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旧満洲談話室
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今日お逢いできます〈私信〉 投稿者:ノーラ 投稿日:2005/07/20(Wed) 08:28 No.3138   HomePage
ローラさん、少し遅れますが、必ず行きます。
2時頃連絡します。よろしく。


ツアー参加者初顔合わせ ローラ - 2005/07/20(Wed) 22:16 No.3141   HomePage

急なお願いでしたのに、思いがけず7名の参加を得て有意義な話し合いが出来ました。

>もう、すっかりうち解けて、明日にでも出発出来そうなムードでした。

さすが、ノーラさんはうまいことを仰いますねえ。(*^_^*)
お疲れ様でした。

のぶさん、リハビリ頑張ってくださいね。
実は私の心の底ではのぶさんのこと諦めてはいないのよ。(^○^)
旅行社の遠藤さんが今日仰ってました。
幸か不幸か(笑)飛行機が満席にはならないだろうから、数週間前の飛び入りも可能だそうです。
でも、無理は禁物。ご自愛くださいね。


「裂かれた大地」 投稿者:ローラ 投稿日:2005/07/17(Sun) 19:23 No.3119   HomePage
以前紹介されました待望の本が発売されています。
夢中になって読み進めてしまいましたが、戦後60年の今年出版にふさわしい力作です。
皆さまも是非お読み下さい。
著者 二松啓紀 京都新聞出版センター

すでに終戦になってる8月16日、松花江・依蘭沖に浮かぶ避難船に向かってソ連軍による無差別の機銃掃射が…。



のぶさんへ ローラ - 2005/07/17(Sun) 22:04 No.3122   HomePage

驚いたことにこの本の中でハルピン「新香坊難民収容所」についての描写がかなりあります。
妹さんを亡くされた場所でしたね。
写真も載ってます。
是非是非、お読みになってください。
奉天の記述もあります。


Re: 「裂かれた大地」 のぶ - 2005/07/18(Mon) 11:27 No.3125  

ローラさん、ありがとうございます。
早速、購入します。
旅行に行けないのが、悔しくてなりません。
ノーラさんにいろいろアドバイスして頂くべく、21日にパスポート
を取りにいらっしゃる時にお会いできそうです。やっとお目にかかれるのを楽しみに日々、リハビリに励んでおります。


Re: 「裂かれた大地」 ローラ - 2005/07/18(Mon) 22:25 No.3127   HomePage

のぶさん、
読んでいただけるようで嬉しいです。
文字も大きいので我々には好都合です。(^○^)
一子さんも、「早速書店で…」と張り切っておられました。
図書館にお願いして買ってもらう方法も良いですね。
あの悲劇を若い方たちにも知ってもらいたい。

ノーラさんの伝言板は拝見してましたよ。
今週はお互いに楽しみですね。(^_-)-☆


Re: 「裂かれた大地」 のぶ - 2005/07/18(Mon) 22:55 No.3128  

書店に行きましたが、在庫がなく注文しました。一週間か10日かかるそうです。特に若い方に読んで欲しいと思いますので、図書館にも
購入希望を出すつもりです。

ローラさんより先にノーラさんにお目にかかるのは恐れ多いと思って
いましたので、うまくいってよかったです。


Amazon.co.jp に行ってみましょう Tomo - 2005/07/19(Tue) 00:07 No.3129  

みなさん、Amazon.co.jpのこの本の頁に行ってみることをお薦めします:

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4763805584/qid%3D1121699395/249-0036804-4529952

何と、この本が7月7日に発行されてから今までの短い間に、3件のカスタマー・レビューが出ています。というのは、私もAmazon.co.jp のカスタマー・レビューはよくのぞきに行くのですが、この種類の本で、発行後10日間で3件も出ることはほんとに稀です。

それだけのことがある本です。パートナーから薦められて私も読んで、そう思いました。


Re: 「裂かれた大地」 一子 - 2005/07/19(Tue) 13:25 No.3130   HomePage

ローラさん
本が手に入りました。
この時代に生き、戦争が齎した、一握りに過ぎぬ記録誌ですが日本平和な今、想像だに出来ぬ、若者達が、読み、戦争の惨めさを、認識して欲しいですね。



Re: 「裂かれた大地」 あなたのやぎさん - 2005/07/19(Tue) 15:41 No.3131  

ローラさん。紹介ありがとうございます。
私も早速ネットで注文しました。
のぶさん。今回一緒に旅行に行けないのは残念です。しかしのぶさんはまだお若い。また、いけるチャンスは必ずあると思います。
また、お逢いしたいですね。


Re: 「裂かれた大地」 ローラ - 2005/07/19(Tue) 20:34 No.3132   HomePage

一子さん、あなたのやぎさん、
ありがとうございます。
若干35歳の二松さんが頑張って頑張って追跡調査もされて…と思うと本当に感無量のものがあります。

明日東京で話し合ってみようと思いますが、ハルピンではのぶさんに代わって我々で慰霊をしてあげたらどうでしょうね?


