永遠の謎 第四章
川村けんとの《いい加減にします》



皇紀二六六五年 三月 一日
女帝論の見えざる敵

皇紀二六六五年 一月二七日
朝日「極左記者」とNHK「偏向プロデューサー」が仕組んだ「魔女狩り」大虚報

皇紀二六六五年 一月十六日
小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

皇紀二六六五年 一月十六日
【従軍慰安婦】問題(下)

皇紀二六六五年 一月十六日
【従軍慰安婦】問題(上)

皇紀二六六五年 一月 八日
稲むらの火

皇紀二六六五年 一月 五日
皇統断絶を回避する秘策

永遠の謎 第三章
永遠の謎 第二章
永遠の謎 第一章


皇紀弐千六百六拾五年壱月八日 稲むらの火


尋常科用 小學國語讀本 巻十 文部省

   第十 稲むらの火

「これはたゞごとではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、ゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで經驗したことのない不気味なものであつた。

 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では豐年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向気がつかないもののやうである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大變だ。津波がやつて来るに違ひない。」と五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出来ない。

「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は,大きな松明を持つて飛出して来た。そこには、取入れるばかりになってゐるたくさんの稲束が積んである。



「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。

「火事だ。莊屋さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。

 高臺から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大聲に言った。

「うつちやつておけ。─ 大變だ。村中の人に来てもらふんだ。」

 村中の人は追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老若男女を一人々々數へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを代る代る見くらべた。



 其の時、五兵衛は力一ぱいの聲で叫んだ。
「見ろ。やつて来たぞ。」

 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて来た。

「津波だ。」
と誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて、後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の他は、一時何も見えなかつた。

 人々は、自分等の村の上を荒れ狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。

 高臺では,しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。

 稲むらの火は、風にあふられて又燃え上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。



皇紀弐千六百六拾五年壱月五日 皇統断絶を回避する秘策


皇統断絶を回避する秘策
  男系継承を護持するために

高崎経済大学助教授 八木秀次

男系継承は不変の原理

 女性天皇の是非について書かうと思ふ。この問題については他でもさんざん書いてきたし、ここのところ、毎日のやうにこの問題での取材対応に追はれてゐる。そこでここではこれまで書いてきたことを簡単に整理しながら、他では書いてゐないことや新たに気付いたことなどを記さうと思ふ。
 私がこの問題で訴へたいことは簡単なことだ。百二十五代の皇統は一筋に男系で継承されてをり、これを今日においても可能な限り護持しようといふものである。私は保守主義者を自任してゐるが、保守主義の本質とは伝統の保持である。
 さうであれば、百二十五代の長きに亘つて一貫して男系継承されてゐる皇統をたかだか現在生きてゐるに過ぎない現代人がその浅はかな知恵で簡単に女系に移行させていいものかといふことに尽きるのである。
 保守主義の中心原理に「時効」といふものがある。時間の効力といふ意味であるが、幾世代を経て継承されてきたものは、その時々の人々の慎重な取捨選択の末に残つてきたものであるがゆゑに、正しいものだと考へるといふことである。



 皇位継承の問題で言へば、百二十五代に亘つて、唯の一度の例外もなく、一貫して男系で継承されたといふことは、これはもう完全なる「時効」といふべきものであつて、この意義をあれこれ詮索することなく、もはや不変の原理として受け取るべきことなのである。
 これを、新しい時代であるから女性天皇がいいだの、国民感情は女性天皇を歓迎するだの、男系・女系などといふのは大した問題ではないだの、男系継承の道は塞がれてゐるなどと軽視するのは、天皇否定論者であるならばともかく、保守陣営に属する者にあるまじきことだと思ふ。
 その意味で私は単純な尊皇派の考へには与しない。今上天皇の血を継承する方であれば女性でも構はないとして、女性天皇を容認し、女性宮家の創設を主張する人々は、皇統が女系に移り、考へやうによつてはもはや皇統とは呼べなくなることの意義を軽視してゐるし、何より保守主義の中心概念である「時効」の意味が分かつてゐない。彼らは「保守」とは別種の存在と言ふべきである。
 私はかつて、「皇統」とは「男系」のことに他ならず、過去百二十五代に亘つて一度として男系継承といふ皇位継承のルールに違背した例がないといふ歴史の重み≠感じるべきだと思ふとし、このことの意義を「現在のロイヤル・ファミリーを尊崇する気持ちで目を曇らせてはならない」と述べたことがある(「敬宮殿下の御誕生を期に改めて皇位継承問題を考える」『日本及日本人』平成十四年新春号)。



