「宗教」tommyのつぶやき2001年

 日経新聞によれば、OECD(経済協力機構)が、脳科学の最新成果を生かし、効果的な学習法の国際共同研究を来年から始めるとのことですね。(何でOECDなの?)

 このプロジェクトは、日本の理化学研究所と米サックラー研究所、英オックスフォード大学が中心となって、OECD加盟の30カ国の研究機関が協力して、人が言葉や知識を覚える過程や老化に伴う記憶力低下の仕組みなどを、脳科学や行動心理学、教育学など多角的に解明しようとするものらしいのです。

 既に、老人での脳細胞の新生や能力の向上なども実証されており、人の知的活動や学習法については後天的な能力や意識が拘わっていることなどが知られており、従来の定説が打ち破られるのではないかと期待をしています。人間の心と意識あるいは魂の問題までも追及できるのではないかと、脳科学を通して人間の本質が解明されることを心待ちにしています。( Dec. 21. 2001 )


 京セラの名誉会長となられた稲盛和夫さんが新しく出された本「稲盛和夫の哲学」を入手しました。内容が、私のこのコンテンツに極めて似通っているのです。即ち、人間の存在と生きる事とは何か? を問いかけるものなのです。そして、宇宙について、科学について、宗教について、意識についてなど広い範囲で語られています。ぜひご一読下さい。

 ところで、お釈迦さまが説かれた“人が生きる道”について、駒澤大学名誉教授の奈良康明さんがまとめておられるので、それを簡単に要約してご紹介しようと思います。

まず、次の7つに分けられます。

  @ 一切皆苦(人生苦の実存的認識)
     既に、ご存知の通り、釈迦はその苦しみから逃れる術を得るために、7年間の      苦行を経て悟りを開かれたわけですから、このことが考えの中心に在るのでは      ないかと思います。しかし、苦と感じるのは自我欲望の所産であって、思い通      りになると考えること自体が誤りであり、幻想に過ぎない。人は生かされてい      る存在(無我)であり、苦しみは自分自身が作り出しているものなのです。
  A 縁起(かかわり合いの思想)
     何事も因縁によつて生じたり、滅したりするものである。全ての因果関係を知      ることは出来ないが、偶然に起こることは一つもない。即ち、地球上に存在す      るもの全てが関わりあっているわけで、それゆえに共生して行かねばならない      のです。
  B 諸行無常(無常を観る)
     無常と言うのは、全ての事柄が止まることなく、常に動いて変化していること      (私達の身体自身も60兆の細胞一つ一つが常に新陳代謝、即ち生と死を繰返      していて、同じ状態の時は無い)で、いつまでも自分のものとして止めておく      ことは出来ない。だからこそ、今を大切に生きることです。
  C 諸法無我(自己をたずねる)
     自分というものはこの世には存在しない。意識が自分と言う幻想を生み出して      いるだけで、常に変化している世界(無常の)では、自分と言う固定的なもの      は無い。故に、自我によって執着心が芽生えて、苦の原因を作り出しているの      です。
  D 四諦八正道(歩き行く道)
     四諦(したい)とは、4つの真理と言う意味で“苦・集(じゅう)・滅・道”      あるいは“苦諦・集諦・滅諦・道諦”と言う。      苦諦は、人生は苦であるという真理。      集諦は、苦の原因は自我欲望であるという真理。      滅諦は、欲望を滅すれば苦も滅するという真理。      道諦は、その修行は八正道(はっしょうどう)であるという真理。
     八正道とは、実践の方法を八つの項目に分けて説くもので、“正見・正思・正      語・正業・正命・正精進・正念・正定”である。      正見とは、正しい見解で、縁起・無常・無我などを言う。      正思・正語・正業とは、心、口、身体の行為が正しいことである。      正命とは、正しい生活のことである。      正精進とは、努力と言う意味である。      正念とは、信仰の生き方をしようと常に自分に言い聞かせ、忘れないようにし、      心に止めることである。      正定とは、正しい禅定(座禅・瞑想)である。
  E 中道(主体的に生きる)
     両極端の間と言うよりは、普遍的で道理に合った判断であろうか。      人それぞれが、それぞれに合った正しい判断をしなければならない。
  F 輪廻と業
     輪廻は生まれ変わりで、業は生きているときの行為である。      現世において良い行いや功徳を施せば、来世は良い人生が得られると言うが、      釈尊の教えからは、自我欲望を抑えて、他人のために生きることによって、自        分の人生が平安になるという考え方のほうが良いのだろうか?
いずれにしても、お釈迦さまの教えは、人としての生き方を説いたものであるから、十分理解して、自分の人生に活かす努力をしなければならない。まして、現代の不安な乱れた現実の中で自分を見失わないようにする為には、お釈迦さまの教えを正しく理解して、それを守って生きることが大切だろうと考えますが、貴方はどう思われますか? ( Nov. 27. 2001 )


