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旧満洲談話室
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満州談話室の存在意義 投稿者:あなたのやぎさん 投稿日:2005/08/13(Sat) 17:47 No.3311  
私は約2年前に満州談話室ができた頃から投稿は少ないが、ずーっとここの談話室の常連のつもりでかかわってきたものです。私たちは満州からの引揚者です。あるいはその縁者もおられます。
私どもはソ連侵攻の日から運命はがらりと変わり、命からがら日本に戻って来ました。親や兄弟を失った方も大勢います。
いわば満州という場で戦争の残酷さを受けてきました。日本に帰ってからも私たちの親の世代は何も言わずに死んで行きました。その悲惨さに口を聞けなくなった人も大勢います。そのときのトラウマでいまもフラッシュバックでパニックになる人もいます。
ローラさんが満州談話室を開設するまで満州関係の人との繋がりまありませんでした。ここに来てそんなこともあったのか、あんなこともあったのかと少しずつ分かってくる様になりました。横のつながりも出来るようになりました。ここは私たちのオアシスなのです。組織的な活動もしないで、自分の個人的な体験しか知らなかった満州からの引揚者たちが、やっと話し出したのです。
最近いろんな人が書き込むようになっています。もちろん私たちと同じような気持ちで書き込みされているかたもおられます。
どうかお願いです。○○主義だとか△△主義だとか政治的な論争の場にすることは管理人のローラさんものぞんでないと思います。何かとげとげしい掲示板になったようでとても悲しいことです。論争はどこか別の場でやってください。
満州談話室が以前のような場に戻ることを節に願っています。
今はローラさんが不在です。どうかそっとしてやってください。


ただいま。 ローラ - 2005/08/14(Sun) 08:09 No.3319   HomePage

あなたのやぎさん、ありさん、ご心配をおかけしました。
入院中の94歳の姑(はは)が発熱して食欲を無くしていたり、静岡で親戚の者の突然の訪問を受けたりして、昨夜は遅く帰宅しました。

>何かとげとげしい掲示板になったようでとても悲しいことです。

これまでは極力寛容に見守って参りましたが、この談話室存亡の危機かも分かりませんね。
今回はすでにレスも付いてしまいましたので、そのままにしますが、今後、この談話室にとって妨害投稿・迷惑投稿と判断した時には削除させていただきます。
命を産み育ててきたものはどうしたって命を守りたいのです。

バガボンさんについての質問がありましたが、ずーっと以前の自己紹介の記憶によれば、60代です。
若いとは言えないでしょう。


Re: 満州談話室の存在意義 北のコーリャン - 2005/08/14(Sun) 19:52 No.3320  

 ローラさん、最近おかしな者が出入りして談話室を汚していますね、純粋な気持ちで支えて来た我々には我慢出来ない事態です、満州談話室存亡の危機かもしれません。
 回りくどい話は抜きにして、提案します、われわれ談話室を愛する有志が集いて、純粋な満州談話室を永続させるために「評議委員会または審査委員会」つまり「投稿された文言が談話室に相応しいかどうかを審査する」、を設けてこれ等「不適格」な投稿を審査し不適格ならば、削除やブラックホールに放り込むなり、どこぞの物置に放り込むなどの処置をする機関を設けましょうということです。 

 管理人ばかりに重荷を負わせることはないと思います、
旨いかまずいか判りませんが時折入れてくれるコーヒーを味わいながら、古き物語を語るひと時を大切にしたいと思っている「北のコーリャン」古い奴とお思いでしょうが、まだ満州談話室には消えて欲しくない「満州帰り」です。


勇気百倍 ローラ - 2005/08/14(Sun) 21:48 No.3321   HomePage

よう、久々に出ましたね。コーリャン節!
審査委員会なんちゅう強〜い味方が付いてくれたら、それだけで迷惑投稿は消えるでしょう。
(⌒▽⌒)アハハ!

大陸生まれ、大陸育ちの連帯感は理屈じゃないのよね。
北のコーリャンさん、
もっと、もっと頻繁に訪れて大声で話していってください。
コーヒー今夜も出しますよ。(*^_^*)



寛平大路か北胡同か 投稿者:ノロ 投稿日:2005/08/10(Wed) 14:13 No.3295  
「チャーズの検証」はハードカバーの旧版を読んだのですが、それが姉の所に行ったままなので、改めてネットで取り寄せたところ、ソフトカバーの新版は大幅に改定増補されていて驚きました。長春チャーズ事件の責任は日本にある、という遠藤誉さんの信念はますます固くなったようです。

それはさておき、現場の地図は相変わらず不明瞭です。新版の地図では、チャーズ(中共軍側の関門)のあった道路には寛平大路と書き込んでありますが、その寛平大路に第7代用官舎(進化街官舎)の南端と春光小学校とが接しています。そして道路は踏切を越えて鉄道西側に伸びています。これらの特徴は、寛平大路ではなく寛平北胡同のそれです。当時の寛平大路は未完成で、寛平北胡同が東西のメイン道路の代わりをしていました。そして大路と胡同との間は空き地だったのです。

しかし遠藤誉さんは、現在寛平大路の鉄道跨線橋のたもとにあるポリスボックスが関門跡だ、と言っています。関門が寛平大路にあった、と考えれば話が合う点は、遠藤誉さんのどれかの本に、チャーズの後ろは土盛りがあってその向こうはなにがあるか見えなかった、と書いていることです。当時の寛平大路の工事現場には、なんのためか延々と1.5メートルくらいの土盛りがしてあったのです。またその南側は急激に落ち込んでいたので、北側からは道路の向こう側がよく見えませんでした。

また、上記のように大路と胡同の間はワンブロック分(+大路の道幅分)の空き地でしたから、関門の前の難民集合場所にふさわしいです。逆に寛平北胡同だったとすれば、難民集合場所は砲撃で崩れたれんが建て官舎の間にあったことになります。

もう一つは井戸です。遠藤誉さんは難民集合場所に一つだけだったという井戸のことを書いていますが、その井戸は関門の近くにあったように受け取れます。それと符合して、ポリスボックスの土手のすぐ下にあるブロック囲いの井戸がその跡だ、と遠藤誉さんは言っています。(もしそうなら、ヒューム管囲いだった昔の井戸が改造されたことになります。)しかし疑問なのは、このような工事現場近くの空き地に井戸があっただろうか、ということです。このあたりの官舎街には割と多くの井戸があり、例えば私の家(洪煕街の東側で寛平北胡同に接していた)の近くでは隣の建物の裏庭にありました。しかし空き地の井戸はちょっと想像し難いのです。井戸の点からは寛平北胡同説が有利です。

チャーズの関門が実際はどちらにあったのかは、なかなか頭を悩ませる問題です。


長春チャーズ事件の責任 バガボン - 2005/08/10(Wed) 20:30 No.3298  

ノロさん、絶妙なタイミングでご登場ですね。ご無沙汰しました。

ちょうど、ノロさんの顔(ン?)を思い浮かべていたところでした。遠藤誉さんの「チャーズ(上・下)」(文春文庫)、「チャーズの検証(ソフトカバー)」および「されど、わが『満洲』」の遠藤さんと竹中さんの体験談を読んでみました。チャーズについて質問させてください。寛平大路か北胡同か、については、判断情報を持ってなくて失礼させてください。

