西尾幹二「女帝論の見えざる敵」


   平成十七年「正論」四月号
    歴史と民族への責任より

 首相の私的諮間機関「皇室典範に関する有識者会議」の座長・吉川弘之元東大総長は、一月二十五日の初会合後の記者会見で、「国民の意識、世論を十分議論すべきで、最終的に国民の平均的な考え方で決めるしかない」と強調したと報道されている。

 ここにはっきりと大きな判断ミスが示されている。国民にあるべき天皇制度の哲学を示し、歴史を教えることが先決だろう。

 現在生きている日本人があれこれいじりまわす権利のない問題なのだ。過去と未来の日本民族の全体に責任を負う決定を下す秋を迎えたことを座長は国民に向かって宣言すれぱそれでよいはずである。 今生きている「国民の平均的な考え方」を基準にすると最初から決めてしまえば、過去二千有余年を生きてきた日本人、これからも生きつづける日本人を現代の観念で切り捨てることになりはしないか。

 基準は歴史であって、現在の便利な思想ではない。座長は勘違いしている。首相を選ぶのではないのだ。「国民の意識、世論を十分議論すべき」は民主主義の原則で、国政選挙ならいざ知らず、天皇の世継ぎを選ぶのに民主主義の方法は適用できないし、すべきでもない。



 同じ新聞によると、座長代理の園部逸夫元最高裁判事は平成十六年五月の参議院憲法調査会で「女性天皇を認めることが最もふさわしく、また必要なこと」と述べ、女性天皇を前提にする考えを示している。小泉首相自らが有識者会議の第一回がまだ開かれる前から、「女性天皇、いいじゃないですか、時代ですよ」とテレビ会見で語っていた。

 会議を取り仕切る役とみられる古川貞二郎前内閣官房副長官は、かねて小泉首相から女性天皇を容認する法案をまとめるよう指示されていたという(『文芸春秋』三月号)そのためであろうか、会議のメンバーにかの「男女共同参画審議会」の前会長の名まである。

 歴史や法制度の専門家はわずか二人、他も日本民族の運命を決めるのになぜこの人がと首を傾ける人選ばかりで、しかも九月までに急いで結論を出すというのだから、初めに答えありき、であって、拙速と軽率の囂々たる非難は必ずや免れまい。

 日本国内の調和、つつましさ、優しさ、乱れをきらう洗練された美意識、汚れのない清浄感、自我を抑えて天地自然の前に脆く敬虔さに、こうした特質を代表しているのが皇室である。そしてこれは、ある意味で「日本人的なもの」の特性でもある。身の周りに穢れのない秩序を保つという美意識は、日本人のいわば道徳であるといってもいいかもしれない。



 しかしこの道徳は自らを守るために戦う方法を知らない。それは皇室が自己防衛の手段がなく、それ自体は玻璃のように脆く、壊れやすく、国民に守られて初めて安泰であるのといわぱパラレルである。

 けれども国民はここで大きな矛盾に突き当たる。本来他を攻撃しないことによって培われる日本人の道徳を護るために本居宣長があえて「漢意からごころ」を攻撃せざるを得なかったパラドックスにも似た構造、すなわち、皇室の本来性を守るために攻撃を知らない皇室の代りに国民は皇室の敵と戦わなくてはならないという逆説にさらされている。

 愛子内親王がお生れになって女性天皇の声が高まった。雅子妃殿下に男子のお世継ぎの負担をなくしてさしあげたいという国民の優しい気持がこれに加わった。有識者会議の座長が言い出した「国民の平均的な考え方」とは多分それに当るであろう。天皇家という目の前のファミリーへの国民の敬慕の気持は強いし、天皇制度をあった方が良いと考える国民の数は、投票でもすれぱ圧倒的だろう。

 しかしそれは無自覚の感情である。皇室の敵が何であるかを知っていない者の無防備の心情である。これから百年も千年もと天皇制度がつづくための条件をこしらえなけれぱ、敵は三十年も経たぬうちに強力な姿を現わす。



「有識者会議」は国民に敵の正体を知らしめ、警告し、皇室の未来を安泰にするためになすべきこと、そのための哲学、その前提となる歴史知識を国民に教え、普及するのが本来の仕事ではないのか。