 「サバン症候群・自閉症の天才たち」をNHKテレビで見た。以前、同じように「にんげんゆうゆう 自閉症の世界」で自閉症の人の中に私達よりはるかに能力の高い人達が存在することを知り、神様がお造りになった人間の持つ能力の不思議さに興味を持った。

 番組では、天才的なピアニスト、デレク・パラビチーニさんとアーティスト、スティーブン・ウイルトシャーさんや、19世紀〜20世紀中の日であれば、即座にその曜日を当てる能力を持つデイビット・キッドさんが紹介される。
 デレクさんのお父さんによれば、デレクさんは生まれる時に極端な未熟児で、過度な酸素吸入に因って脳に障害が発生し、目も不自由になった。ところが3才頃から音楽に異常な才能を示し始め、耳から聞いた音楽を直ちにピアノで演奏できるようになり、それも常人では出来ない難しい演奏をこなして、オーケストラとの競演を行うという驚くべき才能を示した。しかし、ピアノの演奏以外では、重度の知的障害者であった。

 一方、スティーブンさんは、小さい時から、建物などの複雑な構造物を正確にスケッチする能力に優れ、ヘリコプターから見た町並みを、地上に戻った後、特定の建造物だけでなく全ての建物を正確にスケッチで再現できるだけでなく、どれが何の建物かを詳しく説明してくれる。しかし、計数能力に障害を持ちながら、窓の数を正確に再現しているのが不思議だと言う。
 また、何時の曜日も当てることの出来るディビットさんのような天才的な能力についても、機械的な計算によって容易に証明できるが、とても計算する速さではかなわない。

 これらの脳の発達障害による天才児については、100年来研究が進められているが、未だ明かにされていなかった。自閉症児のほぼ10%にそのような特異な能力がみられるようです。
 知的障害について研究しているシドニー大学精神科学のアラン・シュナイダー教授によれば、私達の脳の記憶システムでは、脳に取り込まれる多くの情報の中から、必要な情報のみ選択し、単純化して再現するようになっていて、その他の細かな情報は潜在意識の奥に蓄えられるらしく、私達がそれを読み取ることは困難らしい。

 一方、痴呆症の記憶・行動・性格の障害について研究しているカリフォルニア大学のブルーズ・ミラー博士によれば、痴呆症による障害と自閉症の脳の障害部位とは共通していて、いずれも側頭葉の左前部の分析・言語・概念を司る部分にあるという。

 そう言えば確かに、突然小さい頃の記憶を鮮明に思い出すことがある。とっくに失われているはずの遠い昔の記憶が、何時までも失われずに記憶されていることは確からしい。ひょっとすると、自分の一生の記憶だけでなく、人間が誕生した頃からの記憶全てを、このからだのDNAの中に脈々と受け継いできているのかもしれない。

 人間の脳についての本格的な研究はまだ緒についたばかりだ。21世紀は脳の生理学の世紀だといわれている。私達は、単に学力や知識だけで人の能力を判断し差別してきた。脳を含めた身体の障害によっても健常者と障害者という形で差別して、誰もが平等に暮らせる福祉社会の構築を妨げてきた。あまつさえ、障害児の出生を遺伝子操作で妨げようとしている。神の与えられた尊い生命を、科学の力で冒涜しようとしているのではなかろうか? 人は全て平等で、同じ能力を発揮出来るように創られているに違いない。この番組を通して改めて確信した。( Oct. 23. 2001 )


 お釈迦さま(ゴータマ・ブッダ)は、元は釈迦族(シャーキヤ族)の王子としてルンビニー村で誕生した。16才でお妃を迎え何不自由の無い生活を送っていたが、29才の時に妻と生まれたばかりの子どもを捨て、ひそかに城を抜け出て出家の道を歩むことになる。

 どう言う理由で出家を選んだかは定かではないが、多分、幸せな生活を送っていたからこそ、世の無常(もしも病気になったらどうなるだろうか?、何時までも若いままではいられない、年老いたらどうなるのだろうか?、何時かは死ななければならない不安をどう克服すれば良いのだろうか等)を考えるに至り、それらの苦しみを逃れる術はないものだろうか? と思い悩んだすえ、当時権威の有った聖職者バラモンにその解を求めて出家の道を選んだのではなかろうか?

 当時の出家者と同じように、断食をしたり、砂に首まで埋まったり、河の中に入って片足立ちしたり、息を長く止めたりする苦行により修行していたが、それでは悟りが得られなかった。6年間のあらゆる苦行の後に、衰弱した身体でスジャータ村にたどりつき、村娘の差し出す乳粥で回復され、村の菩提樹の下で長い禅定(坐して瞑想する)に入り、そこで、この世における人の在り方、生(しょう)・病・老・死の苦しみが如何に生じ、その苦しみを如何にして克服するかということを悟るに至ったと言うのです。それゆえ仏教では、この禅定(座禅と瞑想・呼吸法)が重要視されているわけです。

 お釈迦さまは、のちに自分が悟ったことについて人々に教えるため、45年間にわたる説法の旅に出るわけですが、その時に以下の6人の優れた弟子のを得ることになります。

  ・シャーリープトラ(舎利子)−−−知恵第一
  ・マウドガルヤーヤナ(目連)−−−神通第一
  ・マハーカーシャパ(大迦葉)−−−行法第一
  ・アニルッダ(阿那律)−−−−−−天眼第一
  ・プールナ(富楼那)−−−−−−−説法第一
  ・アーナンダ(阿難陀)−−−−−−多門第一
 これらの弟子達によって、釈迦の教えが正しく広められ、後にそれらの説法を元にした経典と言う形で文字として残されることとなり、お釈迦さまの悟りと考え方を後々まで世に伝えることができるようになったのではないでしょうか?

