元々、科学は現象について(科学的に)実証するのが目的であって、宇宙の現象全てを解明することが出来るとは考えていなかったに違いない。それが、全て科学で解明できると思い込んで、科学で実証できないものは、実存の現象ではないと思い込むようになってきたのである。
私たちも科学という言葉に惑わされて、人間世界のみならず、宇宙の現象までも科学が解明できるものと思い込んでしまっている。なぜそう考えるかというと、一体宇宙は誰が創成したのか? 誰か創成者がいない限り、宇宙は存在しないはずである。また、宇宙が限界のある空間だとしたら、宇宙の外はどうなっているのかという疑問が生じる。そのことは別にしても、ビッグバン理論は、宇宙の果てにある天体(星)を観測して、高速に遠ざかるとドップラー効果により赤方偏移という現象によって証明されるというものである。しかし、不思議なことに、ビッグバンによりすべての天体が中心より高速に離反すると言うのに、星雲(星団)の中にはお互いにぶっつかり合って爆発し、新しい星雲が形成されるという現象が観測されると言う。もちろん、宇宙の中が星雲や星団、銀河等で込み合っているならともかく、宇宙の中に占めるそれらの割合は、予想するよりはるかに希薄な密度になっていると言うのだ。
また、ビッグバンが起こったとしたら、ビッグバンの爆発の中心がどこかにあるはずであるが、いまのところ、どこが中心なのかは解っていないらしい。だとすると、どうして赤方偏移の観測結果が、ビッグバンの証明になるのだろうか? 更に、光(電磁波)は重力磁場の影響を受けて偏向するため、観測している宇宙の果ての星の光は、真っ直ぐには届かず、場合によれば強力な重力場によって吸収され、消滅することさえ考えられる。ブラックホールと呼ばれるものがそれである。では、一体観測しているものは何なのか? 150億光年と言う遠くの星の位置は、はたして どこにあるものなのか? 考えれば考えるほどわからなくなるというのが現実なのではないだろうか?
それだけではない。地球には(地球だけではない?)重力が存在する。一体重力の正体は何か? ものすごい勢いで回転している地球は、遠心力によって地球上のものは全て地球の外に飛ばされてしまっても不思議でないような気がする。それなのに私たちは重力によって地球に落ち着いていて、リンゴも木から地面に落下し、ニュートンを喜ばせた。
まだまだ疑問がある。時間とは何か? もしも宇宙に飛び出した時に、時間の概念は全く変わってしまうのではないか? 地球上でこそ、太陽の周りを地球が廻っているせいで、季節や朝と夜との区別が生じ、人体時計なるもので時間と言う観念が必要となるが、宇宙空間では何を基準にして時間という概念を必要とするのだろうか? その時、時間の意味するものは何なのか? 時計があるから時間があるって? そりゃ本末転倒でしょ!
また、我々が考えている、あるいは見ている世界は3次元世界だけであって、宇宙は3次元世界だけで成り立っているものなのだろうか? 確かに、地球を中心に考えて、太陽系の目で見える世界は3次元世界かもしれないが、もし人間が知覚できる以外に世界があったとしたら、人間はそれを見ることも感じることも出来ない。もし、それを感じることの出来る人間が存在するとしたら、どういうことになるのだろうか? 科学で証明できないものは実存しないと言うことになったら、それはどう考えればよいのだろうか? このあたりが超科学、超能力、超心理学と言われる精神世界になってくる。
現実に、素粒子の世界は、人間の計測できる範囲を超え、計測するためには莫大な費用をかけた大掛かりな装置を必要とし、それでも尚且つ観測結果を証明することが困難になってきている。光の伝播をになっているエーテルとかダークマターとよばれている物質(?)は、人間の想像を超える物に違いない。それらに比べると、我々人間世界の物質は、はるかに荒い隙間の多い分子で構成されているため、素粒子のような超微粒子は、容易に人間世界の物質を通り抜けることが出来るだろう。
現代科学が行き詰まってきているというのは、確かな事に違いない。このことは、現象を解明したいとして発達してきた科学が、どこかの時点で科学が現象の全てを証明できると盲信してしまい、人間が自然に対する謙虚さ(畏敬の念)を忘れた結果ではなかろうか? 単に物質世界の発達は、人間や人間が築いてきた文化をも、最後には破壊することになるかも知れないことを忘れてはならない。別の項目で述べることになると思うが、人間が遺伝子(個人のものではない人間が発生した時からの全ての情報が埋め込まれたもの)を自然に逆らって操作する事は、とんでもない事態を引き起こす危険性があることも十分考える必要があると思う。 ( July. 18. 1999 更新 )