 女性天皇の善し悪しの私見は今ここではしぱらく措く。その前に、愛子さまが可愛いい、雅子妃がおいたわしいという日本人的直接性が、すべてに先行するとき、目に見えるものに憐れみや愛を注ぐに切な日本人の特性や美点が、目にみえない遠い世界、この場合には日本の歴史という悠久なものに、抽象的想像力を働かせることがややもすると疎かになる日本人の弱点となって立ち現われはしないだろうか。

 私が言いたいのは、歴史は個々人を超えているということである。天皇をも超えている。天皇家という目の前のファミリーをも超えているのが歴史というものである。日本人にとって大切なのは天皇という制度であって、個々の天皇個人ではない。

 深い考えもなしに女性天皇を容認すれば、すべて解決するという首相以下お歴々の考え方は、原理原則を忘れ、それゆえ天皇制度をこのまま無くしてしまう暗いほら穴を掘る作業に早くも手を貸している。敵が見えていないからだ。

 中国という敵が久しく見えず、国境を犯されかかっているテーマとそっくり同じである。



前号に述べた男女共同参画と「従軍慰安婦」の問題もやはり、国を蝕む国内の敵が見えていないからこそ起こったことなのだ。日本の政治家や官僚たちの迂闊さ、呑気さ、戦うことを忘れた空つぼの精神、抽象的想像力を欠いた、受動的で無警戒な、その日その日をやり過ごす問題先送りの怠惰な心において全問題は共通している。

 皇位継承問題で今までマスコミに出たすべての論者が見落しているのは、わが国の知的社会には、スキあらば天皇制度を否定せんとする強大な「敵」が存在することへの洞察である。「敵」を指し示し、予防するのが「有識者会議」の仕事でなくて何であろう。国民は「敵」に気づいていない。「国民の平均的な考え方」などに頼っているわけにいくまい。

 三十年後に天皇制度はなくなってよいと考えるのなら話は別である。

 明治憲法を構想したひとり、井上毅が描いた「万世一系」の皇統の観念、神代から今に至るまで連綿としてつづいて乱れなかったとされる観念について、次のように語る学者がいる。

 井上によれば、「萬世一系」がそれとして尊いのは皇胤(男性天皇の血統)がつながっているということであり、それは、男系・男子においてつながっていることにほかならない。



女子がこれを引き継いで結婚し、夫とのあいだで子を成して、この子が皇位を継承するなどは、以っての外である。というのは、それは、夫という異姓への引き継ぎになってしまい、皇胤の引き継ぎには全然ならないからである」と、──こう井上だちは考える。

 このように、井上たちによれぱ、「萬世一系」とは、男系・男子による血統の引き継ぎであり、女系・女子がこの間に入り込む余地はないのである(もっとも、「女帝」論の花盛りの現今、広く知られるにいたったように、歴史上八名十代にわたる「女性天皇」が存在したのは事実である。しかし、これらの天皇は、けっして結婚することはなく、やがてまもなく皇男子孫に皇位を引き継ぐための「中継ぎ天皇」、別言すれば単にピンチヒッターでしかなかったから、皇統に乱れは生じていない──と、こう弁明された。この弁明は、千九百四十六年末の帝国議会でも同じように展開する)。

 敗戦を経ても井上の「女帝」否認の男系・男子主義の「万世一系」の観念は、金森徳次郎に引き継がれ、生き残った。圧倒的多数の日本人によって戦争をくぐって護持された「国体」の観念がこれである。

 今あらためて「国体護持」のスローガンを高々と掲げるこの学者はいったい誰であろう。



男女平等に立つ憲法からみて、「女帝」否認の『皇室典範』は性差別という点で憲法に違反するという説がある。九州大学名誉教授の憲法学者横田耕一氏はそういう考えである(第百五十九国会憲法調査小委員会、平成十六年二月五日の発言)。

 けれども、井上毅の考えをたったいま要約したあの学者は、性差別だから憲法違反だという点については「賛成できない」と語る。第一に天皇や皇族は憲法上も「ふつうの人」とは違った存在であって、人権規定は適用されていない。

 第二に、男女を差別する男系・男子主義に関しては合理的説明ができないと反対者は言うが、合理的理由なんてことを言い始めたら、万世一系の天皇制にこそそもそも「合理的理由」はないのであって、それでも存在が認められているのだから、差別だ、違憲だというのは筋違いだと反論している。

