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旧満洲談話室
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北満孫呉の夏:家庭菜園 投稿者:TADA 投稿日:2005/08/26(Fri) 10:13 No.3389  
孫呉訪問の旅、出発まで早いもので2週間程になりました。
孫呉の官舎では多くの家庭が菜園で各種の野菜や花を栽培していました。
我が家ではジャガイモ、カボチャ、キュウリ、キャベツ、インゲン、ヒマワリ、サヤエンドウ等、特にキャベツとジャガイモは昼夜の寒暖の差が大きい気候が適しているのか良くできました。カボチャ(栗カボチャ)は絶品で引揚げて来て食べたカボチャの水っぽさにビックリしたほどです。
ヒマワリの種は炒っておやつになり、小鳥のように口の中で殻と実を素早く分けるのが私の特技でした。

8月、9月は収穫の時期、写真は66年前(昭和14年)の夏。



Re: 北満孫呉の夏:家庭菜園 あなたのやぎさん - 2005/08/26(Fri) 10:56 No.3391  

左下の写真のバックに写っている建物。今どうなっているか感心が高いだろうと思います。
もし今回行って見て、残っていれば写真に収めてアップしてくださいね。
私は満州時代の写真を1枚も持っていません。
今回写真をお持ちの方、ここのサイトで新旧の比較写真展ができるといいなと思っていますが、いかがでしょうか。


Re: 北満孫呉の夏:家庭菜園 AI - 2005/08/26(Fri) 13:39 No.3392  

 孫呉から帰られた看護婦さんから「孫呉は良かった。食べ物もあり、夫を朝送り出したあとは井戸端会議が楽しかった」とソ連参戦までの楽しい生活を聞いています。その雰囲気がこの写真からうかがわれます。大きい葉はキャベツでしょうか。後ろの家は官舎でしょうね。まだ残っていればうれしいのですが。


Re: 北満孫呉の夏:家庭菜園 ノーラ - 2005/08/26(Fri) 16:21 No.3393   HomePage

ああ、栗南瓜。帰国してから一度もお目にかかれません。
これと、マクワウリと紅玉りんごは、忘れられない味です。

新京〈長春〉で、どんどん日本人が引き揚げていった後の、空き家の
群れを見に行ったとき、庭の家庭菜園に真っ赤なトマト、とうもろこ
し等が残されていました。
2日くらいしていってみたら、家財も菜園の野菜も全部無くなってい
たのを、はっきり覚えています。

 私もそのすぐ後に貨物列車に乗りましたが。


Re: 北満孫呉の夏:家庭菜園 ローラ - 2005/08/26(Fri) 22:40 No.3398   HomePage

TADAさん、
またまた素晴らしい父上の写真作品ありがとうございます。
栗カボチャの立派なこと! 豊かな大地だったのですね。

北海道の(まさかり)カボチャもほくほくしていて美味しかったですけど、同じ味だったのかなあ?
でも、引き揚げ後毎日毎日カボチャばかり食べていたので、戦後生まれの弟は黄色い顔になってました。(≧m≦)ぷっ

ノーラさん、ノロさん、ケンさん、
悲しかったにせよ、美味しかったにせよ、食べ物にまつわる記憶は強烈だったようですね。

あなたのやぎさん、
新旧の比較写真展面白いアイデアですよ。
写真をたくさん写してきましょう。


引き揚船 投稿者:ケン 投稿日:2005/08/23(Tue) 00:30 No.3372  
 ノロさんが氷川丸に乗ったときいて、悔しくてなりません。
一流中の一流の客船ですね。特等のスイートルームに入られましたか。もっとも戦時中は客船も「応召」し病院船になっていたのでしょう。よくぞ生き残ってくれたものです。
 私は大連から貨物船に乗りました。船倉内に更に2層か3層板張りの仮デツキを造り、ここで毛布にくるまっていました。上下の通行はこれまた木の梯子です。トイレは暴露の上甲板にあるのですが、この梯子をハッチまで昇るのが気持ち悪かった。揺れてますから余計。
 でも、トイレは見事で清潔そのものでした。
船の長手方向に細長い小屋があり、2条の板が長く通してある。板のしたは水(当然海水でしょうね)が勢いよく流れている。落ちたものはすぐ流れていくのです。前後に仕切りがなかったように思う。
 船のあちこちをみるのが面白かったです、波を切り分けていく船首、プロペラはみえないがもこもこと盛り上がる白波。
炊飯室の大きなスチームで炊く鍋を見たときはびつくりしました。後年船造り屋になったのも引き揚げ船の船内調査が誘因かもしれません。


Re: 引き揚船 ノーラ - 2005/08/23(Tue) 09:39 No.3373   HomePage

ノロさん、ケンさん

私も21年10月17日に葫蘆島から「病院船・高砂丸」で佐世保に帰って来ました。
コレラのおかげで、沖合に2週間足止めでしたから、葫蘆島出帆は10月の初めだったと思います。


Re: 引き揚船 ノロ - 2005/08/23(Tue) 13:59 No.3375  

ケンさん、こんにちは。
>特等のスイートルームに入られましたか。

とんでもありません。我々健康人は船倉の蚕棚、甲板の流し放しのトイレなど、すべてケンさんがお書きになった通りです。
ケンさんの乗られた貨物船というのはいわゆる「リバティ型」ですか?

ノーラさん、こんにちは。
高砂丸も病院船だったのですね。博多沖ならまだしも、殺風景なコロ島沖で2週間はさぞつらかったでしょう。どなたがご病気だったのですか? 日本に帰り着かれましたか?

あと私の経験ですが、コロ島の埠頭に無蓋貨車で入って行ったとき、貨車で私が最初に氷川丸の船尾の日の丸を発見して、日の丸だ!と叫んだのですが、大人たちはすぐには信じません。いまから思うとバカのようですが、敗戦国だから日の丸も許可されていない、という頭があるのですね。で、本当だとわかると今度はいっせいに歓声と涙でした。

日の丸についてのもう一つの思い出は、長春でソ連軍が撤退式をやったときのことです。私達小学生も狩り出されてどこかの公園の式場に行きました。戦後始めての日の丸は、ソ連や中国の旗といっしょにその公園に揚がったのです。ところが揚がるや否や数人の中国人が旗を引き下ろして、踏みつけて、燃やしてしまいました。私達はそれを無感動に眺めていました。そんな経験があったから、氷川丸の日の丸に、なおのこと感激したのです。


Re: 引き揚船 ケン - 2005/08/23(Tue) 21:52 No.3376  

ノーラさん
高砂丸でしたか。素晴らしい船員さんが居られたとか、どこかで読みました。
「思い出の船ぶね」−海のバイロット達の回想−成山堂書店に航海士時代引き揚げ船に乗り組み、女学生と親しく話しあった
ことを書いています。ひょつとして、その女学生はノーラさんではなかったかと思ったりしました。

ノロさん
>ケンさんの乗られた貨物船というのはいわゆる「リバティ型」ですか?