科学の発達した現代では、自然のコントロールまでも人間の意志のままになるような錯覚にとらわれて、神の存在を迷信化してしまったように思われる。天災地変も、原因は科学的に分析でき、ある程度予測がつく事で、不可避なものではないと考えるようになった。しかし、それは神の意志ではないと言い切れるものではなく、単に人間が自然現象の一部分だけを見てコントローラブルだと思い込んでいるに過ぎないような気がする。なぜなら、近年、人災も含めた天災地変や異常な事態が次々と発生し、それも特定の国だけでなく、地球規模で発生している。
信仰の対象については、太古の神と言う自然崇拝から、実在の教祖ともいうべき、西洋ではキリスト、東洋では釈迦、 イスラム教ではマホメット等があるが、いずれも宇宙の神の啓示を受けて、人間世界に人の生きる道を布教するために、人として実存したに過ぎない。これは、サイババでも全く同じ考えが述べられているため、単にキリスト、マホメット、釈迦と言う特定の人物ではないような気がする。いわゆる神が自ら造った人間のために、人間が人として生きるための道(自然の摂理とでも言うか)を教えるために、天下ったと考えた方が正しいように思われる。
しかし、人間世界は欲望の世界であり、神の代理である教祖の教えは、弟子を経るにしたがって布教に都合のよい方向に捻じ曲げて、教えを普及させてきたようだ。その上、それ以外にも数多くの宗教が派生してきて、宗教そのものが教義上は人の道を説くことにあっても、実際には信者を獲得して勢力を伸ばす事に主眼が置かれてきたように思える。
宗教の根元は唯一神、宇宙の創成者であって、狭い範囲で言えば太陽の神、日本ではアマテラスオオミカミではなかろうか?
しかし、現実には、信仰の対象は必ずしもこの唯一神ではなく、世俗の苦しみから逃れる術を何かに頼らざるをえない事から、新しい宗教、カウンセラーとしての教祖の出現が勃興してきて、中には人間の道を外れるような宗教も出てきた事は、ご存知の通りであろう。これは、必然性のある事で、人間が一人では生きられない事、何かに頼る事によってのみ救われることの証明だろう。人知を超えた神や仏を信ずることによって自分が救われたいのである。
親鸞上人の言う「南無阿弥陀仏」と一心に唱える(精神統一する)ことによって、俗世から離れ、善人はもとより悪人さえも神や仏と一体に成ることが許されるのである。(「歎異抄」“善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや”)
それでは、神とは何か? そして更に、神の教えである“人の道”とは何かについては、別に述べるとしましょう。( July. 14. 1999 )
な〜んだ。聖書の世界の話か! と言うなかれ。べつにアダムとイブに拘っているわけではないが、 そのアダムとイブのDNAが脈々と現代まで繋がっている事を忘れてはならない。それにアダムとイブが神に繋がっているのである。即ち、宇宙意識は人間の意識の深層にとどまり、DNAを介して現代に受け継がれてきているのであり、人間には国境や種別を越えた同一の種である事を知ることが重要なのである。ところが現代は地球の同胞であるはずの人間同志で醜い争いを招き、地球環境をも破壊し、更には宇宙空間をも汚染してはばからないのが実状であろう。
人がこの世に生まれてきたのは、神の(自然の)意志であり、神の意志によって生きなければならない。結婚した二人が、「何故子供を産まなければならないの?」と考えたり、「自分は望んでいないのに生まれてきたんだ!」と言うことをよく聞かされるが、そうではない、神が必要と思われて私と言う人間をこの世に送り出されたのだ。だから神の意志を尊重してこの世に自分が果たすべき責務を遂行しなければならない。「神」は自分の内にあり、自分自身が「神」でもあるのだ。だから肉体を持つ自分自身の欲望のままに生きるのではなく、自然の摂理にしたがって生きなければならないのだ。
人生とは、この世に生を受けた事を大切にして、他人のために、この地球の自然の中に息づいているすべてのもののために生きなければならない。現代は、科学の発達によって地球の自然環境も、人間の生活環境も大きく変化し、人間の欲望が科学によって満たされ、ともすると、本当に科学が全てを解決できると思い込んで、人間の欲望を満たせる事が、「神」の意志のように勘違いしているように思われる。「科学による神業」は、「神」の意志ではない。