 まったく正論である。歴史とは不合理なものである。そして、次が最も重要な陳述だが、今の世の風潮に押されて、なんとなくムード的な「女帝」容認論が通ってしまったら、どういうことが起こるか、諸君ははたして深く考えているのか、と、痛い処に手を入れるようなものの言い方を展開している。



 何ぞ知らん、性差別反対という、それ自体もっともな大義名分に促された一般公衆が、ポピュラーな政治家たちに誘導されて典範第一条を改正して「女帝」容認策をかちとることに成功したと、仮定しよう。よって以って「世継ぎ」問題はめでたく解消し、天皇制は生き延びることができることになる。

 しかしこの策は、天皇制のそもそもの正当性根拠であるところの「萬世一系」イデオロギーを内において浸蝕する因子を含んでいる。男系・男子により皇胤が乱れなく連綿と続いて来たそのことに、蔽うべからざる亀裂が入ることになる。

〈いや私たちは、「女帝」を導入して天皇制を救い天皇制という伝統を守るのです〉と弁明するだろう。だが、そんな、「萬世一系」から外れた制度を容認する施策は、いかなる「伝統的」根拠も持ち得ないのである(いま、ここで「女帝」という言葉のなかに、歴史上幾例があった「中継ぎ女性天皇」を含まない。「中継ぎ」は所詮、男系・男子主義のための本質的に一時的な媒介者でしかないのだから)。



「女帝」容認論者は、こうして「伝統」に反し「萬世一系」イデオロギーから外れたところで、かく新装なった天皇制を、従来とはまったく違うやり方で正当化して見せなけれぱならないのである。
 さあ、現代の天皇制擁護者はどうやって正当化してみせるのか。「頼るべき伝統、それに対応した既存の正統イデオロギー、のいっさいが欠けている」。どうやって新しい「天皇制哲学を案出」するのか、お手並拝見といきたい。

 自分としては「哲学的な正当化が可能である」ことには「懐疑的」で、憧れの天皇制も大衆天皇制ももはやけっして頼り甲斐のあるものではあるまい、と、最後は突岩離したような冷たい言い方になっている。

 他人事のような口調だが、男系男子の皇位継承を正しいとする論理は大筋において八木秀次氏や小堀桂一郎氏らのそれと一致する。伝統的な保守派のイデオローグは一貫して男系・男子によって血統が引き継がれる「万世一系」の皇位継承のシステムを堅持しようとしている。私も同じ立場である。私も「女帝」容認論ではない。

 しかし何と驚くなかれ、私たちとほぼ同じ概念で同じ見地を皇統の正しい唯一のあり方として展開した上記の学者とは、最左翼の憲法学者奥平康弘氏である(『世界』平成十六年八月号)。



首相の靖国参拝にも、オウム真理教の破防法適用にも頑健に反対し、憲法九条を死守せんとし、勿論、天皇制度をその根底において否定している、共産党に最も近い反体制憲法学者の首魁である。  そういう人が、否、そういう人だからこそ、よく知り抜いている。われわれ「尊皇派の評論家」の「憂皇的な心情吐露」の言説をからかって、お前たちに何ができるか、女帝容認ときまって、もうあと二、三十年もすれば、いわば自動的に天皇制度は消えてなくなるのだよ、と言外に匂わせている。

 二、三十年経ったところで、天皇制度を破壊しようと念願してきた国内のありとあらゆる「敵」は、奥平氏のこの指令をおそらく決して忘れないで起ち上るだろう。「天皇制はもう終わった。愛子天皇はもはや『万世一系』の皇統とはいえない贋ものだ。人権侵害と差別の象徴である天皇制そのものを廃棄しよう! 皇族を解放し、彼らに人権を認め、一般人と同じ信仰の自由、言論の自由、離婚や再婚の自由を与えよう!」と言い出すときが来るだろう。

 彼らはそれを今から待っている。事実、奥平氏は、同論文の末尾で、皇族に「脱出の自由」を認める方向で手続き規定がなされるべきだ、と書いている。彼の本心は、砂山が崩れるように少しずつ、時間をかけ、天皇制度を解体する方向に今から手をかす準備をしようとすることである。