「リバティ型」と正式にいえばアメリカの戦時標輸送船になりますが、日本での戦時標準船をも含めてリバティというのでしょうか。乗船日がわかると船名を特定できるのですが、博多上陸3月12日から逆算して、次の船が該当します。大瑞、弥彦、恵山、栄豊(「丸」 省略)

因みに、大連からの公式引揚者は203765名、昭和21年12月3日から22年3月30日まで76便です。船は27隻。大きさは大別すると三千人、千五百人、千人以下の3クラス。
永徳、信濃は5回、高砂などは4回航海しています。


Re: 引き揚船 ノロ - 2005/08/23(Tue) 22:49 No.3377  

ケンさん
>「リバティ型」と正式にいえばアメリカの戦時標輸送船になりますが、日本での戦時標準船をも含めてリバティというのでしょうか。

いえ、アメリカの戦時標準船の意味です。それが多かったと聞いたもので。
そう言えば日本の戦時標準船も引き揚げで働いていたのですね。なにかで読んだのを思い出しました。

> 乗船日がわかると船名を特定できるのですが

逆に船名から出航日を特定できるのでしょうか?
引き揚げ船の就航についてずいぶん具体的な資料をお持ちのようですが、それはどんな資料でしょうか。よろしければ教えて下さい。


Re: 引き揚船 TADA - 2005/08/23(Tue) 22:50 No.3378  

ケンさん はじめまして
>乗船日がわかると船名を特定できるのですが・・・

私は米軍貸与の「リバティ型」引揚船で昭和21年9月23日博多港入港(コロ島での乗船日は不明)、検疫後26日上陸です。やはり船倉に何段かの蚕棚を作りすし詰め状態でした。船底から上を見上げると薄暗い中で、随分天井が高かったの覚えています。

以前から船名を特定しようと思い、いろいろ検索しているのですがわかりません。良い方法はありますか?


Re: 引き揚船 ノーラ - 2005/08/24(Wed) 09:24 No.3379   HomePage

ノロさん、ケンさん

2週間の足止めは、佐世保沖です。私も船底の大広間でした。

>「思い出の船ぶね」−海のバイロット達の回想−成山堂書店に航海士時代引き揚げ船に乗り組み、女学生と親しく話しあった
ことを書いています。

これ、買わねば(^o^)
でも、あのころの私は汚い〈中央軍の若い兵士からもらった軍服〉を着た、およそ女学生とは見えない少女だったのです。
私の片思い(^-^)です。


Re: 引き揚船 ケン - 2005/08/24(Wed) 10:02 No.3380  

ノロさん TADAさん
下記図書の巻末にある「引揚船舶出港地区別乗船一覧表」をみました。町図書館で借りたものです。この表だけおくりましょうか。コピーがあります。
「大連」・空白の六百日(改訂新版) 富永孝子著 新評論 出版 1999.8.15発行の図書

ノーラさん
>私は汚い〈中央軍の若い兵士からもらった軍服〉を着た、およそ女学生とは見えない少女だったのです。
 ♪襤褸はまとえど、こころは錦・・・
 です。

引揚船での 大人たちのくつろいでいく表情をみて、自分もうれしくなりました。まだ ガキの頃でした。


Re: 引き揚船 ケン - 2005/08/24(Wed) 10:19 No.3381  

no.3380の補足です。「引揚船舶出港地区別乗船一覧表」は大連出港のもののみです。出典が明らかでないのです。・・出港地区別・・とあるからには、コロ島ほか出港のもあるはずですね、どこに聞けばばよいのか、引揚援護局はもうありませんし。


Re: 引き揚船 TADA - 2005/08/24(Wed) 11:00 No.3382  

>「引揚船舶出港地区別乗船一覧表」は大連出港のもののみです。

それは残念、諦めずに引き続き調べてみます。有難うございました。


Re: 引き揚船 ノロ - 2005/08/24(Wed) 11:30 No.3383  

ノーラさん
>2週間の足止めは、佐世保沖です。

どうもすみません。読み間違えました。

ケンさん
書名を教えていただいて有り難うございます。さっそくネットで発注しました。
大連港だけなのは残念ですが、大連のことを「アカシヤの大連」程度しか知らないので、内容にも興味があります。

TADAさん
本が来てから私も調べて見ますが、九段の昭和館(この名前はあやふやです。九段の坂下にある資料館です)はもう調べられましたか?


Re: 引き揚船 ローラ - 2005/08/24(Wed) 11:34 No.3384   HomePage

>「大連」・空白の六百日(改訂新版) 富永孝子著 新評論 出版 1999.8.15発行の図書

この本はプッチャーさんに紹介されて初めて読みましたが、戦後の大連で何が起こったかが実に良く分かる素晴らしい本でしたね。

皆さん、鮮明な引き揚げ船の記憶があって羨ましい。


Re: 九段の昭和館 TADA - 2005/08/25(Thu) 20:37 No.3385  

昭和館のHPを覗いてきました。 貴重な資料が眠っている予感がしましたので、近くに行った折り寄ってみたいと思います。


引き揚船の食事 ノロ - 2005/08/26(Fri) 10:44 No.3390  

ノーラさんのHPを読んで、病院船の高砂丸での食事が海藻のスープと蟻入りの乾パンだったということに驚きました。

私の乗った氷川丸では基本的に米のご飯になにかおかずがついていました。3日に一回くらい出たのがアメリカ製(?)コンビーフの炊き込みごはんでした。入っている虫も蟻より栄養価の高いコクゾウムシの子でした。代わりばえしない献立で飽きることはあっても食事の量が足りないと思ったことはありませんでした。

