過去ログ[5] |
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浅野さん、お久しぶりです。お懐かしい!!
》ここではTADAで出ています。
私は昔の名前で〜出ています。(^_-)-☆
満州談話室を訪ねて、中国東北の旅・孫呉コ―スをみた時、
「あら、孫呉の方がおられるのかしら、相原さんと浅野さんに
知らせてあげたい」と思いました。
そのお二人の為の特別コ―スだったなんて、想像もしませんでした。
そして「中国大陸で育っていた子ども達―セピア色の思い出」で
可愛いTADAちゃんを発見して、びっくりしました。
孫呉訪問は、初めてですか? 訪問記、楽しみにしています。
[Res: 3071] Re:お久しぶりです 投稿者:TADA 投稿日:2005/07/09(Sat) 10:35早速のコメント有難うございます。
>可愛いTADAちゃんを発見して、びっくりしました。
このような時期もありました。
父が写真好きで世田谷の実家へ送った物が幸いにも残りました。
>孫呉訪問は、初めてですか?
戦後60年にして初めて生誕地を訪問することになります。
何せ半世紀以上前のことで現在は様変わりしているであろう当時の「ゆかりの地」が特定できるかどうか・・・。
20年前両親が訪問した折り撮ってきた写真、当時の関係者が記憶を基に作成した地図(見取り図)、当時の先輩(終戦時6年生)が戦後50年の節目として書いた手記「少女決死の逃避行」(千葉日報:1995年8月8日〜22日)等が現時点での手掛かりです。
こんばんわ。
》管理人のロ―ラです。
ご挨拶もせずに、大変失礼致しました。
まだINETに不慣れで、いきなり「満州談話室」に飛び込んでしまい、「満州談話室」の主催者が誰なのかも理解しないまま、
旅順関連の発言を見て、思わず飛び出してしまいました。
不作法をお許し下さい。
》喜太さんにはレスのあったことをメ―ルでお知らせしておきました
有難うございます。大分日時が経っていましたので、果たして読ん
で貰えるかなと、ちょっと心配していました。
喜太さんのお役に立てれば幸です。
》路傍の小石さまの書かれた手記も読ませていただきましたよ。
えっ、何処で読まれたのですか? 検索されたのですか?
と、ここまで書いて、私も検索してみました。
見つかりました!!感激です。掲載して下さったフォ―ラムに感謝!!
そして私も『ある家族の満州引き揚げ物語』―ひまわりの歌を
一気に拝読しました。
緊迫した雰囲気に当時がしのばれました。素晴らしい記録ですね。
》上葭同窓会との接点が今イチ分かりませんでしたが、
》ノ―ラさんをご存じでしたか! 改行適宜変更 m(__)m
旅順から大連に移住させられて、今で言う「難民」だった時代、
一時期、上葭国民学校に通ったのです。不登校で殆ど覚えていないのですが、
当時の担任の先生が持ち帰られた名簿にちゃんと名前が残っていました。 ノ―ラさんとは上記フォ―ラムでおあいして、先輩である事が判明したのです。
》中国大陸で育っていた子ども達―セピア色の思い出
ここで他にも知った方が何人か居られて、びっくりしました。
時たまお邪魔したいと思いますので、よろしくお願い致します。
[Res: 3069] Re:ありがとうございます 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/08(Fri) 11:51 <HOME>>一時期、上葭国民学校に通ったのです。不登校で殆ど覚えていないのですが、
そうだったのですか。事情が分かりました。
路傍の小石さんも妹さんを亡くされたり、働いたり、大変でしたね。
「ひまわりの歌」も読んで下さったそうで感激です。
>》中国大陸で育っていた子ども達―セピア色の思い出
ここで他にも知った方が何人か居られて、びっくりしました。
もしご提供いただけるようなセピア色の写真がありましたらヨロシク御願いいたします。m(_ _)m
[Res: 3069] Re:ありがとうございます 投稿者:ノーラ 投稿日:2005/07/08(Fri) 22:35 <HOME>路傍の小石さん
ちょっと旅行していて、ご挨拶が遅れました。
ローラさん、私が上葭の同窓会に戻れたのも、路傍の小石さんのおかげなんです。ということは、もう一人の後輩もお世話になったのです。
ここで、また一緒にお喋り出来ると楽しいですね。
[Res: 3069] お帰りなさい! 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/09(Sat) 07:53 <HOME>ノーラさん、尾道、福山方面の旅を存分に楽しまれたことでしょうね。
いいなあ。
満洲談話室はいつも不思議な出会いの掲示板です。o(*^▽^*)o♪
先頃、満洲がらみの得体のしれないサイトで私の写真が4枚無断で掲載されていることが分かりました。