 そのときになって、日本人にとって皇室がいかに大切かと人々が叫び出してもじつはもう間に合わない。手遅れである。たとえ女系による血統が細々と続いても、「敵」がそれをもはや畏れない、甘くみる、という要素がじつは決定的に重大なのである。

「もう本物じゃない」の言葉の影響は少しずつ輪を広げ、浸潤する。『文嚢春秋』三月号の皇位継承特集を読んでも保守派は誰もこのことを問題にしない。皇室の「敵」が何であるかを決して見ようとしないし、見えていない。

 男系男子による「万世一系」の皇統のみが唯一の正統だと保守派の中で最初に言い出したのは、憲法学者の八木秀次氏だが、同じ正論を天皇制否定論者の憲法学者がいち早く気がつき、言い出していることが、より深刻なのである。

 共産党や公明党はなぜただちに女性天皇に賛成したのか。「有識者会議」がおぱかさんの集りだということが「敵」の目にはっきり映っていよう。シメタと思っているはずだ。このまま女帝容認に傾げば、もう後はこっちのもの、と。

 左翼から明らさまなどぎつい攻撃が仕掛けられても国民感情がこれを拒否すると人は言うだろう。が、じつは、問題はなし崩しに進む権威の失墜なのである。横田耕一氏の先述の国会証言に次のような言葉がある。



「天皇の権威の基礎は、基本的に男系による万世一系の血脈にあると考えられます。こうしたいわゆる神聖家族にあっては、婚姻によって神聖でない血脈が入ることによる神聖性の希薄化は避けなければならない問題であります」

「天皇制度の断絶のリスクを回避するためには、将来的には、伝統を捨てて、男系女子のみならず、女系男子、女系女子を認めるしか方策はございません。それは伝統的な天皇制度ではないと言っても、どうしようもございません。そこで、最後の問題になりますが、しかし女系天皇を認めるということは、社会的に天皇の持つ国民統合力を弱めるように働く可能性が高いということは、やはり問題として指摘しておかなけれぱいけません」

 彼はまた別の処で、「あと何十年もたてば、象徴天皇制の存在自体が問われる時代が来るでしょう」(共同通信平成十六年六月二十四日)と、否定的な見通しをも語っている。

 で、ここで今国民は岐路に立たされている。旧宮家を復活し、何代遡っても今の天皇家とは別系統の男系男子の子孫を皇位継承の位置に近づけるか、それともあっさり、現在の直系の女性天皇の容認で、小泉首相の意向に沿うのか、事柄は余りにも重大すぎる。



 現代は政治家にこのうえなく高い能力が求められている時代だと思う。政治家は大学教授になれるが、大学教授は政治家になれないし、なってはいけない。高い知識と、高い知識を有効に活かすべき政治指導力とは、自ずと別である。政治を知らない軍人はあっていいが、軍事を知らない政治家はあってはいけない。

 同じように、現実の政治を知らない歴史家はあっていいが、歴史を知らない政治家はあってはいけない。小泉首相はこのまま安易な女帝容認を法制化し、政治的功績を得たつもりになっても、百年の歴史の中で「逆賊」の汚名を着ることにならないとも限らない。

 皇室の本当の「敵」が見えないままで「皇室典範」に手を加えるのは、外敵に気づかぬ侭に国境を自由開放するのにも似ている。

 中国間題で奥にいる「敵」の仕掛けが見えない不用意な外務官僚とそっくり同じ危うさである。

 伊藤哲夫氏が示唆していたことだが、十五代つづいた徳川幕府は傍系の「御三家」(水戸、紀伊、尾張)ないし「御三郷」(田安、一橋、清水)から継嗣を迎えて、断絶の危機を乗り越えたこと四度に及ぶ。吉宗(紀伊)、家斉(一橋)、家茂(紀伊)、慶喜(一橋)が傍系からの継承だった。側室制度が認められていてなおこうだった。



 徳川幕府よりもはるかに歴史の長い天皇家の血統の保持には言語に尽くせぬ工夫と努力が積み重ねられていた。その代表例が「世襲親王家」の存在である。古くは室町時代に、皇統の危機に備えるべく創設され、維持されてきた。そしてこの「世襲親王家」は、室町時代の後期までにほぼ消滅する。