同じ時期、同じ病院船で、この差はなんなのでしょうか。食事が良かったほうから言うのは気がひけますが、こんな差別があったことも語り継ぐべき事実ですね。


Re: 引き揚船 ケン - 2005/08/26(Fri) 18:07 No.3395  

朧気な記憶ですが、大連の引き揚げ収容所と引き揚げ船での食事はいつも、お米のご飯だったと思う。
収容所では「さば缶」入りのお米のご飯でした。これだけははっきり覚えています。舌が記憶している。
 同じ大連でも、乾パンをかじっていたという人もいます。ノロさん同様、何故そんな違いがあるのか疑問です。


Re: 引き揚船 ノーラ - 2005/08/26(Fri) 18:19 No.3396   HomePage

 あの乾パンの中の黄色い蟻は、はっきり覚えています。
 お米のご飯は食べた記憶がありません。

 だから、隣の囲いの中にいた、元重工業の重役が、素麺を茹でて
食べていたのが羨ましくて、上陸して落ち着いたらお腹一杯素麺を
食べようと思っていました(^o^)

 憧れていた船員さんから、コンビーフの缶詰をもらったとき、ぐっと
恋心が・・・・。


♪満州談話室のお陰です 投稿者:ケン 投稿日:2005/08/25(Thu) 22:49 No.3386  
ローラさん みなさん 
 今年のお盆の前後には、戦争に絡むいろいろな情報に出会いました。
 高校同期の談話室で「私の戦争体験談」を語ろう!と呼びかけがあり20数名がレスしました。戦争体験を語れる最後の世代ではないかと提案者の言。全くそうだと実感しました。みな終戦時は小学1年でした。空襲、機銃掃射、防空壕、学童疎開、満州から引き揚げ等々テーマにしていました。。当時に帰って、そのときの感覚で綴っている。迫真力があります。
 ある友は、奥さんが2才の時、東安から、母の手に引っ張られて、姉3才と引き揚げてきた。彼女はこの戦争体験談を読み強く感動されたと伝えてきた。奥さんは引き揚げ当時の記憶などなく、教えてもらえる母上はすでに亡くなられ、東安とはどこかと尋ねてきました。
 私は「祐子のホームページ」と「満州談話室」を紹介しました。折り返し、ひまわりの歌ほかいろいろよんで感動、満州が
身近に感じられて来た、東安のことも随分知ったと伝えてきました。
 「ひまわりの歌」に書かれていることは、本来ローラさんの記憶ではないと思うのですが、ご両親、兄上様の「語り」を聞いているうちに、当時のことがインプットされて出来たのだと思います。語り継ぐことと、それを受けてまとめることの大事さを、あらためて知った次第です。
 関東在住の皆様、台風11号が迫っています。被害のないことを願っています。


Re: ♪満州談話室のお陰です ローラ - 2005/08/25(Thu) 23:29 No.3387   HomePage

ケンさん、
佑子のホームページの紹介ありがとうございます。

>「ひまわりの歌」に書かれていることは、本来ローラさんの記憶ではないと思うのですが、ご両親、兄上様の「語り」を聞いているうちに、当時のことがインプットされて出来たのだと思います。

まさに図星ですよ。だから私の想像が現実とどれくらい違っているか、いつも不安です。
家族の語りだけでは間違いもあるでしょうから、出来るだけ客観的に文献などで調べてもおります。
それでも、間違いを色々指摘されており、いつか修正もするつもりです。

東安に関しては小島さんのサイトの方がより詳しいですから、そちらもご紹介くださいね。
       ↓
http://kojima.boy.jp/

(お借りした虎林線の画像で密山が昔の東安に当たります。)



追伸 ローラ - 2005/08/26(Fri) 10:06 No.3388   HomePage

台風11号、ここらは殆ど被害もなく通り過ぎようとしています。

ところで、その「私の戦争体験談」を語ろう!ではケンさんは何を語られましたか?


Re: ♪満州談話室のお陰です ケン - 2005/08/26(Fri) 17:52 No.3394  

>東安に関しては小島さんのサイトの方がより詳しいですから、そちらもご紹介くださいね。
  申し添えるべきでした。同期談話室の管理人の探知力は抜群で小島さんのサイトを見つけ、即刻教えていました。「西安」は知っていたが「東安」もあるのかとの質問者は喜んでいました。彼の奥様(東安から引き揚げ)はそれ以上だったでしう。
 戦争中にそのむごさを知らず、敗戦後に環境一変した、とはいえ、親の庇護のもと何の苦労もしていないで過ごした。恥ずかしい限りです・・私の戦争体験談

       


テレビ見ましたよ。 投稿者:チコ 投稿日:2005/08/18(Thu) 22:20 No.3353   HomePage
ローラさん、昨日はテレビのお知らせをありがとうございました。
今夜は、7時(番組は7時半)からテレビの前に座っていてしっかり見ました。
当時国内も終戦の混乱下だったでしょうに各分野の方々が、100万人
?もの引き揚げ者の受け入れに尽くして下さっていたということに感銘を受けました。

幼子を持つ母親もですが、若い女性が受けた心身共の深い傷を思うと
いたたまれない気がします。

私達親子4人がよくも生きて帰って来れたものだと、改めて思いました。


Re: テレビ見ましたよ。 ローラ - 2005/08/18(Thu) 23:22 No.3354   HomePage

チコさん、
NHK福岡制作の九州・沖縄スペシャル「引き揚げはこうして行われた」ー博多港と戦争ー をご覧になれたのね。
良かったです。

残念ながらこちらでは見られませんでしたが、気をつけていたら再放送があるかもしれませんね。
チコさんが代表して見てくださって感想まで書いてくださり、とっても嬉しいです。

>当時国内も終戦の混乱下だったでしょうに各分野の方々が、100万人?もの引き揚げ者の受け入れに尽くして下さっていたということに感銘を受けました。

ともすれば忘れがちな視点でしたね。


Re: テレビ見ましたよ。 TADA - 2005/08/19(Fri) 10:05 No.3355  

チコさん はじめまして

私は昭和21年9月コロ島より米軍貸与のリバティー船で博多港へ引き揚げてきましたので、是非見たかったのですが関東地方では見られず残念でした。
NHK福岡に問い合わせたところ、全国放送は検討中とのことなので実現することを期待しています。