ハルピンの慰霊 あなたのやぎさん - 2005/07/19(Tue) 22:28 No.3133  

ローラさん。
私は明日行けませんが、ローラさんのご意見にに同意します。もし、その前にのぶさんとお逢いできるなら、のぶさんとご相談してみるのもいいのではないでしょうか。ご希望があればかなえてあげたいですよね。

「裂かれた大地」、先ほどの書き込みをした直後に配送されてきました。一子さんの言うとおり、字が大きくて読みやすいですね。


訂正です あなたのやぎさん - 2005/07/20(Wed) 00:01 No.3137  

その前に→旅行の前に


ローラ、あなたのやぎさんへ のぶ - 2005/07/20(Wed) 10:02 No.3139  

ローラさん、あなたのやぎさん、
お心遣い、ありがとうございます。ご一緒できなくなって、涙がでるほど悔しい思いでおりましたので、ほんとうに、嬉しいです。
リハビリに自転車がいいと医者にいわれました。大分こわがらずに乗れるようになりましたが、歩くのは、せいぜい1キロぐらいです。はやく遠出ができるよう頑張ります。


承徳ー瀋陽1日2本だけでした 投稿者:松本 投稿日:2005/07/17(Sun) 19:51 No.3120  
承徳は北京ー瀋陽線から少し外れていて交通は不便なところでした、中国で汽車のチケット購入することは大変苦労しました、一部の人がチケットを抑えて、手数料を取って転売するそうです。幹線は意外とたやすく手に入るそうですが、支線は難しく、私は夜行でなく(チケットが手に入りませんでしたので)、昼間の列車で行きました、


Re: 承徳ー瀋陽1日2本だけでした ローラ - 2005/07/17(Sun) 21:44 No.3121   HomePage

松本さま、
承徳から列車で13時間半の旅、ご苦労さまでした。
当時、母上との旅は恐らく何日もかかっていたのではないでしょうか。

>当時は無蓋貨車で私の目の中に石炭の灰が降り注いでいたが、瞬きをしないので常に灰を取り除いていたと母から聞かされていました、

ぎらぎら太陽からも冷たい雨からも、母上は精一杯の愛情と知恵で守って下さったのですね。
(新規投稿してくださって助かりました。お願いしようと思ってましたので…)


奉天(瀋陽)は 松本 - 2005/07/19(Tue) 23:28 No.3134  

これを見ていた方から奉天の地図を送っていただきました、奉天の街は余り変わっていませんでした(ヤマトホテル野回りだけしかわかりません)、奉天の古い地図によりますとヤマトホテルと奉天警察署(現在も同様)の間の建物は地図によりますと朝鮮銀行になっていますが、現場では旧横浜銀行となっていました、勿論奉天神社は取り壊されていました、加茂小学校の跡は軍隊の施設になっていました、


宮前小学校 投稿者:倉益 投稿日:2005/07/14(Thu) 19:34 No.3100  
この掲示板で斉斉哈爾の宮前小学校の卒業生の話が出てきましたので一言書く気が起きました。私は牡丹江中学の卒業生(1期生、昭和20年3月卒業)ですが、私の家族は斉斉哈爾にいまして弟二人は宮前小学校に在籍していました。 昭和16年真珠湾攻撃のあった年の夏父の転勤で家族内地に引き上げてきました。残念ながら斉斉哈爾には中学校が一年遅れて設立されたので私は転校出来ませんでした。夏休みに帰省した時宮前小学校の先にあった忠魂碑からみた燃える太陽は今も記憶にはっきりと残っています。竜者公園では兄弟5人で遊びました。名前は忘れましたが沼で魚釣りもやりました。 斉斉哈爾の思いでは今も心に残っています。


Re: 宮前小学校 ノロ - 2005/07/14(Thu) 21:28 No.3101  

チチハルの忠霊塔は満洲でいちばん、姿が良かったですね。学校から忠霊塔までは野原で、潅木が生えていて、途中から忠霊塔の広い砂利敷きの敷地になって、きれいでした。なにかの軍のもよほしで、あの野原で97式中戦車が実演してくれたのをまじかで見ました。
神社から忠霊塔までの砂利道は点々と赤い瑪瑙が混じっていました。チチハルは瑪瑙と翡翠の産地でした。龍沙公園のはずれに砂利置き場があって、姉と二人で瑪瑙拾いに行ったら、なんと、かなり大きな翡翠を見つけました。隣の砂利積みで拾っていた中国人の女の子の二人連れが、翡翠と交換したいと思ったのか、大きな瑪瑙をぽんぽん投げてよこしました。姉は意地悪で、わからない振りをしてシエシエとか言って瑪瑙だけもらってしまったが、いまから思うと悪いことをしました。


チチハル ローラ - 2005/07/15(Fri) 11:29 No.3105   HomePage

倉益さん、ノロさん、チチハルの思い出をありがとうございます。

>忠魂碑からみた燃える太陽
>姉と二人で瑪瑙拾いに行ったら、なんと、かなり大きな翡翠を見つけました

美しい色彩に彩られて記憶も鮮明に残っているのですね。
印象的なお話です。
中国人の女の子は服装だけで分かるものでしたか?

4年ほど前、パソコンを始めたばかりの私の満洲メル友第1号になってくださった方は終戦前までやはりチチハルにおられた第4軍司令官の長男の方でした。


Re: 宮前小学校 TADA - 2005/07/15(Fri) 11:30 No.3106  

宮前小学校は一ヶ月足らずの在籍でしたが登校した記憶はありません。
bR085の写真(ムクデン満鉄ホテルの歌碑)を見ると昭和5年創立とのことで、チチハルでは一番古い小学校だったのでしょうか。終戦時チチハルには三つの小学校があったということなので・・・。
10年程前満州について調べていた折、偶然にも宮前小学校の同窓会の新聞記事(1975年?)を見つけたのを思い出しました。


Re: 宮前小学校 ノロ - 2005/07/16(Sat) 23:39 No.3112  

>中国人の女の子は服装だけで分かるものでしたか?(<ローラさん)

もちろん、わかりました。今の中国人は国籍不明の服装をしていますが、当時の中国人はみな中国服を着ていました。と言っても子供はチーパオではなく下がクーツのツーピーススタイルです。



どろやなぎの綿 ノロ - 2005/07/17(Sun) 17:00 No.3118  

私は1994年と1995年にチチハルを訪れました。
忠霊塔は、その基壇だけが、労働者文化会館みたいなものの正面階段として残っています。
倉益さん、忠霊塔のわきに水道関係の四角い貯水池があったのを覚えておられますか? あの池はボート池のような形で残っています。