高さんの力を借りて厳重抗議もしましたが、相手は「証拠があるか?」と居直る始末。
闘うのも馬鹿馬鹿しいので、そのままになってますが…。
警戒と気分一新のため、画像を何枚か替えました。
夫がスライドとして保存していた物を画像化しました。
どうぞ、ご覧下さい。
↓
http://www2.accsnet.ne.jp/~laura_88/china1990/journey.htm
(宝の馬車)
[Res: 3062] Re: 1990年の中国東北地方 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/07(Thu) 22:18 <HOME>機関車。阿城市の踏切にて。
ノロさん、
チャーズに関する考察読ませていただきました。
私はかなり以前に遠藤誉さんの同タイトルの本を読んだのと、後数人の脱出者手記(武田さんだった可能性あり)を読んだ程度の知識ですが、その時の衝撃は大きかったです。
あの美しい、食料の豊富にあった長春の街が、2年後には飢餓の街、絶望の都市と化していたんですものね。
昨日読んだ「李玉琴伝奇」の中でも、長春にある彼女の実家の父上が家の中で餓死していたと書かれていました。
戦争はどんなに正義のためであっても、作戦の為には人間の命を虫けらのように扱います。
>長春の町に醜い傷跡のように走る鉄道切り通しは、大屠殺事件の物言わぬ証言者 かも知れないのである
この推理は凄いです。
[Res: 3046] Re: チャーズ 投稿者:バガボン 投稿日:2005/07/05(Tue) 21:50ノロさん、教えて頂いたサイトだけではチャーズは私にはよく分かりませんでした。そこで、手元にあった遠藤誉さんの手記(「されど、わが『満洲』」(文芸春秋、1986年発行)中の3頁:ことの次第を短い中に生き生きと伝えてくれる文章)を再読してみました。このような歴史をはじめ、満洲や沖縄、カチンの森、ブッヘンワルドや広島などを持ち出すまでもなく(持ち出してますね!?)、戦争ではひとりの身の上であれ、莫大な数の人の身の上であれ予測出来ない恐怖事が起こるのですから、戦争は何であれ起こしたらあかんのです。
ところで、胡同の話をきっかけに、ノーラさんが当時のことをつぎつぎと思い出していらっしゃいます。
インターネットも善し悪しですが、ネット掲示板などで日常と違う人達と多方向で話を交わすと、私などでも違う刺激を受けて古いことを思い出すことも新しいことに気づくこともあって世界が開けます。インターネットでは居ながらにしてそんな効用を享受できます。(ノーラさんの場合は、地図の効用もありそうですが、)一方向の読書ともまた違った効用でとても面白い(ノーラさん、ゴメンナサイ。ここは無視して、もっともっと思い出して下さい)と思いました。
[Res: 3046] Re: チャーズ 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/05(Tue) 23:22ローラさん、バガボンさん、私の拙文を読んでいただいてありがとうございます。今回は2ちゃんねるで興味を引くように書いたので、言葉の足らないところがあったと思います。
遠藤さんとは、遠藤さんが例の裁判の資料を探しておられるときに電話で話したことがあります。遠藤さんは鉄道が低くなっていることについて、死体が高く積み上がったためにそれを埋めたら鉄道のほうが低くなってしまったのだ、と言っておられましたが、いくらなんでもそれはなかろうと思いました。その電話をしながら、あれは死体の埋め土を取ったのではないかと、ふと思ったのです。
以前にキャセイさんともうひとかたが中共軍の規律について書いておられました。私じしんも、煙草売りをやっているときにその一端に身をもって触れて、感動した経験があります。しかしその規律は兵士レベルの話。中共は党のレベルでは人民に対してものすごく冷酷な一面があると思います。しかもその冷酷さが、人民との接点である規律正しい兵士を通じて発揮されるところに悲しさがあります。
たしかに戦争には民衆の犠牲がつきものですが、「本当にやむを得ない犠牲だったか」「意図的な犠牲ではなかったか」というところから人道問題との係わりが出てきます。チャーズ事件の非人道性はもっと世界に知られるべきです。天安門事件や文化大革命の非人道性が言われるなら、それと並べてチャーズ事件が挙げられるべきです。そしてそのことは「戦争が悪い」「戦争は起こすべきではない」ということに拡散されてはならないと思います。
[Res: 3046] Re: チャーズ 投稿者:バガボン 投稿日:2005/07/06(Wed) 00:30ノロさん、チャーズ事件などが、
>「戦争が悪い」「戦争は起こすべきではない」ということに拡散されてはならないと思います。