Re: テレビ見ましたよ。 チコ - 2005/08/19(Fri) 19:48 No.3357   HomePage

TADAさん、はじめまして。ローラさんには掲示板を設置した時から
お世話になっている者です。ローラさんと同じころ(私の方が一ヶ月先輩(^-^))満州で生まれたらしいですが、
私には、兄弟姉妹もありませんし、親からはあまり話も聞かないままに過ごしてきましたので、何も覚えていませんで、ここ「満州談話室」は覗き見させていただくばかりです。

引き揚げの時に居た町の名前とか、乗船した日にちとか、船の名前とか、着いた港とか、そんなことをきちんと聞いておけばよかったなあ。と今となっては後悔ばかりです。

18日のテレビ番組は感動的といううかショックでしたよ。
全国放送になるといいですね。


Re: テレビ見ましたよ。 あなたのやぎさん - 2005/08/19(Fri) 20:43 No.3359  

私は、仙崎港でした。
当時の引揚げ船の着いた港についての情報はここにありました。
http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/hikiage.htm
私もそのテレビ番組は是非みたいと思っています。


Re: テレビ見ましたよ。 オーエヌ - 2005/08/19(Fri) 21:25 No.3361  

チコさん はじめまして

私もそのテレビ番組はぜひ見たいですね。全国放送になることを期待しています。

私は昭和21年10月14日夕刻、コロ島で引揚げ船(特殊輸送艦に転用された旧日本海軍の駆逐艦「夏月」)に乗船、15日に出帆し16日に博多港外着、20日に博多に上陸しました。岸壁から松原の宿泊所までかなり歩いたような気がします。そこで一泊し、汽車で父の郷里に向かいました。途中、広島の焼け野原が記憶にあります。 


Re: テレビ見ましたよ。 ローラ - 2005/08/19(Fri) 21:46 No.3362   HomePage

チコさんのご両親にとっての「満洲」は思い出したくもない所だったかもしれませんね。
当初、私は父に「満洲時代のことを書き残して!」と頼みました。
すると父は即座に首を振り、「書きたくないし、思い出したくもない。」と言ったのです。
私の知らない何かがそこにはあるような気がしました。

あなたのやぎさん、
「抑留者引揚」のサイトの紹介ありがとうございました。
早速「お気に入り」に入れましたよ。

オーエヌさんは詳しくご存じですね。小学生だったのかな?


Re: テレビ見ましたよ。 ノロ - 2005/08/20(Sat) 21:56 No.3365  

オーエヌさん、はじめまして。
>私は昭和21年10月14日夕刻、コロ島で引揚げ船(特殊輸送艦に転用された旧日本海軍の駆逐艦「夏月」)に乗船、

私は正確な日付は忘れましたが同じころ、コロ島から病院船の「氷川丸」で引き揚げました。埠頭から停泊している駆逐艦の姿が見えました。

船に乗る前のいわゆる「集中営」は錦西集中営でした。錦西の手前にあり、野原のなかに鉄条網で囲った、木造三角兵舎の集中営でした。いろいろなサイトでこの集中営に泊まられた方を探しましたが、まだお目にかかったことがありません。


Re: テレビ見ましたよ。 オーエヌ - 2005/08/21(Sun) 11:44 No.3366  

ローラさん
当時私は小学4年でした。記憶もだんだんかすんできています。

ノロさん、はじめまして
コロ島から博多への途中、右手に病院船を追い抜きました。もしかしてこの船に ‥‥‥?。
夕方だったでしょうか、汽笛を交換しながら、みるみる遠ざかっていったように思います。さすがに旧駆逐艦だなあと、皆で話していました。病院船は前日出港したということでした。

私たちは、錦県に16日間足止めされたのち、錦西に10月13日に着き1泊、14日にコロ島に移動し乗船しました。


Re: テレビ見ましたよ。 ノロ - 2005/08/21(Sun) 13:56 No.3367  

オーエヌさん、こんにちは。
小学校6年生だった私よりよく覚えておられますね。大したものです。

>コロ島から博多への途中、右手に病院船を追い抜きました。もしかしてこの船に?

たぶんそうだと思います。あなたのやぎさんご紹介のページを見ても病院船は氷川丸しかなかったようだし、一航海ごとに検疫で1週間ぐらい停泊するのですからそうひんぱんに往復したわけでもないので、だいたい時期が合えば間違いないと思います。不思議なご縁ですね。

>私たちは、錦県に16日間足止めされたのち、錦西に10月13日に着き1泊、

錦西に泊まられた方にはじめてお会いしました。
私はどういうわけか集中営の前後だけ記憶が薄いので、場所を探すのにも苦労しています。恐れ入りますが若干質問させてください。
鉄道から錦西集中営まではどのくらい歩きましたか?
汽車が錦西集中営を出てから、すぐに鉄橋を渡りましたか?


氷川丸 ローラ - 2005/08/22(Mon) 15:02 No.3368   HomePage

ノロさん一家の引き揚げは随分遅かったのですね。
あの横浜港に係留されている氷川丸が博多へ向かう病院船だったのですね。
どなたかご病気だったのでしょうか。

我が家はもっと早い時期ですが、旧駆逐艦「大和」での引き揚げだったと当時6年生だった兄から聞いてます。

(昨年下見オフの折の氷川丸)



Re: テレビ見ましたよ。 ノロ - 2005/08/22(Mon) 17:40 No.3369  

ローラさん、こんにちは。
私の記憶違いがありました。母が記録を残してくれていて、それによると博多に上陸したのが10月12日とあります。ですから検疫の停泊期間と航海を引くと、私の乗った氷川丸は10月始めにコロ島を出ていたことになります。

ですからオーエヌさんが乗った駆逐艦が追い越したのはもう一つ後の航海の氷川丸だったのでしょう。あるいは10月12日にとんぼ帰りしても微妙に間に合わないので、別の病院船の可能性もあります。
オーエヌさん、どうもすみませんでした。

>ノロさん一家の引き揚げは随分遅かったのですね。

というわけで、実際はもうすこし早かったのですが、それにしても皆さんより遅かったのは、母の記録によれば二つあった病人逓団のうち後のほうに入ったからだそうです。病人は結核の持病があった父ですが、錦西集中営で亡くなりました。
それで錦西にこだわって、3回行って集中営の場所を探しました。2回目のときに偶然に大体の場所がわかりましたが、そのときのことはまた改めて書こうと思います。