1994年に行ったときは、妻と娘の3人で行きましたが、北京のホテルでチチハル行きの航空券を頼むといういいかげんな個人旅行で、ホテルの予約はありませんでした。ところが、飛行機のなかでいやに日本人が多いと思ったら、それがチチハル訪問の団体だったのです。おかげでその団体と同行させていただいて、鶴城賓館に泊まれてしまいました。当時は地方の外人用ホテルはまだお役所だったころで、訪問団と会わなければどうなったかわかりません。一行のなかに税理士をやっておられる方がいて、その方には今でも年末調整のときお世話になっています。

飛行機の上から地上を見たら、畑のすみなどが白く覆われていて、残雪のように見えました。6月でもまだ雪があるのかと思って降りてみたら、それはどろやなぎの綿だったので、びっくりしました。チチハルに住んでいたとき、綿が飛んでいましたが、あんなに大量だったとは思いませんでした。


やなぎの綿 ローラ - 2005/07/18(Mon) 22:13 No.3126   HomePage

>6月でもまだ雪があるのかと思って降りてみたら、それはどろやなぎの綿だったので、びっくりしました。

凄いですね。一度見てみたいなあ。
昨年の談話室オフ会にいらした方の中にハンドルネームを「やなぎの綿」とされた方がいらしたのですよ。(*^_^*)
それほど印象的な風物詩だったのですね。


苦難の女性 投稿者:倉益 投稿日:2005/07/18(Mon) 06:07 No.3124  
今日は。 こちらにも女性たちの苦難の話が載っていますのでご覧になって見て下さい。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/kikaku/040/


牡丹江 投稿者:倉益 投稿日:2005/07/17(Sun) 05:13 No.3113  
既にご存知かも知れませんが読売新聞の企画記事シリーズで牡丹江高女卒業生の方の経験談が載っています。 お家が牡丹江で理髪店を経営されていたとかで写真も載っています。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/kikaku/040/20.htm


Re: 牡丹江 ローラ - 2005/07/17(Sun) 16:22 No.3117   HomePage

野村とみさんの記録、紹介いただきありがとうございました。
ハルピンでの生きるための必死の体験がその後の彼女の人生に役立っていたようですね。


Re: 牡丹江 一子 - 2005/07/17(Sun) 23:30 No.3123   HomePage

倉益さん
先輩の記事有り難う御座いました。
牡丹江高女卒では、出世頭だと存じまする。
同窓会に、出席にはオハギ詰め合わせを、お土産に、戴いたりしていました。


色々ありがとう御座いました 投稿者:松本 投稿日:2005/06/28(Tue) 08:33 No.2984  
私は昭和20年2月に承徳で生まれました、戸籍には承徳市草市区しか書かれていません、母の話ですと満鉄の社宅だったと記憶しています、その後、奉天、新京、通化、錦州、の名前は良く聞きました、兄の死亡はは20年10月29日となっています、現在の地図で見ますと瀋陽市に和平区と言うのがあり、又、皆さんのアドバイスを参考にし、推測しますとどうもそのあたりではないかと思われます、謄本をよく読みますと誤字あてじ、脱字があり、又、届出が22年2月7日になっていますので記憶も当てにならないと思っています、


Re: 色々ありがとう御座いました ノーラ - 2005/06/28(Tue) 09:40 No.2985   HomePage

だいたいの見当がつきましたね。良かった。

>届出が22年2月7日になっていますので
これは、引き揚げて来た人で、あちらで亡くなった人の届けを、内地の役所に届け出た日です。
私の弟も、昭和21年6月29日〈もうすぐ59年目〉に亡くなりましたが、帰国後父が東京千代田区に届けた日が記入されています。


Re: 色々ありがとう御座いました ローラ - 2005/06/28(Tue) 14:40 No.2987   HomePage

松本さん、
名探偵たちの活躍でナントカ解決しそうですね。(*^_^*)
慰霊の旅を考えておられますの?

>私は昭和20年2月に承徳で生まれました

地図で承徳を探しましたら、もう北京に近い場所ですね。
もし、ソ連参戦後に奉天に向かっていたとしたら、それだけでも大変な旅であったと思われます。
松本さんはよくぞご無事で…。


Re: 色々ありがとう御座いました 松本 - 2005/06/28(Tue) 16:51 No.2990  

引き上げの苦労は母から良く聞かされました、一歩間違っていれば残留孤児になっていたかもしれません、生きている間に中国に行くことなど考えてこともなく、詳しい逃避行を聞いていなかったことを大変後悔しています。


Re: 色々ありがとう御座いました ローラ - 2005/06/28(Tue) 20:05 No.2994   HomePage

ほんの一部分でもいいですよ。
母上から聞いた苦労話を思い出し、お子さんや談話室の仲間にも聞かせてくださいね。


蛇足ですみません 潟元 - 2005/06/29(Wed) 01:39 No.2995  

松本様のお話で謎が解けました。やはりバガボン様の指摘通り「奉天市大和区加茂町」こと「遼寧省瀋陽市和平区南京北街」だと思います。
届出が22年との事で謎が解けました。
私の拠出したデータも「昭和20年12月7日」のものでしたから8月の敗戦後ということですよね?ちょうど昭和20年あたりから国府軍の占領や中共軍の占領とで、彼らは解放の名の下に直ちに奉天を「瀋陽」と改名していますよね?そのときに「和平市」と改名され、それを日本訳して「平和区」と名づけたのではないのでしょうか?
当時の実状を体験していない者の推測の域は出ないのですが。
私も是非お話伺いたいです。
よろしくお願いいたします。