ということは、もしほんとうに「拡散」されるならば、責任が曖昧になったり、歴史の教訓にならないなどの理由でよろしくない、と思うのですが、実際には、「戦争は起こすべきではない」という「いのち」の掛け換えのなさ、を土台に置かないと、とかくイデオロギー的空中戦になりがちで、やっても甲斐のない議論にしばしば堕してしまう、と思うのです。その土台の上には、ほとんどの人が(政治指導者であれ、兵士であれ・・・これは矛盾だけれど、兵士は平時から葛藤すべきです・・・)屁理屈を作ってでも乗れるから、解く糸口があり得る、だけど、命の掛け替えのなさを捨象してしまっていたら、ベトナムはアメリカに勝てなかった
オッと、このサイトは、多分、このような政治的談義がまことに似つかわしくないサイトとお見受けする。続けるんなら別んとこでやるとしましょ・・・
[Res: 3046] Re: チャーズ 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/06(Wed) 10:32 <HOME>>オッと、このサイトは、多分、このような政治的談義がまことに似つかわしくないサイトとお見受けする。続けるんなら別んとこでやるとしましょ・・・
ハイ、是非そのようにお願いします。m(_ _)m
[Res: 3046] Re: チャーズ 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/07(Thu) 13:39バガボンさん、コメントありがとうございました。
>「いのち」の掛け換えのなさ、を土台に置かないと、
まったくその通りです!!
だからこそチャーズ事件の死者は記憶されるべきです。
「これ程の悲劇に対して記念碑一つないのか?」という、「雪白血紅」の著者・張正隆の問いかけは正当なのです。
あなたのやぎさん 珍しい鉄道切符を拝見しました。
下側にバーコードが有りますがなんのためでしょう?
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/07/03(Sun) 13:29ケンさん。私には何のためにバーコードがあるのか分かりません。どなたかお分かりの方おられませんでしょうか。
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:潟元 投稿日:2005/07/04(Mon) 16:57切符が見つかってから書き込もうと思っていたのですが、生憎書籍の滝に飲まれたようなので。
このバーコードはニセ切符防止のためにつけられたものです。中国では切符は駅のほか、街なかにある出張所でも購入が可能であり、それらにある端末同士でネットワークが組まれて空席情報などの統一が図られています。
しかし、いざ電車に乗り込むとなぜか指定券のはずなのに先客が・・・で、そのときに切符を見せるのですが、なぜか同じ席の切符を持っている客が複数いたりします。
実は中国ではダフ屋がニセ切符を駅頭で売っていたりするんです。自分で購入するとなると人の波を30分以上並んで待たなければならず、ついつい時間のない人はこのダフ屋を遣ってしまうんですが、これがトラブルの元。
で、導入されたのがこのバーコードなのですが、実際のところ、停車時間の短い駅で確認など無理で、バーコードを読み取る機械も普及していない現状では印刷の濃淡で見分けることが多く余り意味はないようです。
ちなみに交通費はローラさんの懸念は杞憂です。
2003年時点であなたのやぎさんの切符と同価か、逆に1元値下げしている区間もありますよ。
これを見るたびに日本の交通費がいかに高いか、と溜息が出ます。
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:ケン 投稿日:2005/07/04(Mon) 18:33潟元さん お答え頂きありがとうございます。バーコードがなぜあるのかわかりました。
ダフ屋が居てしかもニセ切符があるとは。
昔、甲子園球場にいくとダフ屋のオニイサンが入場券を見せながら寄ってきました。値は高いがニセではなかった。
バーコード付きなら正真正銘ということですね。
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:潟元 投稿日:2005/07/04(Mon) 22:39ところがニセもの切符にも困ったことにこのバーコードがついているのです。で、機械を通すわけですがその機械を持っている駅員を見たことがありません。まさか切符売り場のオバサンのところまで双方の切符を調べにいけるはずもなく、大体は車掌さんが「これ薄いからアンタのニセモノよ」っていうと当たっています。言われた中国人もニヤニヤしながら「あ、そうだった?」って感じで。全く煮ても焼いても食えません、そんな中国人が好きなんですけどね(笑)。
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/07/05(Tue) 06:14潟元さん。詳しいお話ありがとうございました。