ノロさんからさておかれた「長春チャーズ事件の責任」についてお訊ねします。遠藤さんは、特に「検証」において、仰せのとおりその責任が日本にあると言っておられます。が、文春文庫などでは、とても揺れているような印象でした。

私が読んで感じたのは、一義的には長春の「党」がどう責任問題を解明しているのか、いないのか、が問題だろうということでした。「軍」は、その本質からして反省などせず、「市」当局は、現在の市当局には責任ない、と言う以外にないだろうし、「党」中央は、地方に振るに決まっているので、長春市の「党」しかそれが出来るところはありえないのです。遠藤さんは、「長春党史史料」などを引いてかなり多面的に考察しておられますが、その史料などから経過報告を引いても「党」の責任については明言しておられません。この責任について、これまで「党」の意思表明はどこにもないのですか?

なお、「検証」が、チャーズそのものの諸検証ではなく、「大地の子」が盗作であることの検証だったのにはビックリしました。で、裁判では敗訴だったのですね(!)。

ついでに、先日、ある国際機関の中国人職員と話す機会がありました。彼は、長春チャーズのことをよく知っていて、長春市の略図を紙に書いて関門の位置を示し説明してくれました。大勢の人が餓死したのだ、とも声高に言ってました。彼の両親は、吉林のそばの街で軍の職員をしていて結婚し、彼もそこで生れたのだそうです。彼の歳は50チョット前か。残念ながら、時間がなくてそれ以上は聞けませんでしたが、ヒョッとして地元では、皆さん、よく知っておられるのでしょうか?竹中さんもタクシー運転手から聞いておられますし・・・


チャーズの検証 ローラ - 2005/08/10(Wed) 21:42 No.3299   HomePage

>長春チャーズ事件の責任は日本にある、という遠藤誉さんの信念はますます固くなったようです。

「日本の侵略行為がなかったならば、チャーズは現出しなかったのではないだろうか。」の遠藤さんの結論にはかなり吃驚しました。
「満洲国」の主都だった長春に対する毛沢東の気持ちと蒋介石の気持ちの分析。
訪中を前に良い勉強になってます。
本の紹介ありがとうございました。


Re: 長春チャーズ事件の責任 ノロ - 2005/08/11(Thu) 16:58 No.3300  

バガボンさん、こんにちは。お久しぶりです。

チャーズ事件について中共(中国共産党)内部で責任の押しつけあいがあるかどうか、知りませんが、あまりその必要はないのではないでしょうか。なぜならチャーズ事件の場合は国民党という、絶好の押しつけ相手がいるからです。中共の公式の立場は、「長春包囲戦において蒋匪のために餓死に瀕した多くの市民を人民解放軍が救った」というものでしょう。なにかで読んだ覚えもあります。

「雪白血紅」の著者・張正隆は軍人ですから、直接に党/軍の責任を問うようなことは書いていませんが、彼が取材したという兵士の言葉に語らせていますね。「我々は貧乏人のために全国制覇しようとしていたのではないのか?餓死したこれほど多くの人たちの中に、何人の金持ちがいたというのか?何人の国民党がいたというのか?みんな貧乏人ではないか。」
バガボンさんが話される機会があった国際機関の職員の方がチャーズ事件の責任についてどのように考えておられるのか、知りたいですね。

私も長春のタクシー運転手や、長春出身で日本に来ている中国マッサージ嬢など、何人かの中国人に聞いてみましたが、一般的に感じるのはチャーズもすでに昔話でしかないということ、もう一つは「囲困」すなわち兵糧責めという言葉で、チャーズという特殊な状況を一般的な包囲戦下の状況にひっくるめてしまう傾向があるということです。

なかでちょっと印象的だったのは、私が人民広場で会った、40台くらいの露天書画売りの男性です。この人は日本語は独学、満洲国時代のことは「新京案内」という観光冊子で勉強した、という人でしたが、私が日本語の練習台にされていろいろ話したなかで「家はどこですか」と聞くので「洪煕街です。チャーズのすぐ前です」と、わざと「チャーズ」を脈絡なく入れて答えたら、にこにこしていた顔をゆがめて横を向いて、「ふん!」と鼻を鳴らしました。それからまた「学校はどこですか?」と聞くので「春光小学校です。やはりチャーズのすぐ前です」と答えると、また同じ動作をしました。この「ふん!」は、これから掛け軸を売りつけようという相手に対して「ふん!日本人がなにを言うか」ではないでしょうから「ふん!八路めが!」という「ふん!」でしょう。チャーズを根に持っている長春人もいるのかな、と思ったことでした。


Re: 寛平大路か北胡同か バガボン - 2005/08/11(Thu) 22:30 No.3301  

ノロさん、興味深いお話をありがとうございました。

小生、今日からバガボンモード。落ち着いてから、書き込みさせて頂きます。


長春チャーズ事件 ケン - 2005/08/12(Fri) 02:30 No.3302  

>長春チャーズ事件の責任は日本にある、という遠藤誉さんの信念はますます固くなったようです<

これは意外です。がなにも知らずして反論はできません。
ひとつの事象について、いろいろな説が多いほど然るべきだと思うこのごろです。本事件について、どれほどの情報があるか知りませんが、教科書にもない、記念碑すらないとなると関係する指導層にとっては公表すべき類のものではないと今まで固く考えてきたからでしょう。
 
 付け焼き刃てき知識ですが、下記サイトから得られる情報もone of themと思いました。賛否はともかく、一読の価値はあります。なお、事件の場所については、このサイトの17,18に詳細に記述されています。


長春チャーズ事件 ケン - 2005/08/12(Fri) 02:35 No.3303  

 皆様 失礼しました。No.3302に紹介しょうとしたサイトは、http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/china/1093496353
です。


Re: 寛平大路か北胡同か ローラ - 2005/08/12(Fri) 08:08 No.3304   HomePage

ケンさん、
紹介されたサイトは確かノロさんが書いたはず〜〜。(^○^)


寛平大路か北胡同か ノロ - 2005/08/12(Fri) 23:05 No.3306  

ケンさん、こんにちは。私の2チャンネルのスレッドを読んでいただいてありがとうございます。2チャンネルで私が書いた場所の話は、遠藤さんの「チャーズの検証」に書いてある関門跡が正しいものとして、その場所を現地で探したのです。この談話室に書いたのはそこから先の話で、遠藤さんの言う関門跡の位置についての疑問を書いたのです。