 釈迦の教えの大筋については、誤解を恐れず次の機会に述べることにしましょう。なにしろ未熟な私の独断と偏見による誤解を避けるためには、是非とも文献(一部は参考文献欄にあり)によって正しく理解して下さるようお願い致します。( Oct. 18. 2001 )


 NHKラジオ第2放送の宗教の時間で「天台小止観をよむ 仏教の瞑想法」が村中祐生師により解説されておりますが、仏教では座禅による瞑想が大変重要視されていることを既に述べましたが、これはお釈迦さまがブッダガヤの菩提樹の下の禅定により悟りを開かれたことによるものではないかと思われます。また、瞑想中の呼吸法も大切な要素であることはご存知の通りです。

 天台宗の修行における座禅を“小止観(修習止観座禅法要)”と考えてよいと思いますが、座禅の姿勢を“端身正座(たんしんしょうざ)”して自身の心の内面(深層)を見つめることによって、己の心の正邪、虚実を知るということであり、方法は異なっても他の宗派での禅定と変わりありません。その中での呼吸法については、修行中に病を生じ修行が妨げられることをなくすために、正しい呼吸法によって未然に予防するものだと述べられています。

 “病が起こる理由や原因”を天台大師が“四大不順”と称されていますが、平易に考えれば、下記の如く集約できるのではないかと思います。

  ・心の持ち方(無心に心の奥底を見つめる)
  ・姿勢(身体・骨格の歪みをなくす)
  ・呼吸(腹式深呼吸により“気”を生じる)
いずれにしても“病は外から来るもの”ではなく、“自身の心の内から生ずる”ものであると言われています。むろん、座禅や瞑想によって病が無くなるわけではなく、普段の自分の生活全般(生活態度や食習慣)にかかわることは論を待ちません。その上で、次の病を治す“十法の治病の法”があるといわれます。
  1.信じること
     病患を識り、治す方法に従い、自ら治すと信じる。
  2.用いること      病を治す方法を学んで、いつでも、どこでも、その方法を実践する。
  3.勤め励むこと      治病に専念し、途中で止めることなく、ひたすら病を治す。
  4.恒に縁のなかに住すること      心を静かに穏やかに保って、心の現れを細心に観て、他に心を奪われたり、乱されたりしない。
  5.病の因って起こるところを弁えること      自分で納得するまで理解を深める。
  6.方便を善く知ること      呼吸法、座禅の仕方、心のめぐらし方、善い想いが生まれる状況など十分理解し、方便を十分に働かせる。
  7.久しく実行する      大事なことは治療をやり遂げることで、途中で止めない。
  8.取るべきこと、捨てるべきことを知ること      病が癒える兆しが見えたら継続して実行し、思わしくない時はやり方や心の持ち方を変える。
  9.善く将護すること      善くないと言われることはすぐ止め、逆らって勝手なことをしないで、治療の方法を守る。
  10.遮障を識ること      病が治っても、完治していないかもしれないので、安易に判断しないで慎重にする.
 これを見ても判るように、じつによく考えられているではありませんか? もう一度私達は宗教について見直すとともに、釈迦の教えについて熟読玩味すべきではないでしょうか?
遡って、お釈迦さまの生き方をふりかえり、心の持ち方や呼吸の方法、効果などについて明らかにしたいと考えていますので、ご期待下さい。( Oct. 10. 2001 )


 仏教と日本との関わり、玄奘三蔵法師の全てについて、日本テレビで素晴らしい番組が放映されました。貴方もご覧になっているかもしれませんが、「知ってるつもり!?」9月2日の夜9時からの放送でした。既に玄奘三蔵法師や薬師寺と平山郁夫画伯などについて、何度も述べてきましたが、この放送では、特に玄奘と日本との関係や玄奘の生い立ちについて知ることができる貴重なものでした。

 昭和17年12月、日中戦争の最中、中国の南京において日本軍の高森部隊が、裏山にお稲荷さんを祭ろうとして作業中に土中から石棺を発見した。その石棺に刻まれた文字から“大唐三蔵大遍覚法師玄奘の頂骨が長安より伝えてここに之を葬る”と、玄奘三蔵法師の遺骨であることを知り、日本の協力の下に玄奘鎮魂の碑が建立されたそうです。

