賄などに取り巻かれて、明日の光は何処にも見えない闇の世界であろう。青少年の凶悪犯罪が彼らの罪であると誰が断定できようか。( Mar. 7. '98 )


 映画監督の伊丹十三さんが亡くなった。新聞の報道では、写真週刊誌による女性関係の記事に対する身の潔白を証明するため自殺したらしいとあった。また報道の暴力ではないかと憂う。
 当該週刊誌の編集長の談では「内容は真実で、取材のルールにおいても通常の報道の範囲を越えていない」。事実であれば、他人の迷惑も顧みず報道するのがジャーナリズムか? 報道される側の人権は無視するのか? 週刊誌を売るためには手段を選ばずなのか? これは、いじめ以外の何物でもないではないか。否、報道という公器を用いた悪質な犯罪ではないのか?
 良識という言葉は死語となったのかと大変悲しい思いがする。楽しいこと、幸せになること、愉快なこと等は是非スクープしてほしい。大人達のいじめが無くなってこそ、初めて子供達のいじめも無くなり、平和な世の中が来るように思う。( Dec. 23. '97 )


 見ましたか? テレビの「ポケモン」というアニメ番組の放送で、これを見ていた全国の小中学生の多くが(700人程とか)気分が悪くなり、病院へ運ばれ、入院した子供も200人もいたと言う。
どうやら画面の強い光りの点滅が原因らしいが、先ごろの番組はアニメに限らず刺激の強い画面が多く、おちゃらけ番組も含めて見る気がしない事が多くなってきている。
 以前からTVというメデイアを用いてサブリミナル効果(番組の途中に画面に現れない程の極めて短時間に商品の宣伝画面を入れることにより、視聴者の潜在意識の中に商品が記憶されるという)を商品の宣伝に利用することが行われていると聞くが、映像を用いるテレビというメディアが洗脳ということも容易な危険性を含んでいることを知らなければならないだろう。

 これを機会にTVの報道関係者が、TVの報道のあり方について、および番組のあり方について見直し、正しい適切なTV放送をしてほしいものだ。
 この度の件も普通なら食中毒を起こした食堂関係者の営業停止処分と同じに考えるが、実際にこちらは謝って頭を下げて事が終わりとなっていて、どうにも納得がいかない気がするがいかがだろうか?( Dec. 20. '97 )


 報道の暴力を決して許してはならない。心配していたことがついに8/31の未明のパリで発生した。ダイアナ元皇太子妃が、休暇中のドライブをスキャンダラスにスクープし、新聞や週刊誌等に売り込む「パパラッチ」と呼ばれるスクープ屋集団に追いかけられ、その追跡を逃れようとしてトンネル内で事故を起こし、同乗者を含めダイアナ元皇太子妃も死亡した。
 最近の報道には秩序がなくなり、報道される側の人権が全く無視されているように見える。報道する事があたかも優先権があるように錯覚し、報道される側の迷惑は念頭にない。本当に必要な報道かどうかの判断は、報道される側の事情も十分考えて行うべきで、面白半分の儲け主義であってはならないし、それを許してはならない。

 今回のダイアナ元皇太子妃の事故死の事故原因は明らかにゴシップ報道に行き過ぎの責任が大であり、事故を誘発させたことは過失致死罪として厳しく追及すべきであり、これを他岸の火事とせず日本の報道のあり方(報道倫理)についても議論し、見直すよい機会であろう。( Sept. 1. '97 )


 神戸の小学生殺害事件で、未成年の容疑者の写真が週刊誌で報道されたことで、大きな反響が起きている。
 未成年の犯罪については、少年法(第61条)によって、氏名の公表はむろんのこと本人の写真を公表することは避けられてきた。ところが、この禁を破って一部の週刊誌が本人の顔写真を載せたらしい。法務省の勧告に対して、出版社側はあくまで言論の自由を盾に非を認めず、雑誌の回収には応じないと言う。言論の自由とは何なのか? 少年法を侵してまで被疑者である少年の写真を公表することが何故必要なのか? 公表しなければ何が問題になるというのだ? 既に被疑者は判明し、拘束されているのだ。