切符一枚からでもお話が広がっていく。とても面白かったです。
あの切符4枚のうちハルピンから大連のものがあります。
あれは寝台車でした。私どもが、時間ぎりぎりに乗り込んだのですが、私どものボックスに一人の中国人が乗っていました。私は言葉が通じず、相手も日本語が通じず不気味な時間を過ごしました。同じツアー客の者で同室の者が、他の部屋で懇談していて戻って来ました。その人は中国語が堪能で色々話をしていましたが、同部屋の人は部屋を出て行きました。しばらくして鉄道公安の人を連れていきました。後で公安の人から「別に悪い人ではありません。切符を持っていなかっただけです」と教えてもらいました。
言葉が分からないと怖いですね。今思うと相手も怖い思いをしていたのかもしれません。
ニセ切符も買えない人だったのかもしれません。
一枚の切符にもこんな思い出がありました。
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:潟元 投稿日:2005/07/05(Tue) 20:35>>あなたのやぎさん・・・さま(笑)
面白いお話ありがとうございます。
実は中国の鉄道には「硬座」の下に「無座」(无座)というのがあるんです。これは座席がなくて「空いている席を転々と見つけては目的地まで座ってね」といういわば自由席のような乗車券なんです。日本は自由席は号車ごとに分かれていますけれど、中国の場合は自由席専用の車両がありません。逆に言えば自由席の人はどこの席に座っても良い訳で・・・ということなんです。
観光や外国人じゃおおよそ考えられないですけど(笑)、私はお金がなくて(座席が早々と売れてしまって買えなかった時もありました)よく使っていましたよ。最後は連結部分で時間つぶしたりなんかして。
ちなみに指定券は一週間前くらいから売り出されるのですが、「無座」は一日前から売り出されるため、指定券を買いそびれたり急に国内旅行を思い立った人が使う便利なチケットなんです。
そこでの定型会話は「タバコ持ってるか?一本くれよ」「ん?俺吸わないんだ」「チェッ」でした。
いきなり個室に堂々座っているオッサンも大した者ですが(普通はせいぜい硬座です)、確かに怖いんですよねー。文句言えないし、言っても「お前は駅員でもないのに何で俺に意見するんだ」なんていわれちゃうので、知らんふりが一番です(笑)。
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:バガボン 投稿日:2005/07/05(Tue) 21:56あなたのやぎさんの寝台車の話、おもしろいですね。私の話も聞いてください。
内蒙古を旅していた1987年の夏のこと、一日の行程を終えて、ホテルに着き、鍵をもらい部屋に入ったら、風呂場から音が聞こえます。「何だ、何だ」と近づいたら、いきなり若い男が大慌てで前を押さえて飛びだし、明けたドアから逃げていったのです。確かにあれは男だったと思います。
続きがあります。風呂場をきれいに洗い直して、裸になってシャワーを使い始めたのですが、頭にシャンプーをぬって流そうとしたら、ズブズブという音とともにお湯が止まってしまいました。フロントに連絡したら、給湯はこれをもって終了、というつれない返事・・・。魔法瓶のお湯を水でさまして何とかケリをつけたという次第。あんちくしょうめが〜〜
[Res: 3025] Re: (続)記念の切符 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/06(Wed) 10:42 <HOME>皆さんの体験、珍事件楽しく拝見しました。
(≧m≦)ぷっ
あまりにも嬉しかったので、上に持ってきました。#3041のノロさん、有り難うございます。
これで、いよいよ長春行きが楽しみになりました。
>スーチコドーは崇智胡同でしょう。興安大路の一すじ北の「路」が崇智路で、崇智胡同は興安大路と崇智路との中間を走っています。地番の302は崇智胡同と、広場から西へ2番目くらいの建和街との角にあります。興安大路は西安大路になっていますが、 崇智路、建和街は現在もそのままですから、現地で探せると思います。
持っている満洲地図で調べることにします、虫眼鏡を持って。
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/07/05(Tue) 07:41ノーラさん。私も自分の手持ちの地図で崇智路、建和街が分かりました。
こうして分かってくると私の住んでいたところからどれくらい離れていたかも見られて面白いです。
長春でわずか四元で買った地図、貴重品になりました。(笑)ノロさん、ありがとうございます。
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:ノーラ 投稿日:2005/07/05(Tue) 12:12 <HOME>見つけました!!