しかしどうしても「井戸」が気になるので、その後、「・・検証」や最初に読んだ「チャーズ・出口なき大地」のなかの、引用されたいろいろな手記を読み直して見ました。すると、どうも進化街官舎の廃墟で暮らした話に続いて「井戸」の話が出てくることが多いです。そう思って「チャーズ」の地図を見直すと、こちらのほうがかえって具体的で、「井戸」はちゃんと「廃墟」のなかに示してありました。

そうなると井戸から近かったという関門は寛平大路ではなく寛平北胡同にあったことになります。また難民集合場所は胡同と寛平大路との間の空き地ではなく官舎の廃墟の周辺だったのです(「チャーズ」の地図もそのようになっています)。現在のポリスボックスの下にあるブロック囲いの井戸は無関係です。もういちど本当の井戸を探す必要が出てきました。

寛平北胡同も包囲線として不都合ではありません。なぜなら、進化街官舎と洪煕街との間で、寛平北胡同もまた、北側の土地より一段高くなっていたからです。私は洪煕街の自分の家と進化街官舎との間を歩きながら、北側の谷底の小川をはるかに見下ろしていた記憶があります。

当時は寛平北胡同がこのあたりの東西のメイン道路、現在は寛平大路がメイン道路、ということから、遠藤さんはこの二つを混同してしまわれたのではないでしょうか。ということで、現在の私の結論は「寛平北胡同」です。チャーズの跡を訪ねるならば、現在の寛平大路の北端から100メートルほど北へ寄った鉄道寄りの場所がそれです。


長春チャーズ事件の責任 ノロ - 2005/08/13(Sat) 04:58 No.3307  

>中共の公式の立場は、「長春包囲戦において蒋匪のために餓死に瀕した多くの市民を人民解放軍が救った」というものでしょう。なにかで読んだ覚えもあります。

なんで読んだか、思い出しました。錦州の「遼瀋戦役記念館」の展示パネルの説明にこのようなことが書いてありました。


Re: 寛平大路か北胡同か バガボン - 2005/08/14(Sun) 00:38 No.3317  

No.3301の書き込み以後、ようやく荷を解き落ち着いたと思ったら、幽霊が出たので、そちらに寄り道してしまいました。

ノロさん、ケンさん、ローラさん、交信を興味深く拝見しました。ありがとうございました。

ノロさんの「チャーズは北胡同」のお説、推理小説以上におもしろく読ませていただきました。私も地図を眺めながらこの類の推理をすることは大好きです。家にある長春の地図で追ってみようと思います。

またしばらく旅です。旅舎での思索は、時間さえ確保できれば日常から離れて具合が良いのですが、しばしば身体にこたえます。では、ごきげんよう。


「あなたのやぎさん」ありがとうございます... 投稿者:ありさん 投稿日:2005/08/13(Sat) 23:08 No.3315  
13日のコメント、本当にありがとうございます。私も、純粋に出生地である旧満州のことが知りたくて、「談話室」をのぞくようになりましたが、最近の流れ?<他でやってください!!!>と言う気分でいっぱいです。8月15日がらみで仕様がないのかなと思いつつ、もう少しのぞかせてもらおうと思っております。


Re: 「あなたのやぎさん」ありがとうござい... 茉莉子 - 2005/08/13(Sat) 23:40 No.3316  

これは「あなたのやぎさん」スレに続けるべきだったのでは?

あと「バガボン」あなた若いでしょ?


お盆・お墓参り帰省 投稿者:ローラ 投稿日:2005/08/12(Fri) 08:13 No.3305   HomePage
今日と明日留守にします。
混雑はピークらしく、その上雨。
でも、お婆さんが待ってるから頑張ろう。


留守をねらって 靖国の母の子 - 2005/08/13(Sat) 09:13 No.3308  

聡明なローラさんには靖国の母の身元がばれているようですので、お留守を狙い、15日を前にして頭の痛い写真をご覧に入れます。(ローラさん、見次第管理者削除されても文句はいいません。)

片田舎のお宮にある絵馬のひとつです。昭和45年奉献とあります。インテリさん達はこれを奉納した老兵士をアナクロニズムと笑いますか?
この人が哀願する無抵抗の人民を殺しているかもしれないし、そうでないかもしれません。多分、一抹の懺悔の気持ちは持ちながらも、軍旗のもとで戦った足跡を語り継げたい、軍旗のもとで死んでいった戦友に捧げたいというような心境ではなかったでしょうか。
源平だの戦国だの徳川だのと血なまぐさい争乱と出世物語を得意とするNHK大河ドラマに見るように日本人のDNAを消し去ることはできません。今も目の前で小泉流血のDNAドラマが繰り広げられているではありませんか。

私はこの老兵士を時代錯誤の軍国主義者とワンサイドに極め付けることはできない心境です。



Re: お盆・お墓参り帰省 潟元 - 2005/08/13(Sat) 13:37 No.3309  

場違いなレス申し訳ございません。

北野武が著書で「戦国時代まで遡れば今生き残っている人はみんな人殺しの末裔。昔は敗北者は一家断絶だったんだから。現代まで生き残ってきたのは幾ら奇麗事並べてもみんな戦勝者の末裔なんだ」と述べています。また水野晴郎は映画の中で「軍人は皆殺人者の素養を持っておる」っと自嘲的に発言しています。

愛する家族の明日の食事を稼ぐため、恩給目当て、体裁のため、天皇陛下のため、ま、理由は様々でしょうがみな致し方なく出かけていったのだと思います。
あの頃の国民は、国に対する忠誠心など、現代の人々と感じる立場が違うのですが、1972年生まれの私にはどうもその辺がよく判りません。物心ついていた皆さんはあの頃出征する家族の背中になにを思っていましたか?ラジオの、新聞の戦果報道に率直なところどう思っていらしたのでしょうか?

戦後の社会主義的な自虐論を前提に育ってきた私たちの世代にはトンとその辺が理解できないんですよね。戦勝報告続きの戦中なんて実感したことがないから。戦勝報告の間人々はなにを考えるのでしょうか?戦争が惨めになれば当然背中を見る目も変わります。それ以前、日本人はどのように出征者の背中を見たのでしょうか?


再び留守を狙って 靖国の母の子 - 2005/08/13(Sat) 17:09 No.3310  

”火を付けて 降りかかる火粉に 驚きて あわてて取り消す 日本のインテリ”
この狂歌に沈黙を守る人とやたら存在感を出そうとするインテリの中間で、潟元さんのようなものの考え方の人がいることに驚き、かつ安心感を覚えます。

国民皆兵、徴兵制度の下では、入営と戦地への出征とでは受け取り方が違っていたのではないでしょうか。それも百人が百人とも家庭や職業の環境が違いますし、応召や志願によっても、また戦争前期と後期でも違うと思います。

極論すれば、日本は戦争で悪いことをしたという思想統一をされた戦後の方が遥かに分りやすいですね。さすがに、60年もたつと潟元さんのような意見を表明する雰囲気が普通のものになりつつあるようですが。


歩兵第18連隊 バガボン - 2005/08/13(Sat) 21:40 No.3312  

まず何よりも、興味深い写真を紹介いただいて、そのことに感謝いたそう。

しかし、あのな〜、なんぼ、お盆だからといって、幽霊が出てくるとは思わなんだぞ。そのうえ、おぬしの出現は午前9時13分。幽霊は朝のうちから出るもんじゃない。それともそちらとは時差があるのかえ?