 昭和19年に、南京側より遺骨の一部を日本の慈恩寺へ仮奉納されたと言う。そして戦後、昭和56年に奈良の薬師寺へ分骨された。その理由は、玄奘三蔵の弟子である慈恩大師が法相宗を開き、日本では薬師寺と興福寺を大本山としているからである。

 玄奘は、洛陽(河南省洛陽県)の陳家に生まれ、少年時代に隋の2代皇帝・煬帝(ようだい)の悪政による国土の荒廃を見て“人々を救う道はないか?”と心を痛め、13才で僧侶になるための試験を受けて合格し、玄奘の法名を得る。唐・高祖皇帝の時代となったが、人心は荒廃していた。その時玄奘は“なぜ仏教は同じでありながら、その中で教えが違っているのか?”と疑問を抱き、高僧・法顕(ほっけん)を見習って、国禁を犯して天竺(インド)への仏教の真理をめざして求法(ぐほう)の旅へ出ることとなる。

 苦難の末、辿り着いたインドでは、仏陀(釈迦)入滅後1000年で釈迦の教え(実際には釈迦が弟子のシャーリプトラなどに口伝したこと)である教義の解釈の違いから、大乗仏教と部派仏教とに分かれて勢力争いになり、ブッダガヤの菩提樹(釈迦がこの下で瞑想し悟りを得た)の附近までも、破壊された仏陀の像が放置され、荒れ果てていた。落胆した玄奘の前に数人の僧が現れ、玄奘をナーランダの老僧シーラバドラに引き合わせる。シーラバドラは、夢の中で仏陀が“三年後に仏教を救う男が来る”と言うことを信じて、玄奘を待ち続けていたと言う。

 唯一、仏陀の教えを追求し、研鑚しているナーランダ大学に入り、仏教の究極の思想「唯識」を身につけ、書き写したサンスクリット語の経典の多くを携えて、再び苦難の道を長安へ戻った。それからの18年間は、600巻の大般若経を訳了し、63才で入寂するまで、経典の翻訳に没頭することとなる。釈迦の教えを正しく伝え、人々を迷いから救う道を求め続けた生涯であった。

 イスラム原理主義勢力・タリバンによって、この三月にはバーミヤン石窟の貴重な大仏などが破壊され、失われている。釈迦の教えを無視した行動は、世界中から非難されよう。無宗教主義といわれる私たち日本人としても、改めて釈迦の教え(三蔵法師玄奘が伝えた)の基本経典となっている「般若心経」を熟読、玩味してみたい。その為にも、己が心(意識)との対話である瞑想と呼吸法は大切な修行の一部ではあるまいか? ( Sept. 11. 2001 )


 雑誌「大法輪」(大法輪閣刊)の7月号には、“坐禅・瞑想とは …真の目覚めへの道” が特集されています。
むろん、これは釈尊(お釈迦様)が菩提樹の下での禅定(坐禅・瞑想)によって悟りを開かれたということから、仏教での基本となっていますが、現代では、いろんな瞑想法によって自分自身と対話し、心や精神の安定を求めることが広く行われ、単に仏教だけのものでもなくなってきているのではないでしょうか?

 禅定の第一は、心を静め、思考を停止することにあります。
第二には、自我を超えたところに、真実に包まれ、生かされている自分の存在を自覚し、自我に意味がないことを知り、真の自己実現が可能となると言うことに気づく。
第三には、自我が抑制され、自己と他者との存在が同一であり、他者に奉仕することが自己を生かす道であることを知る(般若の智慧)とでも言えば良いのだろうか? 

 むろん、ここで語られるのは、宗教的修行としての禅定ですが、人が生きるということは、日常のことであり、ことさら信仰を対象にする事でもないのではないかと思いますが、この考え方は、世界の中でも、明確な宗教や信仰心を持たない日本人にしか理解できない考え方なのかもしれません。
 ここでは、日本古来からある仏教における考え方を含め、チベット仏教やアメリカ仏教の観点からも論じられています。最近の日本の“癒しブーム”についても、早稲田大学の正木氏が論じられていて、興味深いものがあります。“現代人と瞑想”について、心理学の立場から、桜美林大の湯浅教授が、瞑想、座法、呼吸法、東洋医学の経絡などについても論じられていて、大変興味深いので是非一度手にとって見て下さい。ひょっとして、貴方の人生観が変わるかも知れませんよ。( Jun. 14. 2001 )


 唯識思想について理解を深める為に、般若心経についてよく読んで見ました。もちろん解説されている文章によりますが、多少の違いは有れ大まかに読み取れればいいと考えます。また、何となく歎異抄を読み直して見ました。歎異抄は、親鸞上人の語録をとまめたもので、この思想は法然上人から受け継がれてきたものと考えられます。この二つには直接的な関わりは有りませんが、親鸞上人の廟である大谷の廟が本願(弥陀の本願…阿弥陀様が修行の時にたてられた48の願)寺と名付けられ、今日の本願寺であり、浄土真宗が生まれたのである。不思議なことに、以前何となく購入した「歎異抄」は、我が家が浄土真宗高田派であることを再認識させ、念仏の大切さを改めて認識させられたのは、今は亡き父が私を導いたのだとしか思えない。