錦西集中営 ローラ - 2005/08/22(Mon) 18:05 No.3370   HomePage

( ¨)¨)¨)¨)¨)¨)¨) エー!!
ノロさんの父上は乗船を目の前にして亡くなられましたか。
ご家族共々さぞかし無念なことだったでしょうとお察しいたします。

木造三角兵舎の集中営にこだわる気持ちようやく理解できました。
是非語り伝えてくださいませ。
その折には新規投稿からお願いいたします。


Re・錦西集中営 あなたのやぎさん - 2005/08/22(Mon) 20:32 No.3371  

私はノロさんの錦西集中営の言葉にこだわっています。コロ島から引揚げてくるときに錦州で船待ちのため何日か待った話はここのサイトでも何人かの方が書いています。
私も錦州に約10日位いました。
その時は、引揚者の中から伝染病患者が出たということで強制隔離されたのです。ずーっとそう思っていました。
ここ数年満州からの引揚者の手記を読む機会も多くなり、錦州には意外と多くの方が途中下車をしていることが分かりました。一度錦州の宿泊地について情報交換をしたいと思っていました。錦西も多分錦州に縁があるところでないかと思います。
いずれ新しいスレッドにして私のいた錦州について書きたいと思っています。


Re:錦西集中営 ノロ - 2005/08/23(Tue) 13:26 No.3374  

ローラさん、お言葉ありがとうございます。

父は生前「満洲の土になる」と言っていたそうですから、本望を遂げたとも言えます。母も遺志を尊重して、火葬した骨は大部分土に埋めて、すこしだけ持って帰ったのです。


長春とハルビン 投稿者:バガボン 投稿日:2005/08/19(Fri) 22:26 No.3363  
No.3081で紹介しました週刊中国悠遊紀行「大連と瀋陽」の姉妹編「長春とハルビン」が発売になったと本屋から連絡があり買ってきました。

長春。旧軍事部南側の朝陽公園にテレビ塔でもあるのでしょうか、高い所から北東側を撮った鳥瞰写真。これが素晴らしくて、文化広場の向こうに拡がる長春中心部。すぐ手前に旧軍事部の屋根が裏から見え、その向うに文化広場を挟んで左に地質宮、右端は人民広場(旧大同広場)あたり。人民広場から左に伸びるはずの旧興安大路あたりの、多分、住宅街。さらにそれらを越して向こうには高層ビル街!!

別のページには、同じ所から撮ったと思われる旧国務院の鳥瞰写真。

民俗学者宮本常一は、お父上から「初めての場所へ行ったら、まず高い所を探し登って俯瞰せよ」と習ったそうです。今回のこれら俯瞰写真も、つぎつぎといろんなものが見えてきて興味尽きません。

ハルビン編にも、松花江の鳥瞰写真がありますが、こちらはいまいち。

その他、綺麗な写真が多いですが、文章はありきたりの記事が多いように拝見。目が違えば、また違ったモノが見えましょうが・・・。

未見の方にご参考まで


Re: 長春とハルビン ローラ - 2005/08/20(Sat) 09:17 No.3364   HomePage

バガボンさんも満洲病のようですね。(^○^)

「長春とハルピン」の紹介ありがとうございます。
長春の鳥瞰写真是非眺めてみたいです。
それにしても、次々と発売されて有難いことです。


高野悦子さんのこと 投稿者:ひでき 投稿日:2005/08/19(Fri) 19:57 No.3358   HomePage
帰省して,岩波ホール総支配人の高野悦子さんのビデオを見ました。お母様が,我が郷里出身でお父様が満州東北部で満鉄技師をやってらしたそうです。それで,何年か前に我が郷里にいらしたこともあり,何となく親近感を持っていました。私の母親とも同年であることもありますが。ところで,このビデオは「川の流れに―満鉄:父たちの青春」という題ですが,松花江で不凍の線路を敷くというのでお父様が苦労されたことや満鉄が幾多の中国の方々のかけがえの無い力によって構築されたということが出ていました。ビデオの中には,この地出身の加藤登紀子さんのコメントや大連出身の山田洋次さんのコメントも入ってました。それでも皆さんが口をそろえておっしゃるのは,中国人に対する感謝の気持ちのようです。満鉄満鉄というが,幾多の協力があって出来たということです。


Re: 高野悦子さんのこと ローラ - 2005/08/19(Fri) 21:13 No.3360   HomePage

ひできさん、お久しぶり。
高野悦子さんの父上も満鉄技師でしたか!

>皆さんが口をそろえておっしゃるのは,中国人に対する感謝の気持ちのようです。

それを聞いてほのぼの暖かい気持ちになりました。(*^_^*)



地震! 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/08/17(Wed) 05:58 No.3344  
昨日の地震、私は丁度外を歩いていた時だったので気がつきませんでした。家に帰ってニュースで知りました。ずいぶん大きな地震だったことを知りそこで初めておどろきました。
わたしのところより資源地にかなり近いローラさん。地震後も書き込みがあったのでたいしたことはなかったようですね。
全国に散在している満州談話室の皆さん。怖い目に遭われた方はおられませんでしたか。お見舞い申し上げます。

そういえば、満州では地震に遭った記憶がありません。火山やプレートなどがない地域なんでしょうか。


Re: 地震! ローラ - 2005/08/17(Wed) 07:32 No.3346   HomePage

地震慣れしてるローラですが、昨日のは大きく気持ち悪く、おまけに長くて怖かったですよ。
東京だったら大変だと思い、すぐにテレビをつけました。

MIEさんの実家が仙台ですね。


地震予知 ケン - 2005/08/17(Wed) 09:56 No.3347  

昨日の地震:家屋倒壊などもあり、負傷者も多数、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。公的機関、解くに交通機関での人災がなかったのは幸いです。
 地震後、この地震の予知はどうだったのか、*で確認しました。ほぼ正確に予知しています。
8月14日の予測として、「8月15±2日に東北太平洋岸・福島県沖にM6.0±0.5の地震が発生する」と。
また、
「8月18±2日に茨城・千葉・埼玉・東京県境付近に M5.5±0.5発生の予測もされています。首都圏は、また揺れると考えられます」
とあります。発生しないことを願ってはおりますが。

*は国際地震予知研究会の下記サイトですhttp://www.interq.or.jp/japan/jishinlb/
地震前に発生する電磁波ノイズを探知して予測する方法です。短期の予測情報が得られるということではありがたいことです。申しこめばお試し会員になれ、無料で半月ほど利用できます。