しかし、神には善も悪も無く、愛のみがあるのだそうです。善か悪かは人間が決めたルールに基づいて判断されることで、地球上で起こる現象は、殺人であれ、強盗であれ、贈収賄や悪徳商法であれ、それらは単なる行為であり事実でしかないと言うのです。神が善悪を判断することは無く、天国も地獄もありません。ただ、愛をもって行う行為が、その人の霊性を高め、自分自身が神となれる資格を得るのだそうです。愛のみで判断すれば、戦争も起こらず、人種差別も起こらず、不当な労働搾取や争いにはならないと言うのです。愛は全てを与え、そして何も要求しないことです。それから言えば、地球上の人間は、何も進化しておらず、単に科学技術に溺れた最も霊性の低い人類だそうです。
“神の化身”であるサイババの言によれば、人は自分の全てを他人あるいは全ての生きとし生けるものののために与えるために働くのだと言う。死は、その責務を果たし終わった時、人が「神」となるために訪れる。肉体は滅びるが魂は昇華する(魂の霊性はより高くなり、次の段階に輪廻転生する)と言う。
現代人が、自分の欲望のために他人を陥れ、金、地位、名誉欲のために、堕落し、地球上の他の生物を絶滅に追い込み、この地球の自然環境までも破壊し尽くしていく行為を、決して「神」(自分自身の内なる神)が見過ごされるはずはない。
人は必ずや自分の内にある「神」の声を聞く時が来るに違いないと確信している。自然の畏怖を感じる時がきて、再び人が人らしく生まれ変わり、地球環境が元の自然に再生されるだろう。それを心から切望する。( Aug.24.1999 更新 )
現代は、結婚の意味が子孫の繁栄あるいは継承とはほとんど考えられていないように感じている。自然に逆らわずに素直に考えれば、人類がこれまで発展してきたのは、結婚により良い子孫を残し、更に新しい文化を生み出して繁栄してきたのではなかろうか? もしも、現代人の多くの考え方にあるように、結婚が自分たち夫婦の自由(何の自由なのか分からないが)にあるのだとしたら、今までの家族や近隣とのしがらみから逃れて、自分たちの快楽と、やりたい事をやるために、それらの束縛から逃れる事なのだろうか? 人生とはそんなに簡単なものではないと思うし、むろん神の意志では無いはずである。
神から与えられた生命に対する神の意志とは、人の生から死に至るまでの、人間としての役割(責任と義務)を果たす事ではないだろうか? それでは、その役割とは何だろうか? それについては、キリストや釈迦をはじめ、神の使いである多くの聖人、聖者から学ぶ事が出来るだろう。
“神の化身”サイババは「生まれてから死ぬまでの人が働く意味は、自分の得たものを全て他に与えるために生きることである」と述べている。それでは自分には何も残らず、餓死して死んでしまうではないか? と言う質問に対し、「神はそれを見過ごされる事はない! 神は常にあなたと共に在るのだ!」と言われる。
現代の私たちは、生活のためには金を儲けなければならないし、幸せになるためには(他人を幸せにするためにも)金が必要だと常に考えているのではないだろうか? だから、サイババの言葉の意味するところを理解できないし、それをどうしたら行動に移せるのかもわからない。
生とは、神が人に与えられた尊い命で、人生とは、神の思し召しを実行するプロセスでしかない。それが全うされた時、神の元にその魂が昇華し、その人の人生の功績に応じて魂の霊性が定められ、次の人生を全うするために、再び輪廻転生する。人の身体は魂の仮の衣であって、何度も脱ぎ変わると言う。サイババによれば転生する周期は一定ではなく、その霊性に応じた人の誕生を待って、3〜50年の間にふたたび生まれ変わる(妊娠後3ケ月位で魂は宿る)という。通常われわれは、自分の前世については知覚できないが、霊性の高い人の中には前世の出来事を覚えている場合もあると言う。
現代の金と欲とにまみれ、他人や他の生物に対する気遣いも忘れた人間にとっては、人の命の尊さや自然の命の大切さにも気づかずに、自分中心の生活にどっぷり漬かっていて、サイババの言葉もきっとマヤカシに思われるに違いない。
「 tommy のプロフィール」でご存じかも知れませんが、私の家庭は裕福ではなかったし、職人の父は、母が早く亡くなったためか、競輪、競馬、競艇等に明け暮れ、常に貧困に晒されていました。特に私の学生時代は、食事にも事欠く毎日であったし、特に高校に入ってからは、通学費や授業料が必要になって食べ物にまで余裕が出来なかった。しかし私は、私の運命を怨んだり、他人の幸せを妬んだりした事はなかった。