 しかし、これらを一度や二度読み返して見たところで理解できる限度は知れていますが、少しづつ解りかけてきました。釈迦が悟りを得られた(実際には悟りはない)として伝えられた般若心経(釈迦のことば)は、人間が生きることの意味が無(空…意味が無いと言うことではない)であり、心の持ち方が全てを支配していることであるという単純な答えに行きついたのではないかと思えるようになりました。また、この世で救われるべきは悪人(自分の意思で自分を救えない人)であって、救いは仏に頼る以外に無いのだと言う思想、即ち“善人なおもて往生をとぐ,いわんや悪人をや”(本願他力の思想)と言われる由縁である。一見矛盾しているように見えるが、良く読んでみると少しづつ理解できてくる。

 それでは人を支配している“心とは何か?”ということですが、心とは実体の無い物であり、正しい定義の出来ないもので、それぞれの人が予め持っているものではなく、言語や文字を獲得したことにより生まれた架空(バーチャル)の存在だと言えようか? 例えば、私達は、何かを考える時や行動する時には、必ず言葉で考え、文字によって確認しています。もし、言葉や文字を思い浮かべないでは、何も考えたり行動したりすることは(無意識以外では)出来ません。それが意識と考えられ、心が意識を生み出すと考えられるのではないでしょうか?

 最近、私は自分の見ているもの(眼識)が他人が見ているものと全く違うのではないか?と思えるようになりました。何故かと言うと、私の持っているデジカメで花を撮影していますが(「季節のスナップショット」参照)自分の見た花の色と全く違った色や姿が表現されていて、自分の目を疑ってしまいます。(それをカメラの特性だとしていますが)果たして、私の見ているのは一体何なんだろう? と一瞬呆然とする時があります。息子の持っているデジカメで撮影すると、又別の花の色と姿が表現されますので,更に混乱してきます。では、貴方の見ているものは(眼識)どうなんだろうと考えると、信じられる実体とは何か? ということになってきます。

 これは,単に目に映ったものについてですが、唯識思想にある“眼耳鼻舌身意”を考えると、全く自分の意識を普遍的なものと信じることが出来なくなります。デジカメの差なら、科学的に受光素子の特性の差だと簡単に説明できますが、では自分の目との比較については証明できるものは有りません。実際に体調によっても変わりますし、今問題になっている多くの脳の疾患と考えられている各種の知覚異常では本当に自分が正しいかどうか判別できなくなってきます。

 脳と意識については,更に科学的な解明が進められていますが、それらを見通した上で、お釈迦様が自分とは何か? 生きるとは何か? を悟られて、それをシャリープトラに語られ、般若心経として伝えられてきたのではないでしょうか? それを基として信仰ということが起こるわけですが、信仰については、考えがまとまり次第、誤解を恐れず述べてみたいと思います。( May. 27. 2001 )


 “唯だ心だけ存在する”という唯識思想は、玄奘三蔵が艱難辛苦の求法(ぐほう)の旅の末にインドから伝えたものだそうですが、現代のあまりにも物(あるいは名誉とか金)に拘泥して心を忘れた私たちに、もう一度「如何に生きるべきか」という指標を与えるものではないかと思います。

 この思想は、言うまでもなくお釈迦様が悟られた内容で、この世には自分という物も無ければ、あらゆる物も存在しないという、いわゆる色即是空、空即是色という般若心経の教えそのものなのです。
では、何故、目に見える物が何も無い“空”なのか、しかし、何も無いといっておきながら“色”として物があるというのか? 大変矛盾した考え方に思えますが、例えば、目をつぶってみて物があると認識はできません。あるいは、手があるからこそ触ることによって物の存在が確かめられますが、私たちの五感全てが働かなければ、何も存在を確かめられず、いわゆる“無”と同じではないでしょうか? だから、心の中に「感覚」と「思い」と「言葉」によって色々な影像が生み出されているわけです。

 唯識思想では、これを“眼識”、“耳識”、“鼻識”、“舌識”、“身識”、“意識”、“末那識”、“阿頼耶識”の八つの識によって説明されています。ご存知のように般若心経では、“無眼耳鼻舌身意”と六識で説かれていますが、ここで、“末那識”(まなしき)と言うのは、深層に働く自我執着心、“阿頼耶識”(あらやしき)とは、一切を生み出す可能性を有した根本の心を言うのだそうです。

 だから、我々はこの世には何も無いにも関わらず、八識の働きの故に,無い物を有るものと認識して執着し、言葉によって憎しみを造りだし、対立し、他人を傷付け、物や金、地位や名誉を求めて自分自身(実は、自分と言うものも存在しない)の悩み,苦しみ(煩悩)を生み出しているのです。
 人は何故生まれ、老い、死ぬという苦しみが生じるのか、お釈迦様がその原因を求めて到達された結果が、“無明”(無知)こそ全ての苦を生み出す原因であると悟られたわけです。