皆さんの沢山の情報ありがとう御座います 松本 - 2005/06/29(Wed) 08:58 No.2998  

来月の初めに承徳から瀋陽へ行く予定です、行けば何とかなると気楽に考えていますが、貴重な情報ありがとうございます、
少しでも目的に近づければと思っています、今後ともよろしくお願いします。


Re: 色々ありがとう御座いました ローラ - 2005/06/29(Wed) 12:03 No.3000   HomePage

>来月の初めに承徳から瀋陽へ行く予定です

そうでしたか!
旅の成功をお祈り申し上げます。(*^_^*)


Re: 色々ありがとう御座いました 松本 - 2005/07/15(Fri) 16:42 No.3107  

北京から列車で4時間、承徳に行って来ました、昼間はそれほど感じませんが、朝夕は北京よりかなり涼しく、

清の歴代の皇帝が避暑地とした理由が理解できました、
私の戸籍謄本に記載されている草市区と言う街は数年前までは承徳で一番の繁華街であったとの事でした、
しかし、街は全て取り壊され、建替えられて街の名前も変わっていましたが、殆どの人は知っていました、
地元の老人に聞きますと現在は鉄道の線路と鉄橋だけがその当時の面影が残しているとの事、

又、歩いて10分弱の所に世界遺産に登録されている避暑山荘があり、中に入ってみました、庭園の中で2〜3歳位の男の子を連れた夫婦が遊びに来て、子供を真ん中にして手をつないで歩いていました、
恐らく休日には兄も親子そろって遊びに来たのではないか・・・・・・・・、
池の傍の巨木は父、母、兄を見ていたかも知れないなどと想像しましたが、
ホテルに帰って色々調べてみますと関東軍西南地区防衛司令部が置かれ一般人は立ち入り禁止だったとの事でほのかな想像も打ち砕かれました、



お帰りなさい! ローラ - 2005/07/15(Fri) 22:25 No.3108   HomePage

松本さん、生まれた地を訪問できて良かったですね。

>清の歴代の皇帝が避暑地とした理由が理解できました

承徳とはそのような場所でしたか。
お陰様で一つ賢くなりました。
で?瀋陽へも行かれましたの?


当時の苦労をしみじみ感じました 松本 - 2005/07/17(Sun) 09:33 No.3115  

承徳から列車で13時間半かけて、瀋陽(奉天)に着きました、(45元+寝台60元)
この線路は60年弱前、母と兄と私が確かに通った道、

当時は無蓋貨車で私の目の中に石炭の灰が降り注いでいたが、瞬きをしないので常に灰を取り除いていたと母から聞かされていました、
単線なので途中待ち合わせ時に駅で無蓋貨車を見るとあのような貨車に乗っていたのかと思うと当時の苦労がどんなに大変か・・・・・食事は?トイレは?どの位のスペースがあったのか?荷物はどの位だったのか?どの位時間がかかったのか?今は風は快適だが当時季節は?

奉天に着き旧ヤマトホテルに泊まりました、見知らぬ方から送っていただいた奉天市の地図を頼りに街を歩いてみました、道は地図と余り変わりなく簡単に探す事が出来ました、皆様から教えて頂いたとおり加茂町は現在南京北街に変更されていて、13,14番地の建物は全て取り壊されていて高層ビルが建てられていました、
しかし、15番地の建物は廃墟となって残っていました、恐らく13,14番地も同様だったと想像しました 、


Re: 色々ありがとう御座いました バガボン - 2005/07/17(Sun) 13:16 No.3116  

松本さん、60年近いかなたの無蓋貨車の旅を想っての長旅、その想いやいかばかりであったかと想像します。ヒョットして(間違いでしたらお許し下さい)明暗想うこと多く13時間半を短くお感じになられたのではないか、とバカボン流の想像をしたりしました。私は、北京から呼和浩特への火車旅を、想っていたことはまったく違っていたのですが、もっと続けば良いと思って終わったことを思い出しました。

現実的な話題への切替えをお許し下さい。

中国の交通費の安さは相変わらずですね。日本は、相対的に、食料や交通、住居、医療、介護といった生活費用が高くて、AV機器、パソコン、車といった、言ってみればどうでもよい物が安い、という国。オッと、パソコンがなかったらここには・・・(!?)。それはともかく、世界的にはヘンな国に属します。

13時間半の寝台列車の旅が、日本円にすると1500円弱。
日本では、東京−出雲市の寝台列車「サンライズ出雲」で、人気のB寝台個室ソロを使うと、12時間チョットですが、運賃11,660円+寝台9,450円、合計21,110円。

ついでに、羽田ー出雲の航空普通運賃が29,200円。寝台列車とそれほど違わない。中国国内線で承徳ー瀋陽があるかどうか不明だったので、北京ー瀋陽の航空運賃をみたら、620元とか560元、日本円になおすとそれぞれ8,680円、7,840円と鉄道賃の5倍程度。

中国は、社会主義市場経済と呼ぶ弁証法的大実験に挑戦していますが、その中で、交通運賃体系には、何か変化が生じるのでしょうか?どのような姿が中国の実情にあったものとなるのでしょうか?現行の体系がベストとされるのでしょうか?