その気持ちは今も変はらない。
 保守派や民族派は、明治憲法のことを高く評価すると思ふから言つておくが、そこには「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし」であるとか、「皇祖皇宗の後裔に貽したまへる統治の洪範を紹述するに外ならず」といふ具合に、明確に保守主義の原理が謳はれてゐる。
 この憲法は明治の新しい国家原理を打ち出したものではなく、連綿として受け継がれてきた統治の原理を明文化したものに他ならないといふことを表明してゐるのである。「述べて作らず」といふが、まさに伝統的な統治原理に表現を与へたものに過ぎないといふことである。
 皇位継承の問題に引き付けて言へば、男系継承はまさに「皇祖皇宗の遺訓」であり、「皇祖皇宗の後裔に貽したまへる統治の洪範」である。これを変更するにはよほどの事情がなければならないし、よほどの覚悟が必要である。果たして女系への移行を主張してゐる人々にはその認識があるだらうか。
 幸ひ今上陛下はそのことの意義をよくお分かりであるやうに思ふ。陛下は女性天皇をお望みではないといふ報道が一部にあつたが(『THEMIS』二〇〇四年七月号)、それはゆゑあつてのことだと思ふ。
 なぜならご自身に至るまで百二十五代に亘つて一貫して男系継承であつたものを、ご自分の御代における皇室典範「改正」により、その一貫した原理が変更されるのは皇祖皇宗に申し訳が立たないといふことになると思はれるからである。



 陛下はできるならば、皇太子殿下か秋篠宮殿下の下に男のお子様がお生まれになり、その方が皇位を継承なさることを望まれてゐるだらう。それが叶はない場合は、別の措置が考へられるが、この点についての陛下のご意向は不明である。ただ少なくとも現時点においては女性天皇容認には慎重であるやうにお見受けする。
 ここで今一度、私が女性天皇のご即位に慎重である理由を列記しておかう。

一、「万世一系」とされる皇統は一貫して男系継承である。

二、過去八人十代の女性天皇は「男系の女子」である。

三、女性天皇は本命である「男系の男子」が成長するまでの中継ぎ役であつた。

四、女性天皇がお産みになつたお子様が天皇になられた例はない。

五、女性天皇がお産みになつたお子様が天皇になられれば皇統が女系に移ることになる。

六、過去の皇統断絶危機の際には男系の傍系から天皇となられてゐる。

七、皇位は直系による継承ではなく、あくまで男系による継承である。



 言ふまでもなく、これらは私個人の見解といふよりは、歴史から読み取れる皇位継承の原理である。私は今後もこれに従ふべきだと言つてゐるに過ぎず、特別なことを述べてゐる訳ではない。そして果たしてこれらのことをどれだけの人が正確に理解してゐるだらうかと言ひたいのである。
 この原理は多くの先人たちが大変な苦労を重ねながら、一度として逸脱することなく守り続けられてきたものである。さういふ歴史を踏まへるならば、今日においても男系継承を踏襲すべきであり、それを現代に生きる我々の世代の一存で変更することは歴史に対する冒涜であると思ふのである。

男系の傍系継承の例

 過去にも今日と同様、その時々の天皇の近親者に男子が恵まれず、皇統断絶の危機が訪れたことがある。その際には、例へば天皇の女のお子様が即位され女性天皇となられて、さらにその方のお子様がその次の天皇になられるといふ事態も考へられた。
 しかし先人はさうはしなかつた。その時々の天皇の近親者に男子が恵まれない場合は男系の傍系から皇位継承者を得たのである。それが上記(6)の原則である。このことは皇位継承の歴史を知らない現代人には理解しづらいことだが、これが皇統といふものなのである。
 実はこのやうなことが過去に三例あつた。一、第二十六代・継体天皇 二、第百二代・後花園天皇 三、第百十九代・光格天皇のケースがさうである。