道楽親父ではあったが、父は朝夕、仏壇と神棚へのお祈りを欠かした事はなかったし、暇な時には尺八や三味線を聞かせてくれたり、落語や講談の話をよくしてくれました。その中で「人は(天から)定められた宿命を背負って人生を生きているのだ。一生のうち幸せな時、苦しい時、悲しい時などは、トータルすれば、誰も皆同じなんだよ。」と言いました。「だから、人生では、苦しい事こそ買ってでもするんだよ。そうすれば後は楽しい人生になるんだよ。」そして、山中鹿之助の話をしてくれて、彼は、夜ごと月を仰いでは「われに七難八苦を与え給え!」と自らに艱難辛苦を課して精進したのだと教えられた。
ですから、私は、自分に降りかかる苦労は何とも思いませんでしたし、否、世の中にはまだまだ苦しんでいる人がいるんだと、自分を励まし、困っている人がいれば、自分の出来る事をしようと考えました。父の言ったとおり、苦しみの後には必ず楽しみや喜びがあります。全ては自分の宿命と受け止め、天に感謝する毎日を送るよう努力しました。今日食べるものが無くても、明日にはきっと食べられるでしょう。明日も無ければ、いつかはきっと食べられるでしょう。天の神様が見守っているんですから。
私は、今でも父の言葉を信じて生きていますし、自分の子供たちにも同じようにそのことを伝えていきたいと考えています。ですから、子供たちにも苦しみに耐えられるよう、厳しくしましたし、無駄遣いをさせないよう小遣い等も、あまり与えなかった。これなどは、父兄会で、先生方や他の父兄たちに批判されましたが、自分の子供の育成には自分に全責任があるわけですから、誰が何と言おうと自分の信念に基づくしかありません。それは父が私に教えてくれた事ですから。
人は自分一人では何も出来ないのです。全て他人様のお世話になりながら大きくなり、死にいたっても、やはり他人のお世話にならなければなりません。赤ん坊の時は、父や母に育てられ、食べるものにしても、お百姓さんや酪農家の人達、漁師の人達がいなければ食べられません。学校に行けば、先生や友達のお世話になり、就職すれば、会社で上司や同僚たちのお世話になり、何処へ行くにも、乗り物や宿のお世話になり、退職すれば、職安のお世話になって働き口を見つけ、又同じようにお世話になるのです。その幾分かを自分の労働や労働によって得られた報酬によってお返しするのではありませんか?
貧困や災害あるいは戦争で苦しんでいる人達が大勢います。幾分でもそれらの人達の役に立つ事をするのが、自分がこの世に生まれてきた目的ではないかと思います。大それたことをしなくても良いのです。出来る事をすれば良いと思っています。与えられた仕事に、陰日向無く一所懸命働く事でも良いでしょうし、ボランティアやささやかでも義援金に協力したりする事も可能でしょう。そして天から与えられた仕事を全うした時に死が訪れるのです。これは悲しみではありません。やり終えた満足であり、喜びでもあるのです。それが宿命なのです。
人生は、自分にとっても他人にとっても一度しかない、かけがえの無い貴重な時間ですから、よく考えてみたら如何でしょうか? 考えを改めるには、今からでも遅くはないのです。( July. 17. 1999 更新 )
私たちが行動を起こす時には必ず意識が働いていると思っています。しかし、本当にそうでしょうか? 確かに、何かをしようと行動を起こす時には、必ず意識を発動させて、その意識を脳に伝えて、神経を通じて身体の必要な部分の筋肉を動かして行動に至ります。
しかし、よく考えてみるとそれだけではありません。ご存知のように、私たち自身の身体の働き、即ち、呼吸したり心臓を動かしたり、体温を調節したり、食物を消化したり、あるいは、立ったり、歩いたり、走ったり、する時には重心の位置を動かして倒れないようにしています。これらは、私たちが意識しなくても自然に身体自身が、生理学的には自律神経が働いて自然に身体をコントロールしています。
ところが、急に昔の事を思い出したり、しようと思わないのに、きまり悪い場合に頭を掻いたり、何気なくポケットに手をやったりすることがよくあります。これなどは無意識に行われているので、無意識と言う“意識”があるように思われます。事実、心理学的には深層意識(意識の奥深いところにあって、表面に現れてこない意識)として、無意識が人の行動にとって重要なものとして位置づけられています。