いずれにせよ、現今の中国はバガボンにとって嬉しいことの多い国です。


路傍の小石さん、ノロさん 投稿者:AI 投稿日:2005/07/11(Mon) 11:37 No.3089  
路傍の小石さんお久しぶりです。F戦前にてお世話になっておりました孫呉生まれのAIです。同じ名前をお使いですのですぐ分かりますね。
 ノロさんにも孫呉の資料を送って頂いた記憶があります。お父上が孫呉の県長さんを勤めておられた関係で歴史に詳しかったのを覚えております。
 9月9日より1週間TADAさんと孫呉に参ります。私は当時1才でしたので思い出はないのですが、生還者・123師団史・ノロさんからの情報などをこの眼で確かめに行くのが目的です。
 孫呉は家族父母私の3人が幸せに暮らした唯一の場所ですので60年前の自分の歴史の始まりを確かめるためにも楽しみの旅行です。
 父は孫呉からレイテに転戦して戦死、母と私は終戦前に帰国、その直後母は病死。病名は孫呉熱との話も伝わっています。
 最近の戸籍には生地の市区町村までの表記しかしないそうで、私の戸籍は満州国の表記のみでしたがTADAさんから戸籍謄本を頂き孫呉県まで書き込みの訂正をしてもらいました。満州国だけの表記では広すぎ子孫が調査した時ルーツが分からなくなるからです。
 私とTADAさんの戸籍の表記が異なり、生誕当時孫呉県が法律上存在していたか調べるのも難しかったのです。ノロさんのお父上は何年頃に県長さんをされておられましたか。
 ノロさん、来年佐倉の国立歴博で57聯隊関係の展示を予定しています。「一般の人から中高生にも興味を持てるように目で見える」現物、写真、模型の展示を考えていて、今資料を集めている所です。当時の酒保などの再現も考えてます。なにか資料をお持ちまたはご存じでしたらご紹介願います。


Re: 路傍の小石さん、ノロさん ローラ - 2005/07/11(Mon) 22:46 No.3090   HomePage

>最近の戸籍には生地の市区町村までの表記しかしないそうで、私の戸籍は満州国の表記のみでしたがTADAさんから戸籍謄本を頂き孫呉県まで書き込みの訂正をしてもらいました。

AIさん、
そのようなご苦労をされていたこと初めて知りました。
私の戸籍謄本には次のようにかなり詳しく載ってますよ。

「昭和拾七年八月八日満洲国北安省北安県西松村区で出生…中略…
同年九月弐拾五日同国駐在特命全権大使から送付入籍」


戸籍の生地 AI - 2005/07/12(Tue) 11:30 No.3091  

 私の古い謄本は「孫呉日赤病院で生まれる」と書かれていますが、コンピュータ化すると生地は市区町村まで表記とのことです。
 まだ部落問題などの差別が残るからでしょう。
 60年間は古い戸籍も保存されるとのことですが、その後は調べられなくなるとのことです。
 私の場合「孫呉"県"」と書かれてないのでコンピュータ化の際除外されたようです。


Re: 路傍の小石さん、ノロさん ノロ - 2005/07/12(Tue) 13:59 No.3092  

AIさん、こんにちは。お久しぶりです。
いよいよAIさん念願の孫呉訪問がかないますね。

>ノロさんのお父上は何年頃に県長さんをされておられましたか。

私が父とともに孫呉に行ったのは昭和14年だと思います。そして16年の春先にチチハルへ移ったのです。

ところが「満洲国各県事情」(国会図書館所蔵)を見ると孫呉県ができたのは康徳4年とあります(それまではアイグン県に所属)。康徳4年は昭和13年なので、微妙に合いません。あるいは「初代」というのは間違いで、もう一人県長さんが前におられたのかも知れません。

なお、満洲国の県はいわゆる「満人」の県長がおられて、その下に日本人の副県長が入るのが普通でしたが、孫呉の場合は日本人県長だったのだそうです。新しくできた県だから従来の首長の顔を立てる必要がなかったからでしょうか。


国立歴史博物館 みつや - 2005/07/12(Tue) 20:56 No.3093   HomePage

AIさん<<
佐倉の国立歴博はすぐ近くです。是非拝見したいですね。
軍隊関係の展示が歴博で行われるとは少々びっくりしました。
57連隊とAIさんはどんな関係があるのですか?
歴博の場所は終戦まで陸軍が使ってた所です。歴博が出来るまでは国立の病院がありました。


ノロさん AI - 2005/07/14(Thu) 17:05 No.3098  

 そうすると私が生まれた昭和18年は間違いなく孫呉県は存在していたようですが、公式記録で証明しようとすると難しそうですね。
 私は孫呉県生まれと戸籍記載のあるTADAさんご兄弟の中間に生まれたのでそれを証明に使い認められたようです。
 日本国でなく満州国なので記録が少ないのでしょう。変更を暑かった戸籍係も孫呉県の存在の有無を公式記録で確認したかは疑問です。
 私の父母の千葉県佐倉の戸籍と孫呉県を組み合わせると、先祖がなぜ孫呉に生まれたのか理由を私の子孫が推定できることが目的で書き換えました。


みつやさん AI - 2005/07/14(Thu) 17:24 No.3099  

 国立歴史民族博物館と称しているのに、近代史が抜けているのはおかしい、との考えが基本です。
 今まで戦争を避けていたのですが、近代史で戦争は避けて通れなく、ではどのような展示をすべきかを考え、歴博が佐倉の千葉県の郷土聯隊歩兵第57聯隊跡地に所在していることもあり、軍隊と地域との関係を調べてみることになりました。歴史民族、名の通り戦史だけではなく軍隊と民衆の関わりです。(という趣旨と理解してます)
 57聯隊は2.26事件の直後満州孫呉に移駐し、私はそこで生まれ、その後フィリピン・レイテに転戦し96%が戦死し、父もその一人であったため、少なからず私と57聯隊の関わりが出来て、レイテには7回巡拝の経験もあり、主にレイテと孫呉について展示協力をしています。
 聯隊の戦史は結構あるのですが、文字文献では展示にならず、現物、写真、模型、パネル、映像など一般の方にも見ただけで理解し興味を持つようにするのに苦労しています。
 例えば当時の酒保を再現してみようか、との案もあります。
 展示は来年の今頃です。
 なにか展示に適した資料がありましたらご紹介下さい。