 ここで、唯識思想の哲学性と科学性を論じなければなりませんが、これについては、誤解を招くといけませんので、 NHKの番組「こころの時代」で理解していただく方がよいかと考えます。ただ、仏教思想の中で唯一お釈迦様の説であるにもかかわらず、現在の仏教の教えとして統一が成されていないのに疑問を感じる方も多いかと思いますが、根本はお釈迦様の悟りではあっても、以前述べたように、経典は、お釈迦様が弟子のシャリープトラに語られた内容であって、文字に書いた文章ではないのです。

 お経は、玄奘三蔵法師が苦難の末持ちかえったサンスクリット語の経典を漢語に翻訳した物であって、経典の解釈の仕方や、後の勢力争い(これこそお釈迦様の教えにもとるのですが)によって様々な分派ができてしまったのではないかと考えます。だから、本当のことは、お釈迦様から直接聞いたシャーリープトラ等にしか分かりません。しかし、残された経典と同じような修行を経て理解することができれば、お釈迦様の体験された真実に迫れるに違い有りません。
 まだまだ未熟な理解しか出来ませんが、貴方も、このNHKのテキストである「心の秘密を解く」を手にとって見てください。現代、正に日本の社会に欠けているものが、この宗教哲学ではないかと思いますが、如何でしょうか? ( Apr. 19. 2001 )


 NHKの「こころの時代」シリーズで、4月から“心の秘密を解く”という仏教の深層心理・唯識(ゆいしき)について毎月一回第三日曜日の午前5時〜6時(再放送は午後2時〜3時)に、立教大教授の横山紘一氏の解説が始まります。いま、私はそのテキストを読んでいますが、これこそ人間の根元、宗教の原点と考えられる三蔵法師によってもたらされた唯識思想なのです。むろん般若心経にある色即是空、空即是色を含むお釈迦様の悟りを開かれた考え方なのではないかと考えます。

 この思想を簡単に解説することは困難ですが、ぜひとも貴方にも理解して欲しいものだと考えます。年を取ったから解るとか、悟る必要があるとかいうことではないのです。確かに、私のように、若い時に父から伝えられた心を、今になって初めて少し理解できるようになった様にも思いますが、理解できるチャンスに恵まれるかどうかの問題のようにも思います。
現代のように、経済成長優先で発展してきた社会構造が、突然崩壊して初めて金と物とに執着してきた現代の私たちの欠陥を認めて、昔から脈々として伝えられてきた真理というものについて、改めて見直してみる必要を感じているのです。誤解を恐れず、時間を掛けて、解説すると言うのもおこがましいのですが、少しづつ私の感じたことを述べてみたいと思っています。( Apr. 13. 2001 )


 宇宙論について、今新しい理論が展開されている。日経サイエンス4月号に「特集 宇宙論の新展開」として、最新の観測結果に基づく宇宙の成り立ちについてのデータの検証から、宇宙論についての新しい議論について紹介している。

 その中でも、宇宙を構成する主な成分は、暗黒エネルギーが70%で、その他に暗黒物質(ダークマター)が26%、普通の物質が4%、それに僅かな放射があるとしている。暗黒エネルギーは、“クインテッセンス”と名付けられた量子場のエネルギーで、暗黒物質とは異なり重力か反発力であろうと言われている。従来、宇宙は真空であり、そこには何も無いと考えられてきたが、それでは説明がつかないことがわかってきた。
しかし、実際にはまだまだ良く分からないことが多く、従来のアインシュタインの一般相対性理論による予想を覆すまでには至っていないが、今後の展開によっては、全く新しい宇宙論が立証されることも充分あり得る。

 いよいよ21世紀の理論物理学によって宇宙の不思議が解明されることになるだろうか? 暗黒物質の分布を明らかにしたり、ブラックホールに関する多くの観測の成果を挙げた、文部科学省宇宙科学研究所のエックス線天文衛星「あすか」が三月上旬にも寿命が尽きて落下し、大気圏に突入して燃え尽きると言う。同じ頃、ロシアの宇宙ステーション「ミール」も老齢(?)のため落下させられる運命にある。しかし、これらは地球の大気圏外にあっただけで、決して宇宙空間において活動していた物ではない。宇宙は、決して我々人類が自由に活動できる範囲ではない。だから宇宙を解明するには気が遠くなるような時間が必要だろう。( Feb. 28. 2001 )


 私たちは、時間と人の生命との間に何らかの関係があるのではないかと考えているのではないでしょうか? その証拠に、人間が200歳以上生き続けるとは考えられませんし、日本人の平均寿命が高いと言っても、たかだか80〜90歳ぐらいでしょう。それでは、人間の寿命の限界はいったいどれくらいなのでしょうか? そして、それは何か根拠でもあるのでしょうか?