ここは、新京に来て最初に入居した、親戚の家で、この家で、祖母と伯母と従姉妹と共に、2年〈昭和11年〜13年〉ほど住み、そこから一旦興安大路にでて南に歩き、白菊3丁目から4丁目に入り、すぐの所にあった「立正幼稚園」に通ったのです。
そのあと、桜木小学校の近くの官舎が出来て引っ越しました。
来年この小学校の「通学路マップ」ができるそうで、楽しみにしています。
ノロさん、感謝します。
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/05(Tue) 12:53私の推定がノーラさんの記憶と合致したようで、うれしいです。
どうやってわかったかと言うと、「スーチ」の漢字のイメージが湧かないのでそのままでは写りのよくない復刻版地図で探すのは無理でしたが、「満州国の首都建設」の本に街路名すべてを挙げた一覧表があって、そのなかに「崇智」の文字があったので「これだ!」と思ったのです。それから復刻版地図であてずっぽうに探したら、まず「智」の文字が目に入って、それでわかりました。
なお、元鉄道附属地の日本風町名はほぼ全滅ですが、白菊町は「白菊街」として残っているようですね。
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/05(Tue) 13:37間違えました。「白菊街」ではなく「白菊路」でした。
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:ノーラ 投稿日:2005/07/05(Tue) 13:49 <HOME>あれからずっと地図を追ってみていましたが、一つポイントが決まると、次々記憶が鮮明になってきました。
新京駅から南広場に行く途中にある「記念公会堂」で、父は演劇や合唱を広げました。「青い鳥」をやった時、私も未来の子供の一人で出演しました。父の「ハレルヤコーラス」のテノール?が耳に残っています。
父は放送局で、森繁久弥さんと一緒に放送劇もやっていました。
本職のお役所仕事より得意だったようです。
三中井で迷子になったことは、前に書き込みましたが、三中井の前で馬車を待っているとき、見たくない横暴な日本紳士を目撃したことも思い出しました。みんな昭和15年までの話しです。
戦後は、九台県の営城子から、引き揚げるために長春入りしまして、たぶん陸軍病院だと思うのですが、引き揚げ者の病院の宿直室に2ヶ月ほど暮らしました。
こうやって、次々絡まっていた糸がほぐれ始めました。
[Res: 3043] 崇智胡同302 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/05(Tue) 14:53 <HOME>ノーラさん、私も見つけました。(*^_^*)
それこそ便利な一等地でしたね。
思い出の白菊小学校のグランドもすぐそこですよ。
ノロさんには探偵の素質がありますね。(^○^)
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:ノーラ 投稿日:2005/07/05(Tue) 18:00 <HOME>ノロさん、ローラさん
その後又おぼろげながら、桜木小に通った家は、「西朝陽路」辺りかと思い出しました。
[Res: 3043] Re: 胡同(再々) 投稿者:潟元 投稿日:2005/07/05(Tue) 20:42>>ノーラさま
> 来年この小学校の「通学路マップ」ができるそうで、楽しみにしています。
えー!それ欲しいです。どうしたら入手できるのでしょうか。
「大連まっぷ」も「新京まっぷ」も入手し損ねてしまったんですよー。「大連まっぷ」は配布終了、「新京まっぷ」は製作者夭逝のため入手できませんでした。かくなる上は満鉄ホテルで酒井様に直談判してコピーとらせてもらおうかとも画策しておりますが・・・まーたイヤな顔されるだろうなぁ・・・。
猫額の草取りが終わったので、談話室に戻ったら、ケンさんの質問が入りました。あなたのやぎさん、そちらにもご回答ください。(ツリーが長くなったので、上に来させてもらいました。)
ところで、胡同について、お三方から興味あるお話をありがとうございました。あなたのやぎさんのお姿はともかく、現代中国風ですね。後ろの木々は、この街の変遷を見守ってきたのでしょうね。照爺さん、大連、ハルビンではどうなんでしょうね。興味があります。
お三方のお話から、新京では、日本流には「○○横町」、「△△通り」みたいなセンスで民衆居住地区に「清和胡同」、「義和胡同」、「寛平北胡同」などと、日本人が勝手に名づけていたように思いました。
新漢和辞典(諸橋徹次他著、大修館書店)をみたら、『北方の中国人は、ちまた、横町、小路を(コドウ=「行」の字の偏と旁の間に胡と同をそれぞれ挟んだ字を並べる)といい、胡同はその字形を省略したもの』とありました。北方の中国人の中には、女真など満洲の人たちも含まれるのでしょう。元、明、清代と胡同文化が受け継がれたようですから・・・