それはともかく、歩兵第18連隊。これは、豊橋に本拠を持った満洲ゆかりの連隊。日清、日露の両戦争からはじまり、天津、盧溝橋、上海、南京などで戦った後、関東軍の29師団に編入された。昭和19年2月に南方転用となり、3月には乗った輸送船が攻撃され多くの兵士が戦死するなかでサイパンに進駐し米軍と戦い、その後もグアムへの転戦をしつつ、幾多の激闘を繰り広げ、いくつかの隊は全滅、玉砕。ここには、日本の歴史の重要な局面が凝集しておる。そして、生きて帰りし兵隊さん達は、戦友会を結成して逝きし戦友とその日々を偲んできたと聞く。

二宮清隆さんがどのようなお方か小生は存じ上げぬが、その思いは深いものがあると想像される。

ヒョットして、おぬしは、18連隊で南方で召されたお方の幽霊かな?

それであれば、見当はずれのことを書き込むんじゃなく、南方でどんなことがあったか、何を思って戦われたか、そんな話を潟元さんはじめ、戦争を知らない若い世代に聞かせてほしいも
のじゃ。60年以上の時を経て、今、そのように話し始めた方々がおおぜいおる。若い人たちは、そういった話に耳を傾けて、抽象的な戦争論でも、ゲームみたいな未来論でもなく、事実を見つめた思索を深めてほしいのじゃ。そこからは、きっと、若い世代らしい日本、アジア、世界の新しい平和への道が見えてくるにちがいない。これが、戦前の我が国の歴史からのわしの教訓じゃ。戦前は、国民が事実をひろく知らされず、自由闊達な議論がなくひとつの方向へ向けられ、その結果、戦争はどんどん拡大した。事実をひろく真摯に見つめ闊達に議論するのでない抽象的は論争は、良い結果を生むこと少なし。

ところで、おぬしの書いてることは、どんなインテリのことか知らんが、自分勝手にインテリ像をスクリーンに映し出してそれに向かって切り込んでおるように見当はずれジャぞ。

幽霊姿でうろつき回るのでは、おっかさんも悲しむことであろう。おっかさんがどんなふうにお前さんを送り出し、どんな気持ちで戦死の公報を押し頂いたか。そのあたりのお話は、通り一遍のものではなく、数多通りあったはず。それらにじっくり耳を傾けるのも、60年目のお盆には相応しいように考える。よろしく頼むよ。

ついでに、「バガボン」は Vagabond で辞書によると「放浪者、さすらい人」。しかし、マイナスなイメージもあるようで、わしは口が悪いので、それもまた真かと思っています。


Re: お盆・お墓参り帰省 潟元 - 2005/08/13(Sat) 22:28 No.3313  

>> 南方でどんなことがあったか、何を思って戦われたか、そん
>> な話を潟元さんはじめ、戦争を知らない若い世代に聞かせて
>> ほしいものじゃ。

ハイ、知りたい知りたい。本当に知りたいです。すごく大事ですよ、それ。ここで日常茶飯事交わされている皆様の思い出話は次世代の研究者にとって欠くことのできないものなのです。皆さんを失った後の我々は想像力を元に歴史を語り出します。如何に恐ろしいことかお解かりいただけるでしょうか?
その点中国人である高さんなど、僕は羨ましい!
聴ける機会が徐々に奪われているのです、皆さんには何気ない会話かもしれない(ローラさんには素性のわからない潟元さんたちに話すのは正直怖いと率直なご意見もいただきました)。でも、今!皆さんご自身が考えているよりもはるかに大きな価値を持っているということ、つまり「思い出話」ではなく「歴史の重大なる証言」であるということを、是非自負なさってください!

皆さんが「引揚者同士だけ」「そっとしておいて」という閉鎖的なお考えを持つことで、想像が妄想を呼び、結果最も悲劇的な結果を招く(一部で「彼ら引揚者は表立ってでは気が引けるから内輪で旧満洲時代の華やかなりし思い出話に耽っているのだ」とさえ言われていることをご存知でしょうか?)恐れさえあるのです。


Re: お盆・お墓参り帰省 潟元 - 2005/08/13(Sat) 22:52 No.3314  

遅ればせながらローラさんお疲れ様です!
お若いローラさんです!大丈夫ですよ!
ファイトファイト!頑張ってください!
僕も今日お墓参り行ってきましたよ!

(↑「!」ばかりでバカみたい)


いろいろお聞かせください 投稿者:ケン 投稿日:2005/08/09(Tue) 23:46 No.3289  
ローラさん 皆さん ケンです。久しぶりです。
戦争のことで、この談話室がこれほど賑わったのは私には初めてです。去年のこの時期にはなかった。
語るべき時が来た、か 他に語り合える談話室がほかになかったのかもしれません。何れにしてもこの談話室があったことは有り難いことです。ローラさんのおかげです。
 私はもっといろいろ語って欲しいと思っています。言い尽くしてください。チャンスはそうそうありません。
まだまだ、テーマにすべきことがあると思います。なぜ戦争にいたったのかが語られていません。
私の世代より若いかたたちが、戦争について知見したことや自分の思考を自由に述べ議論するのを興味をもって拝聴(拝読)しています。
できれば、HNだけでなく差し支えない範囲で自己紹介していただくとありがたいです。
 私は今年67才、大連生まれ、昭和20年小学校入学、同22年3月引き揚げ。造船業を長く経験。現在フリーです。ノーラさんは大連の学校の先輩です。


Re: いろいろお聞かせください ローラ - 2005/08/10(Wed) 10:06 No.3292   HomePage

ケンさん、お久しぶり。

>私の世代より若いかたたちが、戦争について知見したことや自分の思考を自由に述べ議論するのを興味をもって拝聴(拝読)しています。

興味をもって読んでいただけましたか。
それは良かったです。(*^_^*)
ケンさんも遠慮せずにご意見をお書きください。
私自身もとても勉強になってます。
ただ、常連さんたちから賛否両論いろいろ届いておりまして、管理人は頭が痛いです。

投稿される方は節度を守って、決して個人的誹謗中傷はしないようにお願いいたします。
可能な範囲での自己紹介もあった方が私たちは安心できますね。
男性が女装したりするのも止めて欲しいです。
正々堂々たる知的な話し合いは歓迎いたします。