ユングやフロイトなどの心理学者によっても明らかなように、無意識の中には、予知、予感能力や他人の意識に働きかけてコミュニケートするテレパシーなどの能力が含まれているものと考えられていますし、実際、動物には人間が感じることの出来ないそれらが本能的な能力として備わっています。人間社会は、科学の発達によって工業化され、そのような本能的な能力を使う必要が無くなったために、それらの能力は、深層意識の奥深くしまわれたに違いありません。それが証拠に、無意識を意識化することによって、自律神経によっていた身体を、自分の意識でコントロールする事が出来る様になります。その内の一つが「気」と呼ばれるものです。
「気」については、以前よりたびたび話題にしてきましたが、改めてこれらの能力と効果について考えてみたいと思います。
まず、「気」とは何か? と言う事になりますが、「気」とは、「人が人らしく行動し、無理の無い活動をするための自然に備わった能力」とでも言えば良いのでしょうか?
それじゃあ誰でも持っている能力で、特別なものではないんじゃないか? と言われるかも知れませんが、誰でも持ってはいても、現代人はそれを発現できる生活環境ではないので、無意識の意識化の訓練が必要なのです。
それでは、「気」は何の役に立つのでしょうか?「気」について詳しい事は、参考文献にあるそれぞれの著作を参照していただくとして、私なりに現在まで経験し、予測できる範囲で、その効能を挙げてみましょう。
1.健康な身体になる。(血液の循環が良くなる) 2.身体の具合が悪いところを治せる。(病気の予防になる) 3.慌てたり、間違いを起こしにくくなる。(落ち着いて行動が出来る) 4.他人に気遣いが出来るようになる。(利己的な心でなくなる) 5.動きが無理なく、速くできるようになる。(スポーツや武道にも有効) 6.神の存在を信じられるようになる。(内なる神に気づく)実際に、「気を出す」(と言う言葉で説明しますが)には何が必要かと言う事ですが、
1.全身の筋肉の力を緩め、リラックスする。(酒を飲んで酔っ払うとそうなりますよね!) 2.腹式呼吸での深呼吸をします。(朝晩各10回以上、なるべくゆっくり鼻から吸って、 口から吐いて最後は腹を凹ませてすっかり息を吐き出します。喘息のある人は無理しない で下さい) 3.意識を指先(手足の)だけに集中させます。 4.身体の重心をへその下3寸(10cm前後)位のところ(臍下丹田)へ意識します。 (これはかなり訓練を要しますが、あまり気にしなくても大丈夫) 5.自分の身体を前後に揺らしながら、徐々に収斂させ、わずかに揺れている感じで静止状態 にする。(これもかなりの訓練を要するので、気持ち揺れているように思えば良い) 6.これは「気」を出す事とは直接関係ないが、健康のために、動物質の食事はなるべく避け、 植物蛋白を摂るように気を付ける。酒もなるべく控え、飲むなら赤ワインを少々。しかし、 タバコは絶対ダメ! 水分の摂取は十分に。1日200ml以上摂る方が良いようだ。 (できればアルカリイオン水を)これで「気」が出ている状態になっています。何処に出ているかって? きっとあなたの生活や行動は、今までとはすっかり変わったに違いありません。何ですって? 何も変わらない? あなた信じてないんじゃないの? 必ず信じて! それじゃもう一度最初からやり直して下さい。
それでは、私の最近体験した「気」の効果をお話しますので参考にして下さい。
私は「気」を武道に役立てようとしていましたので、先ずは合気道での成果から報告しますと、リラックスして構えた私の腕を、相手は掴まえても私を動かすことが出来ませんでした。以前は容易に投げられていました。
次に、私は朝5Km程のジョギングをしていますが、自分のタイムの目標を定めて努力しています。山坂道を走るため、かなり無理をする事があります。1年前までは、走った次の日は脚の筋肉が痛くなり、階段の上り下りは苦痛になりました。ましてや、一週間ほど間を空けて走った場合は、2 ,3日は痛みが取れませんでした。
ところが、「気」を出す訓練を続けて、リラックスすると言う事が理解できてきた最近は、走った後に脚の筋肉に痛みはありません。1週間以上間を空けて走っても、別に脚は痛くなりません。タイムも半年前の自己記録に近いタイムで走っています。
ついに自己ベストタイムを更新しました! 今日は最初の2Kmのラップで前日のタイムより20秒位速いタイムで通過しました。ひょっとすると、前日よりかなり良いタイムで走れるような気がしました。しかし、年が年ですから、無理すると危険です。何しろ自分の意識に語りかける事が重要です。“前へ進め! 前へ進め! 上り坂は頭を前に、下り坂は頭を後ろに”。折り返し点では、前日のタイムより40秒程速いようです。帰りは下り坂です。無理をすると足を痛めますので、慎重にリズムにのって“前へ進め! 前へ進め!”と意識に語りかけます。ゴールの範茂公園です。タイムは?