 人の寿命を云々する前に、色々な生物の寿命がどれくらいか、おおよそ検討がつきますよね? 例えば、飼い犬は、だいたい長く生きても15年位でしょうか? 私の飼っていた犬も14年で老衰のため死んでしまいました。やはり可愛がっていた犬が死ぬと悲しいし、淋しくなりますね。カゲロウや蛍は1週間も生きていないのでしょう。小鳥なども何十年も飼っていると言うことを聴いたことがありませんし、渡り鳥などは1年で世代交代ではないでしょうか?

 ところがこの問題について、東工大生命理工学部の本川達雄さんが「数理科学」(サイエンス社発行)の1月号の特集“時間とは何か”の中で「生物の時間」と題して、生物の体内時計と寿命との関係について興味深い解説をされています。
すでに「ゾウの時間とネズミの時間」(本川達雄著 中公新書)をお読みになった方はご存知かもしれませんが、身体の大きさ(体重)によって時間の流れる速さが異なっていて(むろん絶対時間ではありません)、小さい動物ほど時間は速く、大きな動物になるとゆったり流れるのだそうです。と言うことは同じ仕事量をこなすためには、小さい体を持つ動物は大きな身体の動物よりも一生懸命動き回らなければならないわけです。それを科学的に証明しようと言うわけです。

 その結果「時間×エネルギー=一定値」であって、体重当りのエネルギー消費率は体重の−1/4乗に比例し、大きいものほど体の割にはエネルギーを使わないのだそうです。そして、エネルギー消費率に心臓が1回打つ時間を掛けると、“1ジュール”と言う体重によらない一定値となり、エネルギー消費率に寿命という時間を掛けると“15億ジュール”と言う値になって、ゾウもネズミも体重当りにすれば一生に使うエネルギー量は同じなのだそうです。だから身体の小さいネズミ(私も体が小さくてネズミ年ですよ/だからセカセカ動き回っているわけか?)の方がゾウより単位時間内の仕事の密度が高いわけです。

 と言うことは、身体の小さい人を雇った方が“生産性が高い”と言うわけか? からだの大きな、良く太った人は仕事のスピードもゆっくりだし、処理する量も少ないような気がしますね。(太った人、ごめんなさい!)もし身体の大きい人が、身体の小さい人と同じように仕事を消化しようとしたら、エネルギーの消費率が上がって寿命を縮めるってわけか?(いやあ、よくわからんなぁ!)しかし、エネルギーを沢山使えば、沢山食べ、酸素も沢山必要になるわけだけど…、太った人ほどよく食べてるなぁ!(特に女の子って言いたいんだろ?/バレたか!)

 でも真面目な話し、心の持ち方(人の意識)次第で時間は速くもなり、ゆったり流れるように感じたりしますよね? 幸せな時間は速く過ぎ、苦痛な時間はとても長く感じるのではないでしょうか? また、同じ1日でも充実している時間では多くの仕事を消化できますし、ボケッとしていて何もしない、寝テレビでも同じ1日なんですからねぇ! のんびり長生きするより、人のために一生懸命働いて、充実した一生を送るほうが幸せではないでしょうか?(そりゃぁ、身体の小さい人間の考えることだよ!/失礼なッ!)何はともあれ、お互い「神」から与えられた命を大切にしましょう!( Feb. 7. 2001 )


 NHKテレビの「こころの時代」 “聖書の語りかけるものG 赦されるものは”で、今私達が心の中に失われているもの“お互いの信頼関係”を痛感しました。
講師の川田さん(日本聾話学校校長)は「赦し」とか「罪」という言葉は、聖書の最も重要なキーワードであると言われます。「罪」というのは“信頼関係の断絶”であり、「赦し」というのは、“信頼関係の回復”という言葉で置きかえられるのではないでしょうか? 特に“心のよりどころとなるものへの断絶あるいは回復”ではないでしょうか?

 ヨハネの福音書から引用して解説されます。
説法をしているイエスの前に、律法学者やパリサイ派の人々が、姦通の現場を取り押さえられた女を引っ張ってきて、イエスがどう裁くのか試します。姦通はモーゼの律法によって石打ちの刑に定められていると言うのです。(姦通は重罪と考えられていたので、イエスを陥れようと企んだのです)

地面に指で何かを書き始められたイエスは、身を起こしてこう答えられます。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。むろん、イエスは罪を裁きはしないし、女には再び罪を犯してはならないと諭すのです。

 ヨハネ3−16〜17に、イエスを遣わされた神の考えがこう書かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と。

 現代は、人が犯した罪を罰することに懸命になっているではありませんか? 川田さんも、今の世の中は信頼関係がズタズタに絶ち切られていることを嘆かれています。
“国と国、地方と地方、階級と階級、個人と個人、それどころか、家族の中でさえも信頼関係が失われている。その苦しさの為に何とかして癒しを求めているのです。しかし同時に信頼関係が生まれれば、人は喜んで安心して生きられるのです。”