 それ以後江戸時代末にかけて、いわゆる「四親王家」、伏見、桂、有栖川、閑院の四宮家が成立し、皇位継承資格を守り、いくたびも危機を救ってきた。例えば閑院宮家は新井白石が皇統の危機に備えて、幕府に新設を建言して容れられた宮家である。

 白石の先見の明ある指摘はすぐに現実のものとなった。後桃園天皇が突然崩御し、後嗣がないままだった。そこで閑院の宮第二代の王子が急遽、後桃園天皇の養子となって、これが光格天皇となった。彼は東山天皇の曽孫に当たる。

 光格天皇こそが、ほかでもない、今上陛下の直系の先祖である。戦後に十一宮家がGHQの指令で廃され、臣籍降下となったのはわれわれの記憶のうちにあるが、「四親王家」のうち桂、有栖川は断絶し、伏見家がいわば十一宮家の基であるともいえる。

『文芸春秋』三月号は今に残る旧宮家に八人の「皇子候補」が存在せられるという保阪正康氏のルポルタージュを載せている。



詳しい実際を私は知る者ではないが^こうした事実が表面に出た以上、「有識者会議」は光格天皇の系譜とは別の流れから男系・男子の血統に皇位を継承させる可能性について口を緘するわけにはいかないだろう。

 間題は広く公論に問われるべきである。国民に周知され、討議が高まり、理解が得られる努力が必要となろう。

「有識者会議」に求められるのは新井白石の叡智である。養子制度の拡充などで、別の男系とはいえ今上陛下の系譜とも血の交わりのある「皇子」を宮家に立てるなど、古来の伝統を現代人の感情にどう無理なく結びつけるかの微妙にして、困難をきわめる工夫が必要である。

 皇統の維持を現在の天皇家の唯一の系譜の中でのみ確保せよ、というのはどう考えても無理があるし、不可能である。いま女性天皇で切り抜けても、早晩次の世代に問題が起こる。そしてもうそのときには、完全に手遅れである。

 現在の天皇家の女系の血筋そのものでさえも危うくなるだろう。十重二十重の安全弁が講じられなければなるまい。遅きに失したとはいえ、今が最後の機会である。



 男系男子の血筋を正統とする「万世一系」の考えに、現代人は合理的説明を求めたがる。何か深い理由があるに相違ない、と。染色体などで科学的に解明する必要があるのではないか、と。しかし、百二十五代の皇位継承が現にそのように行われたという「歴史事実」があるだけで、十分ではないか。

 合理的説明を始めれば面白い解釈は幾らでもあるだろうが、解釈は万人を納得させるものではない。「事実」は解釈を拒絶している。歴史になぜ、はない。その点では左翼の奥平氏のほうが、不合理といえば天皇制度そのものが不合理なのだから合理か不合理かを問題にする必要はないと断じていて、説明をほしがる現代のインテリよりよほどしっかりしている。

 最後に、誰でもが抱く心配を私も抱く。幼い愛子内親王を念頭に置いて女帝を容認するとして、二、三十年後に即位した天皇のご夫君になられる人が見つかるであろうか。歴史上に名称もない地位である。過去の十代八人の女帝が未婚か寡婦だったのは夫たる者が余りに畏れ多く、なり手がなかったせいか、女帝が重責でありすぎたせいか、分からない。

 同じことが愛子様の身にも起こる可能性は大きい。さらに遠慮ない言い方をさせて頂くが、雅子妃殿下の近年の行動は、皇室には一般市民の人権はないという「帝王学」が身についていない不適応を予知させる面が少なくない。国民もまた天皇家を一般家庭の延長線上に見る戦後の悪い風潮に染まっている。



 雅子妃の一般市民的感性と知的エリート的発想で養育された愛子様の未来、天皇としての未来に、一抹の不安を抱くのは決して私ばかりではないだろう。天皇家は隔絶した別個の存在であって、姓も住所もなく、国民でもないのである。その地位を維持するには国家はもっと多くの予算を投与すべきである。

 聞く処では、国民ではない宮家には国民健康保険がなく、治療費に苦慮されると聞く。数多くの宮家復活の障害にもなる。小泉首相は安易に女帝を口にする前に、天皇家・宮家の財政を豊かにすることを考慮するよう私は進言する。

   雑記帳より