とすると、日本人が新京で勝手につけただけでなく、瀋陽などにもあるのでしょう。地図などに名前が残っているかどうかは、また、別の要素が入りましょうが、地名としての胡同も含めて文化としての胡同そのものが残っているか、それが「満洲国」の前後でどう違うのか、興味あるところです。
「チャーズ事件」も両軍の緩衝地帯が官庁地区でなく民衆居住地区にできなければならなかったところに問題があったということなのでしょうか?
満洲の市街地図など、眺めるテーマが増えました。ありがとうございました。
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/03(Sun) 22:52バガボンさん、こんにちは。
>民衆居住地区に「清和胡同」、「義和胡同」、「寛平北胡同」などと、日本人が勝手に名づけていたように思いました。
民衆居住地区というか、ほとんどが官舎街、社宅街にあったようですね。
胡同の語源については中日辞書を見たところ、路地を意味するフートンというモンゴル語の音訳だそうです。となると清国の時代ではなく元の時代に北京の地名に入った、ということでしょうか。
>「チャーズ事件」も両軍の緩衝地帯が官庁地区でなく民衆居住地区にできなければならなかったところに問題があったということなのでしょうか?
長春を脱出しようとした全ての難民が一つだけの中共軍の関門の前に集まり、そこで餓死したのですから、緩衝地帯/関門がどこにあるかは大きな要素ではありませんでした。「緩衝地帯に入った難民は原則として包囲線の外に出さない」という中共軍の方針が悲劇の最も大きな要因でした。
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/03(Sun) 23:15 <HOME>新京の胡同はおそらくモダンだったのでしょうね。
9月の満洲ツアーの折に、レトロな雰囲気の本物の胡同にどこかで巡り会いたいものですが…。
図書館が長く閉館だったため、本日ようやく
満洲国最後の<皇妃> 「李玉琴伝奇」(入江曜子著)を借りてきました。
これから読むのを楽しみにしています。↑(^^_)ルン♪
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:バガボン 投稿日:2005/07/04(Mon) 11:18ノロさん、こんにちは。
コメントをありがとうございました。
「チャーズ事件」は、私はあまり詳しくないので、機会を見て図書館で勉強してみようと思います。
なお、胡同は、中国の皆さんも残すことをお考えのようで、北京では、故宮の北、景山公園の高みにのぼったら見える什刹海周辺の胡同群を壊さないことにしたと聞きました。新旧をうまくまとめてさらに新しいものが生まれるには幾幾星霜か必要でしょう。
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/04(Mon) 13:41バガボンさん、こんにちは。
チャーズ事件については、現場が私の家に近かったことを知って興味を持って多少調べました。
これまでいくつかのサイトにチャーズ事件について書きましたが、最近2ちゃんねる
で書いた「中共の長春大屠殺」と題するスレッドは下記URLで行けます。行ったままだとスレッドの途中から出るので「全部」という青文字をクリックすると全文が出ます。
よろしければお読み下さい。
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/04(Mon) 13:44かんじんのURLを忘れていました。下記です。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/china/1093496353/l50
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:潟元 投稿日:2005/07/04(Mon) 17:40えー毎度出しゃばってすみません。
胡同は「フートン」と呼びます。意味は「狭い路地」です。
長春では幹線通りに南北は「○○街」東西は「○○路」という名がついていますが、そこまでの大きな通りではない路地に「○○路(あるいは街)胡同」という名がついていました。もちろん路地とはいっても日本の路地とは規模が違います。日本の幹線道路が向こうでは一方通行だったりしますから。旧満洲の場合幹線道路の隣に若干小さな道路があるとそれが「胡同」と呼ばれます。だから「○○路胡同」という名がある場合、「○○路」と言う名のそれより若干大きめの道路がすぐ隣にあるはずです。写真は父に贈った拙作のニューイヤーカードです。国務院裏の五色街です。まだこういう風景は隠れたところに点在しています、ここは僕のお気に入りの場所でした。
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:ノーラ 投稿日:2005/07/04(Mon) 21:49 <HOME>幻のように覚えている「スーチコドー302」というのが、私が住んでいた何処かの住所なんですが、お分かりの方いらっしゃいますか?