歴博と近代戦争 バガボン - 2005/07/14(Thu) 23:04 No.3103  

歴博が近代、それも戦争を扱うというのは、みつやさんもおっしゃるように珍しく、とても興味深く、おおいに期待します。今年の企画展でも、目下が「縄文」、その後、「徳川」、「古今・新古今」・・・などと古いところがイメージとして強いので、歴博の進化を予感させます。

それもAIさんのお話によると、57聯隊が「主人公」とのこと。57聯隊は、ある意味ではあの戦争の主流を行ったのですから、その姿を身近に見せていただけるのは、戦後生まれの人々には得がたい機会となるでしょう。

また、軍隊と「地元」との関係は、余りイメージが良くないか、島尾敏雄のようなロマンス(その後は凄惨と言って良いのか?)を交えたエピソードなどか、という印象で、本当のところが知られていないように思います。これは新しい問題提起になるのでは、と思わせます。

AIさん、お大変でしょうが、必ず拝見させていただきます。気張って準備にご活躍されんことを・・・


国立歴史博物館 AI - 2005/07/15(Fri) 10:04 No.3104  

 57聯隊が主人公とまではいかず、佐倉だけで10個聯隊ほどが編成されていますので、郷土聯隊と地域の関係の展示になると思います。従って聯隊史展ではありませんが先の戦争も重要な展示の一つとなると思います。満州孫呉にも7年間ほど駐屯してましたのでその資料も集めたいと思います。9月に孫呉に行ってきます。


佐倉の連隊 バガボン - 2005/07/15(Fri) 23:38 No.3109  

「郷土聯隊と地域の関係の展示」ですか。家族が兵隊さんに会いに行く話や、またそのためにいろんな商売が成り立っていたような話をよく聞きますが、そんな「風景」の展示など・・・こりゃ、陳腐でダメですね。

「佐倉だけで10個聯隊ほどが編成されてい」たのですか。佐倉では、「北支那方面軍の32師団歩兵第212連隊」が編成され、中国戦線からフィリピン南方のハルマヘラ島に転戦し苦労された話を少しだけ読んだことがありました。レイテ島のように大変な戦争を戦ったのでしょうね。


佐倉の連隊 AI - 2005/07/16(Sat) 09:20 No.3110  

<家族が兵隊さんに会いに行く話や、またそのためにいろんな商売が成り立っていたような話をよく聞きますが、そんな「風景」の展示など・・・こりゃ、陳腐でダメですね。

 いいえ、展示資料になる写真とかがあれば歓迎の話ですが、聯隊での入浴、食事、就寝、商人との繋がり、下宿先など、とにかく今調べて集めている所です。面白い証言があればビデオにしての展示の案もあります。

 焼却処分が本来で、日本に現存の軍旗は2旗しかありませんが、どちらも佐倉編成聯隊であることも珍しいことです。このように現物や写真があれば一番展示によいのですが。57聯隊旗は満州孫呉の時にすでにボロボロでほとんど房と旗竿だけになっていました。

 212聯隊もその一つですが資料があまりありません。


証明 ノロ - 2005/07/16(Sat) 23:28 No.3111  

>そうすると私が生まれた昭和18年は間違いなく孫呉県は存在していたようですが、>公式記録で証明しようとすると難しそうですね。

証明と言っても、一般的な出版物では証明にならないのでしょうかね。
出版物のなかに県の由来が書いてあるとか、県長、副県長の名簿があるとか、そういうのではだめで、必ず官庁の書類でなくてはいけないのだとすると、ずいぶんと杓子定規な話ですね。
AIさんの場合は戸籍謄本があったからよかったものの。


証明 AI - 2005/07/17(Sun) 08:47 No.3114  

 戸籍は厳密でしょうから本来は満州国告示○号で県になったとかの資料が必要でしょうね。生地を市区町村までの表記に変更したのは差別防止のためでしょうから、本人が何かの資料で孫呉県が存在していたと提出すれば、それを否認する資料がない限り訂正されるでしょうね。おそらく孫呉県は存在しないと根拠ある資料で判断して削除した訳ではないのでしょうから。


『世界』8月号 投稿者: 投稿日:2005/07/08(Fri) 00:01 No.3070   HomePage
 お久しぶりです。
 
 突然ですが、本日発売の『世界』8月号(岩波書店)に、日中関係についてエッセーを書きました。ご高覧いただければ幸いです。

 http://www.iwanami.co.jp/sekai/



Re: 『世界』8月号 ローラ - 2005/07/08(Fri) 11:56 No.3073   HomePage

高さん、
次々と執筆されてご活躍ですね。
是非読ませていただきたいと思います。


Re: 『世界』8月号 Tomo - 2005/07/09(Sat) 21:16 No.3077  

高さん、「世界」のエッセイを拝読。8頁の力作でした。

まず、高さんの日本語に脱帽。そして、日本のトラウマに切り込むようなとても大事な問題提起と感じました。

高さんは、まず最近の日中関係に現れた特徴を「リスク」と「カード」とに見いだします。日本においては、経済や観光では、問題を「リスク」に代表させて、それを避けることができれば良しとし、政治・外交などでは、チャンスと見るや切るべき「カード」として使うことで切り抜けようとする、という訳です。

高さんが俎板にあげられた問題点は、失礼ながら平たく云ってしまえば、「難しいことはよくわからないけど、何か良いこと見つけて互いにハッピーならいいじゃん。むずかしい昔のことはそのうち時が解決してくれるでしょう」という現代日本人の処世観が日中関係に現れたところのものです。