やりました! 26分40秒64です。 昨年の11月1日に出した自己最高タイム 26分49秒を更新しました。前回は、記録を出そうと無理をして走っていましたので、足が痛かったのですが、今回は楽に走れて、足も痛くありません。リラックスと潜在意識への働きかけの勝利です! でも、若くない皆さんは速く走れると思って、まねしないで下さい。一応、十分な理解と訓練が必要です。速く走ることが目的ではないのですから。( July. 25. 1999 )
再び記録更新に成功しました! タイムは26分35秒32です。7月25日の記録を5秒上回りました。わずか5秒と言っても、最近はめったに走りませんから、たまに走ってのこの記録は十分な成果です。自然に逆らわない「気」のお陰だと考えています。年が年なので決して無理して走っているわけではありませんよ。こうなれば、目標は26分をきる事でしょう。それも決して不可能な事ではないような気がしてきました。( Nov. 10. 1999 )
またまた自己記録を更新しました! 26分24秒75です。昨年更新したタイムを10秒以上上回りました。
しばらく運動をしていなかったので、「気」が出なくなっていました。それでも少しづつ感覚を取り戻して「気」が出るようになったので、久しぶりに記録に挑戦してみました。手の振りは、“ぶらぶら振り”です。これもすっかり忘れていました。リラックスしなければ「気」は出なかったのです。( Jun. 8. 2000 )
走る時は手足の筋肉の力を抜いて、ただ前に進むと言う意識だけで何も考えずに走っています。ぶらぶらして走っているように見えるかも知れません。上り坂では、頭を前に出して重心を前に踏み出す足にかけ、下り坂では、胸を反らして重心を後ろ足にかけます。平地では、重力に逆らわず真っ直ぐの姿勢で、重心は身体の中心を通ります。
現在、週に3日ほど会社に勤めていて、毎日1階から5階までの階段の昇り降りを何度もしますが、以前は苦痛でしたが、今は何の苦痛も無く、若い人よりも速く昇り降りしています。
また、私は立ち眩みが激しく、ひどい時はその場でひっくり返ってしまう位でそのまま意識を失うのではないかと言う恐怖感がありました。しかし、最近では、立ち眩みが始まるとすぐに、腹式深呼吸をして意識を集中させますと、1回の深呼吸で正常に戻り立ち眩みは解消しています。
そればかりではありません。今まで廊下や道端にゴミが落ちていて見苦しいなとは思っても、なかなか拾って片付ける勇気がありませんでしたが、最近は素直に手がでるようになりましたし、誰かの仕事の手助けを、頭で考えるより先に行動するように成りました。(今までは、余分な事をしなくても、と考えていました)これはきっと「気」が出ていて、身体の動きが軽くなっているせいだと思っています。
まだまだ気が付かない色々な効果があると思いますが、「気を出す」ことは、当たり前の事で、それほど難しい訓練もいりませんし、自分の健康のためにも是非お勧めしたいものです。私は、腹式深呼吸を朝晩だけでなく、通勤のバスの中や道路を歩いている時に、10歩で鼻から息を吸い込み、次の16歩で口から息をすっかり吐き出すと言う事を繰り返しながら実行しています。こうすれば、一人で歩く時には自然に習慣となって無駄なく訓練できます。これからも、益々訓練して、自分の内なる神と対話できるようになる日を楽しみにしています。( July. 22. 1999 )