ご存知かもしれませんが、放送界においては既に「放送倫理・番組向上機構」なるものがつくられていて報道の倫理・人権侵害に対する歯止めが考えられていますが、印刷メディアの方には未だそれらに準ずるものは設置されていない。いつも言うことであるが、言論の自由が叫ばれると共に、報道する事の方が人権侵害を云々するよりも優先されているのが実情であろう。しかし、これはただ単にメディアが悪いと言うよりも、そのような悪質な記事を良しとして購買する読者の質の問題に帰するとも考えられるのではないか?
メディアの責任や倫理問題について一番進んでいるのがイギリスで、この特集の中では「メディアと責任制度―人権をどう守るか」について、英国・情報苦情委員会(PPC)のロバート・ピンカー氏と浅野同志社大教授との対談により、イギリスの報道の自由を守る自主規制機関であるPPCの運営の実際について述べられている。日本では罰則のある規制が多いが、これは、権力からの報道の自由を守り、メディアによる人権侵害から市民を守ることであって、“報道の自由を守る”ことと“プライバシー”とがしばしば対立する関係があるからで「自主規制であれば、政府の政策や政治家の活動を批評し、有権者に情報を提供する報道界は、政府のコントロール下に置かれないし、民主主義社会では、自らが決めたルールに基づいて自立的に運営した方が効果的で、貧富の差がなく、誰でも接しやすいからこそ機能する」という。
私たちの記憶にまだ新しい“パパラッチの過激取材とダイアナ元英皇太子妃の悲劇”が契機となって創られたハラスメント法に従って、報道界の自主規制として“報道倫理綱領の条項改正”が行われたが、表現の自由がプライバシーなど他の権利に対し、どのようにバランスがとられるべきかを示す明確なガイドラインを「パブリック・インタレスト(市民全体の権益)」として、報道倫理綱領の中では、
@ 公人の犯罪や不正を暴くを定めている。それゆえ、訴えられた編集者はその行動を正当化するために「パブリック・インタレスト」を盾にすることが認められている。
A 市民の健康、安全を保障する
B 社会を間違った方向に導く可能性から市民を守るための取材や報道の場合
ピンカー氏は「日本の報道業界に最も必要なのは、政府と業界との両方から完全に独立した自主規制制度であり、まず、新聞・雑誌業界が設立を提案し、業界自らが裁定を下す効果的なシステムに同意し、報道倫理綱領を自ら制定して、独立した報道評議会のための運営資金を調達しなければならない。
業界自らが、その報道評議会が裁定を下すための効果的なシステムに同意しなければならない。最も重要なのは、報道評議会が市民からの苦情を直接に受付け、裁定を下す権利を与えられること。取材・報道される普通の市民の利益になるような制度をつくってほしい」と述べられている。
はたして日本の新聞・雑誌業界にそれを望んで期待できるようであると良いのだが、まだまだ“報道の権利”の方が“市民の人権”より重要性が上であるという認識が強いように思うのだが…。
本特集では、これ以外に、“報道被害と捏造報道”、“「週刊誌」をどう読むか”、“名誉毀損で敗訴を続ける新潮社の「人権感覚」”、オピニオン集“「週刊誌ジャーナリズム」のあり方を問う”など興味深い内容が盛り沢山なので、ぜひ目を通して欲しい。( Dec. 22. 2003 )
公共放送ならともかく、民間商業放送では番組の視聴率がスポンサーの目安になっているわけですから、視聴率の仕組みがどうあれ視聴率が高くなければ売れません。如何に視聴率を上げるかがプロジューサーの手腕となるわけですから、手段はともかく視聴率を上げることが重要なのです。しかし、そのためには“手段を選ばず”でも困ります。それが報道や番組制作に対する倫理なのです。
今回の事件は、プロジューサーと同時に視聴率を上げる手段に関わった全ての人に責任があるのです。私たち視聴者自身にも倫理感覚が必要ですし、メディア・リテラシイ教育の必要性も出てくるでしょう。公共放送での番組制作上の責任と義務については、以前NHKで放送された「デジタル時代の制度・倫理・報道、いま、放送の未来を考える」で、BBCのスティーブ・ウィットル氏が明快に主張されています。