Re: 地震! バガボン - 2005/08/17(Wed) 23:08 No.3348  

地震では、前揺れが長かったので遠いなと思ったら、仙台沖でした。仙台方面に行っていたら今日も帰るのに苦労したと思います。中国の大地震といえば近年では唐山くらいでしょうか?満洲は、ユーラシアプレートのかなり内陸に入りますし、火山も北安郊外の五大連池の火山群のみです(と思います)から、プレートの縁辺にあって火山が多い日本とは大違いですね。

また、それぞれの「60年前の終戦の日」をお聞かせいただきありがとうございました。旅から戻って、興味深く読ませていただきました。穏やかな談話室に戻りましたね。

でもしばらくして、その穏やかさにヒヤーッとしたものを感じたのです。と申しますのは:

戦前は、考えたことも、書いたり口にすると、その内容によっては回りからいろんな圧力があったものです。それらは昂進してとうとうあの戦争にまで行ってしまいました。そして、それを支えていた要因に、生活の安穏を守りたいという庶民にとって当り前の気持ちがあったのです。

と、こんなわけでした。

言いたいことが自由に言える世の中は戦争をふせぐためには最大級に大切です。

ただし、常連の皆さまには釈迦に説法ですが、ものを言い合う時には、だらだらした議論、分かり難い議論がしばしば稔りある議論を妨げます。これらは、相手を尊重する気持ちがあれば避けられるし、それがなければ上記圧力の一種ともなります。相手を思んばかりつつ具体的、明快に、と努めたいものです。

ひどい議論には、私も口を挟んで、この談話室が、私の勉強室であり続け、本来の素敵な雰囲気と健康な議論を維持できるよう努めたいと勝手に思っております。そうでなくとも、旅の合間に、時々おじゃましますがよろしくお願いします。


言論の自由と迷惑行為 あなたのやぎさん - 2005/08/18(Thu) 11:12 No.3349  

ケンさん、バガボンさん。
地震に関する情報ありがとうございました。特に中国の地震情報については殆ど知りませんでした。唐山については思い出しました。検索したらこんなサイトもありました。
http://www.ny.airnet.ne.jp/bible/bousai/touzan.htm
改めて被害の大きかったことを知りました。

それから掲示板に書き込みに対するバガボンさんのお考えに賛同します。
私どもがこうしてネットでも自由にものが言えることは大事なことですね。
国家権力によって言論の封殺が行われた時代はとても恐ろしい時代だと思います。しかし、今は自由にものが言える時代です。そういう場もたくさんあります。これはとても大事なことです。
掲示板は個人の管理するものです。そこに書き込むには管理する個人へのエチケットがありますよね。私もホームページを持っていますのでよく分かるのですが、管理者が不愉快と思うことを無神経に書き込みをされる方に悩まされることもあります。私はそういう書き込みは一方的に削除します。
特に最近、感情的になり、嫌がらせとも思える不愉快な書き込みがあり、管理人ばかりでなく、この「満州談話室」の愛好者まで不愉快にさせています。言論の自由に対する圧力とも思われる行為にははっきり抗議することもとても大切なことだと思っています。
個人の家庭にまで入って声高に怒鳴り散らしていくような行為は言論の自由とは全く無関係ですよね。
こちらの「満州談話室」の雰囲気をつかんでいただき、ご参加いただきたいと私は思っています。


Re: 地震! MIE - 2005/08/18(Thu) 13:19 No.3350  

ローラさん、
仙台の実家や友達等は、物が落ちた程度で被害はありませんでした。

でも、電話は、全然通じなくなりますね。
こんな時、やはり公の情報が役にたちます。

被害の程度など、おおよそ検討つきますから。

満州では、地震ありませんでしたでしょう。
こちらに帰って、始めての地震で、家が揺れ怖かった記憶は、はっきりおぼえてます。


Re: 地震! ローラ - 2005/08/18(Thu) 17:26 No.3351   HomePage

皆さん、暖かい書き込みに感謝です。
人間がつまらない事でいがみ合ったり、殺し合ったりするのを戒めるかのように自然災害がおきますね。

私たちは思想信条の違いを乗り越えて「満洲」について語り合っている仲間です。
違うからこそ話し合いが興味深いこともあります。
意見が沸騰するとマンネリズムを追い払うこともあります。
「満洲国」時代の光と影の両方の部分について、これからももっともっと自由に話し合っていきたいですね。
すべて歴史の真実だと思うからです。
あくまでも、品性と友好の姿勢を保ってヨロシク御願いいたします。
頼りない管理人で申し訳ありませんが、これでも一生懸命考えて頑張っております。


Re: 地震! ローラ - 2005/08/18(Thu) 20:19 No.3352   HomePage

MIEさん、ご実家の方大きな被害はなかったようで良かったです。

中国東北地方への旅、いよいよ準備の為の詳しいガイドが届いたと思います。
お忙しいMIEさんだから、やはり今の内から少しずつ準備されていった方が良いと思いますよ。
有意義な旅にしましょうね。(^_-)-☆


李香蘭(山口淑子)主演「萬世流芳」 投稿者:潟元 投稿日:2005/08/14(Sun) 01:46 No.3318  
たびたびすみません。
明日李香蘭主演の幻の作品が上映されます。
この作品でスタッフやキャストは阿片戦争の英国を敵視している
ふりをしながら、実は打倒日本を描くために奮起したそうです。
国策的な「満洲映画協会」史の中にあって、異色的な貴重な作品。

8月14日(日)16:00〜 (151分)
 東京国立近代美術館フィルムセンター
 「発掘された映画たち2005」
 定員:310名(各回入替制)
 発券:2階受付
 料金:一般500円、高校・大学生・シニア300円、小・中学生100円

二回目の上映で、今回が最期です。
明日は午後4時に集合!


Re: 李香蘭(山口淑子)主演「萬世流芳」 ローラ - 2005/08/17(Wed) 07:24 No.3345   HomePage

お盆なので異色的な作品、見に行けませんでした。
ご覧になった方は感想をどうぞ。


60年前の終戦の日 投稿者:ローラ 投稿日:2005/08/15(Mon) 07:48 No.3322   HomePage
皆さんはこの日、広い満洲の地のどこにいらっしゃいましたか?