高さんは、それじゃ、問題をすり抜けることは出来ても解決できないのではないか、と指摘しておられます。そこで新たに提起される道は、「日中両国がこれからともに担っていかねばならない『厄介といえば厄介、貴重といえば貴重な重荷』(堀田善衛)ともいえるタスク(課題)」としての道です。

高さんは「ここで、『歴史の共犯者』という言葉を思い浮かべる。過去と現在との共犯、中国と日本との共犯という二重の意味の込められているこの言葉によって、交感の手がかりがつかめないものか。」と書いておられる。ここは、ぜひ原文にあたって頂きたいのですが、日中両サイド共に、もう一度、冷静に歴史の諸局面を「共犯者」として見直してみようと訴えておられます。それが日中共通のタスクだろう、つまり、エッセイのタイトル=「リスクからタスクへ」なのです。

しかし、このタスクはなかなか難しい、お会いする機会があったらいろいろお聞きしたい、と思わせるエッセイでした。


Re: 『世界』8月号 ケン - 2005/07/12(Tue) 22:24 No.3094  

日中関係について、高さんがエッセイにまとめられたのも、そもそもは小泉首相の靖国神社参拝が「問題化」されたからでしょうか。文芸春秋8月号には靖国参拝について日中韓のジャーナリスト、大学教授の論争(北京、中国大飯店で行われた)記事がでています。読む前の予想通り結論はでません。私(読者)にとっては両者の解説、意見の中に新たな知見をすることもあり、大いに得るところがありました。決して不毛の論争ではない。


Re: 『世界』8月号 ローラ - 2005/07/13(Wed) 16:45 No.3095   HomePage

高さんのエッセイを読みました。
難しい問題が山積みの感は否めませんが、とにかく日本にとって、アジア近隣各国との友好は絶対に大切にしなければならない課題だと思いました。


Re: 『世界』8月号 潟元 - 2005/07/14(Thu) 21:58 No.3102  

私も読ませていただきました。非常に興味深いものでした。

私は中国にいるときは中国側の論調で語ってしまうし、帰国すると日本の立場も解ってくれという気になってしまいます。
この問題根本がズレているから同道巡りのような気がします。
一度、日本側の右派と中国側の右派とでテレビタックルのように自由に論じさせて(笑い声のオバサンはいりません)、きっちり歴史認識の差を埋める場でも設けた方がいいのか(あくまで話し合いですよ話し合い。武力はいけません、武力は)とさえ思ってしまいます。

一日も早く本当の平和とはなんなのかを互いに平等の立場で語り合える日がくればいいのですが。
満洲出身の方が一人減るたびに戦争への歩幅が縮まっている、そんな気がしてなりません。


お尋ねします 投稿者:喜太 投稿日:2005/06/19(Sun) 22:01 No.2939  
お尋ねします。旅順に1910年代から終戦ぐらいまで住んでいた菱田正基という人についてご存知の方はいらっしゃいませんか?どんな人物であったのかと、いろいろと調べているんですが詳しいことが全くわかりません。情報がありましたらお教えください。よろしくお願いします。


Re: お尋ねします ローラ - 2005/06/20(Mon) 14:21 No.2943   HomePage

旅順に住んでおられた方はあまり出入りしていませんね。
それに皆当時は子どもでしたから…。


Re: お尋ねします 路傍の小石 - 2005/07/06(Wed) 22:47 No.3063  

喜太さん、はじめまして。旅順出身の路傍の小石と申します。
前から噂に聞いていた『ムクデン満鉄ホテル』に行きたいと思い、
ホ―ムペ―ジを捜していて、この談話室を見つけました。
菱田正基氏の事を知りたいとの事ですが、どんな事を調べておられるのですか?何がきっかけですか?
菱田正基氏は、我が母校の教職にあった方と思います。
日露戦争の旅順攻略を描いた「肉弾」の著者櫻井忠温のご子息に嫁がれた方が、菱田正基氏のご息女ではないかと思います。
私より20年も先輩の方ですが、ちょっとしたご縁があって、個人的に存じあげておりますので、問合せして差し上げましょうか?
その場合、喜太さんの事を先方にお話しなければ失礼かと思いますので、先方にお話出来る事柄をMAILでもご連絡下さればと思います。
★路傍の小石★

追記;ノ―ラさん、お名前を見つけてびっくりしました。
上葭同窓会では、久しぶりにお逢い出来て、
嬉しかったです。


ありがとうございます。 ローラ - 2005/07/07(Thu) 00:16 No.3064   HomePage

路傍の小石さま、満洲談話室へようこそ。
管理人のローラです。
ネットは有り難いですね。
ほぼ諦めていたのですが、ご存じでしたとは…(@_@)
喜太さんにはレスのあったことをメールでお知らせしておきました。

路傍の小石さまの書かれた手記も読ませていただきましたよ。
上葭同窓会との接点が今イチ分かりませんでしたが、ノーラさんをご存じでしたか!


お久しぶりです。 TADA - 2005/07/07(Thu) 19:19 No.3066  

路傍の小石さん 
お久しぶりです。
F戦前でお世話になった浅野です。お元気そうな姿に接し嬉しいです。ここではTADAで出ています。

9月にはこの談話室主催の満州ツアーに参加し、途中別行動で孫呉出身のAIさんと生誕地の孫呉を訪問する予定です。



Re: お尋ねします ローラ - 2005/07/07(Thu) 22:24 No.3068   HomePage

路傍の小石さんのお名前どこかで見たと思ったのは、F戦前のお仲間でしたか…。

そうそう、ツアーでは旅順見物もしますよ。(*^_^*)


Re: お尋ねします ノロ - 2005/07/09(Sat) 23:17 No.3078  

ローラさん、こんにちは。
>そうそう、ツアーでは旅順見物もしますよ。

旅順見物は旅順要塞へ行かれると思いますが、偽物にご注意、です。
二百三高地の、登り口と反対側にある石積みの塹壕は中国人による最近の
造作です。1995年ごろまではなかったものです。