また、視聴者はテレビ放送をどう評価しているかについては、同様にNHKの金曜フォーラム「テレビはこのままでいいのか」で、中学生を中心とした公開討論会で、大人以上に彼らが正確に評価していることが分かります。視聴率でごまかそうとしても、大人はごまかせても子どもたちはごまかせません。大人こそ報道倫理やメディア・リテラシイ教育が必要なのではないかと思いました。( Oct. 27. 2003 )
ご存知のように、戦争報道は、かっての湾岸戦争に見られるように、映像が主体となったテレビメディアの現代では、当事者同士のプロパガンダとして利用されることが多いし、そのために報道規制も強くなり、中立的立場の公正な報道が妨げられることが多いと考えられる。事実、この番組でもそれらを検証しながら、戦争報道、特にテレビメディアでの報道の問題点と、これからの報道の行方を、ジャーナリスト側であるBBCのジョン・シンプソン記者、イラクの報道主体“アルジャジーラ”のサイード・シューリー副編集者、そして、アメリカABCのキャスター、テッド・コッペル氏を結んで、NHKのアメリカ総局長の藤沢秀敏氏がコーディネートして討論されている。
戦争報道は、市民や兵士を含めて死者や負傷者の生々しい映像を報道することには多くの規制があって、必ずしも正確な報道が保証できるわけでもないし、捕虜となった兵士の報道は、殊に人権問題として規制されており、逆に、イラク戦争では話題となった、アメリカ国防総省発の「ジェシカ・リンチ上等兵の救出劇」のような、わざと感動的なドラマを演出して放送させるプロパガンダ映像も無視できない。報道側としてはウソかマコトか、検証する必要に迫られる場合も当然出てくるが、例え、ウソであることが証明されても、正しい報道をすることが極めて難しい場合がある。それらの規制の中で正しい報道の姿勢を貫くためにはどうすれば良いかは、容易でないことが判る。
公正さ、深さ、広さを求めるメディアが目指す戦争報道は、究極的には“どうすれば戦争を無くすことができるか?”に尽きる。国益を求めて国対国がある限り、争いが生じ、強いものが弱いものを制する図式は変わらない。国連主体を持ち出してみても、現在の力関係では国連が各国を統治出来る力はない。Non Governmental Organization(非政府間組織)…世界の平和を目指すNGOのネットワークで平和的な解決を手探りで探し求めるしかないのではないか? その時にメディアは何が出来るか? 将来に向けての大きな課題であろうか? ( Oct. 20. 2003 )
特にニュース報道番組は、思考と検証の時間が必要です。ゆっくりな口調と間合いが必要なのではないでしょうか? 新聞ならば、十分考える時間が持てますし、納得のいくまで、何度も繰り返して読むことができます。テレビの映像は流れて行きますから、視聴者の理解を助けるためには、少なくとも一呼吸の間隔が必要でしょう。テレビ世代の子ども達にも少なからず影響があるのではないかと思っていましたが、雑誌「世界」(岩波書店発行)の7月号に「“メディア漬け”と子どもの危機」と題して、元NHK報道次長・NPO法人「子どもとメディア」代表理事の清川輝基さんが、メディアという文化が子どもの発達を阻害していると指摘されています。
1998年6月に、国連「子どもの権利に関する委員会」から、日本に対してなされた勧告の中で、「発達障害」を指摘されているそうですが、このような指摘を受けたのは、世界中で日本だけだといいますから、現代の日本の文化的環境が、如何に異常なものかが推測できます。テレビ以前の時代の子どもの生活時間では、「外遊び」や「家の手伝い」の時間が相当ありましたが、現代では、「外遊び」の時間は30分以下の子が50%となっていて、「家の手伝い」はほとんど見られなくなっている。家の手伝いよりも“塾通い”が生活のほとんどを占めているような気がします。
また、家庭教育の重要性が言われる中で、「電子ベビーシッター」と呼ばれるメディアに頼った育児が圧倒的に増えていて、テレビ・ビデオ・ゲーム・パソコン・コミック雑誌(マンガ)・ケイタイ等のメディア文化にどっぷり漬かっている生活文化環境にあります。それも、メディア総量で考えると、過半数の子どもが、1日平均6時間が“メディア漬け”となっているそうです。