ローラ一家の母と子は牡丹江から避難してきて、この日は新京駅近くの敷島区役所の二階広間で休んでました。
終戦の報の直後に城内で満軍の暴動が起こり、区役所はもはや危険と判断されたのでしょう。
大きな荷物は倉庫に預け、手荷物だけ持って敷島高女の校舎まで走って逃げました。
当時、満3歳だった私は母の背に負ぶわれて、勿論何も覚えてはおりませんが…。


Re: 60年前の終戦の日 北のコーリャン - 2005/08/15(Mon) 10:06 No.3323  

元来筆不精な私、中国の朋友に手紙を書かねばと思い、もうひと月が過ぎた、今日こそ書こう。

 この日、どこで何をしていたか?
わたしは、本渓湖の南、小さな田舎町「南芬」で昼前頃、避難列車の人たちに、ヤカンに水を入れては配っていました、ヤカンの口が歯形で凹んでいるのを直しては 何度も何度も往復して配ったが、水を求める多数の手を振りほどくように無蓋列車は南を目指して出て行った、その後、重大放送があるから直ちに帰宅しろ、と大人が呼びに来た・・・。  


Re: 60年前の終戦の日 RAORON - 2005/08/15(Mon) 11:58 No.3324  

1987年7月25日発行の昌文社刊「8月15日の子どもたち」の225ページに、当室関連のノーラさんの文章と共に短文ですが満州・吉林2および3として記述しております。

私は既に流浪の旅の中にあり、烏合の集団であったため、正式な終戦の伝達等は無く、なんとなく風の便りで感じ、後で気が付いたのですが、集団護衛のために渡されていた三八式歩兵銃を返納させられていました。これが唯一の実感---
ノーラさんは九台、私はこう「虫偏に交と書く」河の街に居ました。


Re: 60年前の終戦の日 あなたのやぎさん - 2005/08/15(Mon) 12:20 No.3325  

当時小学校の2年生でした。
ソ連侵攻で
新京から無蓋の貨物列車に乗って南へ逃げていく途中でした。
奉天の南のソカトンで列車は止まって何日もそこにいました。
雨は降らなくてよかったのですが、日差しをさえぎるものはなくとても暑い日だったと覚えています。線路の脇の広場に集まってラジオをききましたが、子供の私にはそれが玉音放送だとは知りませんでした。
ソカトンから新京にもどることが運命の分かれ道だったとは後で分かったことです。


Re: 60年前の終戦の日 小島よしゆき - 2005/08/15(Mon) 13:23 No.3326   HomePage

やっと出番がまいりました。

この日の早朝に新京に着きました。駅前の郵政局で密山からの団体は死んだように眠っていました。13日の深夜に通過した低気圧による豪雨で無害車でずぶぬれ状態でした。
ずぶぬれの衣服が重なりあうために、自分のシャツの色が隣の人の染料で幾つかの色に染まったのを記憶しています。
室町小学校、大房身、国務院裏と一年間の避難民生活がここから始まりました。


Re: 60年前の終戦の日 たなやん - 2005/08/15(Mon) 13:38 No.3327  

私も国民学校2年生。その何日か前に新京駅から、「荷物は後から送るから」とせかされて着の身着のまま、無害車に乗せられました。7月の終わりごろには、いずれ取りに来られたらと、座敷の畳を上げて大きな穴を掘り、家財道具を埋めているのを見ました。

煙の煤で真っ黒になりながら、途中でしょっちゅう止まりながら、12日か13日には今の北朝鮮、平壌のこじんまりとした日本家屋にいました。15日正午、とにかくラジオの前に座れと言われ、当時は何事か分からず放送を聴きました。

内容は分かりません。大人は涙していました。その説明では「日本は負けた。今まで満人にやってきたことを、これからは反対にやられる」という趣旨でした。

あそこには日本の城があったのでしょうか。焼き討ちされたという情報が伝わって来ました。ほんとに暑い日でした。


Re: 60年前の終戦の日 ローラ - 2005/08/15(Mon) 15:33 No.3330   HomePage

北のコーリャンさん、
長い引き揚げ物語の序曲は、ヤカンに水を入れて差し上げることから始まったのですね。

RAORONさん、
三八式歩兵銃で人を殺さなくて良かった。

あなたのやぎさん、
体調はいかがですか?
9月9日重陽の節句の日が旅立ちですよ。

小島さん、
>自分のシャツの色が隣の人の染料で幾つかの色に染まった
豪雨の凄まじさを感じました。

ナント、たなやんさんは平壌まで南下されてましたか!(@_@)
>「日本は負けた。今まで満人にやってきたことを、これからは反対にやられる」という趣旨でした。
この言葉は興味深いですね。


Re: 60年前の終戦の日 オーエヌ - 2005/08/15(Mon) 17:52 No.3332  

はじめまして?

私たちは営口に疎開していました。

私たちは奉天市の蘇家屯(ソカトン)に住んでいましたが、8月12日の夕方、急遽、家族は疎開との命令が出されました。
荷物をまとめ準備をしましたが、列車の手配ができないということで、翌13日の朝に出発することになりました。
父を残し、身重の母と、小3、小1、4才、1才の子供4人、行く先もわからないまま疎開列車に乗り出発しました。
その後、疎開先は営口と決まり、翌14日営口に着きました。そして翌15日が終戦でした。

8月29日、ソ連軍により「本日午後4時までに日本人は営口から退去せよ」との命令が出されました。
私たちは皆より遅れて駅に着いたため、運良く帰還の列車(貨車)に乗ることができました。
先に出発した人たちは、川を挟んだ線路伝いの道を、延々と列をなして歩いていました。途中汽車を止めてもどうすることもできなかったようです。夕闇が迫っていました。


Re: 60年前の終戦の日 ノーラ - 2005/08/15(Mon) 20:45 No.3333   HomePage

出かけておりまして、発言が遅れました。
私はRAORON さんが書いてくださったように、8月15日には、吉林省九台県九台市に住んでいました。住んでいたと言っても、その1ヶ月半前に大連からやってきて、土地の在満国民学校6年生に転校したばかりでした。引っ越しの荷物も新京の駅貨物室に止められたままで、身の回りのものと、勉強道具、ラジオくらいしかない暮らしでした。学校は夏休み返上で、畑を耕したりしに通っていましたが、8月の初めになって、治安が悪くなってきたからと、自宅待機となっていました。8月14日には、隣組の病院職員に「赤紙」が来て招集され、妻と7歳の女の子を残して出征していきました。そして翌日の15日。大人たちが隣組の病院長の家に集まり、重大放送を聞きました。私も6年生でもあり、興味があったので、窓の外から聞いていました。例のピーシャーガーという雑音の間に「忍び難きを忍び」という言葉だけがわかり、集まった大人たちが口々に「大変な事になったらしい」と額を寄せ合っていたのを覚えています。