[Res: 3026] Re: 胡同(再) 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/04(Mon) 23:09ノーラさん、こんにちは。
スーチコドーは崇智胡同でしょう。興安大路の一すじ北の「路」が崇智路で、崇智胡同は興安大路と崇智路との中間を走っています。地番の302は崇智胡同と、広場から西へ2番目くらいの建和街との角にあります。興安大路は西安大路になっていますが、 崇智路、建和街は現在もそのままですから、現地で探せると思います。
時々拝見させてもらっています。
近日、「開拓団の満州」という本を発行しましたので、厚かましいですが紹介させてください。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861280907/qid=1120477088/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/250-2234672-6881010
ホームページはhttp://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/masan0.html
です。失礼しました。
[Res: 3037] Re: 本の紹介をさせてください。 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/04(Mon) 22:35 <HOME>minoワールドさん、
本の出版おめでとうございます。
心配しておりましたが、昨年秋の訪中では麻山の地も方正の日本人公墓へも行かれたんですね。
良かったです。(*^_^*)
写真見せていただきました。合掌。
6年前満州旅行をしたときの資料を引っ張り出して見ていたら当時の切符が出てきました。記念に持って帰って結構ですといわれて持って帰ってきたものです。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:ローラ 投稿日:2005/06/28(Tue) 20:00 <HOME>こんな切符を見ると実感が湧いてワクワクしてきますね。
多分、値上がりしているのだろうなあ。
やぎさん、珍しい物をありがとうございました。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/06/29(Wed) 09:076年前は1元は13円でした。
人民元のレートはあまり変わっていないようですが、今、人民元の切り上げが話題となっていますよね。
あの切符の値段を見るとかなり安いですよね。
実現すると人民元はかなり上がるでしょう。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:ローラ 投稿日:2005/06/29(Wed) 12:23 <HOME>1990年に初めて訪中した折りは元はメチャクチャ安かったんですけどねえ…。
ところで、やぎさん、NO.2996の投稿に
>ローラさんご一家がおられたのは、桜木小の北側の可能性が高いですね
と書かれていますが、その根拠はなんでしょうか?
政府官舎が北側にあったのでしょうか?
もっともそこに住んでいたのは1ヶ月くらいのことですから、それほど重要でもありませんが…。
国共内戦に巻き込まれた時住んでいた家は、順天地区です。
国務院の斜め裏辺りの政府官舎だったそうですが、かなり以前に次兄が訪ねた折にすでに新しいアパートに建て変わっていたそうです。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/06/29(Wed) 13:33私の推測は国務院に近いところにお住まいだったということ。
ローラさんがお近くに居られたという記述があったこと、それに桜木小の北に官舎もあったという記憶からです。
国務院については私どものいた清和胡同は遠かったようです。
当時の桜木小の学区がどこまであったかはよく分かりません。
もし順天地区と混同しているとしたらごめんなさいです。
私は順天地区については知りません。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:ローラ 投稿日:2005/06/29(Wed) 15:59 <HOME>(⌒▽⌒)アハハ!