 何度も言っていることであるが、報道とは何なのか? ジャーナリズムとは何なのか? 週刊誌が売れればそれでいいと考えているのが、報道を司どる経営者として許されるべきなのかを、この際はっきり決着をつけるべきだろうと考える。それでなくても一部の週刊誌の行き過ぎには、常々苦々しく思っていたところだ。人権擁護の立場からも、行き過ぎ報道に対する罰則規定を立法化するのも一案と言えよう。( July, 11. '97 更新 )


 TV朝日系の報道姿勢に対する問題点が明確になってきた。
 先のペルー日本大使公邸での無断侵入取材事件で、侵入の際に取材用の無線機器を置いて来たと言うのだ。そしてそれは留守家族のためにも交信が必要だと思ったから置いてくるように指示されていたというのだ。TV朝日の上層部は報道記者の勝手な判断による侵入と言っていたではないか。いったいこれは何なのだ? 何が真実なのか? 全くのウソだったのか? 視聴者がばかにされているのか? 真実を伝えるという報道の精神はどこへ行ってしまったのか? ジャーナリズムとは一体何なのか? これでも報道を信じろというのか? 報道倫理委員会でも作って反省してよ。( Feb. 19. '97 )


 またまた報道取材の行き過ぎがあった。
それもペルー日本大使公邸で起こったMRTAによる公邸占拠と国家要人人質事件の解決に世界が注目している中で、何とまた朝日系列の報道記者が勝手に公邸内に忍び込んで取材をするという破廉恥なことをやらかした。
 それでなくても政情不安なペルーでの日本大使館の無防備な晩餐会さえ非難されるのに、その上に各国報道関係者の協定を破って人命の危険を無視した勝手な報道行動は決して許されるべきものではないと思う。朝日の上層部ではそんな指示をしてはいない。記者個人の判断でやった事だと言っているが、元はと言えばスクープ至上主義の日本のマスコミの姿勢を代表している事件ではないかと考える。取材される側の人権を無視した報道は常に論議されている事である。当該報道記者の問題もさることながら、日本のマスコミ全体の問題点ではないかと考えている。( Jan. 30. '97 )


 サンゴ礁へのいたずら報道やオームに係わるVTR事件など、マスコミの行き過ぎが問題になったが、以前から報道の信憑性に少なからず疑問をもっていた。
 考えてみれば、TVも新聞や雑誌もみんな企業だから(NHKは別としても)売るためには多少のウソがあっても誇張があっても、それによって他社より売上げが増えた方がいいに違いない。まじめにその記事や映像を信じている自分の方がバカなのかも知れない、とだんだん思えてくる。そうでなければ、もう現地へ行って事実を確かめるしきゃないっ!

 最近の朝日新聞の記事に「−−−とされる。」の表現をだんだん多く見かけるようになってきた。「−−である。」との違いは、前者には不確定な部分があるからだろう。不確定なものは事実ではない。一般の読者はそんなことまで気にしてはいまい。それを事実として読むに違いない。一見些細なことかもしれないが、このような不信感があって、ついに朝日新聞の購読をやめた。(朝日新聞の人どう思う?)

 TVはなおさら視覚に訴えるものであるから、白が黒にも、黒が白にも見方によっては容易になりうるので危険性はもっと高い。番組製作者は、幼児からお年寄りまで誰もが見るってこと忘れてるんじゃないだろうね?(視聴率が全てに優先するって?) あなた最近の民放のTV番組見て、これでいいって思ってる?
 そこで考えられるのは、このインターネットというグローバルなネットワークを利用した情報の双方向性に期待がかかる。現地へ行かなくても、現地から正しい情報を容易に得られるし、またマスコミに対しても自由に意見が述べられる利点がある。それにしても報道の基本は、事実を誤解のないように正しく知らしめることで、主観を入れたり粉飾してはならないと思う。

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