ですが、灯火管制は解かれ、煌々と電気をつけた部屋で、自分の家のラジオを聞いたとき、すごく晴れ晴れした気持ちになった気がします。大連放送局の馴染みのアナウンサーの「戦争は終わりました」という声。ロシア語放送の中の「ヤマダ、オットゾー」という箇所が何度も繰り返されたこと。なども覚えています。


Re: 60年前の終戦の日 ケン - 2005/08/15(Mon) 21:44 No.3334  

大連はあの日快晴でした。大事な放送があると両親が正座していた。放送直後だったか、家の前の広場にでた、カンカン照りのなか一人佇んでいた。いつもの遊び友達は誰も来なかった。
 昭和20年4月はわが家は祝月であった、長兄、次兄は大学、高校に進学しそれぞれ京都、奉天へ、小生は小学校に入学、大連には両親と姉、私の4人になった。空襲もなく、集団疎開もしらず、平和な生活だった。その4ヶ月後からの生活ががらりと変わる事など小1の自分には予想できる事ではなかった。


Re: 60年前の終戦の日 ローラ - 2005/08/15(Mon) 21:51 No.3335   HomePage

オーエヌさん、はじめまして(で良いのかな?)
>身重の母と、小3、小1、4才、1才の子供4人、行く先もわからないまま疎開列車に乗り出発しました。
どんなにか心細かったでしょうね。
皆、無事に日本へ帰りつきましたか?

ノーラさん、お孫さんや犬との旅からオカエリナサイ。

>灯火管制は解かれ、煌々と電気をつけた部屋で、自分の家のラジオを聞いたとき、すごく晴れ晴れした気持ちになった気がします。
内地と違い、満洲ではここから悲劇が始まりましたね。


Re: 60年前の終戦の日 ローラ - 2005/08/15(Mon) 22:15 No.3336   HomePage

ケンさん、

>大事な放送があると両親が正座していた。
とても落ち着いていたのですね。
4ヶ月後のガラリと変わった生活、今度語ってください。


Re: 60年前の終戦の日 一子 - 2005/08/15(Mon) 23:31 No.3337   HomePage

15日
>満洲ではここから悲劇が始まりましたね。・・・
・・・いいえ、満州は8.9日からでした・・・

手前事ですが、会が、解散に成った今、聞く術も無くなりましたが、今に成り自分は無かったので、気付かなかったのですが、70数名の女学生ですもの"生理"生徒も居たでしょうに・・・11夜〜15日の逃避行の列車内、大変! だつただろう?
と・・・大ッ平に云う時代じゃ無かったのですもの、辛い思い為さっただろうに・・・と、忍ばれて成りません。


Re: 60年前の終戦の日 ローラ - 2005/08/16(Tue) 10:29 No.3338   HomePage

>・・・いいえ、満州は8.9日からでした・・・

そ、そうでした。(;^_^A アセアセ・・・
一子さんごめんなさい。
若い女性には二重・三重の苦難だったでしょうね。
本で読んだ知識ですけれど、ショックや極度の緊張から生理が止まっていた方も多かったようです。


Re: 60年前の終戦の日 かずお - 2005/08/16(Tue) 11:54 No.3339  

わたしは8月13日に大連から高専1年生で召集され、四平街
の部隊にいて、なんとなく敗戦の報を聞きました。
部隊解除で大連に戻るべく奉天まで行き、19日にソ連兵の
監視の隙をつき、夜中に強行突破で辛うじて大連に到着した
ときの嬉しかったことはありません。
友人はソ連に抑留され、生死不明です。
人間の運・不運の分かれ目は神のみぞ知るです。
今の幸運を感謝するとともに、亡くならせた方々の冥福を
いのります。


Re: 60年前の終戦の日 オーエヌ - 2005/08/16(Tue) 15:46 No.3340  

ローラさん

>皆、無事に日本に帰りつきましたか?

はい、終戦後は皆さん同様にさまざまな経験をしましたが、翌21年10月、両親と子供5人、全員無事に日本に帰ることができました。
いま思うと、家族全員無事に引き揚げてこれたのが不思議なくらいです。


Re: 60年前の終戦の日 あなたのやぎさん - 2005/08/16(Tue) 17:15 No.3341  

たなやんさんの名前を発見。新京の小学校の同窓・同学年でした。
まだお会いしたことがないですが、ここでお会いできるのもうれしいね。
それにしても、私たちが蘇家屯でうろうろしていたのに、平壌まで逃げられた足早でしたね。
平壌のあとどうされましたか。


Re: 60年前の終戦の日 赤猫 - 2005/08/16(Tue) 19:29 No.3342  

私も3才
奉天の満鉄官舎にいました たぶん16日だと思いますが
暴動が起こり、母に背負われ近くの小学校まで
ハダシで逃げました。


Re: 60年前の終戦の日 ローラ - 2005/08/16(Tue) 20:31 No.3343   HomePage

どひゃー、どこまで続くのでしょう。
嬉しい新記録ですねえ。 (〃^0^〃)/ ぽっ

かずおさん、
シベリアに連行されなくて良かったですぅ。
長生きして若者達に戦争を語り継いでくださいませ。

良かった!
オーエヌさんの母上は頑張ったのですね。

赤猫さん、
そうでしたね。母上はお元気でしょうか。
今の内にもっともっと聞き出しておいてくださいね。


引き揚げ 投稿者:TADA 投稿日:2005/08/15(Mon) 14:21 No.3329  
NHK福岡制作の九州・沖縄スペシャル「引き揚げはこうして行われた」ー博多港と戦争ー が8月18日(木)19:30〜20:30に放送されるようです。
九州・沖縄地方の方はお見逃しなきよう。

全国放送ではないので、それ以外の所で見られないのが残念!!


Re: 引き揚げ ローラ - 2005/08/15(Mon) 15:38 No.3331   HomePage

TADAさん、
以前こちらにも問い合わせにきていたNHK福岡の番組ですね。

九州在住の満洲仲間にお知らせしてこよう。(*^_^*)

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