どうぞヨロシク御願いいたします。



Re: いろいろお聞かせください 一子 - 2005/08/10(Wed) 11:26 No.3293   HomePage

ローラさん
管理人さんとしての、
ご心労、ご推察し、お見舞い申します。

>投稿される方は節度を守って、決して個人的誹謗中傷はしないようにお願いいたします。・・・云々・・・

よくぞ、仰って頂きました。同感です。





Re: いろいろお聞かせください ケン - 2005/08/10(Wed) 11:57 No.3294  

>私自身もとても勉強になってます。
ただ、常連さんたちから賛否両論いろいろ届いておりまして、管理人は頭が痛いです。<

ローラさんが頭 痛めることないです。貴重な場を提供しているだけで充分 価値ありです。
 高校の数年先輩が「千人針を語る」を出版した。これを読んだ私と同期の女性(満州・白山小学校)が「寅年の子がお目当てにされ、校門前で縫った記憶がある」と、また彼女から「先の戦争の記憶がある世代は私達位が最後になるのではないか、60年前どんな子どもだったのか、覚えているうちに、是非きかせていただきたい」と提案があり、10人近くが応じました。
 大阪在住者が多く空襲に会ったもの、兄弟ばらばらに親戚に預けられた話し、新品の皮ランドセルを持ち出せず逃げ、入学時には厚紙と布でできたランドセルに駄々をこねた話し、集団下校中、低空飛行してきた敵機が機銃掃射もせず飛び去ったこと、満州から引き揚げの話し等々、当時の感覚で生々しく綴っている。




Re: いろいろお聞かせください ノーラ - 2005/08/10(Wed) 18:53 No.3296   HomePage

ケンさん、お久しぶりです。

またお逢いできる日を楽しみにしています。
昭和7年8月生まれ。女性?ケンさんの小学校の名ばかりの先輩です。


Re: いろいろお聞かせください 博文 - 2005/08/10(Wed) 19:57 No.3297  

戦争や歴史問題って正誤判断つけられないものですよね。それぞれの国家のそれぞれの立場を尊重し合っていきたいものですね。

まずは「郷に入らば郷に従え」。もっともこれも語源の「入郷随郷」の中国の方の話では「我々は国を知ってから入るのよ」といわれ感心したものです。それ以降中国にお邪魔するときには「その土地の人と也を知って」からお邪魔するようにしています。

これからの日本人、臨機応変にアジアとうまくやっていきたいものです。

稚拙極まりない私のカキコでずいぶん掲示板を占拠してしまい申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m


♪談話室です。 投稿者:ありさん 投稿日:2005/08/09(Tue) 21:13 No.3284  
楽しい談話室にしましょうね…と言いたくなりました。


Re: ♪談話室です。 茉莉子 - 2005/08/09(Tue) 21:24 No.3285  

それは9日に言うことではないのでは・・・。


Re: ♪談話室です。 ローラ - 2005/08/09(Tue) 21:48 No.3286   HomePage

シュトラウスさん、
貴方もハンドルネームを変えるのが趣味のようですね。
ローラの眼は騙せないのよ。 o(*^▽^*)oあはっ♪

でも、この名前気に入ったわ。


Re: ♪談話室です。 ローラ - 2005/08/09(Tue) 21:56 No.3287   HomePage

あらまあ、茉莉子さんに変わってしまった。
シュトラウスの方が似合ってたのに…(≧m≦)ぷっ


Re: ♪談話室です。 ローラ - 2005/08/09(Tue) 23:43 No.3288   HomePage

9日のことは一子さんと博文さんが書いてくださったので十分だと思いました。
皆、それぞれの追憶に浸ったことでしょう。

ありさん、
長春会の旅行は予定通り行われますか?
反日運動の影響や参加者のアクシデントで我々の中国東北地方の旅は10名で催行になりそうです。
来月の9日に出発です。♪


8月9日と云う日 投稿者:一子 投稿日:2005/08/09(Tue) 10:02 No.3281   HomePage
あの日が、今年も・・・生有る内は、厭が上にも思い出さされます。
・・・あの日も暑い空だつた昼過ぎ寄宿舎の庭で金属音のキ〜ンと云う音太陽にキラキラ小さく光ってるのを見上げ「まさかB29じゃ無いよね〜」と語り乍友等と見送った事が、鮮明に・・・
あの時が穏やか日々とはサラバだ、ナンテ知る由も無く・・・


Re: 8月9日と云う日 博文 - 2005/08/09(Tue) 11:29 No.3283  

そうですね、そしてソ連が一方的に日蘇不可侵条約を破棄して国境線を越えてきた日でもあります。漢人鮮人いずれも不法入国であったとはいえ、他人の耕した土地を強奪した日本の開拓団、彼らに血の雨が降り注いだ最初の日でもあります。
「満洲」と耳にして「新天地」から「地獄」を思い浮かべるようになってしまったきっかけの日です。

無念にも彼の地で命を落とされた方への冥福と、無事に引き揚げられた方のご多幸を祈らずにはいられません。また理由はどうあれ、残留孤児を育て上げてくださった現中国の養父母の皆さんに感謝を捧げたく存じます。


博文さんとの交信を通じて 投稿者:バガボン 投稿日:2005/08/09(Tue) 09:32 No.3280  
博文さん、

詳細なコメントを頂き感謝します。短く味気ない書き方では誤解を受けるぞ、こういうことだろう・・・、と肉付けして頂いた気がしています。また、(に)は失礼しました。「ナニを摂ってくれ」「あいよ」と同じで、流れで判ることだ、と訂正しようと起き出してサイトに来たら、遅かりし由良之介、でした。

ほとんどコメントは要らないようなものですが、2点のみ:

1.サンフランシスコ条約に関しては、千島に関する請求権等を放棄した第2条です。侵略領土の返還は、ポツダム宣言に明文化されていますね。

2.博文さんとの交信を通じて、ベトナムを訪問した時の経験を思い出しました。気象官署で雨水を取る装置を見ることがありました。晴天時にはゴミが入らないように蓋をしてあるので、降雨時には開けなければなりません。ちり紙のリボンで蓋を抑えているのです。雨粒があたると、湿って押さえが効かなくなり蓋が開くのです。「この知恵でアメリカに勝ったんだ、世の中、物力だけでなく、知恵も力になるのだ」と思ったものでした。

今日は長崎の日。この季節は、ひとりでに、戦争の悲惨とそれを回避する道を世代を越えて思索し語り合い引き継ぐことになってくるんですよね。


Re: 博文さんとの交信を通じて 博文 - 2005/08/09(Tue) 11:16 No.3282  

いえいえ、「に」は確かにご指摘どおりなのです。
これは本当に悲しいことです。日本人の日本語が明らかに崩壊の一途を辿っております。多くの国の言葉を簡易に学べるようになった昨今、英語に語源を持たない島国日本の地方言語など廃れていく運命になるのかもしれません。
本心から感謝しています。こういう些細な注意は結構うれしいものなのですよ、私たちの世代は。