この三方の天皇はそれぞれ先代の天皇と八親等から九親等の隔たりがある。
 継体天皇は先代の第二十五代・武烈天皇とは九親等の隔たりがある。親同士がはとこの関係であり、今日の感覚で言へば、他人と呼んでも差し支へないほどの遠縁である。武烈天皇には皇子がなく、男の兄弟もゐらつしやらなかつたので崩御後、後継問題が深刻化した。
 しばらく空位が続いたが、応神天皇の五世の孫に当たる男大迹尊が即位されて継体天皇となられた。後花園天皇も先代の第百一代・称光天皇から見て九親等の隔たりのある遠縁である。
 称光天皇には皇子がなく、天皇の父である第百代・後小松天皇は伏見宮貞成親王の第一皇子彦仁親王を御所に迎へ入れて猶子とした上で、称光天皇崩御とともに践祚させた。この方が後花園天皇である。
 江戸時代後期に即位された光格天皇も先代の第百十八代・後桃園天皇とは八親等の隔たりがある。後桃園天皇は幼い皇女一人を残して二十一歳の若さで崩御された。
 皇太子が決まつてゐなかつた上に、天皇の近親者に男子がなかつたので、空位を避けるために崩御については暫く黙されることになり、その間に閑院宮典仁親王の第六皇子でまだ満八歳の祐宮殿下を天皇の養子とした上で世継ぎとする旨が決められた。
 天皇崩御が発表された後、祐宮殿下が践祚した。後の光格天皇であるが、第百十三代・東山天皇の曾孫に当たる方である。



なおこの光格天皇以来、そのお子様が仁孝天皇、またそのお子様が孝明天皇という具合に、以下、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上天皇と直系でつながつてゐるが、今上天皇の直系の祖先に当たる光格天皇が傍系のご出身であることは重要なポイントであらう。
 このやうに過去には傍系から皇位に就かれた例がある。但し、例へば先代の天皇の皇女と結婚なさるといふ方法などを介して先代との血の隔たりを近づけてゐる。そしてその間にお生まれになつた男子が次に皇位に就かれることになれば、先代からの血統もそこに流れ込むといふ訳である。光格天皇の皇后は先代・後桃園天皇の遺児、欣子内親王である。
 現在、これまでの男系継承は庶系によつて支へられてをり、もつと言へば、男系継承と側室制度とはワンセットであつて側室制度のない今日では男系継承は不可能である、だから女性天皇も女系も不可避であるとの意見がある。
 しかし、以上に述べたやうに、側室制度のあつた時代にも直系の男子は絶えることがあつた。その際には傍系による継承が認められたのであれば、男系継承は側室制度と傍系継承の二段階の安全装置によつて支へられてゐたと言ふべきである。今日、側室制度の復活が望めない以上、傍系継承といふ第二の安全装置を作動させても問題はないと言ふべきではないだらうか。



遺伝学から見た「万世一系」

 ここで考へなければならないのは、先人たちはなぜここまで男系継承に拘つてきたのかということである。既にテレビ番組でもその一端を述べたが、最近、ある方面からの示唆を受けて皇位継承の問題を遺伝学の見地から考へてみた。
 よく知られてゐるやうに、男性の性染色体はXY、女性の性染色体はXXである。これが次の代に継承されていくことなるが、初代の男性の染色体をX1Y1とし、女性のそれをXaXbとした場合に、二代目の染色体組み合わせは四通りのパターンがある。
 二代目がまた外部の男女と結婚して、その間に生まれる子供といふことで、ずつと系統図を描いていくと、初代の血筋は男系でなければ継承できないことが分かる。初代の男性のY染色体(Y1)は、どんなに直系から血が遠くなつても男系の男子には必ず継承されてゐる。
 逆に女系では同じ男性でも初代のY1染色体を継承してゐる人と、さうでない人が出てくる。長男は継承し、次男は継承してゐない場合もあり、その逆のケースも考へられる。つまり、女系の男子が皇位を継承した場合には、この人は、もはや初代・神武天皇の染色体(Y1)を継承してゐないということになつてしまふのである。
 そもそも天皇の天皇たる所以は神武天皇の血を今日に至るまで受け継いでゐるといふことである。



それ以外の要素は付随的なものに過ぎないとも言へる。我が国の「万世一系」の天皇とは、何か特別に能力が優れてゐたり、人格が優れてゐるといつた能力原理で成り立つてゐるのではない。完全なる血統原理で成り立つてゐるものである。
 しかも、この血統原理の本質は初代・神武天皇の血筋を受け継いでゐるということに他ならない。もちろん昔の人達はこのやうな科学的な根拠を知つて男系継承をしてゐた訳ではなからう。しかし、男系でなければ血を継承できないといふことを経験的に知つてゐたのではないかと思はれるのである。
 果たしてこのやうな説明が科学的に正しいのか、あるいは皇統についての説明として適切なのかについては私は分からない。専門家にご教示頂きたいと思ふ。