最も恐ろしいことは、“メディア漬け”の子ども達の脳からはベーター波が出ないか、出ていてもきわめて低いレベルであると日大の森教授の研究から指摘されており、「ベータ波が出ないのは老人性痴呆と同じ状態で、自分の欲求や情動を制御したり、相手を思いやったり、思考したり、ものを考えたりする、つまり、人間としての心をコントロールし、表現する大脳の前頭前野が働かない…」ということになるのだそうです。更に驚いたことには、小児科医と保健所のメディア接触調査の中間集計では、4ヶ月児にテレビ・ビデオを見せている親が47.8%もあり、「意識して子どもに見せているのはいつからですか?」という質問には、10ヶ月児に対して既にそうしているとの答えが87.9%にも上るという。子どもの脳や心が未発達の段階で、既に“電子ベビーシッター”状態が日本の子ども達を覆っているわけです。
アメリカでは、「TVターンオフ・ウィーク」(子どものためにテレビを消そう週間)が大々的に展開されており、日本でもその試みが始まっていて、良い結果が得られているようですが、全国的に展開するには、文部科学省やNHKでは無理で、清川さん達が準備している「メディアスタート・プログラム」の啓発ビデオ等を通して、NPOでやるしかないと断言されている。それにしても、私たち大人が、もっと“子どもとメディアとの関わり方”について、良く考えることが重要なのではないでしょうか? ( Jun. 28. 2003 )
それでなくても、毎日、新聞に目を通していると不可思議な報道に首を傾げたくなるようなものがあります。最近では、拉致疑惑が拡大している中の北朝鮮の定期貨客船、万景峰号の新潟へ入港するという記事。政府の対応だけでなく、われわれ国民の疑問に何も答えていません。単なる一般記事なのでしょうか?
また、群馬県六合村のエビ山のハイキングで、下山せずに高沢山方面に向かったまま消息を絶った親娘の続報が、テレビでは救助されたところで立ち消えて、大々的な捜索活動の結果が何だったのか? 狐につままれたような報道です。遭難の原因が次ぎに活かされないムダな報道の典型ではないでしょうか?
イラク戦争報道でも同じでしょうが、イラク戦争の大義名分であったイラクの大量破壊兵器はどうなったんでしょうか? イラクの破壊と殺戮などの戦争責任はどうなっているのでしょうか? 大国アメリカだから何も言えないのでしょうか? 平和ボケしている国のペンは、大国の暴力や権力にはひ弱いのでしょうか? 報道の倫理とは一体何なんでしょうか? 改めて問い質したいものですね。
貴方は毎日の新聞やテレビの報道に疑問を感じませんか? 毎日の仕事や生活に追われて(その上、リストラの不安に晒されてさ…)、お前みたいに暇じゃぁないって? そりゃそうだ、私は暇をもてあましてるんだっけ!( Jun. 2. 2003 一部追記)
報道番組の質的向上については、一つには、視聴者である私たちの質的向上こそが第一で、“悪貨は良貨を駆逐する”の例えの通り、視聴者の快いものや望んでいるものが必ずしも質の高いものでないことは明らかであり、視聴率によりスポンサーが左右される民間放送では尚更この傾向が強い。当然、視聴者が“ノー”と言えば、その番組は必然的に存続できなくなるので、視聴者が報道番組の質を決めているとも言えるであろう。
ただ、報道する側についても問題があって、悪徳週刊誌(?)が良く売れることと同様に、報道の目的が何であるかを的確に判断して、良質の番組を制作して視聴者の教養を高めるという、高邁な思想や哲学が報道側にあってはじめて可能になることであろうと考える。また報道に携わる関係者自身が報道番組を自己評価して、それが自分をも含めた視聴者の教養・娯楽に相応しいものかどうかを、謙虚に質す姿勢こそが必要ではなかろうか?( Feb. 20. 2003 )
また、業務の合理化やコスト削減のために、フリー・ライター等の多用によっても、それぞれの価値観や倫理観に認識の違いがあって、記事の内容によってはトラブルの発生につながりやすいように思えるのだが、どうだろうか?
何はともあれ、正確を期することと、人権擁護を第一に考えることが重要であることに違いは無い。報道の責任は、当のメディアのトップの責任であり、経営者の人格を表すことになることは以前にも述べた。私たち一般市民がそれらの報道を安心して受け入れられるよう一層の努力を期待したい。( Feb. 7. 2003 )