私の世代は、実際に中国語を話したり韓国語を話したりして、ツアーなどにも頼らず渡航し、自力で国際交流ができる世代です。
一方で知識や情報も驚異的なスピードと量を以って交換できる世代でもあります。
また戦争の記憶薄くなりし世代でもあります。ワイツゼッカーも「40年が事実が風化する賞味期限」という趣旨の講演を行っています。
物心ついたときには原因のハッキリしない要領の得ないお詫び外交が流布していた世代なのです。その反発が今、様々な形で露呈してきているのではないでしょうか?戦後60年間先輩たちはなにしてきたんだ、正直そういう気持ちで一杯です。なぜ感情に流されずもっと冷静に過去について研究が行えなかったのか。そう思うと悔しくてなりません、こうしている間にこの掲示板にお越しになる大事な歴史の証言者が一人一人と失われていくというのに。
今、高様とお話ししていて感じることは、世代が交代して、今初めて自国民が自国民を愛して互いに話が出来得る時代になったのだな、ということです。でも歴史の証言者抜きにすると、愛国心は高じて戦争への序章を刻んでしまいます。世界各国が今の生活(領土、資源、貿易)に満足でき、互いの民族文化を侵害することなく、尊重し合い、何事も優劣や正誤をつけて判断しない。これを先進国のどこもがわかっていれば!いつそんな時代が来るのでしょうか。そんな時代の到来を願ってやみません。


皆さん暑い事ですね 投稿者:鴨緑江です 投稿日:2005/08/08(Mon) 19:19 No.3272  
いろいろと読ませてもらいましたが 何方も夫々言い分があって何れが正誤かはこの際論じませんが 博文さん 高さん お2人は お幾つでしょうかね と言うのは ご自身がどの位の 或いはどの様な経験をなさっているかが知りたいですね  私は中国生まれで 日本及び一部の日本人が 他国である中国で どれだけの傍若無人の事をしてきたか どれだけ中国及び中国人に迷惑を掛けたか この目で見てきた者としては 全ては 良識があるなら 先ずその償いをしてからでしょう
と言っても 私を含たて極く普通の庶民の多くは 個人的に具体的なことが何も出来ないのが事実ですね はがいい事ですがどうにもなりません ただただ精神的に 済まないと思うだけです にも拘らず 多くの中国人の方々は 実に心優しい人たちです 少なくとも私が何度も訪中して接した中国人、或いは現在日本で接している何人かの中国人は全てです あの大地の子らを 貧しい中で立派に育ててくれた養父母たちを見ても
その誠実さを 誰が否定できましょうか 私の結論は 理由の如何に拘らず 日本及び日本人は 中国のみならず東南アジア諸国並びにこれ等の国民に 何度でも 御免なさい と言うべきです 
  


Re: 皆さん暑い事ですね ローラ - 2005/08/08(Mon) 23:04 No.3273   HomePage

おや、又新しい方の入室ですね。(*^_^*)
暦の上では立秋も過ぎましたが、談話室は熱気でムンムン。
クーラーもさっぱり効きません。

>日本及び一部の日本人が 他国である中国で どれだけの傍若無人の事をしてきたか どれだけ中国及び中国人に迷惑を掛けたか 

出来れば聞きたくない気分ですけれど、歴史の事実としてやはり具体的に語り継いでいただきたいと思います。


戦争 投稿者:倉益 投稿日:2005/08/07(Sun) 19:58 No.3259  
戦争って虚しいものではないですか? 所詮、殺すか、殺されるか、生きるか死ぬかの問題でしょう。殺さなければ殺される、こんな状況で殺されるのを待っている人は恐らく居ないでしょう。広島の原爆を憎む被爆者の気持ちは当然です。でも、中国、朝鮮半島で正義なく日本軍に殺された人たちはどうなのでしょうか?家族は多分日本人を一生憎み続けるでしょう。未来永劫この恨みは忘れないぞと思うのは当然でしょう。こんな議論をしていくと、では戦争を始めたのは誰だ、その結果として広島、長崎があるのではないのか?というところにいきついてしまうのではないでしょうか?正義の戦争なんて所詮ありえないと思いますから、行き着くところは誰が戦争責任者なのかというところにたどりつくのではないでしょうか?イラク戦争もそうです。 遡ってベトナム戦争もそうです。戦争を始めた人間が断罪されるべきではないでしょうか?皆さんお気付きになったかどうか知りませんが(そして日本のマスコミも問題を提起していないので聞き逃したと思いますが)私は今日テレビを見ていて北京で行われている六カ国協議の北朝鮮代が言った言葉、”北朝鮮は敗戦国ではない。核の平和利用を進める権利がある”と言いました。この六カ国の中で只一の敗戦国は日本です。私はこの北朝鮮代表の言葉は日本を念頭に置いたものだと感じました。戦争に負けた国民がいかに惨めか皆さんわかっていると思います。報復の戦争を始めるのではなく、国境を越えて人類が平和に暮らす目的を持って進んでいくべきではないでしょうか? 


Re: 戦争 ローラ - 2005/08/07(Sun) 21:40 No.3260   HomePage

倉益さん、
先日送っていただいた「終戦直後に大陸へと渡った予科練少年たちの運命の空白」のことは考えたこともなく驚きました。

【大東亜戦争末期、予科練としての訓練を受けるために日本にきていたこれら15,16歳の少年たちは、敗戦と共に一人、混乱の巷に投げ出された。 「故郷へ帰る」「家族のとこへ帰る」ということは、彼らにとって玄界灘を越えることであり、闇船で海を渡って、さらに半島の38度線を突破しようとした者もいたのである。ソ連軍や中共軍、暴民などが跋扈する中、非命に倒れた者もあったに違いない。恐らく約二百名の少年が海を渡ったであろうと推測されているが、詳細は今もなお不明である。】

>戦争に負けた国民がいかに惨めか皆さんわかっていると思います。報復の戦争を始めるのではなく、国境を越えて人類が平和に暮らす目的を持って進んでいくべきではないでしょうか?

それこそ核戦争にでもなったら、人類の住む地球が壊れてしまうのですからね。
(もう既に人間のせいで壊れ始めているけれど…(∋_∈))


Re: 戦争 博文 - 2005/08/07(Sun) 22:37 No.3261  

戦争って多角的に捉えないとだめなんですよ。無理に同一線上で論議しようとすると平行線なんです。戦争による功績と被害。権力者の立場と国民の立場。世界における日本の常識・非常識。世界の期待と日本のできること。全部ごちゃごちゃに考えたら全く話が纏まりません。
「戦争は想定不可能な規模の悲惨な事態を招く」
「戦争回避が不可となったときに自国の平和・利益をどう確保するのか」
この二つを別個に考え、それを最後にリンクさせて、どうしたら戦争が回避できるのかを論じなければならないんです。

