VJEの歩み 萩原健バックス社長に聞く(3)

目次

3 VJEの進化

VJE-86が出て1年後には、VJE-IIが出てくる。VJE-IIはプログラム的にはさほど大きな進化はなかった。VJE-αをリリースした後、バックスはアスキーとVJEの共同開発体制を組むことになり、1つの転機を迎えた。まずVJE-αをVJE-Σと名称を変えアスキーからリリース。その間に共同開発を進めることとなった。

3-1 VJE-II

VJE-iiパッケージ
VJE-II

太田: VJE-86からVJE-IIは、1、2年くらいしか経っていないですが、変わったことはありますか。

萩原: 変わっていないですね。何が変わったんだっけな、バージョンアップの内容を忘れてしまいましたよ。販売元がライフボートからバックスになったんじゃないかな。VJE-86のころは、売れると数千円とかバックスに入ってくるものだったけれども、そうではなくて、自分たちのパッケージで自分たちに売らせてよということだったと思います。ライフボートは総販売代理店になったんじゃないかなと。

太田: そのころの雑誌記事(サイエンスハウス・森口晶さんの記事など)では、様々なアプリケーションプログラムとの組み合わせが紹介されています。具体的に言うと、MultiplanやdBASE IIなどのアプリケーションが出てきて、それらを使うのに日本語入力が必要だねという時代がそろそろ来ていると思うのです。VJE-86のころと比べ、VJE-IIを出した時点では、そういう流れが見えてきたということはありますか。

萩原: まだでしたね。やはりパッケージビジネスはそのころも、それほど大きな売り上げを占めてなかったのですよ。MS-DOSを移植するときに一緒にライセンスしてもらうなど、そういうビジネスを狙ってましたね。

太田: 受託とは違うけれども、システム売りをするときに売り上げとして載せられるという感じですか。

萩原: その通りです。

太田: コンピュータサービス社のVJE Windowというエディタ付きで売っていたようですが。当時は、日本語のエディタとしてMIFESやREDなどいろいろなマルチウィンドウのエディタも出ていた。

萩原: VJE WindowはREDとほとんど同じものですね。

太田: VJE-IIまでは、開発体制は萩原さんともう1人のプログラマ、あとはアルバイトの人というようなものでよろしかったでしょうか。

萩原: ですね。あと、ユーティリティがdspdic.exeだ、edtdic.exe、extdic.exeだってあったじゃないですか。あれは外注で、インテリジェントサイエンスなど、町田のソフトハウスに頼んで作ってもらっていました。

3-2 VJE-α

VJE-αパッケージ
VJE-α

萩原: VJE-αも、大ざっぱに言っちゃうとほとんど一緒のものなのですよ。VJE-αまでは、変換モードが増えるなど、UI周りを少しずつ変えていったんですよ。VJE-86のころは、片仮名でエコーバックされていますし、スクリーンモードとメニューモード(カーソル位置で変換するモードと画面最下行で変換するモード)がありました。

太田: VJE-αのころには、今のような入力が出来るようになり、UIの進歩も出てきたと。

萩原: ええ。

太田: UIに関して、よそのものを参考することも出来なかった時代ですか。

萩原: そうですね。面白かったですよ、自分たちのやりたい放題でしたからね。

太田: ユーザーインタフェイスというのはユーザーがいないと評価出来ないもので、自分だけの評価だけでは不安ではないですか。例えば、販売を依頼したライフボートから、UIについてアドバイスを受けるようなことはありましたか。

萩原: それは特にないですね。ユーザー登録のはがきにあった意見を集計するということはあったかもしれないですけれども。

3-3 アスキーと共同開発

萩原: 松下通工にいたMさんがアスキーに行かれて、VJEを使ってみようかという話で、VJE-Σが生まれました。アスキーから出すに当たって、バックスのものと全く同じ商品名ではということで、αをΣに変えたいなーということで。

太田: Σのときはコピーライトはアスキーとバックスの併記になっていました。Σとβがそうだったのでしたっけ。

萩原: そうでしたね、はい。

太田: ユーザーに聞こえてきた話としては、辞書に関してアスキーにノウハウがあり、辞書をたたき直してもらったと。変換エンジンに関しては、引き続きバックスが開発し、dBASEやMultiplanのようなデータ入力と組み合わせて使ってもらおうという方針だったようですが。

萩原: VJE-αを見て、その次のやつを一緒にやらないかという話でしたね。αをとりあえずΣとしてアスキーに使ってもらい、次の世代を一緒にやりましょうと言って出たのがVJE-β。僕らも南青山のアスキーさんに行って、僕らはエンジンの開発。Mさんのグループは辞書をチューニングするということで共同作業を始めたんですよ。そこで、品詞体系もこういうのがあったらいいよねということで、拡張されたんですね。そこに日下部さんがいた、と。

太田: 日下部さんは当時アスキーの正社員だったんですか。

萩原: 正社員でしたよ。優秀なプログラマでね、集中力のある人でした。

太田: アスキーに行かれていたのは、萩原さんと、さきほどあげられたAさんでしたか。

萩原: 彼女は結婚して退職していたと思います。僕の他に、Kさんが行っていたんですけどね。

太田: アスキーさんからは何人くらい。

萩原: 2、3人だったと思いますね。

太田: 少人数で、少数精鋭で作っていた。

萩原: そうですね。

太田: デバイスドライバとしての、システムに近い部分は萩原さんが作っていたのでよろしいですか。

萩原: はい。それと画面表示などのUI回りを書いていました。

太田: 日本語の構文解析や文法理論に関しては、Mさんをはじめアスキーの人と議論しながらやっていたのですか。

萩原: アスキーさんがやっていたのは辞書の品詞体系が主で、ロジックをどうするかというのはこちらでやっていました。

太田: ロジックの部分は、萩原さんとKさんでやっていた。

萩原: エンジン部分はほとんど僕が書いていましたね。

3-4 経営者とプログラマを両立

太田: そのころは萩原さんは社長をされていたのですか。

萩原: まだだったと思いますよ。専務だったと思います。

太田: 社長にしても専務にしても、会社の経営という大きな仕事がある傍ら、デバイス周りのプログラムを書くということはどのくらい両立するものなのでしょうか。

萩原: 受託のソフトハウスですので、営業がきちっと出来ていれば、後はプログラムを書かないと売り上げが上がっていかないですから。

太田: 経理担当者が会社の面倒を見て、その間、萩原さんはプログラムをバリバリ書くと。

萩原: そうですね。売り上げさえきちんとチェックしておけば、後はプログラムを書いていればいいということですね。小さいソフトハウスは、社長がプログラマか営業という形態が多いです。

太田: ジャストシステムも、初めはそういう形だったようです。

萩原: 浮川さんは営業で、松下通工にも来られていたようですね。僕は会ったことはないですが。奥さんが、技術者でしたね。

太田: 僕も年齢的には、バックスさんに転がり込んで日本語入力プログラムを書いていれば面白かったなとは思うのですが、今は第三者としてあれこれ批評しています。(4 VJE-βに続く)


作成日: 2006年 1月 15日 日曜日 更新日: 2006年 1月 16日 月曜日