最近あらたに見学が可能になった西南山頂にも同じ様なものがあります。
歴史改変はこまったものですね。
もっとも、水師営会見所のような真面目な「再現」は有り難いですが。


中国東北地方の旅 ローラ - 2005/07/10(Sun) 07:09 No.3079   HomePage

>二百三高地の、登り口と反対側にある石積みの塹壕は中国人による最近の造作です。1995年ごろまではなかったものです。

ノロさん、情報ありがとうございます。
偽物には気をつけることにします。

ところで、ノロさんは孫呉へも行かれましたか?
孫呉組が2人きりでチョット寂しそうなのですけれど…。


Re: お尋ねします ノロ - 2005/07/10(Sun) 16:09 No.3083  

孫呉には行っていません。
私は寛甸、安東、孫呉、チチハル、新京に、この順に住みましたが、このうち寛甸と孫呉には行かずじまいでした。
あと、胡廬島から引き揚げ船に乗る前に暮らした「錦西集中営」の跡を探して錦西(現・胡廬島市)に3回行きました。
また、日露戦争ファンなので旅順には6〜7回行きました。

「孫呉組」のお二方とは、たぶんニフティでお話したことがあると思います。私の父が初代県長だった、と言えば思い出されると思いますが、違ったらごめんなさい。


やはりそうでしたか!! TADA - 2005/07/10(Sun) 20:39 No.3084  

ノロさん こんばんは。

ノロさんの一連の書き込みを見ていて、最近「もしや?」と感じていたところです。
又お会い出来て嬉しいです。確かチチハルの宮前国民学校の先輩になるわけですよね。私は20年7月頃1年生でわずか1ヶ月足らずの在籍でしたので、何もおぼえていませんが・・・。
ノロさんは孫呉では南孫呉の明和国民学校の方でしたか? 私は北孫呉の香取国民学校ですが昭和20年3月までは明和国民学校の分校だったそうですね。

ご承知のように9月にAIさんと孫呉を訪問することにしています。最近は黒河まで航空機がありますので前より大分楽になった様です。
これを機会に又孫呉の事をいろいろ教えて下さい。

過去ログをご覧になっていると思いますが1年ほど前、ノロさんのお父上と時期が一致するかどうか判りませんが孫呉の副県長(副知事?)のお孫さん(ねこさん)がここに書き込みをしています。
 



やはり!! ローラ - 2005/07/10(Sun) 21:38 No.3085   HomePage

>確かチチハルの宮前国民学校の先輩になるわけですよね。

わーい、ネットの世界は広いようでやっぱり狭いですね。
その内、同窓会ができるかな。(*^_^*)

照爺さんが写してきた校歌です。(ムクデン満鉄ホテル)



Re: お尋ねします ノロ - 2005/07/10(Sun) 23:35 No.3086  

TADAさん、こんばんは。お久しぶりです。
私は孫呉ではまだ小学校に行っていませんでした。最初に入った2軒長屋の官舎から、野原を隔てて小学校が見え、姉が通っていました。ときどき姉に連れられて遊びに行きましたが、まだしっくいの匂いのする新しい校舎でした。というわけで、小学校の名前も知らないのです。申し訳ありません。

それが昭和15年のことで、翌年の春先にチチハルに引っ越して小学校に入りました。おっしゃるように宮前国民学校です。チチハルは2度行きました。宮前の校舎は建て替えられていますが、1995年に行ったときははまだ一部残っていました。TADAさんはチチハルに行かれましたか?

9月に孫呉に行かれるとのこと、うらやましいです。「北満」を満喫して来てください。


路傍の小石さん、ノロさん AI - 2005/07/11(Mon) 09:57 No.3087  

 路傍の小石さんお久しぶりです。F戦前にてお世話になっておりました孫呉生まれのAIです。同じ名前をお使いですのですぐ分かりますね。
 ノロさんにも孫呉の資料を送って頂いた記憶があります。お父上が孫呉の県長さんを勤めておられた関係で歴史に詳しかったのを覚えております。
 9月9日より1週間TADAさんと孫呉に参ります。私は当時1才でしたので思い出はないのですが、生還者・123師団史・ノロさんからの情報などをこの眼で確かめに行くのが目的です。
 孫呉は家族父母私の3人が幸せに暮らした唯一の場所ですので60年前の自分の歴史の始まりを確かめるためにも楽しみの旅行です。
 父は孫呉からレイテに転戦して戦死、母と私は終戦前に帰国、その直後母は病死。病名は孫呉熱との話も伝わっています。
 最近の戸籍には生地の市区町村までの表記しかしないそうで、私の戸籍は満州国の表記のみでしたがTADAさんから戸籍謄本を頂き孫呉県まで書き込みの訂正をしてもらいました。満州国だけの表記では広すぎ子孫が調査した時ルーツが分からなくなるからです。
 私とTADAさんの戸籍の表記が異なり、生誕当時孫呉県が法律上存在していたか調べるのも難しかったのです。ノロさんのお父上は何年頃に県長さんをされておられましたか。
 ノロさん、来年佐倉の国立歴博で57聯隊関係の展示を予定しています。「一般の人から中高生にも興味を持てるように目で見える」現物、写真、模型の展示を考えていて、今資料を集めている所です。当時の酒保などの再現も考えてます。なにか資料をお持ちまたはご存じでしたらご紹介願います。


長くなりそうなので… ローラ - 2005/07/11(Mon) 11:32 No.3088   HomePage

AIさん、勝手ながらこの投稿は上に持っていきます。
皆さん、レスはそちらでお願いします。m(_ _)m

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