戦争回避は勿論前提、しかし5000年も前から国境があるところ戦争はつきものです。領土拡大の野望、資源の獲得、防衛、戦争の目的だけでも様々です。安直に「イケナイ!」という結論は出せません。
実際、日本が幾ら平和を叫んでも、敗戦国たる「劣国」が「国同士で優劣をつけるのは止めましょー!」なんて、戦勝国(米、英、中)には、所詮負け犬の遠吠えにしか聴こえないのです。「自分たちだって昔」と野次られるのがオチです。なにせ国内の右翼以前に、愛国心を持ち国に忠誠を誓うことを盲信するこれらの戦勝国を相手に、どう平和を論破するのですか?可能ならその方法を伺いたい。
日本は敗戦の味を知っているので悲惨さ、虚しさを知っています。これは敗戦国ゆえです。ナチス下のポーランド、フランス、戦争の悲惨さを踏まえ平和を訴えるのはいつも同じ敗戦国です。一方戦勝国で自国の利益を犠牲にしてでも平和を呼びかけた人は1960年代のヒッピーか、ナチュラリストなど、いわゆる奇人変人ばかりです。
戦争の悲惨さは敗戦国にしか判らないのです。

日本は戦争の悲惨さを敗戦国として伝えることができます。しかしそれは、周辺国がこの先日本の平和を保障してくれるということとは全く無関係です。自己防衛の準備とともに戦争の悲惨さの伝播、この両方を、諸外国にアピールしていかなければならない。日本は今、苦境に立たされています。


Re: 戦争  - 2005/08/07(Sun) 23:31 No.3263   HomePage

博文さま

>戦争の悲惨さは敗戦国にしか判らないのです。

果たしてそうでしょうか。自分の「被害者として」の戦争の悲惨さ」ばかり強調して、「加害者として」起した戦争の悲惨さに無頓着な人がいっぱいいると思いますが、いかがでしょうか。


Re: 戦争 バガボン - 2005/08/08(Mon) 00:56 No.3264  

国家または政治指導者にとっての戦争と民衆にとっての戦争とで、随分違ったところがありますね。民衆(兵士もほとんどは民衆出身です)にとっては、戦勝国においても敗戦国においても戦争が犠牲を強いるところ大です。戦争の悲惨さを民衆は敵も味方も知りうるのです。

60年代には少数派だった平和呼びかけ人も、現在、アメリカでもその環を大きくしていると聞きます。未来は少数派にこそあって、多数派は過去のものになるのみです。


Re: 戦争 博文 - 2005/08/08(Mon) 12:55 No.3269  

ご意見ありがとうございます。
不躾ながら、早速。

>>加害者として
これは日本に限定して向けられたメッセージなのかな?
世界中という広域での意味ならば全く同感です。

ただ「加害者として起こした戦争の悲惨さ」とはどのようなものだろうかと。
戦争とは戦時中は誰もが自分の行動は正義と思って戦い、被害、加害は、勝敗によって振り分けられる結果論ではないでしょうか?だからニ戦を聖戦と考えているアメリカからは(勝者からの)悲惨さなど伝えてはならない(べきではない)と考えるのが筋ではないかと思います(伝えようがないですよね)。
戦争が起こる理由は様々です。誰も自分が加害者だと認識しながら戦う人はいません、それでは兵ではなく殺人趣味の狂人です。これは最早戦争ではありません。
ドイツもイタリアも先の戦争の賠償こそすれど、ポーランドなどにお詫びの言葉ひとつ投げかけてはおりません。戦争自体は聖戦と思っていたからです。賠償とはあくまで敗戦国が戦勝国に出す裁判における訴訟費の負担のようなものです。
中国でも「勝者王侯、敗者賊」といいますよね?後に日本で「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉になりました。官軍が賊軍の悲惨さを描きようがないのです。

勝敗の枠を超えた本当の正義に導くためには、自国の主義主張を抑える理性と、それを超えるほどの公正な目を以って、これだけの悲惨さが伴うものなのだ、と主張せねばなりません。でもそろそろそういう内容の資料館は建てられてしかるべきですよね?ただ加害者(=戦勝国)側というのは戦争を美化していることが多くなかなかそこに踏み切れないのが現実かと思われます。

もし、加害者的立場となったとき中国の方は民族としてどのようにその悲惨さを表現する(またはすべき)と、高様はお考えになりますか?

現在の中国でも被害者的立場となった展示は平頂山、9・18、偽皇宮、盧溝橋、731、他に数ある抗日紀念館と山のようにありますが、戦後間もなく不当な裁判で惨殺された他国囚人に対しても、また国民党についてもなんら慰霊的要素は伝えてはおりません。撫順監獄は共産党的教育の素晴しさの宣伝の域を脱しておりません。是非次世代を担う中国女史としてご意見給わりたく存じます。

一方、バガボン様のおっしゃるアメリカ側の平和呼びかけ人ですが、その流布している内容をご存知でしょうか?これも高様の言われる「加害者として起こした戦争の悲惨さ」を感じた類のものではないように感じます。彼らはただ客観的に「ラブ・アンド・ピース」を叫んでおり、自国の行いとして問われれば結果は全く異なったものになるでしょう(先ごろ「戦争の早期終結のためには原爆使用はやむを得なかった」に米国民の67.6%が賛成という調査結果も出ました)。


Re: 戦争  - 2005/08/08(Mon) 17:26 No.3271   HomePage

博文様

 興味深い問題提起、どうもありがとうございます。

>>加害者として
これは日本に限定して向けられたメッセージなのかな?
世界中という広域での意味ならば全く同感です。

 もちろん、日本、中国、アメリカを含めた「世界中」です。同感を示していただき、ありがとうございまます。

 博文さんのご投稿から、強いアメリカの原爆にやられて、余儀なく「敗戦国」となってしまった悔しさがすごく伝わっています。ここで、一つお伺いしますが、博文さまは日本は負けた「敗因」はどこにあると考えていらっしゃいます?

 おっしゃったように、中国には「成者王侯敗者賊」という言葉がありますが、しかし、それはあまりいい意味で使われていません。それ以上に重んじられているのは「得道者多助、失道者寡助」(道を得る者は助け多く、道を失う者は助け寡なし)という古訓です。漢文にお詳しい博文さまには説明するまでもないが、「道」とは「道徳」「正義」「信義」を意味するものです。原爆のような武器による蛮力ではとうてい、世の中の人々の心を獲得することができません。日本が戦争の敗北を招いた本質的な要因は、果たしてアメリカとの軍事力の差なのでしょうか。

 ご覧になったかどうかわかりませんが、7月1日に放送された、テレビ朝日の深夜トーク番組「朝まで生テレビ 激論!敗戦60年元帝国軍人が戦争の全てを語る」のなかで、中国大陸で戦っていた池部良さん(86歳、陸軍中尉)というの方は、戦っている途中「ふと考えました。一体何のための戦争なんだと、何が目的なんだと、最初は蒋介石と戦い、その次は共産軍と戦うのと、一体何のための戦いなんだと、日本を共産主義から守るためなのか、それとも、支那大陸を植民地化するのか、戦争の目的が判らない。判らないのに命を賭けなければならない。相手は憎くもないし……」と当時の迷いを素直に述べました。

 博文さまは「誰も自分が加害者だと認識しながら戦う人はいません」とおっしゃいましたが、しかし「大東亜戦争」の大義を信じ込んで出征しながらも、戦場で目の当たりにした光景とのギャップ、戦争の大義を疑い始めた兵士がいっぱいいたこと事実です。極端な言い方かもしれませんが、もうすでにその時点で、日本の敗北が決まっているのではないかと私は思います。