 神がわたしたちに与えて下さった尊い命をどう使うのかは、それぞれの個人の考え方に掛かっているわけですが、神は、決して罪人を作るのではなく、罪人を救うために己の愛を与えることを望んでいられるのです。自分を生かすということは、他人をも生かすということではないでしょうか? 正に“罪を憎んで、人を憎まず”でしょう。( Jan. 25. 2001 )


 NHKテレビで、全盲のピアニスト・梯 剛之さんと生命科学者・柳澤桂子さんの対面ドキュメンタリー「さびしき音を命は奏でる」を見ました。
ご存知でしょうが、ピアニストの梯さんは、以前やはりNHKテレビでその生い立ちや国際コンクールでの様子が放映されましたが、13才の時に音楽留学先のウイーンで左目にガンが再発し、危地に立たされます。そのままにすれば命が失われる危険があります。例え手術してもその危険性はゼロとは言えません。生きると言うことに真剣に向き合わなければなりません。生とは何か? 死とは何か?
 柳澤さんは、既にその著書「生と死が創るもの」でご存知のように、原因不明の病気で30数年間病床で苦しみ、或るとき突然見付けた薬で奇跡的に死から生に転換します。NHKテレビでも「ふたたびの生」として放映されました。

 柳澤さんは、モーツアルトを好み、梯さんのファンでこの対面を非常に楽しみにしていたと言います。梯さんのピアノに心が通じ合うものがあり、会う前から知り合っている気がすると言います。同じように生と死を見詰め合って生きてきた者同志として、“いのち”はどんな音を奏でるのか聞きたかったのだと言います。柳澤さんは、その著書で、

“磨かれし星が触れ合い鳴るごとき、さびしい音をいのちは立てる”と詠んでいます。

 梯さんもそれに共感し、魂が星になって輝くようになるという曲だと言い、ピアノに向かいます。モーツアルトのロンド、イ短調 K511の旋律が流れます。
梯さんはまた、子供たちの賑やかな笑い声を聴くと、すごーく温かくなって「気」とか「エネルギー」みたいなもので満たされ、心がそれに反応するのかなと言います。
柳澤さんは、それを人だけでなく生物はお互いに「気」を発していて、気持ちや情報を伝え合っているらしいことを話します。

 私達は、その生命の起源である36億年の歴史を、そのDNAに伝えてきています。そのDNAの中には、魚の時代、ワニの時代、猿の時代の歴史と知恵が込められているのだと言います。現代の科学は、そのDNAの記録をも人為的に書き換えてしまおうとしています。それが正しい科学の道なのでしょうか? 自然の倫理の蹂躙ではないでしょうか?

 新聞には、先日の成人式において発生している新成人の無軌道振りが報道され、堪忍袋の緒が切れた関係者が、それらの不埒者を告訴すると言っています。私達大人が、金と物ばかりに執着して子供達を甘やかせるばかりで、人として伝えるべきことを、正しく伝えてこなかった結果がこうなったのではないでしょうか? 人が何の為にこの世に生を受けたのか? 死を迎えるとはどういうことなのか?

 DNAを操作して人類の歴史と知恵の記録を改ざんしようとする科学では、大切な人の道を教え、伝えることはできないのではないかと思います。( Jan. 11. 2001 )


 21世紀の宗教はどうなるのであろうか? 科学技術の未来に陰りが見えてきた20世紀末に、自然に帰る心の世紀、21世紀は宗教のあり方が問い直される時でもある。
 少し旧聞に属するが、日経新聞の文化欄に、昨年の11月末に京都で開催された世界宗教者平和会議(WCRP)の創設三十周年記念式典とシンポジウムの様子が紹介されている。キリスト教、イスラム教、仏教など、世界の主な宗教の指導者ら1900人が参加して開かれたそうである。

 21世紀の科学技術の発展などによって個の分散化が進むことで、心の安らぎ、癒しが一層求められると考えられている。そこにもう一つの宗教の役割がある。人間を救うものは人間であり、その自覚のみが人間を救う。

「60億全ての人々が持つ、生老病死という四つの苦悩を、一人一人と向き合って癒すことも、宗教者の大切な役割」である、と述べられている。しかし、激しさを増すイスラエルとパレスチナの紛争をはじめ、宗教による対立も依然としてなくなる兆しもない現代で、宗教者の平和を目指す取り組みは、その役割を果たせるであろうか?

また、人々の価値観の多様化と情報通信の発達した社会では、聖性よりも感性的なもので宗教を選ぶ傾向が強まり、“危険なオカルト宗教がはやる可能性もある”と国学院大の井上教授は警告している。

 既に、科学技術者集団で社会転覆を図ろうとしたオーム真理教などのように、テロ化する宗教さえ輩出する危険性も有るだろう。だからこそ私達一人一人が、自分の仏性(内なる神)に気づき、自己の利益よりも他人に対する愛を大切にする時代が来ることを、この21世紀の初めに祈りたい。( Jan. 7. 2001 )


[「宗教について」のトップページへ戻る]