事情は分かりました。
今度ゆっくり当時の地図を挟んで語り合いましょうね。
ついでに、やぎさんの自分史も再読させてもらいました。
桜木町での生々しい内戦の様子に、当時の恐怖を再認識しております。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:バガボン 投稿日:2005/07/02(Sat) 22:18あなたのやぎさん、満洲の胡同について教えてください。No.3002で「清和胡同」と記しておられ、HPのご自分史でも「清和胡同」に触れておられます。私は、北京の胡同を中国人友人に案内してもらったり、しばしば訪れる機会がありました。そこは、中国の人々の生活が駸々と伝わってくる場所でした。が、ここ数年で北京の胡同は消えてゆく一方です。
そのような胡同が、満洲ではどんな様子でしたか、中国ではどこでも基本的には同様なのでしょうか?新京ではどの辺りに分布していたのですか?日本が建設した地域には無かったのしょうね。今でも長春で健在でしょうか?ご体験やエピソードなど、ご紹介いただけるとうれしいです。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/07/03(Sun) 07:35バガボンさん。お声かけありがとうございます。
新京の清和胡同についてですが、私は子供時代にすんでいた住居表示としての認識しかありませんでした。現在のあのあたりについては、旅行記「旧満州を訪ねて」で少し記述しています。中国人のガイドさん、警察でも聞いてみたのですが、現在ではその地名はないようでした。
私どもが住んでおりました昭和21年まではどちらかというと日本人の住んでいた街とのきおくしかありません。少し離れたところに中国人の住んでいた場所があり、中国人が漢字ばかり書いてある本を読んでいるのを見かけまして凄いなあと驚いた記憶があります。
6年前に長春にいったときに買った地図には「清和街」という道路がありますが、私どもが住んでいた場所とほぼ同じ位置です。現在の長春二中(旧桜木小)は清和街に面しています。
私どもの住んでいたあたりは道路も広がり新しい街になっていて昔の面影はありませんでした。この写真は6年前にいったときのもので浦島太郎のような気持ちになりました。
[Res: 2989] Re: 記念の切符 投稿者:照爺 投稿日:2005/07/03(Sun) 08:44 <HOME>バカボンさん
康徳8年(昭和16年)の「最新地番入 新京市街地図」を見ますと「胡同」は、日本人の住んでいた場所にも沢山見受けられます。残念ながら「清和胡同」は、掲載されてないようです。私の住んでいたのは、順天区恵民路でしたが、その一つ北寄りの道路は、「義和胡同」となっています。胡同は、この地図を見る限り、主として東西に走る狭い道路をあらわしているようです。瀋陽、大連、ハルビン等の大都市についても調べてみると面白いことが分かるかもしれませんね。
[Res: 2989] 新京の胡同 投稿者:ノロ 投稿日:2005/07/03(Sun) 09:12新京の「胡同」は命名上の問題のようです。
「満州国の首都計画」越沢明 のなかに次のようにあります。
「また街路方向の一般概念を示すために、南北の街路を「街」とし、東西の街路を「路」とし、そのうち幅員38m以上の街路には各々「大」を付すこととし、補助街路は最寄りの街路名を採って、これを「何々胡同」と称することとした。」
私の住んでいた官舎の前に現在で言えば「片側1車線」の未舗装の道路が東西に走っており、その100メートルほど南に未完成の寛平大路が平行に走っていました。家の前の変哲もない道路に「寛平北胡同」というしゃれた名前が付いていたことは、数年前に新京街路図の復刻版を購入してはじめて知りました。
余談ですが寛平大路は後の長春包囲戦のときに、ここに設けられた中共軍側の関門の前で10万人以上の難民が餓死した「長春チャーズ事件」の現場となったところです。
奉天駅前の常盤旅館、以前鉄道好き様からお問い合わせいただきましたが、すみません。あれから調査を続けました結果、場所がかなり違っておりました。あの↓印からさらに右へ数件移動した非常に小さな旅館です。あの↓印はJTB(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)でした。誠に申し訳ございませんでした。可能な限りまた画像を添付させていただきますのでよろしくお願いいたします。
[Res: 3020] Re: 以前の「常盤旅館」について 投稿者:鉄道好き 投稿日:2005/07/03(Sun) 07:26潟元様
そうでしたか。情報ありがとうございます。写真がありましたらまたよろしくお願い致します。現在も建物が残っていると良いのですが・・