旧十一宮家の皇籍復帰

 これまで皇統は一貫して男系で継承されてきたといふことを考へるならば、男系継承といふ線は最後のギリギリまで譲つてはならない。であれば男系継承を続けていくためにはどうすればいいかといふ話になる。
 その際、考へておくべきことは現在では宮家が男のお子様がゐらつしやらないために全て絶えることになるといふことである。そのやうな環境の中で側室制度のない一夫一妻制は、特定の妃殿下に絶対に男のお子様を産んで頂かねばならないといふプレッシャーをお掛けすることになる。



 雅子妃殿下のご病気の原因も根本的にはそこにあるのであれば、それを回避するためにはやはり人為的に宮家の数を増やすことが必要になつてくる。一夫一妻制の宮家の数を増やす事によって、男系の男子の出産が可能である環境を作つていくといふことである。さうすれば、特定の妃殿下にお世継ぎご出産のプレッシャーが掛かることはなくなるだらう。
 では宮家の数を増やすにはどうすればよいだらうか。論者の中には女性宮家を創設してはどうかといふ意見もあるが、女性宮家は女性天皇と同様、女系につながるので論外である。結局、昭和二十二(一九四七)年十月に皇籍を離脱した旧十一宮家の系統の方々が皇籍に戻つて頂く以外に方法はない。
 旧十一宮家は傍系であるが、男系であり、神武天皇以来の血筋を引いてゐる。しかもそこにはかなりの数の男子がゐらつしやる。具体的にはこの方々をどうするのかといふことになつてくるが、一つの案は皇室典範第九条の「皇族は養子をすることができない」といふ規定を改正して皇族が養子を迎へることが出来るようにする。
 もちろん養子の対象は旧十一宮家の皇統に属する男系男子である。例へばこの方々が、高松宮家や常陸宮家などこのまま放つておけば絶えることが確実な宮家の養子となる形で皇籍に復帰される。かうすることで宮家が存続する。別の見方をすれば宮家が一部復活することになる。



 もう一つは『週刊現代』七月三日号で旧宮家に属する方が提案されてゐるやうに、旧十一宮家に属する男系の男子が現在の内親王や女王と結婚された場合は皇籍に復帰できるやうにすることである。なほこれは女性宮家の創設ではない。男系の宮家が復活ないし創設され、そこに内親王や女王が嫁がれ、その妃殿下となられるといふことである。
 そしてこのことによつて男系の男子がお生まれになる環境作りをしていく。さういふ宮家が複数あればどこかで必ず男子はお生まれになるはずで、この方々が皇位を継がれるのであれば、過去にも同じようなケースは幾度もあり、問題もない。
 まとめて言へば、男系継承を維持していく方法はまだまだあるといふことであり、皇統が女系に移る女性天皇を容認するよりも、そちらの方に多くの知恵を絞るべきだと思ふのである。
 もちろん以上の方法は、当事者である旧宮家の血筋の方に皇籍に復帰するご意向があることが乗り越えなければならない第一のハードルである。
 私などはこれまでこの方法の現実可能性は度外視して、ただただ過去の皇位継承は一貫してさうだつた、だから今回の皇統断絶回避もこの方法に則るべきだと、その理念だけを説いてきた。そのため、そんなことは針の穴にラクダを通すやうな非現実的な議論であるだとか、架空の話をしても仕方がないだとか、と厳しい批判を浴びせかけられた。



 しかし、ここに来て事態は大きく変はつた。実は旧宮家に属し場合によつては当事者になる可能性がある方々から私の方にアプローチがあるやうになつたのである。既にお目に掛かつた方もゐる。
 その方々のお気持ちを代弁すれば、国民一般は皇位継承といふものを理解してゐない、かういふ皇統断絶の危機に至り、もし自分たちにその役割が求められるのであれば、皇統存続の血のスペアとしてお役に立ちたいといふことである。この方々の崇高なお気持ちを活かす方法を考へてみてはどうかといふのが私の言ひたいことである。
月曜評論 平成十六年七月号


る還へ《典教の悪》