>現在の中国でも被害者的立場となった展示は平頂山、9・18、偽皇宮、盧溝橋、731、他に数ある抗日紀念館と山のようにありますが、戦後間もなく不当な裁判で惨殺された他国囚人に対しても、また国民党についてもなんら慰霊的要素は伝えてはおりません。撫順監獄は共産党的教育の素晴しさの宣伝の域を脱しておりません。是非次世代を担う中国女史としてご意見給わりたく存じます。

 お挙げいただいた戦争記念館の数々を実際にいらっしゃったことがありますか?もし、いらっしゃったことがあるなら、話が簡単です。中国のどこの戦争記念館の最後のコーナーも決まって、「戦争を起したのは一握りの軍国主義者です。日本人民も甚大な被害を蒙り、同じく戦争の被害者です」といった言葉で締めくくられています。私はいつも不思議に思っています。なぜ、日本人や日本のメディアはみな、この最後のメッセージを見逃そうとしているのかと。博聞さまはどう思われますか?

 もっとも、私は中国の戦争記念館には全く問題がないとは思っておりません。おっしゃったように、抗日戦争における国民党の役割について過小評価している部分があり、また、そこを改善する動きが少しずつ見られています。これから、国家、民族、イデオロギーを超える歴史観が求められています。すぐには難しいかもしれませんが、「次世代を担う中国人」だけなく、博文のような次世代を担う日本人や、アメリカ人にも共通した課題として取り組むべきことだと思います。


「平和呼びかけ人」 バガボン - 2005/08/08(Mon) 23:42 No.3274  

博文さま、下記のご質問に対する私の意見です。

>一方、バガボン様のおっしゃるアメリカ側の平和呼びかけ人ですが、その流布している内容をご存知でしょうか?

私の経験では、もう10年くらいも前でしたでしょうか、ある会合でお会いしたアメリカ人の大学教授が、「ベトナム戦争を経験した元兵士が、戦争の悲惨さを訴えている。ベトナム戦争当時は、そんなこと、考えられなかったが、最近では、それを理解する人も多い」と紹介してくれました。

戦争の悲惨は、結果戦勝国でも敗戦国でも、民衆にとっては共通なのだと思ったものです。また、多数意見が増えるのは難しいけれど、少数意見は増えることが出来て、そこに道理や条件があればなおさらです。


Re: 戦争 博文 - 2005/08/09(Tue) 00:58 No.3276  

さすが高名な学者さんだけあってその広いスケールには感服いたします。いや、全く同感です。
私は日本が負けた要因は「首脳陣、国民共に世界の常識を把握し切れなかった日本精神の敗北」と考えております。大和魂や日本の精神は悲しいかな、鎖国の中で培われ、育まれてきたものです。しかし開国以降、世界は広いことを知らされ、その中で日本は生真面目にも遮二無二世界の枢軸になろうとします。
一方国民は蚊帳の外、今も昔も日本国民は国政に疎いのが特徴(IQ層なんて表現、日本くらいです)です。勝つと「提灯行列」「花電車」この程度が戦勝続きの当時の国民が抱く、戦争についてのイメージでした。当時の国の機密主義も相俟って国民が戦争に出向く大義名分は「お国のために」→「天皇陛下」しかなかったのです。だから戦争に疑問を持ち始めます、しかしこのときには既に敗戦色は濃厚でした(俳優池部良氏は昭和17年入営です)。戦争の目的はやけに超自然的ですが、目の前で起こる現象はやけに生々しいものばかりです。このギャップに国民は次第に士気を失っていきます。

緒戦の頃大部分を占めていた兵隊は次第に数を減らし、特攻の頃にはただの平民が借り出され俄か作りの兵隊さんです。銃のことより鍬のことの方が詳しい人がどうやって戦うのでしょうか?なにを理由に戦うのでしょうか?物資不足に加え戦術知識皆無の要員。彼らにできることは特攻だけでした。こうして日本は完全に負けたのではないでしょうか?

中国の皆さんと日本の一部の人々は「戦争を起したのは一握りの軍国主義者です。日本人民も甚大な被害を蒙り、同じく戦争の被害者です」という弁明を持って日本国民を弁護してくださいました。しかし私はあえてこれを突っぱねたい。なぜなら日本の軍隊は強制連行ではありません。アカ狩りとは違います。皆周囲から叩かれる陰口や大義名分、貧困に耐え切れず泣く泣く出征したのです。ただ泣く泣くじゃ余りに悲惨だからということでまたもや超自然的なものに願をかけて万歳したりして送り出すのです。
この辺は諸外国の皆さんにはわからないところでしょう。
アメリカ人でも中国人でも周囲の目が気になるから、と家族を戦争に送り込むなどという考え方は理解できないはずです。そういう日本独自の考え方自体世界から見れば常識ハズレなのですから。
軍国主義者、この言葉で括られるのはどこまででしょう?私は戦時中の日本人全員が(左翼、売国奴は別として)この中に入るのではないかと思っています。戦後「本当はいきたくなかった」「いかせたくなかった」なんていうのは言い訳です。行った以上、送り出した以上、兵であり、超自然的なものを崇拝した軍国主義者なのです。だから居た堪れない。負けたことは無念です、できれば勝ちたかった。でもあんなに敗戦がつらいものならばもう戦争なんかしたくない。これが戦争を体験なさった方々の共通の思いではないのでしょうか?

>> 抗日戦争における国民党の役割について
いえ、私が言いたかったのは国民党対共産党における国民党のことです。日帝対国民党は戦果になってしまい、戦禍を教えることにはなりませんよね。共産党が国民党を討ち、追放したときの国民党の傷ついた兵士について、ということです。共産党が「加害者として」どう戦禍を教えるのでしょうか?現代の中国の資料館では果敢に挑んだ共産党の英雄像と国民等との戦いで傷ついた共産党員の慰霊しか見出せそうにないのですが。いかがですか?


Re: 戦争 博文 - 2005/08/09(Tue) 01:37 No.3278  


それを踏まえ、ちょうどそれが私のいいたかったことが、次のバガボン様への返答です。ベトナム戦争においてアメリカは戦勝国ではありません。むしろ敗北といってもいいでしょう。彼らは今も(ここが大事なのですが)ベトナムで失った「自国の兵」に対して強い哀悼の意を表しています。彼らの描く映画をいれば判る通りです。いつも彼らは被害にあったシーンしかドラマにしません。第二次世界大戦は真珠湾、戦場に掛ける橋では捕虜虐待、ベトナム戦争は言うに及ばずです。今もベトコンという表現は消えていませんし、彼らが散布した枯葉剤についても、公式な遺憾の意は表明されてはおらず、一部の環境保護団体や宗教家といった非公式な人種が訴えているだけで、そのどれもがこの戦争を客観的に見られる我々からは筋違いなものばかりです。

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